主日礼拝 2021.10.

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞詩編110編1節 (旧約 p952)
讃美歌4  よろずのくにびと
祈祷
聖書マルコによる福音書12章35~37節
信仰告白使徒信条
讃美歌75  ものみなこぞりて
説教「イエスはダビデの子か」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌129  あがない主に
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄544  あまつみたみも
祝祷
後奏

「神への愛と人への愛」

マルコによる福音書12章28~34節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日のテキストでは一人の律法学者が主の前に現れています。この人は、これまでの多くの人たちのように主イエスに対して対立的ではなく、逆に真剣に何かを教わろうとしています。彼の問いは、数多くある神の掟の中で何が第一の掟でしょうかというものでした。彼はそれを知って、自分の生の基盤としたいと願っているのです。主は彼の思いを即座に感じ取られました。そしていつものように質問者に問い返すことはなさらずに、正面から答えられます。

主のお答えは、「第一のものは、イスラエルの唯一の主であられる神を、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛することである。そして第二のことは、隣人を自分のように愛することである」というものでした。つまり「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つが、同じ神からの一つの掟として示されています。それらは別々の二つではなくて、切り離しえない同じ一つの掟の表と裏という関係のものである、と言われています。神を愛するとは、全人格を傾けて、神を賛美し、礼拝し、神に祈り、御心に全幅の信頼を寄せて生きることです。また、隣人を愛するとは、抽象的なことや言葉だけのことではなく、自分自身を愛する時のように具体的で実践的な愛に生きることです。神への愛という水源から、人への愛という水流が生まれ出てくるのです。主イエスは、これこそが、唯一の神が人間に与えられた掟の中で中心的なものである、と教えられました。

それを聞いた律法学者はその教えに納得し、確信をもって受け入れています。彼の中でもやもやしていたものは今全く解消されて、生きることの目標と基盤がはっきりし、彼はこれから唯一の主なる神の僕として生きて行くことができるに違いありません。そのような律法学者を見て主は、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。そしてついには彼は、「あなたは神の国の一員である」と言われるまでに神に近づくことができる者となるに違いありません。彼の信仰を通して、神の愛が彼に流れ込むからです。今日、わたしたちが共に生きている人々の中にも、主イエスによって「あなたは神の国から遠くない」と言われるような人もいるかも知れません。わたしたちの目にはそれは分かりませんが、そのような人々が実際に神の国の一員とされる時が来るようにと祈り、共に生きることも、隣人への愛であることを思わせられます。

ところで、わたしたちは主が示された第一の掟と第二の掟に忠実に従って生きることができるのでしょうか。『ハイデルベルク信仰問答』の第5問答では、「それはできない。なぜならわたしたち人間の心は、生まれつき神と人とを憎む方向へと傾いているから」ときわめて明快で正直な指摘がなされています。ではどうしたら良いのでしょうか。それは主なる神が御子イエスにおいて示してくださり、わたしたちに与えてくださったあの愛に触れ続ける以外にありません。その時、生まれながらのわたしたちには不可能であった神への愛と人への愛が、少しずつわたしたちのものとされるでしょう。愛は神からの賜物です。したがってそれはまず与えられなければ、自分のものとはなりません。「愛を与えてください」と祈るわたしたちに、神はそれに応えてきっと一人ひとりにふさわしい愛を与えてくださるに違いありません。

主日礼拝 2021.10.17

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    栗林 聖子

奏楽
招詞申命記6章4~5節 (旧約 p291)
讃美歌6  われら主を
祈祷
聖書マルコによる福音書12章28~34節
信仰告白使徒信条
讃美歌344  とらえたまえ
説教「神への愛と人への愛」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌247  おりをはなれ
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄543  主イエスのめぐみよ
祝祷
後奏

「生きている者の神」

マルコによる福音書12章18~27節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスには様々な人が論争を仕掛けていますが、本日のテキストではサドカイ派の人々が現れています。彼らは復活を否定することで知られているグループです。彼らは本当に悩み苦しんで主に問いかけているのではありません。主の上げ足を取ろうとしている彼らの意図は明らかです。その問いは「ある女性が一人の男に嫁ぎ、子どもがいないまま夫が死んだ。このあと他の六人の兄弟にも次々嫁いだが、兄弟も子どもがないままに亡くなった。復活の時その女性は誰の妻となるのか」というものでした。実際にはほとんどありそうもない仮定の状況を設定して主を追い詰めようとしているのです。これは旧約聖書の「ある女性の夫が死に、子どもがいない場合は、女性はその兄弟に嫁がなければならない」(申命記25:5)と規定されていることに基づいての問いです。イスラエルはそのようにして、その家の血を絶やさないようにしてきました。

