主日礼拝 2021.07.25

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    栗林 聖子

奏楽
招詞イザヤ書57章15節 (旧約 p1156)
讃美歌11  あめつちにまさる
祈祷
聖書マルコによる福音書10章32~41節
信仰告白使徒信条
讃美歌312  いつくしみふかき
説教「天の主イエスの右と左の座」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌321  わが主イェスよ
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄541  ちち、みこ、みたまの
祝祷
後奏

「主のゆえに捨てるものと得るもの」

マルコによる福音書10章23~31節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは立ち去っていく金持ちの男性の後ろ姿を見ながら、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われ、さらに「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とも言われました。それを聞いた弟子たちは、富や財産は神からの祝福のしるしであるはずなのに、それを持つ者が神の国に入ることが難しいのであれば、「それでは誰が救われるのだろうか」と驚き、また絶望的になっています。

主はここで富める者が神の国に入るのは難しいということを強調しておられますが、なぜそうなのでしょうか。主はお金そのものを問題にしておられるというよりも、それらが人間に対して持つ力を問題にしておられます。あるいは、人が如何にそれらのものに振り回されるものであるかということを問題にしておられるのです。富める者たちが持っている共通の傾向は、持てば持つほどさらに多くのものを持とうとすることです。心が財産や富に奪われてしまうのです。それによって、その人から神が遠のき、さらには、隣人の存在もないもののように薄められてしまいます。神への愛と人への愛が、富によって消滅させられるということが起こるのです。富によってその人の心と魂が地上のことに縛られてしまう、そのことへの警告を主はなさっておられます。

混乱する弟子たちに対して主は言葉を続けられます。「人間にはできることではないが、神にはできる」と。富める者であろうが、富を持たない者であろうが、自力で神の国に入るのは難しいけれども、自分の側に自分を救い得るものは何もないことを知って、一切を神に委ねるならば、人の手によって開かれなかった神の国の扉が開かれると言われます。つまり地上の持ち物によらずに一切を神に委ねることによる可能性を主は語っておられます。それゆえわたしたちは、神の国に入ることの困難さや不可能性について論じるよりも、御国に入れられることの可能性を神との関係の中に見出すことが大事です。

主の言葉によって少しばかり希望を抱くことができるようになった弟子たちは、自分たちは何もかも捨てて主に従っています、地上の物には頼っていません、ということを告げています。それに対して主が応答しておられる言葉が、29~30節に記されています。その要点は、主への服従のために捨てることによって、捨てたもの以上のものを手にすることができるという約束です。捨てる対象として挙げられているものは、家族や財産などです。どれも大変身近なものばかりです。主に従うという目的のために何かを捨てたとき、その人に対して神は捨てたもの以上のものをもって報いてくださる、と主は言われます。捨てたものの百倍に当たるものを神の国で与えられるというのです。これは量的なものではなくて霊的なもの、地上的なものではなくて天的なものです。ひとことで言えば、「永遠の命」のことです。

さらにわたしたちが見落としてならないことは、百倍のものを受けるのは「捨てられたものたち」においても起こりうる、ということです。それらもやがて神との新しい関係に移されるというのが神の約束であり、それゆえにそのことがわたしたちの祈りでもあり希望ともなります。

主日礼拝 2021.07.18

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞詩編68編20~21節 (旧約 p900)
讃美歌23  くるあさごとに
祈祷
聖書マルコによる福音書10章23~31節
信仰告白使徒信条
讃美歌84  かみにたより
説教「主のゆえに捨てるものと得るもの」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌332 主はいのちを
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄541  ちち、みこ、みたまの
祝祷
後奏

「天に宝を積む」

マルコによる福音書10章17~22節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

「ある人」が主イエスのもとにやって来ました。この人は22節の記述から、お金持ちであったことが分かります。また並行箇所のマタイ福音書では「青年」とあり、ルカ福音書では「議員」として紹介されています。この人は若くして財産も社会的地位も手にすることができています。同時にそれに満足せずに「永遠の命」についての思いも持っていました。神の戒めを守り、真摯な生き方をしていたのですが、何かまだ手にしていない大事なものがあることを感じて、彼は主のもとにそれを求めてやってきています。

