「ゲツセマネでの主イエスの祈り」

マルコによる福音書14章32~42節(その1)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスの一行はゲツセマネの園に着きました。そして主はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて、さらに奥へと進んで行かれました。この三人の弟子はこれまでも主によって特別な場所へと伴われることがありました。一つは5章35節以下において、会堂長ヤイロの娘が死から命へと移される場面です。それは主イエスの神的力が表された出来事でした。また9章2節以下において、山の上で主のお姿が変貌する時にも、そこにいた弟子はこの三人だけでした。主は彼らに特別な訓練を与えておられるのです。これらは、一つは主が死を命に移されるお方であることの証人として、も一つは主が神との特別な交わりの中に生きておられることの証人として、彼らは目撃者の務めを与えられたものでした。それらはいずれも、御子イエスの≪神性≫(真の神であること)があらわにされた場面でした。しかし今回の祈りの場面では、主イエスは死を前にして恐れおののく姿を弟子たちの前で表しておられます。それは御子イエスの≪人性≫(真の人であること)があらわにされた場面でした。三人の弟子たちは人としてのイエスを目撃することを求められているのです。

こうして、わたしたちが『日本キリスト教会信仰の告白』の冒頭で、「神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人である」と告白していることの証人として、三人は用いられているのです。

主は今苦しんでおられます。何を苦しんでおられるのでしょうか。二つの点から考えることができます。一つは、主はご自身の死の意義を苦しみつつ問うておられるということです。敵対者たちは、主を何とかして十字架の死へと追いやろうとしています。その最終段階に来ています。できればそれを避けたいと考えておられます。一方、父なる神も御子イエスが十字架上で罪人に代わって死ぬことを求めておられます。神の決定には従わなければなりません。これら相反する力が、どちらもイエスを死へと追いやろうとしている、これは一体どういうことなのかと主は神に問うておられるのです。そのことが一つです。

他の一つは、主イエスは死を前にして、実際に死の苦しみと恐怖を体験しておられるということです。それを罪人との≪連帯≫と呼ぶ人もいます。宣教の初めに主は洗礼を受けられました。それも人間と共に歩もうとする連帯を表すものでした。そして今は、地上の最後の場面で死の苦しみを自ら味合うことにおいて、わたしたち人間と連帯してくださっています。わたしたちが死ぬとき、そこにも主が伴ってくださっていることのしるしがここにあります。

そのようにして苦しみつつ祈る主イエスは、最終的には「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、すべてのことを神にお委ねになりました。ご自分の思いをすべて神にぶちまけながら、最後には父なる神にすべてを委ねておられる御子の姿がそこにあります。神への絶対的な信頼に立って、御心のままに進んで行く決心を与えられた主は、「立て、行こう」と立ち上がられました。父なる神への真剣な祈りが、御子の決断と行動の源となっていることを教えられます。わたしたちもこのように御心を捉えて「行こう」という決断と行動が生まれるまで、徹底して神に祈ることが求められています。祈りは神との一対一の真剣な対話と対決の時です。

「ペトロの離反予告」

マルコによる福音書14章27~31節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスと弟子たちは過越の食事を終えた後、オリーブ山に向かいました(26)。そこにはゲツセマネという園があって、そこで祈るためでした。途中で主はいきなり「あなたがたはみなわたしにつまずく」と言われました。主の身にこれから起こる一連の出来事—逮捕、裁判、屈辱、十字架等―が、ますます主の弱さや貧しさや惨めさを際立たせることになる、そしてそれに対して弟子たちはもはや主イエスについて行けないとの思いを持って主から離れて行く、と予告しておられるのです。弟子たちの主に対する信頼と希望はこの後一気にしぼんでしまうということが、主によって告げられています。

しかも主は、それらのことは偶然のことではなく、旧約聖書にも預言されていたこととして、ゼカリヤ書13章7節の言葉を引用しておられます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」がそれです。主は、ご自分の死は神の救いの御計画の中にあることを示しておられるのです。

