「天に宝を積む」

マルコによる福音書10章17~22節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

「ある人」が主イエスのもとにやって来ました。この人は22節の記述から、お金持ちであったことが分かります。また並行箇所のマタイ福音書では「青年」とあり、ルカ福音書では「議員」として紹介されています。この人は若くして財産も社会的地位も手にすることができています。同時にそれに満足せずに「永遠の命」についての思いも持っていました。神の戒めを守り、真摯な生き方をしていたのですが、何かまだ手にしていない大事なものがあることを感じて、彼は主のもとにそれを求めてやってきています。

彼は主に「善き先生」と呼びかけています。彼にとって主は、なんでも教えてくれる最高の先生として受け止められていたようです。それに対して主は次のように答えられました。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」。これはどういう意味でしょうか。主はこの言葉によって、ご自身の背後におられる父なる神にこの人の目を向けさせようとしておられるのです。単に学ぶことや教わることによって地上の何かを積み上げ、今足りないと感じているものを補おうとするのではなくて、地上の次元を超えたお方に目を向けることによって、そのお方との関係の中で彼の願いがかなえられようにと、主は天の神を指し示しておられるます。

主は続いて彼に、神の戒め、特に十戒の中の人間に関する戒めを持ち出しておられます。それはこれらの戒めを表面的に守ることがそれを守ったことになるのではなく、戒めの背後にある神の御心を知って、それに従って生きることこそが大事なことなのだということを教えようとしておられるからです。それらの中心にあるのは、隣人への愛、隣人と共に生きようとする愛です。

彼は主が示される戒めはみな子どもの時から守ってきたと言っています。清潔な生き方をしてきたのでしょう。しかし、主は彼の生き方の中に、上に述べた<愛>が決定的に欠けていることに気づいておられます。それは裏を返せば、彼は神の戒めを、神の御心にそった形では守っていないということです。それゆえ「あなたに欠けているものが一つある」と厳しい口調で語っておられるのです。それは愛です。しかし、彼はどうしてそう言われなければならないのでしょうか。それは彼の生き方に隣人の存在が全く欠けていて、財産などすべて善きものは自分だけのものとしてしか考えていなかったことにあります。主は言われました、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ6:21)。彼の富があるところに彼の心があるとは、神のところに彼の心はない、それゆえ貧しい人々のところにも彼の心はない、と言うことになります。富を他者のために用いるという発想は彼には全くなかったのです。その生き方を根本的に改善させるものは、愛です。それゆえ、彼が求めている「永遠の生命」の内容は、愛と言うことになります。

しかし彼の頭の中には全くなかったことを示され、促されて、彼はそうすることはできないという思いで主の前から悲しみつつ去っていきました。人は「神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)のです。彼が自分に向けられた主の慈しみの眼差し(21節参照)を思い出すことができるならば、きっともう一度のチャンスが与えられるに違いありません。