主日礼拝 2021.05.16

奏楽十時やよい
招詞詩編84編11~13節  (旧約 p922)
讃美歌2  いざやともに
祈祷
聖書マルコによる福音書9章2~13節
信仰告白使徒信条
讃美歌71  つくりぬしよ
説教「山上での主イエスの輝き」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌168  イェスきみのみなに
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
祝祷
後奏

「命を救うことと失うこと」

マルコによる福音書8章34~9章1節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

先に8章34節を中心に御言葉を聞きましたが、35節以下のみ言葉にも耳を傾けてみましょう。主は、ここで命には二つのものがあると言っておられます。用語はどちらも同じですので、見分けがつきにくいかもしれませんが、前後の関係から区別ができます。その一つは、地上に属する命、生物学的な命です。わたしたちが普通に命と言っているものです。もう一つは、神の国に属する命、永遠の命です。主は今、この二つの命について語っておられます。
35節に「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」とあります。自分の力だけで自分の命を守ろうとする者、自分の益のためにのみ生きようとする者は、結局、「それを失う」、つまり神の国に属する命を手にし損ねるということです。その人の地上の命の終わりが、すべての終わりということになります。

一方地上の命を失っても天に属する命を得ることができるのは、「主のため、また福音のために命を失う者」です。その人たちは地上の命を失っても、命を救うことができる、即ち、天における新しい命を約束される者となるということです。それは具体的にはいかなる生き方を指しているのでしょうか。先に「自分の十字架を背負って主に從え」と主は命じられました。この生き方こそが、主が言われる「主のために自分の命を失う」生き方であり、それがすべての人が手にすべき本来の命を手にすることができる唯一の道であるということです。これは、人が勝手に考え出した命についての教えではなくて、主なる神が約束してくださっていることです。わたしたちはそれを信じます。

現実はどうでしょうか。36~37節の主の言葉を聞くときに、わたしたちの多くは自分の命を失う生き方をしているのだということを思わせられます。「全世界を手に入れる」とは、自分の力だけで自分の命を守り、地上のあらゆる良きもの、それは物であったり、金銭であったり、人からの賞賛であったりしますが、それらで身を固めれば安心だという生き方のことです。それはだれか特定の少数者のことではなく、わたしたちの多くが何らかの形でそのような生き方を志向していると言わざるを得ないものです。そして死ぬときにこの生き方は間違っていたことに気が付き、すべてを差し出して天における命を手に入れようとしても、その代価は高すぎて、手にすることはできないと主は語っておられます。天における命は、神から与えられるものですから、地上の富などで買い取ることはできないのです。詩編には次のように記されています。

49編9節「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」。

ここでの「魂」は、天における命と考えて良いものです。

天地が滅んでもなお続く命、たとえ死んでも新たに生きる命、これは非科学的ですが、しかし、主イエス・キリストの死からの蘇りによって、その存在が明らかにされました。自分を捨て、自分の十字架を背負って死に至られた主は、地上の命は失われましたが、神によって天における命を与えられました。その主がわたしたちに今、真の命に至る道を指し示してくださっているのです。わたしたちもこの道を歩むようにと招いておられます。何を失っても、キリストの中にのみ新しい命を見ることができる信仰が、いよいよ確かなものとなるように祈りつつ、この道を歩みを続けていきましょう。

「自分の十字架を負う」

マルコによる福音書8章34~9章1節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは、ご自身の受難と復活を予告された後、ご自身に従う者たちの覚悟をお教えになりました。それが、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」です。この語調から明らかにされることは、主が招いておられる新しい生き方は、強制されるものではなく、それぞれが神の前で、自分の自発的な決断によって選び取るべきものである、ということです。ここで主が人々に命じておられることは、「自分を捨てなさい」、「自分の十字架を背負いなさい」、そして「わたしに従いなさい」です。まとめますと、主に従うことが最終的な目的で、そのために二つのこと、即ち「自分を捨てよ」と、「自分の十字架を背負え」の二つが具体的に求められていることになります。この二つについてまず考えてみましょう。

