「山を動かすほどの信仰」

マルコによる福音書11章20~26節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

いちじくの木が枯れているのを見て驚く弟子たちに語られた言葉が22節以下に記されています。その中に「信じて疑わないならば、山に向かって海に飛び込めと言えば、必ずそのようになる」というよく知られている言葉も含まれています。これは果たしてそのまま受け入れることができるものなのでしょうか。神がそのように命じられるのであれば、そのことも起こるでしょう。また、主イエスが命じられるのであれば、そのことも起こるでしょう。しかしわたしたち人間には到底不可能としか言いようがありません。なぜなら、わたしたちは常にいくらかの疑いを抱えているからです。

これはある種の比喩的性格を持ったものと考えることができます。主は、この言葉によって、信じて神に願い求めることはいつか驚くべき結果をもたらす、ということを教えておられるのです。「山」とは、人の力ではどうすることもできない、大きな困難や障壁のことです。しかし、心から神に願い続けるならば、いつかそこに何かが起こるということです。人が祈りによって神に一歩近づけば、神も近づいてくださいます。そのようにして祈り続ける中で、抱えている事態に神が大きな変化を生じさせてくださるということを主は約束してくださっています。

神を信じるとは、神の存在を知っているとか、ただ神の存在を信じるということと同じではありません。神を信じるとは、神の魔術的な力を信じるということでもありません。神を信じるとは、どのような結果が生じようとも、すべてを神に委ねて生きるということです。「神にできないことは何一つない」という信仰に立って、結果云々で神を評価することはせず、結果を含めてすべてを神に委ねることです。その信仰に生きることを主は今弟子たちに教えておられます。「人は祈る前に疑い、祈りながら疑い、祈った後に疑う」(ハレスビー)と言われているとおりのわたしたちです。しかし神はわたしたちが考えているよりはるかに大きな方であることを忘れてはなりません。それゆえ、その信仰に立つ限り、「祈り求めるものは既に得られたと信じなさい」ということもまた真理なのです。すべてを神に委ねたからです。

神を信じる者は、祈りへと向かいます。神が赦してくださっているからこそ、わたしたちは神に向かうことができます。そして、祈りによって平安を得るのです。さらに主はこう言われます。「祈るとき、誰かに対して恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」と。祈りは神に赦された者に与えられた恵みの特権です。そうであれば、次にその人は他の人の赦しに生きる者でなければなりません。神と人という縦の関係が修復された者は、次に人と人という横の関係の修復に向かうのです。兄弟への赦しがたい思いを以って祈ることは、兄弟を軽んじているというよりも、神を冒涜しているということなのです。兄弟との関係に、神との関係によってもたらされた恵みを反映できない者は、まだ神の赦しの恵みが十分に分かっていないということになります。

こうして主は、数日後のご自分の十字架上の死を思いつつ、地上に残して行く弟子たちが、主の十字架の後に思い起こすことができるように、さまざまな豊かな教えを与えておられます。

「神殿を清める主イエス」

マルコによる福音書11章15~19節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ここには、<宮清め>として知られているエルサレム神殿での出来事が記されています。それは主イエスが、神殿の境内で商売をしていた人々を荒々しく追い出された事件です。ここでの商売人たちは、神殿当局(祭司たち)の許可の下で参拝者たちのための商売をしていました。捧げものの動物を用意するとか、外国貨幣しか持っていない人たちのために両替をするなどの商売です。これは本来、礼拝者の便宜のために許されていたものでした。

その商売人たちを主イエスが追い出されたのはどうしてでしょうか。それは主がそこで行われていた不正を見抜かれたからです。商売人たちは、その商売によって暴利をむさぼっていました。当局者たちもそれを容認することによって、いくらかのわいろを受け取っていたのです。神殿は本来、神への礼拝の場です。また神殿は神への祈りの場です。そしてさらには、神殿はそこで礼拝をし、祈りをささげることを通して、隣人への愛を養われる場です。そのような礼拝者たちに仕える役目を持っている商売人たちは、その本来の目的から外れてしまって、悪徳商法に陥っていました。神殿が腐敗してしまっているのです。それをご存じになられた主は、神殿の本来の姿を取り戻すために、このような行動に出られたのです。