主はそれに対してまず「あなたたちは聖書も神の力も知らない」、それゆえ神に関して「思い違い」をしていると厳しく責めておられます。それは神のなさることを人間の合理的な思考の枠内に押しとどめているということです。聖書は正しく理解されなければ力とならないだけでなく、却って危険なものとなってしまいます。そこで主が彼らに教えられたことの第一は、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともない」ということでした。ここで注目すべきことは、主が死者の復活があることを前提として語っておられることです。主は今はご自身の復活についてではなくて、神に結びついて死んだ者たちの復活について語っておられます。さらに、復活のときには、地上の人間関係の継続や再現が起こるのではなくて、人は全く新しい存在に変えられるということをも明らかにしておられます。パウロは人には地上の体と天に属する体とがあることを述べています。天に属する体に移された者は、天使のように地上の存在を超えた新しい存在に変えられる、それゆえ、地上の人間関係の単なる継続はないということなのです。そのことはわたしたちにとってがっかりしたり安心したりようなことではなくて、復活の後のことに関してはもはや思い煩う必要はないとの平安へと導かれることです。

主はさらに神がモーセに言われた「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3:6)を引用されました。これは神が「わたしはかつてアブラハムの神であったが、今もアブラハムの神である」と言っておられることとして主は引用しておられます。つまり、アブラハムはかつて生きていたが、今も神の前で生きているということとして、主はこの神の自己宣言の言葉を解釈しておられます。それは言い換えれば、アブラハムは復活していると語られているのと同じことです。そのことから主は次の印象深い言葉をお語りになります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。これはわたしたちにどのように関わってくるのでしょうか。それはアブラハムの名を自分の名に置き換えて、神の自己宣言を理解してよいということです。主なる神は、わたしたちが生きているときにも、死んで新しい命に移されてからも、わたしたちの神であってくださるのです。それゆえわたしたちは死のあとのことについて何も思い煩う必要はないのです。

主日礼拝 2021.10.10

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞出エジプト記3章4~6節 (旧約 p96)
讃美歌1  かみのちからを
祈祷
聖書申命記25章5~6節  (旧約 p319)
マルコによる福音書12章18~27節
信仰告白使徒信条
讃美歌71  つくりぬしよ
説教「生きている者の神」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌77  みかみはちからの
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄544  あまつみたみも
祝祷
後奏

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」

マルコによる福音書12章13~17節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

この有名な言葉が主イエスの口から発せられたのは、神殿の境内においてでした。相手はファリサイ派とヘロデ派の人たちです。彼らは主を何とかして陥れようとして、一つの問いかけをしました。それは、当時イスラエルを支配していたローマの皇帝に対して、税金を納めるべきか否かという問いでした。

その問いに隠されている罠とは何でしょうか。それは、もし主イエスがローマに税金を納めるべきだと答えたとしたら、偶像を崇拝するローマ帝国に従うことになり、それは偶像崇拝を禁じる律法に違反することになる、ということで主を訴えることができると彼らは考えています。一方、税金を納めるべきではないと答えたとしたら、それはローマ帝国に抵抗したり反抗したりする態度ということで、主を当局に訴えることができるというものです。いずれの答えが出されたとしても、彼らは主を窮地に追いやることができると考えているのです。この問いは彼らの真剣な悩みから出たものではありませんでした。

主はその罠を初めから見抜いておられます。それで次のように応じられました。まず、納税のために用いるデナリオン銀貨を持って来るように命じられました。それにはローマ皇帝の像が刻まれています。人々はこれを用いてローマに税を納めます。次に主は「これはだれの肖像と銘か」と尋ねられました。彼らの答えははっきりしていて「皇帝のもの」と答えました。その銀貨には、皇帝の肖像と銘が刻まれていました。主は彼らの答えに対して「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われました。つまりそれは単純に、当時の社会制度としての納税には従えと言われただけです。皇帝礼拝とか皇帝への尊崇の念を持てとまでは決して言っておられません。果たすべき社会制度における義務のレベルで語っておられます。律法違反に結びつくものはありません。