「自分を捨てよ」と命じられています。別の表現をするならば、「自分自身を否みなさい」となります。これはどういうことでしょうか。それは自己放棄とか自己否定という言葉に言い換えられることもあります。これはもちろん自分の命を絶つということではありません。自己を捨てるとは、多くの人が持っている自己拡張の欲望を捨てて、自分を超えた存在のために自分を用いよ、ということです。したがって、自己否定を行う前に、肯定すべき何か大きなものとの出会いや発見があるということが前提となっています。その肯定すべきもの、そしてわたしたちに自分を捨てて従って来るようにと迫って来られるお方こそ、たった今ご自身の苦難と死を予告された主イエス・キリストです。その方の背後に自分を置き、その方に自分を賭け、その方のお心に従ってすべてを選び取っていく生き方、それが「自分を捨てる」ということです。それゆえ、自分を捨てることは決して消極的な生き方ではなくて、極めて積極的・意志的な生き方であることが分かります。

次に主が求めておられることは、「自分の十字架を背負え」です。主イエスにとって十字架を背負うことは、罪人の罪を担って十字架の上で死ぬことでした。その主が、従う者たちに「自分の十字架を背負え」と命じられるとき、それは従う者たちも十字架の上で死ねということなのでしょうか。究極的にはそのようなことまでもが含まれていることは、否定できません。しかしむしろ、ここでは死ぬことよりも生きることが命じられています。つまり、自分を捨てて主に從って生きようとするときに、自分自身の身に降りかかってくるさまざまな苦しみや困難や戦いから逃げようとせずにそれを受け止め、それらを耐え忍びながら主への服従を貫くことです。そのようにして、救い主を証しし、人々の救いのために仕えること、それが自分の十字架を背負うことです。

それはいつも何か特別なこととして起こるわけではありません。またすべての信仰者に等しい形と程度で起こるのでもありません。その人が置かれている状況の中で、日常的に、神の秤に従ってそれぞれに分け与えられるのです。各自の十字架の比較や評価は必要ではありません。それぞれにその人にふさわしい十字架を担わされる神は、同時にそれを担う力をも与えることによって支えてくださり、ご自身の器として用いられます。また主はその人の信仰が無くならないようにと祈りつつ、常にそばにいてくださるのです。

命を救うことと失うこと

主日礼拝 2021.05.09

奏楽古賀 洋子
招詞イザヤ書46章3~4節  (旧約 p1137)
讃美歌1  かみのちからを
祈祷
聖書マルコによる福音書8章34~9章1節
信仰告白使徒信条
讃美歌70  ちち みこ みたまの
説教「自分の十字架を負う」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
派遣と祝福
後奏

「主イエスの受難と復活の予告」

マルコによる福音書8章31~33節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

キリスト教は言葉の宗教と言われることがあります。この信仰に生きる者は自分たちの信仰内容を、明確な言葉で告白したり、証言したりすることが求められています。弟子たちは主からの問いに対して、ペトロが代表して明瞭な言葉で「あなたは、メシアです」と答えました。それはまさしく主イエス・キリストがどなたであられるかをふさわしく言い表したものです。主はそれに対して、そのことを誰にも話さないように命じられました。それだけでなく、ご自身が「メシア」であるとはどういうことなのかを弟子たちに明らかにされます。それが31節に記されている主の十字架の苦しみと死と死からの復活の予告です。これも明らかな言葉で述べられています。

ここで注目したいことは、「人の子は必ず……することになっている」との言葉遣いです。これは神の御計画の中で必ず起こるべきことを言い表したもので、「神的必然」と言われることもあります。主は、神がお定めになった十字架の死をご自身の身に受けるべきだとの覚悟を言い表しておられるのです。

それが意味していることが分からない弟子のペトロは、主をわきへお連れして主をいさめています。「そういうことを口にされてはなりません」と強い口調で述べたのでしょう。ペトロは直情径行の気質ゆえにすぐにそのように反応したとも評されます。しかしそれだけではなく、これはペトロの主に対する素朴な愛の表れとも見ることができます。自分の主であり師である方を死なせてはならないと、彼なりに主を守ろうとしているのです。人間味あふれるペトロの姿を見ることができるように思います。