そして主は旧約聖書からの言葉の引用によって、神殿の本来の姿と、それから外れている姿とをお示しになります。本来の姿とはイザヤ書56章7節からの引用で、神殿は本来「祈りの家」でなければならないということです。しかし実情はエレミヤ書7章11節からの引用によって「強盗の巣」に成り下がっていることを指摘しておられます。神殿が敬虔な場ではなく、人間の欲の場になっていることを主は憂えておられます。宗教改革時代の一つのスローガンは「神の栄光のみ」ということでした。主は神殿においてこの栄光を陰らせている要因を取り除くために、この行動を起こされたのです。主はこう言われました。「神は霊である。だから神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)。ここに立ち帰らなければならないのです。

このことから二つのことを考えてみましょう。一つはわたしたちの教会についてです。今日の教会も神殿です。そこは「まことに、神はあなたがたの中におられます」との告白が生まれてくるような霊に満ちたものであり得ているでしょうか。神への賛美と祈りと服従に満ちた礼拝を回復したいと願います。

もう一つは、わたしたち自身についてのことです。パウロはこう述べています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(コリント一、6:19)。驚くべきことに信仰者一人ひとりは神殿である、そこには聖霊が宿っていて聖霊の器とされているのだというのです。そうであれば、わたしたちは自分の体を以って神の恵みと憐みを輝き出すものでなければなりません。この貧しい自分が聖霊の宿る神殿の役割を担わされていることを畏れと光栄をもって覚え、何とかしてその名にふさわしく生きようと祈りつつ、与えられた務めを果たしていきたいと願います。

「実のないいちじくの木」

マルコによる福音書11章12~14、20~21節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

聖書の中には難解な言葉や教えがいくつもありますが、本日のいちじくの木に関する事柄もその一つです。主がエルサレム入城を果たされてから二日目のことです。主イエスの一行は滞在しておられたベタニアを出てエルサレムに向かっておられます。そのとき主は空腹を覚えられて、実を求めていちじくの木に近づかれました。しかしその木には実がなっていませんでした。それで主はその木に向かって「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われました。これはあとでペトロが「呪われたいちじくの木」(21)と言っているように、呪いの言葉でした。呪いとは神の裁きを求める言葉と言ってもよいでしょう。事実、その木は翌日枯れてしまいました(21)。

なぜ主はそのようなことをなさったのでしょうか。時期は過越しの祭りに近い頃ですから春先であり、この頃のいちじくの木には普通は実がならないのです(13節参照)。しかし主があえてこのようなことをなさったのは、弟子たちに何かを教えようとされてのことであったに違いありません。いちじくの木はぶどうの木と並んで旧約聖書において、イスラエルを表す(象徴する)ものとしてよく用いられました。そしてそのいちじくの木に実がならないということを、預言者たちはしばしば警告しました(エレミヤ書8:13等参照)。つまりイスラエルの人々が悔い改めて主なる神のもとに帰ることがなかなか起こらないということを訴えたのです。

主はそのことを踏まえながら、今イスラエルの人々に悔い改めの実を見ることができないことを示し、それが結果として招くことは、神による裁きであることをこの出来事を通して教えておられます。これはある種のたとえ話的なものです。主がよく用いられる言葉によるたとえ話ではなくて、<行為によるたとえ話>として霊的な教えを含んでいるものです。つまりこのままいくならば、イスラエルは神の裁きを受けて滅びを免れることはできない、との警告がここでなされているのです。弟子たちは、そのことを学び取ることが求められていますが、しかし彼らはまだそのことに気が付いていません。

このような警告をなさった主イエスですが、実際は、神の裁きを受けられたのは主ご自身でした。イスラエルの人々が、そしてすべての罪人が悔い改めの実をならさないままに神の裁きを受けることを主は良しとなさらず、すべての者に代わって自ら十字架での裁きを受けることによって、人々の永遠の死にいたる神の裁きを免れさせてくださったのです。そこに神の「慈しみと俊厳」が表されました。