続いて主は「神のものは神に返しなさい」と言われました。これはどういうことでしょうか。神の像とも言うべきものは何に刻まれているのでしょうか。それに関してわたしたちが思い出すべきは、創世記1章27節の言葉です。そこにはこう記されています。「神はご自分にかたどって人を創造された」。この「神にかたどって造られている」ということを<神の像>と言います。つまり、神の像は人に刻まれているのです。ということは人は他の被造物とは異なって、特別に神と対話できるもの、神と心を交わすことができるもの、神のものとして造られたということです。人には神の命の息も吹き込まれました(創世記2:7)。そのような人間は、自分自身を神に返さなければなりません。つまり、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ12:30)という生き方に徹することが、自分自身を神に返すことです。そのことまで彼らが理解することができたかは不明ですが、彼らはそれ以上主に対して何もすることができませんでした。

わたしたち人間における本来の<神の像>はわたしたちの罪によって歪んでしまいました。しかし主イエスの贖いによってそれは回復されたのです。わたしたちは再び神のものとされました。洗礼はそのしるしです。それゆえ、わたしたちは、主によって贖われたものとして、神の栄光を表すために生きることができるのです。

主日礼拝 2021.10.03

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞詩編8編5~7節 (旧約 p840)
讃美歌1  かみのちからを
祈祷
聖書創世記1章26~27節  (旧約 p2)、マルコによる福音書12章13-17節
信仰告白使徒信条
讃美歌70  ちち、みこ、みたまの
説教「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌168  イェスきみのみなに
聖餐式
讃美歌206  主のきよきつくえより
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄544  あまつみたみも
祝祷
後奏

「捨てられた石と隅の親石」

マルコによる福音書12章1~12節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは多くのたとえを語られましたが、今日のたとえ話はその中でも最も激しいものであると言って良いかも知れません。聞き手の「彼ら」とは、主イエスに権威の問題を問いかけた祭司長たちです(27)。ということは主はこのたとえによって彼らに厳しく迫っておられる、ということなのです。

このたとえは寓喩と呼ばれるもので、たとえに登場する事物が、現実の事物にそれぞれ対応するものとして語られています。まず「ある人」あるいは「ぶどう園の主人」は神を意味しています。そしてぶどう園はイスラエルの民のことです。イザヤ書5章7節に「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々」と記されているとおりです。またそのぶどう園を主人によって任せられる農夫たちは、イスラエルの指導者たち、そして主人から収穫を得るために遣わされる僕たちは、主の預言者たちです。

主人は旅に出て、旅先からぶどうの収穫を求めるために僕たちを送りました。しかし農夫たちはその僕たちを次々に殺してしまったのです。ここでの収穫とは、イスラエルの人々が悔い改めて神のもとに立ち帰ったとの喜ばしい報告のことでした。しかし、それを聞くことができなかったことは、旧約時代の人々が神への信仰に生きることを拒否し続けたということです。主人は最後に愛する息子を送ります。この息子がイエス・キリストを指しているとしたら(そうなのですが)、ここから先は預言的なものとなります。これから御子イエスを巡って起ころうとしていることが告げられているのです。農夫たちはこの息子も殺してしまいます。それゆえこの場合の農夫とは新約時代の権威者たちのことになります。こうしてぶどう園を自分たちのものとしようとする旧新約時代の人々の姿は、神なしに生きようとしている人間の姿を表しています。しかし主人はそれを見逃すことをせず、彼らの罪に厳しい裁きを下します。彼らを殺してぶどう園を取り返すのです。これがたとえのあらすじです。

これは何を意味しているのでしょうか。たとえでは農夫たちに対する主人の厳しい仕打ちがなされていますが、実際に御子イエス・キリストにおいて起こったことを思う時に、神は御子を十字架にかけることによって、他の者たちに対する裁きを回避する道をお選びになったということが分かります。神は御子の命を犠牲にして罪ある者たちの救いを実現されるのです。そのことが旧約聖書の引用「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(詩編118:22)で言い表されています。イスラエルの人々によって不用なものとして捨てられたイエス・キリストを、神は人々の命の礎石として用いられます。そのことが主イエス・キリストの復活を通してこれから現実のこととなります。

