「神殿を清める主イエス」

マルコによる福音書11章15~19節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ここには、<宮清め>として知られているエルサレム神殿での出来事が記されています。それは主イエスが、神殿の境内で商売をしていた人々を荒々しく追い出された事件です。ここでの商売人たちは、神殿当局(祭司たち)の許可の下で参拝者たちのための商売をしていました。捧げものの動物を用意するとか、外国貨幣しか持っていない人たちのために両替をするなどの商売です。これは本来、礼拝者の便宜のために許されていたものでした。

その商売人たちを主イエスが追い出されたのはどうしてでしょうか。それは主がそこで行われていた不正を見抜かれたからです。商売人たちは、その商売によって暴利をむさぼっていました。当局者たちもそれを容認することによって、いくらかのわいろを受け取っていたのです。神殿は本来、神への礼拝の場です。また神殿は神への祈りの場です。そしてさらには、神殿はそこで礼拝をし、祈りをささげることを通して、隣人への愛を養われる場です。そのような礼拝者たちに仕える役目を持っている商売人たちは、その本来の目的から外れてしまって、悪徳商法に陥っていました。神殿が腐敗してしまっているのです。それをご存じになられた主は、神殿の本来の姿を取り戻すために、このような行動に出られたのです。

そして主は旧約聖書からの言葉の引用によって、神殿の本来の姿と、それから外れている姿とをお示しになります。本来の姿とはイザヤ書56章7節からの引用で、神殿は本来「祈りの家」でなければならないということです。しかし実情はエレミヤ書7章11節からの引用によって「強盗の巣」に成り下がっていることを指摘しておられます。神殿が敬虔な場ではなく、人間の欲の場になっていることを主は憂えておられます。宗教改革時代の一つのスローガンは「神の栄光のみ」ということでした。主は神殿においてこの栄光を陰らせている要因を取り除くために、この行動を起こされたのです。主はこう言われました。「神は霊である。だから神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)。ここに立ち帰らなければならないのです。

このことから二つのことを考えてみましょう。一つはわたしたちの教会についてです。今日の教会も神殿です。そこは「まことに、神はあなたがたの中におられます」との告白が生まれてくるような霊に満ちたものであり得ているでしょうか。神への賛美と祈りと服従に満ちた礼拝を回復したいと願います。

もう一つは、わたしたち自身についてのことです。パウロはこう述べています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(コリント一、6:19)。驚くべきことに信仰者一人ひとりは神殿である、そこには聖霊が宿っていて聖霊の器とされているのだというのです。そうであれば、わたしたちは自分の体を以って神の恵みと憐みを輝き出すものでなければなりません。この貧しい自分が聖霊の宿る神殿の役割を担わされていることを畏れと光栄をもって覚え、何とかしてその名にふさわしく生きようと祈りつつ、与えられた務めを果たしていきたいと願います。