御子を裁くことによって罪人の裁きを完了したこととし、この御子の死の中に自分の罪と死を認めて、神のもとに立ち帰る者に、主なる神は救いを約束してくださっているのです。エルサレムでの主イエスの数日は、そのことが明らかにされる決定的な日々でした。

この救いの出来事は、わたしたち人間が自分たちに都合が良いように勝手に造り出した救済劇ではありません。神ご自身の手による救いの事実なのです。わたしたちも葉ばかり生い茂っているいちじくのようではなくて、神が喜ばれる悔い改めの実を実らせるものでありたいと願います。そのためには、ますます十字架の主イエスに近づかなければなりません。

「ろばに乗って来られる主」

マルコによる福音書11章7~11節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

11章1節以下には主イエスのエルサレム入城の様子が描かれていますが、今日のテキスト部分では、特に人々の動きが二つの面から描かれています。一つは弟子たちや人々が、主イエスが乗られるろばの背に、鞍代わりに自分たちの服をかけたことです。そして主がろばに乗って歩かれる道には、服を敷いたり、野原から集めて来た葉のついた枝などを敷いています。これは絨毯の代わりなのでしょう。これらの行為は、ゼカリヤ書9章9節の預言を思い起こし、その預言が成就したことを彼らなりに表現しているものです。こうして人々は主イエスを待望の「メシア」、新しい王として歓迎しています。

さらに人々は、「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように」と讃美の声をあげています。これは、詩編118編25-26節からの引用で、わたしたちの救い主がついにおいでになった、主よ、どうか一日も早く救いを実現してください、との思いで叫ばれている讃美であり、祈りです。

このように主イエスを歓迎している人々とは誰のことでしょうか。十二弟子たちは当然含まれていますが、ほかにガリラヤから主に従ってきた人々、さらにはエルサレムで主を迎える人々などが考えられます。彼らは小さな芝居をしているようですが、そうではなくて旧約聖書の預言の成就を主イエスの到来に見て、精一杯聖書に忠実に主をお迎えしていると見るべきでしょう。

こう考えると、人々は主イエスに対して正しい認識と信仰とを持っているかのように見えます。それがなぜ、数日後には弟子たちは主のもとから逃げ去り、エルサレムの人々は主に対して「十字架につけろ」と叫ぶようになったのでしょうか。それは彼らが預言者たちが示した新しいメシア、新しい王に対して間違った思い込みや先入観を持っていたからということによります。彼らは、新しいメシアは政治的、軍事的にイスラエルを輝かせるものと思い描いていました。勝手なメシア像を作り上げていたのです。しかし数日の間に、主イエスの実体は、そのようなものではないということがはっきりしてきました。そのため人々は裏切られたと思い、主に対する反旗を翻したのです。

このことはわたしたちにとって大きな教訓となります。わたしたちが主を人々に証しするとき、人々の要求に何でも応えてくださるお方であるかのように、主による安価な恵みとか救いを約束することがあってはならないということです。相手に迎合するような形でキリスト像をゆがめないようにしなければなりません。パウロは「神の慈しみと厳しさを考えなさい」(ロマ11:22)と述べています。主の愛や赦しとともに、裁きの厳しさも語らなければなりません。主は裁きつつ赦したもうお方なのです。

ところで、人々の歓迎ムードの中で、主はどう応えられたでしょうか。主は用意されたとおりに入城された後、神殿の様子をご覧になって夕刻にエルサレムを離れられました。その間、主は人々の歓迎ぶりの中に、人々の置かれている状況、即ち救いを必要としている状況を肌で感じられたことでしょう。飼い主のいない羊の群れのような人々がそこにいます。その人々に主の憐みは向けられます。そして「ホサナ、主よ、お救いください」との叫びは、人々の期待する形ではなく、十字架において結晶するのです。

「主がお入り用なのです」

マルコによる福音書11章1~6節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

マルコによる福音書11章から終わりまで、主イエスのエルサレムにおける最後の一週間が記述されます。この福音書全体の実に三分の一以上の分量が用いられていることから、この一週間が如何に重要であるかが分かります。

主は今エルサレムに入られます。この都市は城壁に囲まれた都市でしたから、そこに入ることは「入城」として言い表されます。主がその入城のために用いられた方法が特別なものでした。それを二つの面から考えてみましょう。

