「医者を必要としているのは病人」

マルコによる福音書2章13~17節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

わたしたちは人生において多くのものを見ます。そこで何を見て取るかによってその人の価値が決まるとも言われます。主イエスは、人間の世界で何をご覧になるのでしょうか。

主は弟子たちと共にある所に向かっておられる途中で、収税所に一人座っているレビをご覧になりました。彼は徴税人でした。多くの人々は彼に関心を持ちませんし、もし彼を見つめるとしても、憎しみや侮蔑の眼差しであったことでしょう。なぜなら、多くの徴税人は人々から税を取り立てるとき、不正を行って私腹を肥やすことをしていたからです。彼らは人々の憎しみと排除の対象でした。レビはその徴税人の一人です。しかし主は人々とは異なっておられます。主は愛の眼差しをもってレビを見つめ、さらに「従ってきなさい」と招きの言葉さえかけておられるのです。

収税所にしか自分の居場所はないと思っていたレビは、あたかもその言葉を待っていたかのように、すぐに座っていた場所から立ち上がって、眼差しを向けてくださり、招きの声をかけてくださった主に従い始めるのです。主が慈しみの眼差しを向けてくださるとき、そこに何事かが起こります。レビにおいては過去との断絶と主への服従が起こっています。わたしたちにも、そのような主の眼差しによって新しい何かが始まることがあるに違いありません。

その後幾日か経って、レビは主イエスと弟子たちを自分の家の食事に招きました。そこには、主に従い始めた多くの徴税人や罪人たちもいました。罪人とは律法違反を犯していた人々や、指導者たちによって勝手に「罪ある人」とされた人々のことです。自分たちを正しいものと自負していたユダヤ人たちは、そうした人々と食事をすることはありませんでした。しかし主は罪人とされた人々を御言葉を語る大切な対象としてとらえて、彼らに積極的に近づいて行かれたのです。それによって彼らは悔い改めと主への服従に導かれました。

主の振る舞いをいぶかしく思う律法学者たちに、主は次のように言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。主は、自分自身を全く正しいと思っている人々や神の国は自分たちのものであると信じて疑わない人々よりも、それらの人々から閉め出されている徴税人や罪人として分類されている人々に、神の憐みを与えるために来たと言っておられるのです。神によってまず癒されるべき者、そして救いへと導かれる者は誰であるかを語られる主のこの言葉は、わたしたちにとって大きな慰めであり、希望です。

わたしたちもときに思い煩い、ときに自己否定や自己嫌悪に陥ることがあります。魂が病むのです。しかし、それは神から排除されていることのしるしではなく、逆に神によって「わたしのもとに来なさい」との招きを受けているときなのです。本来、主イエスという医者を必要としていない人は一人としていません。今日、特にコロナ禍の中で傷ついている人々が、主によって癒されることを願って誠実に仕えたいものです。

「罪を赦す権威」

マルコによる福音書2章1~12節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

中風の病を抱えた人の癒しの物語は、聖書の順序とは少し異なりますが、前回、病が癒されたことを中心にご一緒に考えました。今回は、罪の赦しに焦点を当てて、それと病の癒しとの関係がいかなるものであるかについて考えていきたいと思います。

このテキストを読みながら、もしかすると皆さんにいくつかの疑問が生じたかもしれません。その一つは、癒しを求めて来た人に対して、主はなぜ最初に癒しではなく、罪の赦しを告知されたのかということです。一般的に言って当時の人々は、病は罪の結果であるという考え方を持っていました。病の人自身はそのことで苦しみ、また病の人を見つめる周囲の人々の眼差しも、「この人は罪人である」といった冷たいものでした。それで主は、中風の人が抱え続けてきた罪責の思いを彼の中から取り除くために、赦しを先に告げられたのです。さらにそうすることによって、周りにいた人々(律法学者など)にも、肉体の病の癒しよりももっと根本的に癒されなければならないものがある、それは神との関係の破れという罪の問題である、ということを教えておられるのです。

