「実のないいちじくの木」

マルコによる福音書11章12~14、20~21節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

聖書の中には難解な言葉や教えがいくつもありますが、本日のいちじくの木に関する事柄もその一つです。主がエルサレム入城を果たされてから二日目のことです。主イエスの一行は滞在しておられたベタニアを出てエルサレムに向かっておられます。そのとき主は空腹を覚えられて、実を求めていちじくの木に近づかれました。しかしその木には実がなっていませんでした。それで主はその木に向かって「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われました。これはあとでペトロが「呪われたいちじくの木」(21)と言っているように、呪いの言葉でした。呪いとは神の裁きを求める言葉と言ってもよいでしょう。事実、その木は翌日枯れてしまいました(21)。

なぜ主はそのようなことをなさったのでしょうか。時期は過越しの祭りに近い頃ですから春先であり、この頃のいちじくの木には普通は実がならないのです(13節参照)。しかし主があえてこのようなことをなさったのは、弟子たちに何かを教えようとされてのことであったに違いありません。いちじくの木はぶどうの木と並んで旧約聖書において、イスラエルを表す(象徴する)ものとしてよく用いられました。そしてそのいちじくの木に実がならないということを、預言者たちはしばしば警告しました(エレミヤ書8:13等参照)。つまりイスラエルの人々が悔い改めて主なる神のもとに帰ることがなかなか起こらないということを訴えたのです。

主はそのことを踏まえながら、今イスラエルの人々に悔い改めの実を見ることができないことを示し、それが結果として招くことは、神による裁きであることをこの出来事を通して教えておられます。これはある種のたとえ話的なものです。主がよく用いられる言葉によるたとえ話ではなくて、<行為によるたとえ話>として霊的な教えを含んでいるものです。つまりこのままいくならば、イスラエルは神の裁きを受けて滅びを免れることはできない、との警告がここでなされているのです。弟子たちは、そのことを学び取ることが求められていますが、しかし彼らはまだそのことに気が付いていません。

このような警告をなさった主イエスですが、実際は、神の裁きを受けられたのは主ご自身でした。イスラエルの人々が、そしてすべての罪人が悔い改めの実をならさないままに神の裁きを受けることを主は良しとなさらず、すべての者に代わって自ら十字架での裁きを受けることによって、人々の永遠の死にいたる神の裁きを免れさせてくださったのです。そこに神の「慈しみと俊厳」が表されました。

御子を裁くことによって罪人の裁きを完了したこととし、この御子の死の中に自分の罪と死を認めて、神のもとに立ち帰る者に、主なる神は救いを約束してくださっているのです。エルサレムでの主イエスの数日は、そのことが明らかにされる決定的な日々でした。

この救いの出来事は、わたしたち人間が自分たちに都合が良いように勝手に造り出した救済劇ではありません。神ご自身の手による救いの事実なのです。わたしたちも葉ばかり生い茂っているいちじくのようではなくて、神が喜ばれる悔い改めの実を実らせるものでありたいと願います。そのためには、ますます十字架の主イエスに近づかなければなりません。