一つは主がろばに乗って入城されたことです。それは、旧約聖書の預言通りのことを主がなさったためです。ゼカリヤ書に次のように記されています。

「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る」(9:9)。

この預言通り主はイスラエルの王として、また約束のメシア(救い主)として、ろばに乗ってエルサレムに入って行かれます。それはこの預言が、今主イエスによって実現されていることを人々に示す行為でした。そしてエルサレムの人々も、ろばに乗って入城される主イエスを見て、この預言を思い起こし、その成就を確信し、歓迎しています。この時の様子については、次週に7節以下でもう少し詳しく考えます。主がろばを用いられたことの第一の理由は、預言との関係からなされたことでした。

次に預言にも「高ぶることなく」とあるように、主はろばを用いることによってご自身の仕える姿を表しておられます。ろばは、一般的に言って馬ほど見栄えのよいものものではありません。家畜の初子が生まれた時にはそれを神に捧げるのが決まりでしたが、ろばの場合は小羊に代えられました(出エジプト34:20)。価値が低いということなのでしょう。しかしろばは柔和な性格で忍耐強く、重荷を背負って黙々と働きます。華々しい軍馬ではなくて、ろばを用いることによって、主はご自身が人々に仕える者としてのメシアであることを示しておられます。人々は預言の成就に関してはある程度理解できたでしょうが、ろばを用いることの信仰的意味には気が付いていないかもしれません。

こうして主はエルサレムに入られるのですが、このろばをどのようにして調達されたのでしょうか。それは、弟子たちに命じて、ある村からろばを借りてくることによってでした。弟子たちは命令通り出かけてろばを借りることができたのですが、そのとき、これは「主がお入り用なのです」と断って借りています。主が前もって手配しておられたのでしょうが、そのろばを新しい王としての主がエルサレムに入城するために必要なものとして借りることができたのです。主が必要としておられるものが、主のご要望通りに用いられるとは何と幸いなことでしょうか。

主はわたしたちをも、時に応じて呼び出されます。そのときわたしたちが「なぜなのですか」と問うならば、主は言われます。「わたしがあなたを必要としているからだ」と。それに対する応答の道は一つしかありません。それは主が今必要とされているものを差し出すことです。

「主よ、わたしをあなたの平和の器として用いてください」(アッシジのフランチェスコの祈り『平和の器』より)。

「見えるようになりたいのです」

マルコによる福音書10章46~52節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

これはエリコの町における主イエスとバルティマイという盲人との出会いの物語です。バルティマイが物乞いのために道端に座っていた時、自分の前を通って行かれるお方が、ナザレのイエスであることを知らされました。すると彼はすぐにこう呼びかけています、「ダビデの子イエスよ」と。「ダビデの子」とは、イスラエルの偉大な王であるダビデの子孫ということですが、これはある特別な意味を持っていました。すなわち、神がこの国に送ると約束されているメシアがその名で呼ばれていたのです。バルティマイは、神から与えられた特別な認識の賜物によって、イエスをメシア、すなわち約束の救い主と信じて呼びかけているのです。これは彼に与えられた信仰告白の言葉です。

さらに彼は、主イエスに「わたしを憐れんでください」とも言っています。つまり自分の見えない目を見えるようにしてくださいとの祈りをささげています。この機会を逃しては二度とこの方にお会いする機会はないと感じてのことなのか、必死に主に向かって祈りの言葉を投げかけています。

それに対して主の周りにいた多くの人々(その中には弟子たちも含まれていたかもしれません)は、彼を制して主に近づけないようにしています。以前、子どもたちを主のもとに連れてきた人たちを弟子たちが叱りつけたように(10:13以下)、この時も人々は同じようなことをしています。主に近づける人とそうでない人とを勝手により分けている主の周辺にいる人々の相変わらずの心がここに表されています。彼らは自分たち自身のことはどのように考えていたのでしょうか。