主の言葉に弟子たちはどのように反応したでしょうか。まずペトロが反応して、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いました。彼は、最後の晩餐の席で主が「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われたとき、「そんなことはいたしません」と言うことができませんでした。しかし今は、はっきりと汚名挽回とばかりに「自分は決して主を裏切らない」と断言しています。しかし主はそれに続いて、さらに具体的にペトロのこれからのつまずきや裏切りの行為を明らかにされます。「今夜、鶏が二度鳴く前に、ペトロは主イエスのことを、三度知らないという」とまで言われました。主は彼の心の内を見通しでした。けれどもペトロは今回は引き下がりません。続けてこう言います。「たとえ主とご一緒に死なねばならなくても、あなたのことを知らないなどとは決して口にしません」。ここまで言って大丈夫だろうかと思わせられるようなペトロの言葉です。

何とペトロの言葉は力強いことでしょうか。何とペトロは頼もしい弟子でしょうか。しかし同時に何と彼の言葉は軽いことでしょうか。彼は自分が口にしていることの意味が分かっているのでしょうか。確かに彼の言葉は、彼の真実の言葉、心から出てくるものであったのでしょう。しかしそれは自分の力の限界を知らない者の無謀な言葉でした。そのような言葉や力は、彼よりも少し強い者に出くわすと、もろくも崩れてしまうのです。わたしたちの弱さの中に、主の力が、そして主ご自身が入って来て下さらなければ、わたしたちはどのような力にも対抗することはできません。主の力がわたしを支えてくださるときにこそ、わたしは強い者とされます。パウロが語る「わたしは弱いときにこそ強い」(コリント二、12:10)との言葉は、主との関係の中での真理です。

主はこのようなつまずくことばかりの弟子たちを冷たく突き放されることはありません。主は「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(28)と言っておられます。そこで弟子たちの再結集が行われるのです。それは裏切る弟子たちへの主の赦しの宣言でもあります。彼らには再出発の時がもう備えられているのです。つまずき多いわたしたちに対しても主は、「礼拝で会おう」と繰り返し言ってくださっています。

「最後の晩餐と聖餐式」

マルコによる福音書14章22~26節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは過越の食事のさなかで、儀式的な食事の行為をなさいました。それは現在、わたしたちの教会が聖餐式として行っている式典の起源となったものです。この最初の式典に与っている者たちは、主イエスをいろんな意味で裏切る弟子たちです。だからこそ、彼らはこの式典の意味を正しく知り、今後それを守り続けることによって、繰り返し主のもとに帰らなければならないのです。そのことは今日のわたしたちにおいても同じです。

主はまず一つのパンを取り、そして賛美の祈りをささげられました。次にそれを裂き、弟子たち一人ひとりに分け与えられました。そのとき語られた言葉は、「取りなさい。これはわたしの体である」というものでした。今弟子たちの目の前で裂かれ、分け与えられているパンは、十字架上で切り裂かれる主イエスの体を表しているということです。それを手に取り、口にし、食するということは、主の死をわたしの罪の赦しのための死として信じるということです。さらに主ご自身の命を自分の体の中に取り入れることをも意味しています。しかもそれは主の死を一般的な教えとして理解するのでなく、この自分のための死として体ごと味合うことです。キリストによって生かされている自分であることを、パンを食することを通して知らされ、確信するのです。

使徒パウロは次のように述べています。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。

聖餐式のパンはわたしたちを繰り返し、その信仰に立ち帰らせるものです。

主は続いて赤いぶどう酒の入った杯を取ってこう言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。まず、「契約の血」ということについて考えてみましょう。旧約の時代、契約が交わされるときには小羊などが裂かれて血が流されました。それは、契約を交わすもの同士が命をかけた約束をしていることのしるしでした。主は十字架上で血を流されました。それは神からの罪の赦しと新しい命が人に与えられるために、御子の血が流されたということです。主イエスの血の代価が支払われることによって、神からの大いなる恵みが罪人のために引き出されたのです。したがってこの杯を口にするとき、わたしたちは主イエスの死を偲びつつ、わたしたちも命をかけて神の御心に従って生きようとの新たな誓いへと導かれます。パンと杯、体と血は、二つに分けて語られていますが、結局、根拠としているもの、目指しているものは同じであることが分かります。

主は「多くの人のために流されるわたしの血」とも言われました。それは主の血は、今まさに杯を口にしている者のために流されたものであると同時に、その人以外の他のすべての人々のためにも流された、ということを意味しています。パンが裂かれたことも同じ意味を持っていました。聖餐に与る者はまず、徹底して主の死を自分のためのものとして受け止めることが大切ですが、それに留まらず、次に立ち上がってこの恵みの食卓にさらに多くの人々が加えられることを願って、教会から遣わされる者とならなければなりません。パンと杯がわたしのところで止まってしまってはいけないのです。この食卓につくことは、すべての人に対する主の命令であり、招きなのです。