次に多くの人がいだく疑問は、9節の「『あなたの罪は赦される』というのと、『起きて、床を担いで歩け』というのと、どちらが易しいか」という問いかけの答えはいかなるものかという疑問です。どちらが易しいのかについて主は明確な答えを出してはおられません。ある人は、罪の赦しを告げる方が易しいと考えます。なぜならそれは目に見える証拠は必要でないからです。言いっ放しでも良いからです。逆に病の癒しを告げる方が易しいと考える人がいます。なぜなら、罪の赦しは神の権限に属することであって、人はそれを口にすることすらできないことである、一方病の癒しは人にでもできることだし、そして実際に人の手によって病が癒されることがあるのだから、というのがその理由です。

主イエスのご意図はいかなるものだったでしょうか。このあと主が「人の子(イエス)が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(10)と言われたことなどから考えると、主は罪の赦しを告げることの方が難しい、と言おうとされたに違いありません。なぜならそれは神のみができることであり、人は赦しを与えられる側に属するものだからです。そしてそれが与えられるとき、たとえ病が癒されなくても、人は罪責の苦しみから解放されて生きていくことができるのです。それゆえ罪の赦しは、病の癒しよりももっと根源的なものとして人が求めなければならないことであると言えます。
主は、続いて中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じられました。すると中風の人はその言葉通りに行うことができました。主の癒しの言葉が現実となりました。それゆえ、先に言われた「あなたの罪は赦される」ということも、主の言葉であるゆえに現実に起こるということを主は示しておられます。私たちは、神との関係の破れであるあらゆる苦しみの根源にある罪という霊的な病の癒しを、まず何よりも求めるべきです。そしてそれは求める者に主が必ず与えてくださいます。 

「起き上がって、歩きなさい」

マルコによる福音書2章1~12節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

本日の中風の病を抱えた人の癒しの物語は、2回に分けて学ぶことにします。今日は中風の人が癒されたことを中心に、そして次回(8月16日)は、癒しと罪の赦しの関係についてです。ここには主イエスの権威についての大切な教えがあります。

場所はカファルナウムのある家の中です。主はそこで多くの人に対して御言葉を語っておられました。熱心に主の教えに耳を傾ける人々によって家の戸口までいっぱいで、文字通り立錐の余地もないほどの状況でした。そこに遅れてきた人々がいました。それは中風の人を床(担架みたいなもの)に載せて運んできた四人の男たちです。彼らは中風の友の癒しを願って主のもとにやってきています。自分たちでは癒すことの出来ない病ですが、主イエスならきっと治してくださるとの確信をもってやってきました。しかし、人壁のために中に入ることがてきませんでした。そこで彼らはどうしたでしょうか。

彼らはあきらめることをせず、<別の道>を探りました。それがこの家の屋根に上って穴を開け、そこから病人を床ごと吊り降ろすという一見乱暴な方法です。彼らには、主に癒していただくのは別の機会にしようとか、人が少なくなるまで待つという選択肢もありましたが、この時を逃してはならないという思いで、彼らは思い切った方法を選んだのです。その行為は、彼らの友人に対する深い愛と、主イエスに対するあつい信頼の表れです。

主イエスは、友人たちによって吊り降ろされた病の人を目の前にして、どうなさったでしょうか。彼らをとがめることはなさいませんでした。次のように記されています。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(5)。そのあと、主は律法学者たちと言葉のやり取りをなさった後、中風の人に向かって「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(11)と命じられました。中風の人は、命じられた通りのことをすることができました。彼は癒されたのです。

罪の赦しについては次回考えますが、要するに主は「彼らの信仰を見て」癒してくださったのです。「彼ら」とは誰でしょうか。四人の友人でしょうか。それとも中風の人も含めて五人の人たちのことでしょうか。宗教改革者カルヴァンは次のように言っています。「主は中風の人を運んできた人々を見ておられただけでなく、病の人の信仰をも見ておられた」。五人は主に対して同じ思いであったということでしょう。その思いがこの行動を生んでいます。