しかし主は言われます、「あの男を呼んで来なさい」。群衆の騒ぎ立てる声を超えて、主はひとりの人の必死の叫びを聞き取り、その人をご自身のもとに招かれるのです。ちょうど大勢の群衆の中にいてそっと手を伸ばして主の衣の裾に触れたあの出血の止まらない女性の手を見分けられたように(マルコ5:25以下)。呼ばれた彼は躍り上がって主のもとにやって来ます。主がわたしたちの叫びや祈りに耳を傾けてくださることは、こんなにも大きな喜びなのです。主はこの人の願いが何であるかを確認した上で、それを聞き入れてくださいました。「あなたの信仰があなたを救った」と言われるとおり、彼の目は主の憐みを受けて、見えるようになりました。主は、彼の主にすがる一途な思いを彼の「信仰」と言ってくださっています。長血の女性の場合も同じでした。

多くの人にその人固有の叫びがあります。自分の願いと現実との隔たりの中で苦しんでいる人たちが多くいます。それぞれに「叫び」を内に抱えているのです。それを抱えて主のもとに行こうとするとき、いろいろな力が「やめとけ」と言って制します。もしかすると自分が自分自身を制して、「やめなさい」、「意味がない」と言っている場合もあるかもしれません。しかし主はそのような人たちの内なる叫びを聞き取って、「その人をわたしのもとに連れて来なさい」と言ってくださっています。主のもとに来るべきか否かは人が決めることではありません。主ご自身がお決めになります。主は今も「あの人をわたしのもとに連れて来なさい」と呼びかけておられます。

「仕える者として生きる」

マルコによる福音書10章42~45節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

御国が完成した時には王位に着かれるはずの主イエスの右と左の座に自分たちを着かせてほしいと願う弟子ヤコブとヨハネの求めに対して、主は弟子たちが本来求めるべきことは何であるかを教えておられます。その中心にあるのは、「仕える者」として生きよ、ということです。

そのことを語られるにあたって、主はまず異邦人の生き方について触れておられます。異邦人とは、イスラエル民族以外の人々のことで、内容的には真の神を知らない人々ということになるでしょう。彼らは、畏れるものを知らないために、この世の力や財産を多く持つことによって人々の上に立ち、人々を支配しようとします。主の時代の異邦人はそのようでした。主は、弟子たちはそうであってはならないと言われます。

一方、主の弟子たち、また真の神を知らされた者たちの生き方は、内容的には、「皆に仕える者」、「すべての人の僕(しもべ)になること」として言い表されています。そのような生き方が可能となるのは何によってでしょうか。どこにその見本となるものを見出せばよいのでしょうか。それに対して主は、ご自身のことを明らかにされることによって、答えておられます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45)。「人の子」とは、主ご自身のことです。この言葉の中に、主がいかなるお方であられるかが端的に言い表されています。人は罪という悪しき力の捕らわれとなっている、そのような人間を解放するために、神の前にご自身の命を差し出して、その結果、神から罪人の命を買い戻してくださる、という主イエスによる救いのこと、さらには贖い(あがない)のことが語られています。わたしたちは、その主の身代金によって、神のものとして買い戻されました。それゆえ、主に従う者たちも、主に倣って人の命のために自分の身を差し出すのです。それが仕えるということの本質です。

さらに使徒パウロは、主イエスは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6~7)と告白しています。これは人となられた神の子イエスのヘリくだりを述べたものです。その主のへりくだりの姿の中にわたしたちのあるべき姿を見出して、わたしたちも自分のことに固執せずに、他者が真に生きる者となるために、また他者の命が神のもとに連れ帰されるために、自分自身の命と存在を投げ出して用いることが勧められています。そのような生き方こそが「仕える」ということであり、それは主イエスに倣うことによってわたしたちの内に始まるものです。

主は最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われた後に、次のように言われました。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:15)。弟子たちの生き方の基本は、このような主のへりくだりと仕える姿の中にあることが今示されました。彼らは天の主イエスの右と左の座を争うことから解放されて、他の人に向かわなければなりません。それはわたしたちにおいても同様です。