「ユダの裏切りの予告」

マルコによる福音書14章10~21節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

過越の食事は主イエスが弟子たちと共に囲まれる最後の食事です。弟子たちはまだそのことに気が付いていません。その席で主はいきなりこう言われました。「あなたがたの内の一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18)。それを聞いた弟子たちはそれぞれに「まさかわたしのことでは」と言っています。彼らの反応は「まさかわたしたちの中にそんな者がいるはずはありません」ではありませんでした。逆に、「それはもしかしたらわたしかもしれない」、という反応でした。

これはどういうことでしょうか。それは弟子たち皆が、主を裏切る者となるユダと同じような心を持っていたということを表しています。ユダの心は、先週も考えましたが、次のようなものでした。すなわち、ユダにとって主イエスは自分が持っているメシア(救い主)像から遠く離れたものであることが分かってきました。彼にとって主イエスは自分の命や存在をかけて従って行く価値のあるものではなくなっていたのです。つまり彼にとって不用なものとなりました。そのためユダは主に従う思いが失せて、少しでも自分の益になるために金と引き換えに、主を敵対者に引き渡す行為に走ったのです。

ユダは何を間違ったのでしょうか。それはユダはいつの間にか主の上に立つ者となって、主を裁いているということです。自分の判断が規準となっています。彼は主に「主よ、わたしはあなたのことが分からなくなりました。どうしたらよいのでしょうか」と問うべきでした。しかしそうはせずに、ユダは自分自身に「どうしようか」と問うています。そして自ら出した結論が、主を捨てるということでした。ユダが主を裁いているのです。他の弟子たちにもそれと同じような心があったに違いありません。それゆえに彼らの心は、主の言葉を聞いて騒いでいるのです。「心を痛めた」(19)のも、裏切られる主に対してではなくて、自分や仲間がもしかすると裏切る者となるかもしれないということに対してでした。彼らの心は主の悲しみから遠く離れた所にあります。

そのことはここにいるわたしたち自身にも当てはまります。わたしたちも「主よ、まさかわたしのことでは」と言いかねない者たちです。わたしたちも弟子たちと同じような弱さと不信仰とを抱え持った者たちです。ユダはわたしたちと関係のない人物ではありません。わたしたちはいつでも「ユダ」になり得るものであることを弁えていなければなりません。主に対して歪みそうなそうした心が正されるのが、主が備えてくださった聖晩餐においてです。

主が裏切る者について語られた「生まれなかった方が、その者のためによかった」(21)との言葉は、わたしたちの心を鋭くえぐります。しかしこれは呪いの言葉ではありません。主の苦しみと悲しみの中からのユダに対する悔い改めを促す言葉なのです。主はユダに「わたしのもとに帰って来い」と呼びかけておられます。ぎりぎりまで待たれる主の姿がそこにあります。けれどもユダはそれによって心を変えることはありませんでした。そのユダも過越の食事になお加えられていることは、なんという主イエスの憐みの大きさでしょうか。その憐みの中でわたしたちも生かされているのです。

「最後の晩餐の準備」

マルコによる福音書14章10~21節(その1)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ベタニアのシモンの家で一人の女性から香油を注がれることによって、主イエスはその内面においていよいよご自身の死に対する意識と覚悟を確かなものとされました。一方、主の死を確かなものとすることは、外的なことにおいても進んで行きました。それは十二弟子の一人であるイスカリオテのユダが、主に敵対する祭司長たちに主を引き渡す取引をしたことによってなされました。「引き渡す」という行為自体には善悪の要素はありません。しかし、誰を誰に引き渡すのか、何を誰に引き渡すのかによって、その行為の善悪が決定します。ユダの場合、自分の師であり主である方を金と交換で敵対者たちに引き渡すことによって、それは「裏切り」の行為となるのです。