「癒された人の反応」

マルコによる福音書1章40~45節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

「重い皮膚病」を患うということは、その病からくる痛みや苦しさだけではなくて、汚れた者として社会的に隔離される苦しみも伴うものでした。日本においてもつい最近までそうでした。今、主イエスが一人でおられるところに、その病にかかった男の人が近づいて、「御心ならば、清めてください」と願い出ています。この病にかかった人は、このように人に近づくことを禁じられていました。むしろ「わたしは汚れたものです」と大きな声を出しながら、自分が他の人に近づかないだけでなく、他の人が自分に近づかないようにもしなければなりませんでした(レビ記13:45)。したがって彼が今主に近づいていることは、律法の規定に反した行為をしていることになります。彼は自分は恵みを受けるのにふさわしくない者と思いつつ、清められる恵みを受けなければ生きていけない者として、主に自分自身のすべてを投げ出しているのです。

それに対して主は、彼を厳しくとがめられたでしょうか。そうではありませんでした。彼が律法を犯してまでご自分に近づいてくるのに対して、主もご自分の手を伸ばして彼に触れ、「清くなれ」と言われました。主もまた律法を犯しておられるのです。その主の言葉によって重い皮膚病の人は癒されました。彼は死の状態から、新たな命の状態へと移されたのです。主イエスは、自ら手を差し伸べることによって、この病の人のすべてを受け止めておられます。彼のこれまでの苦しさを憐れに思い、その苦痛から彼を解放させようとして、主はそうなさいました。主の慈しみの深さ・大きさを示されます。

ここから明らかになることは、私たちの汚れや醜さは主から遠ざかる理由にはならない、ということです。むしろ、私たちは汚れているからこそ、罪に染んでいるからこそ、主に近づいて罪を赦され、汚れから清められる必要があるのです。重い皮膚病の人が、律法違反として厳しい裁きを受けても仕方がないと覚悟して大胆な行為をしたことが、彼の新しい命に結びつきました。私たちも、大胆に主に近づいてよいのです。

主は癒されたこの男の人に対して、次のように言われました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」(44節)と。どうしてでしょうか。主イエスは、人々が病の癒しという奇跡的なことばかりに目を向けて、神がイエス・キリストを通して求めておられる真の悔い改めをないがしろにすることを恐れておられるからです。奇跡的な癒しは、その段階でとどまってしまうのではなくて、それをなしてくださる神にまで目が向けられ、思いが向けられてこそ意味があります。しかし癒された人は、主の注意を守ることができず、多くの人々にこのことを告げたために、人々が押し寄せてきて、主は本来の務めを果たすことができなくなりました。この男の人は間違ったことをしたのでしょうか。癒された喜びを人々に告げることは自然な行為のように思われます。しかし、主が「だれにも話してはならない」と言われるのであるならば、それに従うことが、主の恵みに応えることなのです。自分の思いよりも神の思いを大切にすべきことをここでも教えられます。

「祈る主、宣教する主」

マルコによる福音書1章35〜39節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

「朝早い時間、それは教会の時である」と言った人がいます。それは朝早い時に主イエスが祈られ、朝早い時に主イエスがよみがえられたからです。私たちも神の前にあって生きる者として、朝早い時を何よりも祈りの時として用いたいものです。その祈りの質が、一日の生活の質を決めることになります。主イエスは今、「朝早くまだ暗いうちに」祈りを捧げておられました。それは、ユダヤ人がそうしていたように、主もまた朝早くから祈りの習慣を持っておられたことの表れでした。さらには、その前日の会堂でのことやシモンの家でのことを振り返りつつ、これからのご自身の在り方を神に問うための大切な祈りのひとときであった、とも言えるでしょう。

て選んでおられます。それはなにものにも妨げられないで神への祈りに集中するためです。私たちもまた、一日のひととき「人里離れた所」を心の内に持ち、神への祈りに集中したいものです。

