「仕える者として生きる」

マルコによる福音書10章42~45節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

御国が完成した時には王位に着かれるはずの主イエスの右と左の座に自分たちを着かせてほしいと願う弟子ヤコブとヨハネの求めに対して、主は弟子たちが本来求めるべきことは何であるかを教えておられます。その中心にあるのは、「仕える者」として生きよ、ということです。

そのことを語られるにあたって、主はまず異邦人の生き方について触れておられます。異邦人とは、イスラエル民族以外の人々のことで、内容的には真の神を知らない人々ということになるでしょう。彼らは、畏れるものを知らないために、この世の力や財産を多く持つことによって人々の上に立ち、人々を支配しようとします。主の時代の異邦人はそのようでした。主は、弟子たちはそうであってはならないと言われます。

一方、主の弟子たち、また真の神を知らされた者たちの生き方は、内容的には、「皆に仕える者」、「すべての人の僕(しもべ)になること」として言い表されています。そのような生き方が可能となるのは何によってでしょうか。どこにその見本となるものを見出せばよいのでしょうか。それに対して主は、ご自身のことを明らかにされることによって、答えておられます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45)。「人の子」とは、主ご自身のことです。この言葉の中に、主がいかなるお方であられるかが端的に言い表されています。人は罪という悪しき力の捕らわれとなっている、そのような人間を解放するために、神の前にご自身の命を差し出して、その結果、神から罪人の命を買い戻してくださる、という主イエスによる救いのこと、さらには贖い(あがない)のことが語られています。わたしたちは、その主の身代金によって、神のものとして買い戻されました。それゆえ、主に従う者たちも、主に倣って人の命のために自分の身を差し出すのです。それが仕えるということの本質です。

さらに使徒パウロは、主イエスは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6~7)と告白しています。これは人となられた神の子イエスのヘリくだりを述べたものです。その主のへりくだりの姿の中にわたしたちのあるべき姿を見出して、わたしたちも自分のことに固執せずに、他者が真に生きる者となるために、また他者の命が神のもとに連れ帰されるために、自分自身の命と存在を投げ出して用いることが勧められています。そのような生き方こそが「仕える」ということであり、それは主イエスに倣うことによってわたしたちの内に始まるものです。

主は最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われた後に、次のように言われました。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:15)。弟子たちの生き方の基本は、このような主のへりくだりと仕える姿の中にあることが今示されました。彼らは天の主イエスの右と左の座を争うことから解放されて、他の人に向かわなければなりません。それはわたしたちにおいても同様です。