彼は主に「善き先生」と呼びかけています。彼にとって主は、なんでも教えてくれる最高の先生として受け止められていたようです。それに対して主は次のように答えられました。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」。これはどういう意味でしょうか。主はこの言葉によって、ご自身の背後におられる父なる神にこの人の目を向けさせようとしておられるのです。単に学ぶことや教わることによって地上の何かを積み上げ、今足りないと感じているものを補おうとするのではなくて、地上の次元を超えたお方に目を向けることによって、そのお方との関係の中で彼の願いがかなえられようにと、主は天の神を指し示しておられるます。

主は続いて彼に、神の戒め、特に十戒の中の人間に関する戒めを持ち出しておられます。それはこれらの戒めを表面的に守ることがそれを守ったことになるのではなく、戒めの背後にある神の御心を知って、それに従って生きることこそが大事なことなのだということを教えようとしておられるからです。それらの中心にあるのは、隣人への愛、隣人と共に生きようとする愛です。

彼は主が示される戒めはみな子どもの時から守ってきたと言っています。清潔な生き方をしてきたのでしょう。しかし、主は彼の生き方の中に、上に述べた<愛>が決定的に欠けていることに気づいておられます。それは裏を返せば、彼は神の戒めを、神の御心にそった形では守っていないということです。それゆえ「あなたに欠けているものが一つある」と厳しい口調で語っておられるのです。それは愛です。しかし、彼はどうしてそう言われなければならないのでしょうか。それは彼の生き方に隣人の存在が全く欠けていて、財産などすべて善きものは自分だけのものとしてしか考えていなかったことにあります。主は言われました、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ6:21)。彼の富があるところに彼の心があるとは、神のところに彼の心はない、それゆえ貧しい人々のところにも彼の心はない、と言うことになります。富を他者のために用いるという発想は彼には全くなかったのです。その生き方を根本的に改善させるものは、愛です。それゆえ、彼が求めている「永遠の生命」の内容は、愛と言うことになります。

しかし彼の頭の中には全くなかったことを示され、促されて、彼はそうすることはできないという思いで主の前から悲しみつつ去っていきました。人は「神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)のです。彼が自分に向けられた主の慈しみの眼差し(21節参照)を思い出すことができるならば、きっともう一度のチャンスが与えられるに違いありません。

主日礼拝 2021.07.11

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞詩編49編6~9節 (旧約 p881)
讃美歌20  主をほめよ
祈祷
聖書マルコによる福音書10章17~22節
信仰告白使徒信条
讃美歌85  主のまことは
説教「天に宝を積む」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌513 あめにたからつめるものは
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄541  ちち、みこ、みたまの
祝祷
後奏

「子どもを祝福される主イエス」

マルコによる福音書10章13~16節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今の時代は<子ども受難の時代>と言われたりします。それほどに子どもや小さな命がさまざまな危機に直面しています。小さい存在が軽んじられる時代はどこかが歪んでいます。主イエスの時代はどうであったのでしょうか。

ある時、親が自分の子どもたちを主のもとに連れてきました。主から祝福を受けたいと願っていたからでした。しかしそれに対して弟子たちは叱って、彼らを追い払おうとしました。なぜ弟子たちはそうしたのでしょうか。それはきっと弟子たちの頭の中には、子どもにはまだ福音は分からない、彼らには神の国は関係ないということがあったからに違いありません。主イエスの宣教活動が子どもたちによって邪魔されてはいけない、という思いもあったことでしょう。彼らは誰が神の国にふさわしいかどうかの資格検査を勝手にしているのです。このような弟子たちの考えは間違っています。子どもたちにも罪はあります。それゆえ彼らにも罪の赦しが必要であり、救い主が必要なのです。弟子たちにはそのような子ども理解はありませんでした。

主は弟子たちに憤りを覚えられました。そしてこう言われたのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。…神の国はこのような者たちのものである」(14)。主イエスは明らかに子どもを拒んではおられません。それどころか彼らこそ神の国に入ることができる者たちである、とさえ言っておられます。主は子どものどのような特性に目を向けて、神の国にふさわしいものであると言っておられるのでしょうか。子どもの持つ純粋さとか、素直さとか、無邪気さでしょうか。しかし彼らにはそうした善きものだけでなく、わがままな面や自己中心的な面もあります。主は人が子どもに倣うべきものとして、何に注目しておられるのでしょうか。