また主が祈られた場所について「人里離れた所」と記されています。主は人々が多く集まってきたカフルナウムの町から離れた寂しい所を、祈りの場とし
 そのように祈っておられた主のもとに、弟子たちがやってきて次のように言っています。「みんなが(あなたを)捜しています」。弟子たちは前日多くの人々が主のもとに集まってきたことに興奮しています。そして今もそういう状態が続いているのでしょう。そのような時に主が姿を見えなくされるとはどういうことかとの思いをもって主に問うています。弟子たちは、せっかくのこの時を用いてさらに多くの<成果>を得たいと考えているに違いありません。

それに対して主は言われました。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでもわたしは宣教する」。主はカファルナウムから出て他のところでの宣教を告げておられます。この主イエスと弟子たちの考え方の違いは、どこから生まれてきたのでしょうか。それはひとことで言えば、「神の思い」と「人の思い」との違いであると言ってよいでしょう。主は、神への祈りによって御心を問われました。主はしばらくカファルナウムを離れることによって、人々が主がなされた奇跡的な癒しの業の中に隠されている神の救いの御意図を深く考えることを期待しておられます。それと同時に、主に与えられている地上の時間の中で、さらに多くの人々に対して御言葉の宣教の務めを果たすべきであることを御心として捉えておられます。一方弟子たちの考えは、多くの人々が集まってきていることを見ることによって生じている「人の思い」なのです。

主は次のようにも語っておられます。「そのためにわたしは出て来たのである」(38)。「出て来た」とはどこから出てこられたことなのでしょうか。シモンの家から出て来たこととも考えられますが、もっと深く考えれば「神のもとから出て来た」ということなのではないでしょうか。主はすべての人々に御言葉を宣べ伝えるために、神のもとから出てきて、私たちの世界に来てくださった方なのです。私たちも主に仕えるために、それぞれの古い所から主のもとに出て来た者たちであることを忘れないようにしましょう。

「癒し主でもあられるイエス・キリスト」

マルコによる福音書1章29〜34節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは安息日に会堂で教えられ、また汚れた霊にとりつかれた人を癒された後に、会堂を出てシモン・ペトロの家に向かわれました。そこではペトロの姑が熱を出して寝込んでいました。それを知らされた主は、早速彼女のそばに近寄り手を取って起こされると、彼女から熱が去り、健康を回復し、皆のもてなしをしました。この物語には考えるべきことが多く含まれています。

その一つは、ペトロと彼の家族との関係です。ペトロは主に従い始めることによって、仕事も家族も後に残して行ったはずです。ところが断ち切られたはずの彼の家も妻も彼のもとにまだあるのです。しかもペトロは主を、その古き世界に属するはずのところに連れてきています。これはいったいどういうことでしょうか。ここで推測を許されるならば、それはペトロが主に従い始めることによって、いったん断ち切られた古い関係、すなわち彼の家族との関係が、新しいものに造り変えられていったということです。ペトロと家族との関係をいったん断ち切った主が、今度は新しい関係を造り出してくださっているのです。ペトロは後日、妻を伴って伝道旅行に出かけています。信仰生活に入ることは、過去との断絶を伴いますが、しかし、主がそれを新しいものに造り変えてくださることを、ここで知ることができます。

もう一つ注目すべきことは、姑の癒しです。これは一見つつましい癒しの物語です。しかし大事なことが示唆されています。姑の病気の程度は分かりませんが、ルカによる福音書では、彼女は「高い熱に苦しんでいた」と記されています(4:38)。そのことはこの家にとっては重い課題であったに違いありません。それをご存じになられた主は、すぐに自ら姑に近づいて癒してくださいました。それによって彼女自身が苦しみから解放されただけではなく、家全体が平安に包まれることになりました。解決されなければならない課題や重荷を抱えている家庭に主イエス・キリストが迎え入れられるとき、そこに癒しと平安がもたらされることを、この物語は指し示しています。

