「最後の晩餐と聖餐式」

マルコによる福音書14章22~26節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは過越の食事のさなかで、儀式的な食事の行為をなさいました。それは現在、わたしたちの教会が聖餐式として行っている式典の起源となったものです。この最初の式典に与っている者たちは、主イエスをいろんな意味で裏切る弟子たちです。だからこそ、彼らはこの式典の意味を正しく知り、今後それを守り続けることによって、繰り返し主のもとに帰らなければならないのです。そのことは今日のわたしたちにおいても同じです。

主はまず一つのパンを取り、そして賛美の祈りをささげられました。次にそれを裂き、弟子たち一人ひとりに分け与えられました。そのとき語られた言葉は、「取りなさい。これはわたしの体である」というものでした。今弟子たちの目の前で裂かれ、分け与えられているパンは、十字架上で切り裂かれる主イエスの体を表しているということです。それを手に取り、口にし、食するということは、主の死をわたしの罪の赦しのための死として信じるということです。さらに主ご自身の命を自分の体の中に取り入れることをも意味しています。しかもそれは主の死を一般的な教えとして理解するのでなく、この自分のための死として体ごと味合うことです。キリストによって生かされている自分であることを、パンを食することを通して知らされ、確信するのです。

使徒パウロは次のように述べています。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。

聖餐式のパンはわたしたちを繰り返し、その信仰に立ち帰らせるものです。

主は続いて赤いぶどう酒の入った杯を取ってこう言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。まず、「契約の血」ということについて考えてみましょう。旧約の時代、契約が交わされるときには小羊などが裂かれて血が流されました。それは、契約を交わすもの同士が命をかけた約束をしていることのしるしでした。主は十字架上で血を流されました。それは神からの罪の赦しと新しい命が人に与えられるために、御子の血が流されたということです。主イエスの血の代価が支払われることによって、神からの大いなる恵みが罪人のために引き出されたのです。したがってこの杯を口にするとき、わたしたちは主イエスの死を偲びつつ、わたしたちも命をかけて神の御心に従って生きようとの新たな誓いへと導かれます。パンと杯、体と血は、二つに分けて語られていますが、結局、根拠としているもの、目指しているものは同じであることが分かります。

主は「多くの人のために流されるわたしの血」とも言われました。それは主の血は、今まさに杯を口にしている者のために流されたものであると同時に、その人以外の他のすべての人々のためにも流された、ということを意味しています。パンが裂かれたことも同じ意味を持っていました。聖餐に与る者はまず、徹底して主の死を自分のためのものとして受け止めることが大切ですが、それに留まらず、次に立ち上がってこの恵みの食卓にさらに多くの人々が加えられることを願って、教会から遣わされる者とならなければなりません。パンと杯がわたしのところで止まってしまってはいけないのです。この食卓につくことは、すべての人に対する主の命令であり、招きなのです。