それは、彼らの<全面的な依存性>ということとして考えられます。あるいは<全き受動性>と言ってよいかもしれません。子どもたちは自分たちだけでは、命を保つことはできません。親たちからの愛や保護や恵みによって生きることができます。つまり自分よりも大きな確かな存在に自己を委ねることによってのみ生きることができるのです。そうすることによって彼らの小ささや弱さが、彼らの強さとなるのです。神の国は人が勝ち取るものではなくて、自己を神に委ねることによって、神によって受け入れられるところにあるのです。それはわたしたちにおいても同じです。わたしたちも神の前にあっては小さな存在にすぎません。子どもが親の懐に飛び込むように、わたしたちも神の懐に飛び込むことによって、永遠の命を与えられるのです。そのことにおいて人は幼子たちの受動性・依存性に、信仰において倣うことが求められます。

パウロは次のように語っています。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」(コリント一、4:7)。わたしたちが所有している地上のものはすべて、神の許しの下で自分のものとされています。それと同じように、あるいはそれ以上に、罪の赦し、体の復活、永遠の命の約束など、霊的な善きもののすべても、神からいただかなければ自分のものとなることはありません。つまり、究極的にわたしたちは神に依存している存在なのです。それはわたしたちにとって幸いなことです。そのことを子どもたちから学びなさいと主は教えてくださっています。

主日礼拝 2021.07.04

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞詩編71編14~17節 (旧約 p905)
讃美歌12  めぐみゆたけき主を
祈祷
聖書マルコによる福音書10章13~16節
信仰告白使徒信条
讃美歌79  ほめたたえよ
説教「子どもを祝福される主イエス」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌517 われにこよと
聖餐式
讃美歌202  くすしきみすがた
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄541  ちち、みこ、みたまの
祝祷
後奏

「神が合わせられたもの」

マルコによる福音書10章1~12節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日、家庭や親子関係や夫婦関係の崩壊が、社会の崩壊の最大の原因であると指摘されます。それほどに深刻な状況です。このことについての聖書の教えの一つが、今日の主イエスとファリサイ派の人々との問答にあります。

あるときファリサイ派の人々が主に次のように尋ねました。「夫が妻と離縁することは、律法に適っているでしょうか」(2)。これは苦悩の中からの問いではなくて、主が旧約聖書にどれほど通じているかを試そうとするものでした。しかし主はそれを軽くいなすことはなさらずに、正面から受け止めて「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返しておられます。つまり、律法にどう書かれているかを尋ねておられるのです。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えています。彼らはこの掟によって、夫は妻に恥ずべきことがあればいつでも離縁することができる、離縁は合法的である、夫の権利であるとさえ考えていたのでしょう。

しかし主はこのモーセの掟の中に、人間の弱さに対する神の憐みを見ておられます。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(5)。これは、崩れた結婚生活を続けることによって、互いがかえって傷つけあい、神への信仰や、礼拝を捧げることに支障が生じてくるようであれば、互いが神によって造られた人格を回復し、自身を維持するために別れることはあり得る、と主は解釈しておられます。人間の弱さに対する神の厳しさの緩和あるいは譲歩をこの掟の中に読み取っておられるのです。離婚の勧めではありません。神学者バルトは「主のこの教えと解釈によって、どれほど多くの傷ついた夫と妻が癒されたことであろうか」、また「離婚して再出発することが、神への服従として良い道であることが当事者において、また信仰の良心の下で認められた時、教会はこれを承認すべきである」と述べています。

しかし主の教えの中心は離縁にあるのではありません。主は続いて、神の創造の業に立ち帰って、そもそも男と女とはどういう関係にあるかを思い起こさせておられます。その内容は、神はご自分にかたどって人を男と女に創造された、その二人は神のもとで一体となることによってさらに神に近づくことができる、そのようにして神が結び合わされたものを人は離してはならない、というものです。神が人をご自身にかたどって造られたとは、人は神との対話の中で生きるものとされたということです。そして、男と女とが夫婦として結び合わされることによって、この神との対話はより豊かなものになる、というのが神の創造の目的です。その結びつきによって新たな人格が造り出されることになります。それゆえ、神は男と女とを創造されただけではなく、その結びつきである結婚も創造されたということになります。その結びつきは偶然のものではなくて、創造主なる神の意志の下にあるのです。それゆえ「実にこのことは信じられるべきことである」とさえ言われます。