癒された姑はその後どうしたでしょうか。彼女は主の一行をもてなす働きをしました。「もてなす」、すなわち「仕える」ことをしたのです。主が「仕える者になりなさい」と言われたときの言葉が用いられています。彼女は今まで病めるものとして家族に仕えられていましたが、今癒されたものとして「仕える」者に変えられました。これによって、私たちが仕える者となるためには、主によって癒されることが不可欠であるということを教えられます。主によって身も魂も癒され、慰められ、力を与えられた者は、他者に仕えることができるものとなります。癒されることによって、主に受け入れられている自分を発見した者は、今度は他の人を受け入れて、仕える者となることができるのです。

私たちは医者を必要としている病人です。赦され癒されなければならない罪人です。そのような私たちに主ご自身が近づいてきてくださって、御手を伸ばしてくださるとき、新しい自分が生まれるのです。

「汚れた霊よ、この人から出て行け」

マルコによる福音書1章21〜28節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは、四人の弟子を集められた後、安息日に会堂に入り、神の国について教え、また汚れた霊にとりつかれた人を癒されました。これらのことの中に、主イエスの業の中核にあるものが明らかに示されています。それは、弟子を集めること、教えをすること、そして癒すことです。これらが主イエスの業であることによって、主の後に続く教会も、これらが自分たちの大切な務めであることを認識しなければなりません。

会堂にいる人々は、初めて聞く主イエスの教えに非常に驚きました(22)。なぜでしょうか。その一つは、主の教えが律法学者のようでなかったことです。ただ律法の知識を形式的に語る学者からは、人々は感銘や慰めや希望を受け取ることができませんでした。一方、主イエスの教えには「権威」がありました。権威とは、この世的な権威をもって偉そうに語るということではありません。語られる言葉が、地上のことではなくて、初めて聞く神の国に関することであり、語られる言葉によって人々は、「それでは私たちはいったいどうしたらよいのか」と心が揺さぶられ、自分のこれからの生き方を問わざるを得なくさせられる力あるものだったのです。人々は、主の教えの中に新しい時代の到来と、新しい生き方への招きを強く感じ取ることができました。

さらに、主の言葉に権威があることが目に見える形で表される出来事が起こりました。それは「汚れた霊」にとりつかれている人が、主の一言の言葉によって癒された出来事です。主は大声を上げる男の中に、その人の力ではどうすることもできない霊が宿っていることを見抜かれました。今日の私たちには理解しにくい面がありますが、人の力では制御できない霊的なものによって人が捕らわれることはありうることでした。主はその霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」とお命じになりました。この人を会堂から追い出すのではなくて、この人にとりついている悪しき霊を追い出されるのです。その主の命令によって、とりついていた汚れた霊は男から出ていきました。それはこの人が発作を伴いながらでも、健常な状態に戻ったことによって知ることができます。

主イエスは、神の愛の対象とされている人間の心に宿るべきは、その人を苦しめ混乱させる悪しき霊や汚れた霊ではなく、神の霊であることを、このことによって示してくださっています。主は、悪しき霊が宿っていたこの人の心の座から悪しき霊を追い出し、その空いたところに神の霊を宿らせられたのです。主はこのように、私たちの心の中に神の霊を送り、その人を神の子にふさわしく造り変えてくださいます。このことは安息日の会堂で起こりました。ひとりの人の命の回復がもたらされたのです。それは最初にも触れましたが、今日の教会の主の日の礼拝においても起こりうることです。主が、痛める心を持った人にふさわしく関わってくださるならば、そこに命の癒しと回復が起こります。わたしたちの礼拝はその主の業を妨げるものではなく、それにお仕えするものでなければなりません。

「すぐに従った四人の男たち」

マルコによる福音書1章16〜20節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

していたシモン・ペトロとアンデレ、そして漁を終えたばかりで網を繕っていたヤコブとヨハネの二組の兄弟を、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」とお招きになりました。四人の漁師たちは、それぞれに主の招きの言葉を聞いて、主に従い始めたのです。彼らは仕事の道具である網や舟、そして家族までをそこに置いたまま、主の弟子となりました。

