「罪を赦す権威」

マルコによる福音書2章1~12節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

中風の病を抱えた人の癒しの物語は、聖書の順序とは少し異なりますが、前回、病が癒されたことを中心にご一緒に考えました。今回は、罪の赦しに焦点を当てて、それと病の癒しとの関係がいかなるものであるかについて考えていきたいと思います。

このテキストを読みながら、もしかすると皆さんにいくつかの疑問が生じたかもしれません。その一つは、癒しを求めて来た人に対して、主はなぜ最初に癒しではなく、罪の赦しを告知されたのかということです。一般的に言って当時の人々は、病は罪の結果であるという考え方を持っていました。病の人自身はそのことで苦しみ、また病の人を見つめる周囲の人々の眼差しも、「この人は罪人である」といった冷たいものでした。それで主は、中風の人が抱え続けてきた罪責の思いを彼の中から取り除くために、赦しを先に告げられたのです。さらにそうすることによって、周りにいた人々(律法学者など)にも、肉体の病の癒しよりももっと根本的に癒されなければならないものがある、それは神との関係の破れという罪の問題である、ということを教えておられるのです。

次に多くの人がいだく疑問は、9節の「『あなたの罪は赦される』というのと、『起きて、床を担いで歩け』というのと、どちらが易しいか」という問いかけの答えはいかなるものかという疑問です。どちらが易しいのかについて主は明確な答えを出してはおられません。ある人は、罪の赦しを告げる方が易しいと考えます。なぜならそれは目に見える証拠は必要でないからです。言いっ放しでも良いからです。逆に病の癒しを告げる方が易しいと考える人がいます。なぜなら、罪の赦しは神の権限に属することであって、人はそれを口にすることすらできないことである、一方病の癒しは人にでもできることだし、そして実際に人の手によって病が癒されることがあるのだから、というのがその理由です。

主イエスのご意図はいかなるものだったでしょうか。このあと主が「人の子(イエス)が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(10)と言われたことなどから考えると、主は罪の赦しを告げることの方が難しい、と言おうとされたに違いありません。なぜならそれは神のみができることであり、人は赦しを与えられる側に属するものだからです。そしてそれが与えられるとき、たとえ病が癒されなくても、人は罪責の苦しみから解放されて生きていくことができるのです。それゆえ罪の赦しは、病の癒しよりももっと根源的なものとして人が求めなければならないことであると言えます。
主は、続いて中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じられました。すると中風の人はその言葉通りに行うことができました。主の癒しの言葉が現実となりました。それゆえ、先に言われた「あなたの罪は赦される」ということも、主の言葉であるゆえに現実に起こるということを主は示しておられます。私たちは、神との関係の破れであるあらゆる苦しみの根源にある罪という霊的な病の癒しを、まず何よりも求めるべきです。そしてそれは求める者に主が必ず与えてくださいます。