「すぐに従った四人の男たち」

マルコによる福音書1章16〜20節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

していたシモン・ペトロとアンデレ、そして漁を終えたばかりで網を繕っていたヤコブとヨハネの二組の兄弟を、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」とお招きになりました。四人の漁師たちは、それぞれに主の招きの言葉を聞いて、主に従い始めたのです。彼らは仕事の道具である網や舟、そして家族までをそこに置いたまま、主の弟子となりました。

主イエスの宣教開始の言葉のすぐ後になされた最初の業は、弟子たちを集めることでした。舞台はガリラヤ湖の北岸のほとりです。主はガリラヤ湖で漁を
ここで目立つのは、主イエスの招きの唐突さ、さらにそれに応えた男たちの唐突さです。主イエスの側には、私たちにはよく分かりませんが、彼らを招く必然性があったに違いありません。男たちには、主の側にある必然性は見えていません。けれども彼らは主の言葉に「すぐに」従いました。マルコはこのことを描くことによって、私たちが主の招きに応える時の基本的な姿勢を明らかにしています。それは「すぐに」応えるということです。こうして主の業の敏速性、それに応えるべき私たち人間の敏速性を学ぶことができます。

この四人の漁師たちが後ろに残したものに目を向けるとき、なんと大それたことを彼らはしたのだろうかと考えさせられます。主の招きに応じる時、すべての人が同じようにしなければならないということではありません。しかし彼らの行動によって、主に従うときに起こる避けられない事柄が何であるかが、端的にここに示されています。それは神の召しに人が応じるとき、必ず何らかの中断、断絶、断念が生じるということです。それはいわば過去との決別です。ある人の言葉に次のようなものがあります。「人は二つの道を考えることはできるが、二つの道を行くことはできない」。一つを選び取るとき、いろんな悲しみや痛みが伴うかもしれません。また、決断をもって従い始めた者たちにも迷いや戸惑いが生じるかもしれません。しかし、主なる神は従う者たちにも、残されたものにも、ついには大いなる祝福をもって報いてくださるに違いないのです。私たちが従う神は、慈しみと憐みに富んでおられる方なのです。

この四人の漁師たちが主によって招かれたことの目的は何であったのでしょうか。それは彼らを「人間をとる漁師」にするためでした。彼らが魚をとる漁師であることになぞらえて、このような巧みな言葉が用いられています。漁師たちは、魚を自分たちのためにとります。とった魚は死にます。一方、人間をとる漁師は、「とった」人々を新たに生かすために、そして神のためにとります。人々を神の言葉によって新しい人とし、神の国の一員とするためです。それを神は喜んでくださるのです。

四人の男たちは従い始めたときには、主が言われることも、自分たちのなすべきことの意味もよくは分からなかったことでしょう。誰もが従い始める時には同じです。しかし従う中で、すべては明らかにされてくるのです。