なぜユダは主を裏切ることになったのでしょうか。いろんな説があるのですが、確たる理由や動機は福音書の記述の中に見出すことはできません。諸説のいずれも推測の域を出ないのです。むしろユダの裏切りの要因は主イエスの側にあると考えるべきではないでしょうか。それは、主が弟子たちや人々が望み、期待しているような救い主でないことがはっきりした、ということです。権威と力をもって支配する王の姿は主イエスの中には見られません。逆に人から仕えられるよりも、へりくだって僕(しもべ)のように人に仕えることを教え、自らそれを実践されるのが主イエスでした。それを見て来た弟子のユダは、主イエスによって裏切られたと思い、この方について行くことは無駄だと判断してしまったのです。ユダは主を見限ってしまいました。その結果、敵対者に手を貸す道に進んで行ったと考えられます。

他の弟子たちも同じような思いを持っていたかも知れませんが、行動に出たのはユダ一人だけでした。このユダ的なものはわたしたちの心の内にも巣くっているかも知れないと思わされます。わたしたちは、<わたしたちの内なるユダ>と常に戦っていかなければならないのです。

さて、主の死の時が近づく中で、主は次の日、エルサレムで弟子たちと共に過越の食事をとられます。そのために用意された場所で、弟子たちは食事の準備をしています。過越の食事は、イスラエルの民がエジプトを脱出するとき、小羊の血が家の鴨居に塗られることによって神の使いに打たれずに助かり、無事エジプトから逃れることができたことに由来するものです。主はご自身が十字架で小羊のように死に渡されることによって、人々が救われることになる神の御計画をご存じです。それが翌日起ころうとしています。

その死に先立って、主はこの食事において前もってご自身の死の意義を弟子たちに明らかにし、さらにそのことをこれからずっと記念するために、パンと杯を分かち合う式を執り行われたのでしょう。それが今日、教会が聖餐式として執り行っているものなのです。聖餐式は過越の食事にその一つの起源があることをわたしたちは心に刻み込みたいものです。この食事の主宰者は、わたしたちのために犠牲になられた主イエス・キリストです。主がわたしたちをこの食卓に招き、わたしたちに信仰の本質を指し示し、さらに信仰の軌道修正を図ろうとしておられます。誰もが洗礼を通してこの食卓に招かれています。この年、新たに食卓を囲む人が興されることを祈りましょう。

「福音の香り―主に香油を注いだ女」

マルコによる福音書14章1~9節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

終末に関する教えが終わって、エルサレムにおける主イエスを巡る出来事に福音書の記述は戻ります。14章の初めには、主イエスの死が差し迫ってくる中で起こった、良い香りを漂わせる一つの出来事が記されています。

時は「過越祭と除酵祭の二日前」(1)と記されていることから、主イエスのエルサレムでの最後の週の金曜日の二日前、即ち水曜日です。場所は、主イエスが宿を取っておられるマルタとマリアの姉妹の家があるベタニア村です。しかしこの出来事は彼女たちの家ではなくて、重い皮膚病が癒されたシモンという人の家で起こりました。主イエスの一行が食卓に着いておられたとき、一人の女性が予告なしにそこに入ってきていきなり、非常に高価なナルドの香油の入った壺を壊して、香油を主の頭に注ぎかけたのです。良い香りが部屋中に漂いました。その香油はお金に換算すると300デナリオン(5)と言われていますから、当時の労働者の一年分の賃金に相当します。

そばにいた人たちはこの常軌を逸した行為を見て憤慨し、「それを売ってお金に換えて、それを貧しい人々に施す方がよほど良い」と言い張りました。もっともな考え方かも知れません。しかし、主はそれとはまったく異なる反応を示されました。主は、「彼女はわたしに良いことをしてくれた」と言われます。なぜなら「貧しい人たちは、これからもあなた方の近くにいる。彼らへの奉仕の機会はたくさんある。しかしわたしは間もなく十字架にかけられて死ぬことになっている。そのわたしに彼女は今、彼女にできる最大の奉仕をしてくれたのだから」というのです。これはどういうことでしょうか。

イスラエルの国では、死者を墓に葬る場合、異臭や死臭を消すという目的で、死体に香油を塗る習慣があります。主イエスは二日後に十字架の上で死んで墓に葬られることになっています。それは主ご自身のみがご存じでした。そのように死んでいく主のために、この女性は前もって香油を注いで、葬りの備えをしてくれたのだ、と言っておられます。主はこの香油がご自分の頭に注がれることによって、いよいよご自分の死は神の定めとして避けられないことを自覚されたに違いありません。そういう意味で、彼女のこの行為は福音の前進に仕えることになったのです。彼女がそうしたことをはっきり意識していたかどうかは分かりません。しかし彼女は主のこれまでの言動によって、主の死が近いことを鋭く感じ取っていたことでしょう。そして今自分が主に対して行うことができることは何かを考えた時に、彼女の大切なものを主に差し上げるということに導かれたのです。それを主は高く評価されます。

