「ろばに乗って来られる主」

マルコによる福音書11章7~11節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

11章1節以下には主イエスのエルサレム入城の様子が描かれていますが、今日のテキスト部分では、特に人々の動きが二つの面から描かれています。一つは弟子たちや人々が、主イエスが乗られるろばの背に、鞍代わりに自分たちの服をかけたことです。そして主がろばに乗って歩かれる道には、服を敷いたり、野原から集めて来た葉のついた枝などを敷いています。これは絨毯の代わりなのでしょう。これらの行為は、ゼカリヤ書9章9節の預言を思い起こし、その預言が成就したことを彼らなりに表現しているものです。こうして人々は主イエスを待望の「メシア」、新しい王として歓迎しています。

さらに人々は、「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように」と讃美の声をあげています。これは、詩編118編25-26節からの引用で、わたしたちの救い主がついにおいでになった、主よ、どうか一日も早く救いを実現してください、との思いで叫ばれている讃美であり、祈りです。

このように主イエスを歓迎している人々とは誰のことでしょうか。十二弟子たちは当然含まれていますが、ほかにガリラヤから主に従ってきた人々、さらにはエルサレムで主を迎える人々などが考えられます。彼らは小さな芝居をしているようですが、そうではなくて旧約聖書の預言の成就を主イエスの到来に見て、精一杯聖書に忠実に主をお迎えしていると見るべきでしょう。

こう考えると、人々は主イエスに対して正しい認識と信仰とを持っているかのように見えます。それがなぜ、数日後には弟子たちは主のもとから逃げ去り、エルサレムの人々は主に対して「十字架につけろ」と叫ぶようになったのでしょうか。それは彼らが預言者たちが示した新しいメシア、新しい王に対して間違った思い込みや先入観を持っていたからということによります。彼らは、新しいメシアは政治的、軍事的にイスラエルを輝かせるものと思い描いていました。勝手なメシア像を作り上げていたのです。しかし数日の間に、主イエスの実体は、そのようなものではないということがはっきりしてきました。そのため人々は裏切られたと思い、主に対する反旗を翻したのです。

このことはわたしたちにとって大きな教訓となります。わたしたちが主を人々に証しするとき、人々の要求に何でも応えてくださるお方であるかのように、主による安価な恵みとか救いを約束することがあってはならないということです。相手に迎合するような形でキリスト像をゆがめないようにしなければなりません。パウロは「神の慈しみと厳しさを考えなさい」(ロマ11:22)と述べています。主の愛や赦しとともに、裁きの厳しさも語らなければなりません。主は裁きつつ赦したもうお方なのです。

ところで、人々の歓迎ムードの中で、主はどう応えられたでしょうか。主は用意されたとおりに入城された後、神殿の様子をご覧になって夕刻にエルサレムを離れられました。その間、主は人々の歓迎ぶりの中に、人々の置かれている状況、即ち救いを必要としている状況を肌で感じられたことでしょう。飼い主のいない羊の群れのような人々がそこにいます。その人々に主の憐みは向けられます。そして「ホサナ、主よ、お救いください」との叫びは、人々の期待する形ではなく、十字架において結晶するのです。