「主がお入り用なのです」

マルコによる福音書11章1~6節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

マルコによる福音書11章から終わりまで、主イエスのエルサレムにおける最後の一週間が記述されます。この福音書全体の実に三分の一以上の分量が用いられていることから、この一週間が如何に重要であるかが分かります。

主は今エルサレムに入られます。この都市は城壁に囲まれた都市でしたから、そこに入ることは「入城」として言い表されます。主がその入城のために用いられた方法が特別なものでした。それを二つの面から考えてみましょう。

一つは主がろばに乗って入城されたことです。それは、旧約聖書の預言通りのことを主がなさったためです。ゼカリヤ書に次のように記されています。

「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る」(9:9)。

この預言通り主はイスラエルの王として、また約束のメシア(救い主)として、ろばに乗ってエルサレムに入って行かれます。それはこの預言が、今主イエスによって実現されていることを人々に示す行為でした。そしてエルサレムの人々も、ろばに乗って入城される主イエスを見て、この預言を思い起こし、その成就を確信し、歓迎しています。この時の様子については、次週に7節以下でもう少し詳しく考えます。主がろばを用いられたことの第一の理由は、預言との関係からなされたことでした。

次に預言にも「高ぶることなく」とあるように、主はろばを用いることによってご自身の仕える姿を表しておられます。ろばは、一般的に言って馬ほど見栄えのよいものものではありません。家畜の初子が生まれた時にはそれを神に捧げるのが決まりでしたが、ろばの場合は小羊に代えられました(出エジプト34:20)。価値が低いということなのでしょう。しかしろばは柔和な性格で忍耐強く、重荷を背負って黙々と働きます。華々しい軍馬ではなくて、ろばを用いることによって、主はご自身が人々に仕える者としてのメシアであることを示しておられます。人々は預言の成就に関してはある程度理解できたでしょうが、ろばを用いることの信仰的意味には気が付いていないかもしれません。

こうして主はエルサレムに入られるのですが、このろばをどのようにして調達されたのでしょうか。それは、弟子たちに命じて、ある村からろばを借りてくることによってでした。弟子たちは命令通り出かけてろばを借りることができたのですが、そのとき、これは「主がお入り用なのです」と断って借りています。主が前もって手配しておられたのでしょうが、そのろばを新しい王としての主がエルサレムに入城するために必要なものとして借りることができたのです。主が必要としておられるものが、主のご要望通りに用いられるとは何と幸いなことでしょうか。

主はわたしたちをも、時に応じて呼び出されます。そのときわたしたちが「なぜなのですか」と問うならば、主は言われます。「わたしがあなたを必要としているからだ」と。それに対する応答の道は一つしかありません。それは主が今必要とされているものを差し出すことです。

「主よ、わたしをあなたの平和の器として用いてください」(アッシジのフランチェスコの祈り『平和の器』より)。