わたしたちがこのことから教えられることは、どんなに小さなことでも、また他の人からどのように批判されることがあったとしても、「これが今、主イエスに対してわたしが行うことができるただ一つのことである」という真実の心をもって行うとき、主がそれを受け止めて、本人が考えている以上の意義をそれに与えてくださり、それを福音宣教のために用いてくださるに違いないということです。それは次に続く人々の新しい行為を生み、そのようにして福音は展開されて行きます。「自分にできる限りのことを、今する」ということの尊さを、この女性の行為からわたしたちは教えられます。

「飼い葉桶の中の救い主」 (クリスマス礼拝説教) 

ルカによる福音書2章1-7節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日はクリスマス礼拝です。どのような状況で神のひとり子、救い主イエス・キリストがお生まれになったかを、聖書から聞き取りましょう。

イエスさまの父と母になることを天使から告げられたヨセフとマリアは、イスラエルの北の地方のガリラヤのナザレに住んでいた若い男女でした。そこはガリラヤ湖近くの小さな町です。ところが、イスラエルの国を支配していたローマの王からイスラエルの全国民に、自分の故郷で住民登録をせよとの命令が下されました。それは、この国に何人の人がいるか、戦争に行ける男子はどれくらいか、また税金を納めることができる者はどれくらいいるかなどを調べるためでした。ヨセフとマリアは、ヨセフの故郷であるベツレヘムで登録をしなければなりませんでした。マリアさんのおなかは大きくなってもうすぐ赤ちゃんが生まれる時期だったのですが、ヨセフさんはマリアさんを連れてベツレヘムまで行くことにしました。

ナザレからベツレヘムまで、どれくらいの距離があるのでしょうか。地図で見ますと直線距離にして100~120キロはあります。この前の日曜学校の説教では、佐賀から長崎までぐらいだと話されました。逆の方向に行くと、佐賀から北九州くらいまでです。真っすぐには行けず、くねくねと曲がった道を行くとしたら、一週間くらいはかかる道のりでした。マリアさんは多分ロバに乗って、ヨセフさんは歩いて行くことにしました。つらい旅であったに違いありません。

イエスさまのお誕生の前に、こういう辛い旅があったことを忘れてはなりませんね。イエスさまの誕生を祝うクリスマスは、明るさや楽しさだけがあったのではなく、大変つらいことも背後にはあったということを心に刻んでおきたいと思います。

大変なことは、長い旅だけではありませんでした。一週間ほど歩いたあとやっと着いたベツレヘムでも、大変なことがありました。その一つは、ヨセフさんとマリアさんがベツレヘムに着いたときには、住民登録のために帰って来ていた人々によってその町はあふれていて、泊まるための宿を見つけることができなかったことです。二人はとても不安だったに違いありません。このあと祝会で見るDVDでは、二人が何軒もの宿を訪ねる場面が出てきます。いくつも断られるのです。

そのことは、大人の人に特に考えてもらいたいのですが、イエスさまは今も何人もの心の扉をたたいて、ご自身が受け入れられることを求めておられるのに、ほとんど断られるという人間の状況を示唆しているということです。他のことでいっぱいなので、イエス・キリストどころではない、ということなのでしょう。それでよいのかを考えさせられます。

さて、二人はやっと泊まる場所を見つけることができました。しかしそれは宿の暖かい部屋ではなくて、家畜小屋(馬小屋)でした。そこしか空いていなかったのです。そこで次の大変なことが生じます。それは家畜小屋に泊まっているその夜にマリアさんは、赤ちゃん、つまりイエスさまを産んだのです。

そこには温かい湯もありません。赤ちゃんをくるむ産着もありせん。赤ちゃんを寝かせる小さなベッドもありませんから、生まれたばかりのイエスさまは、家畜のえさを入れる飼い葉桶の中に寝かせられました。このように暗くて、寒くて、赤ちゃんのためのものが何もない家畜小屋でのイエスさまの誕生はとてもつらいことであったに違いありません。それでも赤ちゃんが無事に生まれたことを喜び合うマリアさんとヨセフさんの姿を想像すると、とてもいじらしく、けなげに思わされます。イエスさまの誕生はいろんなものが足りない中での誕生、貧しさの中での誕生でした。これも忘れてはなりません。