「天の主イエスの右と左の座」

マルコによる福音書10章32~41節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは第三回目のご自身の受難と復活の予告をされました(33~34節)。これを聞いた十二弟子の中のヤコブとヨハネの兄弟が、主イエスに願い出をしています。それは、主が栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください、というものです。これはどういうことでしょうか。考えられることは、次のことです。弟子たちは、主の受難と復活の三度目の予告を聞いたとき、主の死が近いことと、同時に、主が栄光の座に着かれるときも近づいてきたと考えました。そうであれば、自分たち兄弟を主に次ぐ地位につけてほしいと願っている、ということです。

彼らは主の十字架の意味を何も分かっていません。自分たちは家も家族も仕事も捨てて主に従ってきたのだから、そのように要求する権利がある、とでも思っているかのようです。ある神学者は、「彼らは主からまるで何も教えられなかった者のようである」と述べていますが、まさしくとんちんかんなことを彼らは願い出ているというほかありません。

主はそれに対して、彼らを厳しくとがめるのではなくて、一つの問いかけをされます。「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われるのです。その意味は、主イエスと共に十字架の死を受け入れる覚悟があるかとの問いです。二人はその内容が良く分からないまま、「はい、できます」と答えています。なんと素直な答えであろうか、いや何と浅薄な応答であろうかと考えさせられます。そのような彼らに主は、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」(39)と述べておられます。それは、彼らは今は何も分かっていませんが、いずれ彼らも信仰のゆえに死ななければならない時が来ると告げておられるのです。その通り、ヤコブは殉教の死を遂げ(使徒12:2)、ヨハネも伝説によれば殉教の死を遂げています。主は彼らの今の思いを超えて、彼らを信仰の高みに導いてくださいます。

この兄弟のことを聞いた他の十人の弟子たちは怒っています。彼らも同じことを考えていたからです。そのような弟子たちに主が教えられたことについては、次週、42節以下でご一緒に御言葉に聞きましょう。

ここから示されることは、神が人間に求めておられることと、人が神に求めることとの間には、とてつもない隔たりがある場合があるということです。それが分かった時、何が起こるでしょうか。先に人間の場合を考えてみますと、あの富める男性が悲しみつつ主の前から去って行ったように(10:22)、神から離れるということです。神を諦めるのです。それでは神はどうでしょうか。神は人を簡単に諦めることはなさいません。主がこの兄弟の地上的な願いを受け止めた上で、最終的に彼らを霊的に高いレベルへと引き上げられたように、わたしたちも神によって時間をかけながら、より高いレベルへと引き上げられるのです。そうでなければ、わたしたちの服従は可能とはなりません。わたしたちは弟子たちのように、主のために殉教の死を遂げることはできなくても、主のために生きることはできます。主のために全身全霊を捧げて仕えるのです。その姿勢に主なる神が応えてくださるでしょう。

「主のゆえに捨てるものと得るもの」

マルコによる福音書10章23~31節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは立ち去っていく金持ちの男性の後ろ姿を見ながら、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われ、さらに「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とも言われました。それを聞いた弟子たちは、富や財産は神からの祝福のしるしであるはずなのに、それを持つ者が神の国に入ることが難しいのであれば、「それでは誰が救われるのだろうか」と驚き、また絶望的になっています。

主はここで富める者が神の国に入るのは難しいということを強調しておられますが、なぜそうなのでしょうか。主はお金そのものを問題にしておられるというよりも、それらが人間に対して持つ力を問題にしておられます。あるいは、人が如何にそれらのものに振り回されるものであるかということを問題にしておられるのです。富める者たちが持っている共通の傾向は、持てば持つほどさらに多くのものを持とうとすることです。心が財産や富に奪われてしまうのです。それによって、その人から神が遠のき、さらには、隣人の存在もないもののように薄められてしまいます。神への愛と人への愛が、富によって消滅させられるということが起こるのです。富によってその人の心と魂が地上のことに縛られてしまう、そのことへの警告を主はなさっておられます。

混乱する弟子たちに対して主は言葉を続けられます。「人間にはできることではないが、神にはできる」と。富める者であろうが、富を持たない者であろうが、自力で神の国に入るのは難しいけれども、自分の側に自分を救い得るものは何もないことを知って、一切を神に委ねるならば、人の手によって開かれなかった神の国の扉が開かれると言われます。つまり地上の持ち物によらずに一切を神に委ねることによる可能性を主は語っておられます。それゆえわたしたちは、神の国に入ることの困難さや不可能性について論じるよりも、御国に入れられることの可能性を神との関係の中に見出すことが大事です。