しかし主はそれに対して、極めて厳しい言葉で対応されます。主の言葉は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」というものでした。今度は主がペトロをいさめておられます。ペトロに向かって「サタン」と呼びかけておられますが、これはペトロがサタンに変質してしまったということではありません。ペトロは今、神に敵対するサタンの攻撃を受けていることをご存じの主は、彼の中に侵入しているそのサタンを追い出そうとしておられるのです。ペトロの情熱や愛は良い、しかしそれが神の思いに従ったものではなく、神とは反対方向に導こうとするサタンに引きずられたものであるならば、それは退けなければならない、それが主の思いでした。主ご自身、十字架を避けさせようとしているサタンの攻撃を受けておられるからこそ、ペトロのこともよくお分かりなのです。

こうして主はペトロを叱ることによって、彼の内からサタンを追い払われました。それはペトロ自身を追い払っておられるのではありません。むしろ主は彼を正常な位置へと引き戻そうとしておられるのです。つまりペトロが主の前に立って主を導こうとするのではなく、主のあとに従う者としての位置に戻るようにと命じておられるのです。「あなたはメシア」と告白した主イエスのあとから従っていくことこそ、彼のなすべきことでした。彼は今新たに「わたしに従いなさい」との主の招きを受けているのです。わたしたちに対しても主は、いつもそうなさっておられるに違いありません。

主日礼拝 2021.05.02

奏楽十時やよい
招詞詩編91編14~16節  (旧約 p930)
讃美歌62  主イエスのみいつと
祈祷
聖書マルコによる福音書8章31~33節
信仰告白使徒信条
讃美歌321  わが主イエスよ
説教「主イエスの受難と復活の予告」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌257  じゅうじかのうえに
聖餐式
讃美歌205  わが主よ
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄545  ちちのみかみに
祝祷
後奏

「あなたは、メシア」

マルコによる福音書8章27~30節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

わたしたちは人生において多くの出会いを経験します。どのような出会いが与えられるかによって、人生が決定されると言ってもよいほどです。信仰においては、神が遣わされたひとり子イエスに、どのようなお方として出会うかが決定的に大事なことです。弟子たちはどうだったでしょうか。

主イエスは弟子たちと共にフィリポ・カイザリア地方に行かれ、そこで改めて彼らと向き合われます。そして二つの問いを投げかけられます。一つは、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」です。主の周りに集まってきている群衆が、主をどのように見ているかを問うておられます。それは、人々の評判を気にしておられるのではなく、彼らの主に対する認識が正しいかどうかを知ろうとしておられるのです。さらにその問いは、弟子たちに対する第二の問いの準備としての意味も持っているものです。弟子たちは、人々の主に対する評判を「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」、「預言者の一人」というようにありのままに報告しています。人々は、主イエスを偉大なお方として捉えていますし、旧約聖書との関係も踏まえていることが分かります。

しかし主は弟子たちのその返答に何も応答されずに、続いて第二の問いを投げかけられます。それは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いです。今度は弟子たち自身の主に対する受け止め方を問うておられるのです。これまで行動を共にし、主による教育と訓練を受けて来た弟子たちが、主に対する正しい認識を持つに至っているかを確認しておられるのです。彼らは今、霊的な視力が問われています。

弟子たちを代表してペトロが次のように答えました。「あなたは、メシアです」。主イエスこそ、神から遣わされた救い主(メシア、キリスト)と告白しています。これは言葉の上では正しい答えであるに違いありません。人々の理解とは奥行が違います。これは聖霊によって導かれた告白と言っても良いでしょう。次のように記されているとおりです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリント一、12:3)。

しかし、それに対して主は「そのとおりだ」とか、「それで十分だ」とは言っておられません。不思議なことに「自分のことをだれにも話さないように」との沈黙命令を出しておられるのです。これはどういう訳でしょうか。おそらく、弟子たちの告白は言葉の上では正しいけれども、「メシア」の真の内容についての理解がまだ不十分であることを主はご存じあられたのでしょう。世間には政治的メシアとか魔術的メシアといった理解がある中で、主がメシアであられるということはそうしたレベルのことではないことを、弟子たちは知らなければなりません。この後(8:31など)続いて語られる十字架と復活におけるメシアとして主イエスに出会うことが、弟子たちに必要なのです。