わたしたちは常に神の創造の目的に従って人間というものを考え、また結婚について思いを巡らすべきです。人間の勝手な判断が人と人との関係のあり方を決定してはならないのです。それは社会の混乱の原因となります。今日の教会の務めの一つは、人々が神の創造の目的に従って人間を考え、家庭を考えることを回復するために仕えることです。

主日礼拝 2021.06.27

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞エフェソ5章30~33節(新約 p358)
讃美歌11  あめつちにまさる
祈祷
聖書マルコによる福音書10章1~12節
信仰告白使徒信条
讃美歌77  みかみはちからの
説教「神が合わせられたもの」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌334 いつわりのよに
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄540  みめぐみあふるる
祝祷
後奏

「真の命に至る道」

マルコによる福音書9章42~50節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは「小さい者」への愛をこれまで何度か説いてこられました。今日のテキストの冒頭でも、小さい者をつまずかせることに対する厳しい裁きの言葉を語っておられます。「つまずかせる」とはどういうことでしょうか。この語の本来の意味は、人の歩く道に石などを置いて歩く邪魔をする、妨害をすると言ったことです。これが信仰の世界において用いられると、自分の言葉や行いによって、信仰に生きる人の確信や主への信頼を揺るがして、主から切り離すことなどを指すことになります。意図的にあるいは無意識の内に、わたしたちはそのような言動をしてしまいがちです。それに対して主は今、それらの人は「海に投げ込まれる方がよい」と厳しい警告を発しておられます。なぜこれほど厳しい言葉が発せられるのでしょうか。

それは信仰に生きようとしている人たちは、次のような人たちだからです。「この兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(コリント一、8:11)。すなわちそれらの人々は御子の命が十字架に捧げられることによって、神のもとに取り戻された人たちなのです。そのように主の愛が注がれた人たちを、わたしたちは自分の軽率なあるいは悪意に満ちた言動によって主から切り離してはならないのです。そのことの重大さを示すために主は厳しい裁きを語っておられます。主はまたその言葉によって、つまずかせる人を滅ぼそうとしておられるのではなく、他者との間に生かし合う命の関係を築き上げるようにと促してもおられます。

さらに主は自分自身をつまずかせることについても語っておられます。自分の手や足や目が自分自身をつまずかせるというのは分かりにくいことですが、要するに自分の内面から生じてくるキリストへの背反や罪への誘いに気が付いた時は、それに勝利するための真剣な闘いを挑めということでしょう。肉体の病でしたら、病んでいる部分を切除することによって、健康が回復したり命が保たれたりすることがあります。その場合、切除の痛みに耐えなければなりません。それでは自分自身をキリストから切り離そうとする罪という霊的な病の場合はどうすればよいのでしょうか。それは比喩的に言われている手とか足とか目の実際の切除によってなされるものではなくて、真剣な祈りを伴いつつなされる敵対するものとの血を流すほどの闘いによって、それに打ち勝とうとすることです。そうすることによって人は「命にあずかる」すなわち真の命を得ることや、「神の国に入る」ことができるものとされます。戦わずしてわたしたちは御国の一員としてあり続けることはできないのです。

主は最後に「自分自身の内に塩を持ちなさい」と教えておられます。金属の鉱石が火によって精錬され、純度を高めていくように、わたしたちも試練や霊的な闘いを通して、邪悪なものや不信仰なものを取り除かれて、神の国の一員にふさわしいものとされて行きます。そのよう中で与えられるものが「塩」です。それは神からの賜物です。福音を聴くこと、それに従って生きることによって与えられたその塩味をわたしたちはきょうだいたちの信仰のために、彼らの慰めや励ましのために、さらに教会の形成のために用いることが求められています。そうすることは「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4:6)とのパウロの教訓に通じるものです。