神に対するイスラエルの反逆の歴史は、わたしたち人類の、いやわたしたち一人ひとりの歴史でもあります。イスラエルと同じようにわたしたちも本質的には、神を拒絶するものとして生きています。しかしそのようなわたしたち罪人の救いのために神は、ひとり子をこの世に送って、わたしたちの罪からの立ち帰りを促し、そしてついには御子の十字架と復活を通して開かれた新しい命の道へと召してくださいます。神は「イエスという親石の上にあなたの生を築き上げなさい」とすべての人に呼びかけておられます。

主日礼拝 2021.09.26

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞詩編118編22~23節 (旧約 p1194)
讃美歌68  ちちなるみかみに
祈祷
聖書マルコによる福音書12章1-12節
信仰告白使徒信条
讃美歌191  いともとうとき
説教「捨てられた石と隅のかしら石」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌234A  むかし主イエスの
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄543  主イエスのめぐみよ
祝祷
後奏

「主イエスの権威」

マルコによる福音書11章27~33節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスがエルサレム神殿を清める行動をなさった次の日、イスラエルの権威者たち、すなわち、祭司長、律法学者、長老たちが主イエスに対して、「何の権威で、このようなことをしているのか」と厳しく詰め寄っています。自分たちこそ、イスラエルの宗教とその中心である神殿に対して責任を持った者たちである、そうする権威を与えられているのは自分たちだとの自負の下で、主に対する抗議がなされています。自分たちを無視して、地方のナザレから来たイエスが神殿のあり方を厳しく批判し、それを改革しようとしている、それが何の権威によって行われているものなのかが全く分からないと考える彼らの憤りと焦りとがそこに現れています。

主イエスは、詰め寄る彼らに対して、逆に問いを投げかけておられます。主に問う者に逆に問い返す、それは主が時々用いられた方法です。それによって問題となっていることを深めようとしておられるのです。主の問いは、人々に悔い改めの洗礼を施す働きをし、既に殺された洗礼者ヨハネは、その働きを何の権威によって行ったのか、天(神)からの権威か、それともヨハネの勝手な人間的考えからなのか、と問いかけておられます。そのことがはっきり分かれば、主イエスが如何なるお方であるかも分かるはずだと主は考えておられます。

それに対して祭司長たちはどのように答えたでしょうか。彼らは考えました。もしヨハネの行動の背後に神がおられると言えば、彼らがヨハネを死に追いやったこととつじつまが合わなくなる。一方、ヨハネの働きは人間的なものであり、神とは関係がないと言ったら、ヨハネを神からの預言者として信じている群衆が反撃するかもしれない、と彼らは恐れました。そしてついに彼らは「分からない」と答えたのです。つまり、主の問いから逃げました、それによって彼ら自身が抱えていた問題からも逃げてしまったのです。それぞれの問いに正面から向き合って、主と共に考えることができたら、彼らは新しい世界へと一歩踏み出すことができたはずです。しかしそうはしなかった彼らは、真理への絶好の機会を逃してしまいました。主は彼らに対して、「それならわたしも答えない」と言われたのです。主は今彼らに奥深い真理を話しても無駄だと判断されたのでしょう。

「神の言葉を、最初から最後まで拒む人が多くいることは、キリスト者にとって茨やとげのようなものである」と嘆いている信仰の先達がいます。確かにそうです。しかし、それが悲しいかなわたしたちの世界の現実です。主イエスの言葉に触れる機会を与えられた人たちが、それまでに自分で作り上げてきた神観念とか救いとは何かという思いを、もう一度根底から問い直す機会とすることができれば、どんなに良いことであろうかと思わされます。「信じたい」という叫びであれ、「信じられない」といううめきであれ、それが主イエスに向かって真剣に投げかけられるならば、そこから主イエスとの対話が始まり、主の背後におられる、自分と向き合ってくださっている父なる神との出会いへと導かれていくに違いありません。主はすべての人に対して、権威者たちへのように「何も言うまい」と考えておられるのではなく、愛と真実に満ちた神の言葉を伝えたいと願っておられるのです。