「天の主イエスの右と左の座」

マルコによる福音書10章32~41節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは第三回目のご自身の受難と復活の予告をされました(33~34節)。これを聞いた十二弟子の中のヤコブとヨハネの兄弟が、主イエスに願い出をしています。それは、主が栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください、というものです。これはどういうことでしょうか。考えられることは、次のことです。弟子たちは、主の受難と復活の三度目の予告を聞いたとき、主の死が近いことと、同時に、主が栄光の座に着かれるときも近づいてきたと考えました。そうであれば、自分たち兄弟を主に次ぐ地位につけてほしいと願っている、ということです。

彼らは主の十字架の意味を何も分かっていません。自分たちは家も家族も仕事も捨てて主に従ってきたのだから、そのように要求する権利がある、とでも思っているかのようです。ある神学者は、「彼らは主からまるで何も教えられなかった者のようである」と述べていますが、まさしくとんちんかんなことを彼らは願い出ているというほかありません。

主はそれに対して、彼らを厳しくとがめるのではなくて、一つの問いかけをされます。「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われるのです。その意味は、主イエスと共に十字架の死を受け入れる覚悟があるかとの問いです。二人はその内容が良く分からないまま、「はい、できます」と答えています。なんと素直な答えであろうか、いや何と浅薄な応答であろうかと考えさせられます。そのような彼らに主は、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」(39)と述べておられます。それは、彼らは今は何も分かっていませんが、いずれ彼らも信仰のゆえに死ななければならない時が来ると告げておられるのです。その通り、ヤコブは殉教の死を遂げ(使徒12:2)、ヨハネも伝説によれば殉教の死を遂げています。主は彼らの今の思いを超えて、彼らを信仰の高みに導いてくださいます。

この兄弟のことを聞いた他の十人の弟子たちは怒っています。彼らも同じことを考えていたからです。そのような弟子たちに主が教えられたことについては、次週、42節以下でご一緒に御言葉に聞きましょう。

ここから示されることは、神が人間に求めておられることと、人が神に求めることとの間には、とてつもない隔たりがある場合があるということです。それが分かった時、何が起こるでしょうか。先に人間の場合を考えてみますと、あの富める男性が悲しみつつ主の前から去って行ったように(10:22)、神から離れるということです。神を諦めるのです。それでは神はどうでしょうか。神は人を簡単に諦めることはなさいません。主がこの兄弟の地上的な願いを受け止めた上で、最終的に彼らを霊的に高いレベルへと引き上げられたように、わたしたちも神によって時間をかけながら、より高いレベルへと引き上げられるのです。そうでなければ、わたしたちの服従は可能とはなりません。わたしたちは弟子たちのように、主のために殉教の死を遂げることはできなくても、主のために生きることはできます。主のために全身全霊を捧げて仕えるのです。その姿勢に主なる神が応えてくださるでしょう。