わたしたちも主によって、「あなたはわたしを何者だというのか」と常に問われています。主が求めておられる告白をなし続けるために、わたしたちは聖書の言葉と聖霊によって、繰り返し主イエスに出会うことが求められています。「主よ、わたしに正しい告白を与え続けてください」。

主日礼拝 2021.04.25

奏楽古賀 洋子
招詞ヨナ書2章7b~10節  (旧約 p1446)
讃美歌61  かがやくみとのよ
祈祷
聖書マルコによる福音書8章27~30節
信仰告白使徒信条
讃美歌68  ちちなるみかみに
説教「あなたは、メシア」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌216  あぁうるわしき
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄545  ちちのみかみに
祝祷
後奏

「真理に開かれる目」

マルコによる福音書8章22~26節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

本日のテキストである8章22~26節は、マルコによる福音書における重要な位置を占めています。それを意識しながら御言葉に耳を傾けましょう。

これは盲人の癒しの物語です。舞台はガリラヤ湖北岸のベトサイダです。主イエスの一行がそこに行かれたとき、人々が一人の盲人を主のもとに連れてきました。もちろん、見えない目を癒していただくためです。主はその盲人を人々から切り離して村の外に連れて行かれました。癒しの行為は見世物ではなく、また主の力を誇る場でもありません。一対一の関係の中で、癒される人が主と出会う場なのです。主はそういう状況を作り出しておられます。

この癒しの出来事が持っている特徴は、目が見えるようになる癒しが二段階で行われているということです。最初は主によって目に唾がつけられ、手が置かれると、少し見えるようになりました。盲人は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と言っています。おぼろげに人の姿が見えるようになりました。しかしそれではまだ完全に癒しがなされたことにはなりません。主がもう一度手を置かれると、今度は「何でもはっきり見えるように」なりました。癒しが完了したことになります。その人が見えるようになった目で最初にはっきり見たのは、主イエス・キリストでした。

ところでマルコ福音書は全体で16章から成っています。今日のテキスト部分は分量的にちょうど全体の中間に位置しており、これ以後、福音書は後半部分に入ります。内容的には、前半は主がなさったことが中心に記されてきました。それは神の子イエスがどのような意味で神からの方であるかを明らかにするものでした。これからの後半部分は、8章29節におけるペトロの「あなたは、メシアです」という告白から一気に主イエスの受難予告が3回繰り返されながら、主がいかなる意味でメシアであられるかが明らかにされて行きます。そういった意味で、今日の盲人の目の癒しが二段階でなされた癒しは象徴的です。それは弟子たちの信仰の成長の過程を示唆してるように思われます。

先の箇所で、弟子たちが主によって「まだ分からないのか。悟らないのか」ととがめられたことを聞きました。彼らはまだおぼろげにしか、主イエスがどなたであるかが分かっていませんでした。しかし、ペトロの信仰告白によっても明らかなように、主がメシアであられることが少しずつ認識されるようになっています。まだ十分ではありませんが、彼らの信仰は少しばかり主イエスに近づいています。そのように信仰は一気にすべてが理解される形で与えられるものではなくて、少しずつあるいは段階的に成長しながら、主が求められるものに近づいて行きます。盲人の癒しの物語はそのことを示唆しています。

わたしたちの信仰も同じです。わたしたちも主によって「まだ分からないのか」と言われる状態を続けながら、いろんなことをきっかけに次の段階に進むことができるものとされます。その間主は忍耐をもってわたしたちを捕え続け、導いてくださいます。盲人の目に主の手が置かれたように、わたしたちの心の目に聖霊が働きかけてくださって、わたしたちの信仰は少しずつ高みへと導かれていくのです。わたしたちの中に生じた信仰を、主は「キリスト・イエスの日までに」(フィリピ1:6)完成してくださるのです。

主日礼拝 2021.04.18

奏楽十時やよい
招詞箴言1章7節   (旧約 p990)
讃美歌58  かみよみまえに
祈祷
聖書マルコによる福音書8章.22~26節
信仰告白使徒信条
讃美歌67  よろずのもの
説教「真理に開かれる目」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌285  主よみてもて
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄545  ちちのみかみに
祝祷
後奏