これらのことはとても不思議なことですが、なぜ神さまはひとり子イエスさまをこのような困難や貧しさの中で生まれさせられたのでしょうか。そのことを考える時に、イエスさまの誕生が、聖書に書いてあるのとは全く異なる状況であったらどうであっただろうかということを想像してみるのも良いかも知れません。イエスさまがもし、立派な宮殿(王様が住んでいる屋敷)や大病院で生まれたとしたら、羊飼いたちはそこに入ることができたでしょうか。外国の学者たちがそこに立ち入ることができたでしょうか。わたしたちも同じです。明るく輝く大きな屋敷の中で、立派なベッドに寝かせられているイエスさまを想像すると、わたしたちの足はすくんでしまいます。わたしたちは、イエスさまをわたしたちの身近な方として考えることはできないかも知れません。

しかし、実際はそうではありませんでした。イエスさまは家畜小屋で生れ、飼い葉桶の中に寝かせられたことを知るときに、わたしたちはイエスさまを、そして神さまをとても親しく、身近な方として感じるのです。わたしたちと同じ世界に住むためにイエスさまは来られたのだ、だからわたしたちは遠慮なくイエスさまに近づいて良いのだ、ということなのです。

また生まれた時から辛いことや苦しいことを味合われたイエスさまは、わたしたちのことを誰よりもよくわかってくださって、わたしたちに寄り添ってくださるのです。

わたしたちが苦しい時、悲しい時、つらい時に一番欲しいものは何でしょうか。それは自分のそばにいてくれる人、自分のことを分かってくれる人がいることです。馬小屋で生れたイエスさまは、わたしたちに対して、「わたしがいつもあなたのそばにいるよ」と言ってくださっているのです。そのようなイエスさまであることを教えるために、神さまは、わざわざひとり子イエスさまを小さな町ベツレヘムの貧しい馬小屋で生れるようにされたのです。

そのように考えると、ヨセフさんとマリアさんが王(政治的権力)の命令に振り回されているように見えるこの出来事は、実は、さらにその上に見えない神の力が働いていたことを教えられるのです。ベツレヘムでの救い主の誕生は、旧約聖書・ミカ書5章1節に預言されていることが実現したものでした。その預言が実現するために、神さまはヨセフとマリアをベツレヘムに行かせ、そこでイエスさまを生むようにされたのです。小さな町での出来事にも、神さまの御手が伸ばされていることが分かります。この世のことに振り回されるわたしたちですが、それらのさまざまなことの背後に、神さまの御心がどのように働いているのかを考えることは大切なことですね。そして神の御心が分かるとき、わたしたちは苦しいことの中にも平安や希望を見出すに違いありません。

イエスさまは、ヨセフさんたちが宿屋の扉を次々にたたき続けたように、今、わたしたちの心の扉をたたき続けておられます。「あなたの心の片隅にわたしを迎え入れてほしい」と呼びかけておられます。もしそうすることができれば、暗く冷たい馬小屋が明るく輝く部屋に変えられたように、わたしたちの心にも明かりがともされ、これまでとは違った生き方ができる者となるでしょう。

わたしたちがもし暗さや惨めさや醜さを抱えていたとしても、それをイエスさまは嫌われません。そこを目指して主イエスは近づいて行かれ、扉をたたかれるのです。「その暗さの中にわたしは宿りたいのだ」と主イエスは扉をたたかれます。そのノックの音が聞こえたら、わたしたちはすぐイエスさまを迎え入れるために、心の扉を開きましょう。クリスマスは、その決断が与えられる特別な日です。

「マリアへの御子イエスの誕生予告」    (待降節 説教)

ルカによる福音書1章26~38節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

クリスマスの出来事の中で目立つことは、マリアやヨセフの従順さです。今日はマリアの従順に目を向けてみましょう。彼女はまだ15~6歳の若い女性でした。ヨセフとはいいなづけの間柄でしたが、まだ一緒にはなっていませんでした。そのマリアのもとに天使ガブリエルが訪れて神の祝福の言葉を語ります。マリアは何のことか分からずに、戸惑い、恐れます。天使はさらに告げます。「マリア、恐れることはありません。あなたは男の子を産みます。その子の名をイエスと名付けなさい。その子はイスラエルを救うものとなります」と。これもまた、マリアにとっては受け入れることができないものでした。

