「山を動かすほどの信仰」

マルコによる福音書11章20~26節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

いちじくの木が枯れているのを見て驚く弟子たちに語られた言葉が22節以下に記されています。その中に「信じて疑わないならば、山に向かって海に飛び込めと言えば、必ずそのようになる」というよく知られている言葉も含まれています。これは果たしてそのまま受け入れることができるものなのでしょうか。神がそのように命じられるのであれば、そのことも起こるでしょう。また、主イエスが命じられるのであれば、そのことも起こるでしょう。しかしわたしたち人間には到底不可能としか言いようがありません。なぜなら、わたしたちは常にいくらかの疑いを抱えているからです。

これはある種の比喩的性格を持ったものと考えることができます。主は、この言葉によって、信じて神に願い求めることはいつか驚くべき結果をもたらす、ということを教えておられるのです。「山」とは、人の力ではどうすることもできない、大きな困難や障壁のことです。しかし、心から神に願い続けるならば、いつかそこに何かが起こるということです。人が祈りによって神に一歩近づけば、神も近づいてくださいます。そのようにして祈り続ける中で、抱えている事態に神が大きな変化を生じさせてくださるということを主は約束してくださっています。

神を信じるとは、神の存在を知っているとか、ただ神の存在を信じるということと同じではありません。神を信じるとは、神の魔術的な力を信じるということでもありません。神を信じるとは、どのような結果が生じようとも、すべてを神に委ねて生きるということです。「神にできないことは何一つない」という信仰に立って、結果云々で神を評価することはせず、結果を含めてすべてを神に委ねることです。その信仰に生きることを主は今弟子たちに教えておられます。「人は祈る前に疑い、祈りながら疑い、祈った後に疑う」(ハレスビー)と言われているとおりのわたしたちです。しかし神はわたしたちが考えているよりはるかに大きな方であることを忘れてはなりません。それゆえ、その信仰に立つ限り、「祈り求めるものは既に得られたと信じなさい」ということもまた真理なのです。すべてを神に委ねたからです。

神を信じる者は、祈りへと向かいます。神が赦してくださっているからこそ、わたしたちは神に向かうことができます。そして、祈りによって平安を得るのです。さらに主はこう言われます。「祈るとき、誰かに対して恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」と。祈りは神に赦された者に与えられた恵みの特権です。そうであれば、次にその人は他の人の赦しに生きる者でなければなりません。神と人という縦の関係が修復された者は、次に人と人という横の関係の修復に向かうのです。兄弟への赦しがたい思いを以って祈ることは、兄弟を軽んじているというよりも、神を冒涜しているということなのです。兄弟との関係に、神との関係によってもたらされた恵みを反映できない者は、まだ神の赦しの恵みが十分に分かっていないということになります。

こうして主は、数日後のご自分の十字架上の死を思いつつ、地上に残して行く弟子たちが、主の十字架の後に思い起こすことができるように、さまざまな豊かな教えを与えておられます。