主イエスの宣教開始の言葉のすぐ後になされた最初の業は、弟子たちを集めることでした。舞台はガリラヤ湖の北岸のほとりです。主はガリラヤ湖で漁を
ここで目立つのは、主イエスの招きの唐突さ、さらにそれに応えた男たちの唐突さです。主イエスの側には、私たちにはよく分かりませんが、彼らを招く必然性があったに違いありません。男たちには、主の側にある必然性は見えていません。けれども彼らは主の言葉に「すぐに」従いました。マルコはこのことを描くことによって、私たちが主の招きに応える時の基本的な姿勢を明らかにしています。それは「すぐに」応えるということです。こうして主の業の敏速性、それに応えるべき私たち人間の敏速性を学ぶことができます。

この四人の漁師たちが後ろに残したものに目を向けるとき、なんと大それたことを彼らはしたのだろうかと考えさせられます。主の招きに応じる時、すべての人が同じようにしなければならないということではありません。しかし彼らの行動によって、主に従うときに起こる避けられない事柄が何であるかが、端的にここに示されています。それは神の召しに人が応じるとき、必ず何らかの中断、断絶、断念が生じるということです。それはいわば過去との決別です。ある人の言葉に次のようなものがあります。「人は二つの道を考えることはできるが、二つの道を行くことはできない」。一つを選び取るとき、いろんな悲しみや痛みが伴うかもしれません。また、決断をもって従い始めた者たちにも迷いや戸惑いが生じるかもしれません。しかし、主なる神は従う者たちにも、残されたものにも、ついには大いなる祝福をもって報いてくださるに違いないのです。私たちが従う神は、慈しみと憐みに富んでおられる方なのです。

この四人の漁師たちが主によって招かれたことの目的は何であったのでしょうか。それは彼らを「人間をとる漁師」にするためでした。彼らが魚をとる漁師であることになぞらえて、このような巧みな言葉が用いられています。漁師たちは、魚を自分たちのためにとります。とった魚は死にます。一方、人間をとる漁師は、「とった」人々を新たに生かすために、そして神のためにとります。人々を神の言葉によって新しい人とし、神の国の一員とするためです。それを神は喜んでくださるのです。

四人の男たちは従い始めたときには、主が言われることも、自分たちのなすべきことの意味もよくは分からなかったことでしょう。誰もが従い始める時には同じです。しかし従う中で、すべては明らかにされてくるのです。

「悔い改めて福音を信ぜよ」

マルコによる福音書1章14〜15節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

荒れ野で40日間を過ごされた主イエスは、その後、本格的な宣教活動に入られました。そのきっかけとなったと思われる一つのことが14節の初めに記されている「ヨハネが捕らえられた」という出来事です。洗礼者ヨハネは神の言葉を語ることによって王に捕らえられました。それを知られた主イエスは、いよいよご自分が神のために働く時が来たことをお知りになったのです。神の救いの歴史の舞台に主イエスが登場されます。

ここで、ヨハネが「捕らえられた」という事実をもう少し掘り下げて考えてみましょう。そのことは、神の言葉を語ることによって主イエスも捕えられるかもしれない可能性があるということを示しています。しかし、主イエスはそれを恐れずに人々の前に現れ、神による救いを伝える働きを始められます。主イエスを突き動かしているのはご自分の思いではなく、神の御心のみです。

主イエスの第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。最初の「時は満ち、神の国は近づいた」は事実の告知ですし、後半の「悔い改めて福音を信じなさい」は人々に対する招きと命令です。

「時が満ちる」とは神が定められた準備の時は終わり、神による救いの最終段階が主イエスとともに始まったということです。このことは、私たちにも起こります。準備の時、待つ時が終わり、決断し信じ始める時が必ず来ます。主イエスとの出会いが真に起こるその時が、決断の時、信じる時の始まりです。主イエス・キリストは、神の代理者として私たちの世界に来てくださいました。このイエス・キリストとの関係を結ぶことによって、神との関係の中に入ることができます。裏を返せば、主イエスを通してしか、神に至ることはできないのです。そういうお方として、父なる神は御子を送ってくださいました。主イエス・キリストとの現在の関係が、神との関係における将来を決定することになります。この時をわたしたちは逃してはなりません。