主の言葉によって少しばかり希望を抱くことができるようになった弟子たちは、自分たちは何もかも捨てて主に従っています、地上の物には頼っていません、ということを告げています。それに対して主が応答しておられる言葉が、29~30節に記されています。その要点は、主への服従のために捨てることによって、捨てたもの以上のものを手にすることができるという約束です。捨てる対象として挙げられているものは、家族や財産などです。どれも大変身近なものばかりです。主に従うという目的のために何かを捨てたとき、その人に対して神は捨てたもの以上のものをもって報いてくださる、と主は言われます。捨てたものの百倍に当たるものを神の国で与えられるというのです。これは量的なものではなくて霊的なもの、地上的なものではなくて天的なものです。ひとことで言えば、「永遠の命」のことです。

さらにわたしたちが見落としてならないことは、百倍のものを受けるのは「捨てられたものたち」においても起こりうる、ということです。それらもやがて神との新しい関係に移されるというのが神の約束であり、それゆえにそのことがわたしたちの祈りでもあり希望ともなります。

「天に宝を積む」

マルコによる福音書10章17~22節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

「ある人」が主イエスのもとにやって来ました。この人は22節の記述から、お金持ちであったことが分かります。また並行箇所のマタイ福音書では「青年」とあり、ルカ福音書では「議員」として紹介されています。この人は若くして財産も社会的地位も手にすることができています。同時にそれに満足せずに「永遠の命」についての思いも持っていました。神の戒めを守り、真摯な生き方をしていたのですが、何かまだ手にしていない大事なものがあることを感じて、彼は主のもとにそれを求めてやってきています。

彼は主に「善き先生」と呼びかけています。彼にとって主は、なんでも教えてくれる最高の先生として受け止められていたようです。それに対して主は次のように答えられました。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」。これはどういう意味でしょうか。主はこの言葉によって、ご自身の背後におられる父なる神にこの人の目を向けさせようとしておられるのです。単に学ぶことや教わることによって地上の何かを積み上げ、今足りないと感じているものを補おうとするのではなくて、地上の次元を超えたお方に目を向けることによって、そのお方との関係の中で彼の願いがかなえられようにと、主は天の神を指し示しておられるます。

主は続いて彼に、神の戒め、特に十戒の中の人間に関する戒めを持ち出しておられます。それはこれらの戒めを表面的に守ることがそれを守ったことになるのではなく、戒めの背後にある神の御心を知って、それに従って生きることこそが大事なことなのだということを教えようとしておられるからです。それらの中心にあるのは、隣人への愛、隣人と共に生きようとする愛です。

彼は主が示される戒めはみな子どもの時から守ってきたと言っています。清潔な生き方をしてきたのでしょう。しかし、主は彼の生き方の中に、上に述べた<愛>が決定的に欠けていることに気づいておられます。それは裏を返せば、彼は神の戒めを、神の御心にそった形では守っていないということです。それゆえ「あなたに欠けているものが一つある」と厳しい口調で語っておられるのです。それは愛です。しかし、彼はどうしてそう言われなければならないのでしょうか。それは彼の生き方に隣人の存在が全く欠けていて、財産などすべて善きものは自分だけのものとしてしか考えていなかったことにあります。主は言われました、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ6:21)。彼の富があるところに彼の心があるとは、神のところに彼の心はない、それゆえ貧しい人々のところにも彼の心はない、と言うことになります。富を他者のために用いるという発想は彼には全くなかったのです。その生き方を根本的に改善させるものは、愛です。それゆえ、彼が求めている「永遠の生命」の内容は、愛と言うことになります。

しかし彼の頭の中には全くなかったことを示され、促されて、彼はそうすることはできないという思いで主の前から悲しみつつ去っていきました。人は「神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)のです。彼が自分に向けられた主の慈しみの眼差し(21節参照)を思い出すことができるならば、きっともう一度のチャンスが与えられるに違いありません。