彼女は言います、「どうしてそんなことがあり得るでしょうか。わたしはまだヨセフとは一緒に住んでいません」。彼女は、あり得ないと思えることを何の疑いもなく受け入れることはできなかったのです。そのようなマリアについて、ルターは「彼女は、人間らしい血の通ったおとめであった」と述べています。疑い深いというのではなくて、起こる事柄に対して素直だったのです。

そのようなマリアに天使は、さらに告げます。「あなたの胎内の子は、聖霊の神の力によるものです。それゆえ生まれる子は神の子と呼ばれます。神にできないことは何一つないのです」。その時、マリアは疑いを捨てて、神の前から逃れることもせず、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、神にすべてをお委ねする神への素直さを表しました。神の名が彼女の耳に響くことによって、彼女の心は神に向けて変えられたのです。彼女は人間らしい女性であったと同時に、神を心から畏れ敬う信仰深いおとめでもありました。彼女の従順が、御子イエスの人としての誕生につながりました。

このマリアをわたしたちはどのように考えるべきでしょうか。カトリック教会のようにマリアを聖母として礼拝することはしません。しかし彼女に倣うことはあっても良いのではないでしょうか。「お言葉どおり、この身に成りますように」と一切を神に委ねた彼女の従順と素直さとひたむきさは、信仰に生きる者にとって欠かせないものです。これをわたしたちも自分のものとしたいのです。彼女は天使が告げる神の定めを、命令としてではなく、また律法としてではなく、新たな生き方への招きとして捉えたのです。

わたしたちにも時折、理不尽と思われる神の御心が示されたり、あり得ないとしか思えない道が神によって示されたりすることがあるかも知れません。その時、それを神からの招きとして捉え、自分の思いや力を超えて、「お言葉どおり、この身に成りますように」との応答ができるものでありたいと願います。マリアは、神から務めが与えられたことを、賛歌の中で、「あなたはこのはしためにも目を留めてくださいました」(48)と歌っています。務めが与えられることは、神が目を留めてくださっているからです。今日の世界で必要なことは、すべての人間が「主なる神よ、お言葉どおりこの身に成りますように」とのへりくだりと従順の祈りを回復することです。クリスマスを毎年祝うのは、人間中心の世界ではなく、神中心の世界を回復するためなのです。クリスマスの只中にヘリくだりの神が立っておられます。

「目を覚ましていなさい」

マルコによる福音書13章28~37節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

小黙示録と言われるマルコによる福音書13章の最後の部分には、二つの短い譬えが語られています。その一つは、28~30節で、「いちじくの木のたとえ」と呼ばれています。いちじくの木は落葉樹ですので、その葉の茂り方や枯れ方、そして落葉などによって、季節の移ろいを感じ取ることができます。例えば枝が柔らかくなり芽を出し葉が伸び始めると、夏が近づいてきたことが分かります。葉の変化が時のしるしとなるのです。それとよく似て、これまでに主が述べられてきたさまざまな天変地異、戦争、偽メシアの登場などが起こったときには、「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(29)と言われています。すなわち、再臨の主がこの世界に来られる時が近いと悟りなさい、ということです。わたしたちが生きている今の時代は、まさしくそのようなことが繰り返し起こっている時代です。ということは、主の再臨が明日にでも起こるとの緊張感をもって生きることがわたしたちに求められているということでしょう。わたしたちの感覚で「神の時」を推し量ることはできません。しかし時は縮まっているとの意識をもって主に従って生きることが大事です。

終わりの時「天地は滅びる」、しかし「主の言葉は決して滅びない」と言われています(31)。終わりが来た時、神の手によって造られたものは全くその様相を新たにする、ということです。それがどのような事象となるのかは、わたしたちは想像することはできません。ただ滅びゆく「天地」の中にわたしたち人間も含まれていることは確かです。しかし、そのような人間が滅びゆくことのない主の言葉に結びつくとき、滅びることなく、新しい存在へと変えられるのです。新しくされるとは、主の言葉が約束している罪の赦しや新しい命が付与されること、また神の国の一員とされることが実現することなどです。主が生きておられるからこそ、その約束も現実のこととなります。

