「御心にかなう方の登場」

マルコによる福音書1章9〜13節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

マルコによる福音書の冒頭で、「神の子イエス・キリストの福音の初め」として紹介されたイエス・キリストが、9節に至って初めて登場されます。しかも、洗礼者ヨハネから洗礼を受ける方として登場されるのです。なぜ罪を犯されなかった主イエスが、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を受けられたのでしょうか。主イエスも、罪の赦しを必要とされたのでしょうか。そんなはずはありません。ヘブライ書(4:15)には、「このお方は罪は犯されなかった」とはっきり記されています。それではなぜ主はこの洗礼を受けられたのでしょうか。それは、主イエスが、罪人である私たち人間のところにまで身を低くして降りて来てくださり、罪人と同じ立場に立たれ、罪人と共に生きていこうとされる御意志の表れなのです。それは、主のヘリくだりであり、また私たち罪人との連帯・一致のしるしなのです。そのようにして、主は私たちに近づいてくださいました。そうであるならば、私たちも主に近づいて、洗礼を授けられて主と一つとされることが求められているのです。主が受けられた洗礼は、私たちに対する「あなたも洗礼を受けなさい」との招きでもあります。

主が洗礼を受けられた後、聖霊が主イエスの上に降るとともに、天からの声が聞こえました。それは父なる神の声です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」。これと似たことは、主イエスが山の上で姿を変えられた時にも聞こえてきました。その時には、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という言葉でした(ルカ9:35)。これらは何を意味しているのでしょうか。それは、父なる神は、ご自身のひとり子イエス・キリストに、地上においてなすべきすべての権限を委ねられたということでしょう。そして、神の御心を求める者は、主イエス・キリストに聞けばよい、神の思いはすべてイエス・キリストによって示される、ということです。私たちは、生きることについて、死ぬことについて、愛することについてなど人生の重い課題についてすべて御子に問えばよいのです。そうすれば、必ず御心は示されるということが約束されています。そして私たちも洗礼を受けるとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」という声を聴くことができるでしょう。

さて、主イエスは、洗礼を受けられた後、霊に導かれて、荒れ野に向かわれ、そこで悪しき力の誘惑を受けられました。これはどういうことなのでしょうか。それは、人は信仰に生きるものとなった後に本格的な誘惑に会い、また悪しき力との戦いが始まるということです。生き方の旗印を鮮明にすれば、それだけ周囲からの抵抗も戦いも激しさを増して来ます。しかし、大丈夫です。主イエスが聖霊によって守られ、神の天使たちによって守られていたように、私たちも同じです。神に従って生きていこうとしているものが、悪しき力と戦っているとき、神は決して見放すことなく、自ら手を伸ばして、その人を守り、共に戦ってくださるのです。預言者イザヤはそのような神のことを「主の手は短くはない」と言い表しています(イザヤ50:2)。