ではどうすればよいのでしょうか。主は言われます、「悔い改めて福音を信じなさい」と。悔い改めるとは、前回も考えましたが、「神に帰ること」です。神から遠ざかる方向に生きていた私たちが、向きを変えて、神の方に帰っていくこと、神のもとで生きようとすることです。それが悔い改めることです。そして福音を信じるとは、福音そのものであられる主イエス・キリストを信じるということです。主イエスのみが私たちの罪を赦し、新しい命を与え、私たちを神の子としてくださる唯一のお方であると信じることです。

悔い改めは、私たちが起こす行動というよりも、私たちを迎え入れようとしておられる神が私たちに送ってくださった賜物、贈り物です。誰もがその贈り物を主イエス・キリストを通して受け取ることができます。それゆえ、悔い改めよとは、厳しいおきて・戒めではなく、神が私たちのために開いてくださった本来の命への復帰の促しです。すべての人がその恵みに招かれています。教会はそのことを告げ広めていく務めを持っています。

「御心にかなう方の登場」

マルコによる福音書1章9〜13節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

マルコによる福音書の冒頭で、「神の子イエス・キリストの福音の初め」として紹介されたイエス・キリストが、9節に至って初めて登場されます。しかも、洗礼者ヨハネから洗礼を受ける方として登場されるのです。なぜ罪を犯されなかった主イエスが、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を受けられたのでしょうか。主イエスも、罪の赦しを必要とされたのでしょうか。そんなはずはありません。ヘブライ書(4:15)には、「このお方は罪は犯されなかった」とはっきり記されています。それではなぜ主はこの洗礼を受けられたのでしょうか。それは、主イエスが、罪人である私たち人間のところにまで身を低くして降りて来てくださり、罪人と同じ立場に立たれ、罪人と共に生きていこうとされる御意志の表れなのです。それは、主のヘリくだりであり、また私たち罪人との連帯・一致のしるしなのです。そのようにして、主は私たちに近づいてくださいました。そうであるならば、私たちも主に近づいて、洗礼を授けられて主と一つとされることが求められているのです。主が受けられた洗礼は、私たちに対する「あなたも洗礼を受けなさい」との招きでもあります。

主が洗礼を受けられた後、聖霊が主イエスの上に降るとともに、天からの声が聞こえました。それは父なる神の声です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」。これと似たことは、主イエスが山の上で姿を変えられた時にも聞こえてきました。その時には、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という言葉でした(ルカ9:35)。これらは何を意味しているのでしょうか。それは、父なる神は、ご自身のひとり子イエス・キリストに、地上においてなすべきすべての権限を委ねられたということでしょう。そして、神の御心を求める者は、主イエス・キリストに聞けばよい、神の思いはすべてイエス・キリストによって示される、ということです。私たちは、生きることについて、死ぬことについて、愛することについてなど人生の重い課題についてすべて御子に問えばよいのです。そうすれば、必ず御心は示されるということが約束されています。そして私たちも洗礼を受けるとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」という声を聴くことができるでしょう。

さて、主イエスは、洗礼を受けられた後、霊に導かれて、荒れ野に向かわれ、そこで悪しき力の誘惑を受けられました。これはどういうことなのでしょうか。それは、人は信仰に生きるものとなった後に本格的な誘惑に会い、また悪しき力との戦いが始まるということです。生き方の旗印を鮮明にすれば、それだけ周囲からの抵抗も戦いも激しさを増して来ます。しかし、大丈夫です。主イエスが聖霊によって守られ、神の天使たちによって守られていたように、私たちも同じです。神に従って生きていこうとしているものが、悪しき力と戦っているとき、神は決して見放すことなく、自ら手を伸ばして、その人を守り、共に戦ってくださるのです。預言者イザヤはそのような神のことを「主の手は短くはない」と言い表しています(イザヤ50:2)。