もう一つの譬えに目を向けてみましょう。それは主人が僕(しもべ)たちに仕事を任せてしばらく旅に出るというものです。僕たちは、主人がいつ帰って来るかが告げられていないために、いつ主人が帰って来ても良いように、自分たちに任せられた務めに励み、成果を主人に差し出すことが求められます。その時のあり方が、「目を覚ましていなさい」という言葉で言い表されています。それは、主人がいないからということで怠慢に陥ることなく、主人が目の前にいるかのように誠実に務めに励むことを意味します。そうした生き方を日々していれば、主人がいつ帰って来ても僕たちは慌てることはないのです。

それは今日のわたしたちにもそのまま当てはまります。教会も「目を覚ましていなさい」と呼びかけられています。それはどうすることでしょうか。今は<教会の時>と言われます。つまり、主が天に昇られてから終わりの時までの間は、教会がこの世に「滅びることのない主の言葉」を宣べ伝えることによって、この世を終末に備えさせなければならない時ということです。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16:15)。「それから、終わりが来る」(マタイ24:14)のです。宣教こそが「目を覚ましている」ことの端的な姿です。それによって、神によって造られた人々が、滅び行くことがないものとされることに仕えることができるのです。

「大きな苦難の予告」

マルコによる福音書13章14~27節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

黙示書を学ぶ上で大切なことが二つあります。その一つは、主イエスが終わりの時のことを教えておられた当時の人々は、終末がすぐにでも来るという緊迫した思いでこれに耳を傾けていたということです。それだけに、彼らは聞くことに真剣でした。二つ目のことは、今日のわたしたちにとっては、「いつ」、「どんなふうに」その時がくるのかに関心を持つことよりも、その時が必ず来るとの思いの中で、それに備えるために今の時をどのように生きることが神の御心に適っているかを、真剣に問いつつ生きることです。

さて14~23節には、特別な事態が生じた時のことが記されています。そこで言及されている「憎むべき破壊者」とは、紀元前170年頃にエルサレムに侵入してユダヤ人たちに異教の神を拝むように強制したシリアの王アンティオコス・エピファネスのことです。それはユダヤ人にとってはとてもつらい厳しい出来事でした。主はその恐るべき歴史的事件を思い起こさせながら、これから先も同じ事が起こりうると予告しておられます。そのときには「戦え」と主は信仰者に命じておられません。むしろ「逃げよ」と命じておられます。なぜなのでしょうか。それは組織的・国家的な巨大な敵の力と戦うよりも、それから逃げることによって、とりあえず信仰を守れということなのです。主は信仰者の弱さや限界をご存じです。それを超えて戦えとは言われないのです。

さらに大切なことは、主ご自身がわたしたちに代わって戦ってくださるとの約束がここにあるということです。「この戦いをわたしに任せよ」、と主は言ってくださっています。この苦難が長引くことによって信仰から脱落するものが出ないように、主ご自身が戦ってくださって「その期間を縮めてくださる」のです。わたしたちはそれゆえに逃げながらでも、「祈りなさい」(18)と命じられています。信仰からの脱落者が出ないように、また教会と自分自身の信仰が守られるように祈らなければなりません。

わたしたちの国においてもかつて天皇への崇敬がすべての人々に求められ、キリスト教会もその圧力に屈することがありました。そのようなことが二度と起こらないとは誰も言えないのです。今日の教会は、国家に対する<見張りの務め>を果たしつつ、信じることの自由のために仕えなければなりません。

24節以下においては、「人の子」が登場します。主はダニエル書7章13節の「人の子」をそのまま用いて、ご自身の再臨の時のことについて語っておられます。そして主が再び来られた時には、「選ばれた人たち」(27)を神のもとに集めてくださると語られています。父なる神を信じる信仰者は、自分で神を選んだのではなくて、神によって選ばれた者たちです(ヨハネ15:16)。信仰の主体は神にあります。それゆえ神はご自身が選ばれた人々を、信仰のゆえの苦難や迫害において守り通してくださり、終わりの時にもれなくご自身のもとに呼び集めてくださいます。神の選びの力と愛は、わたしたちを神から引き離そうとする如何なる力よりもはるかに大きいのです。それがわたしたちの確信であり、平安の源です。その確信と平安のもとで日々を誠実に生きることが、終末に備えた生き方であると言ってよいでしょう。