「主イエスの墓への葬り」

マルコによる福音書15章42-47節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

本日のテキストには、特別なかたちの葬りが記されています。その特別さとは、第一に十字架上で処刑された人の葬りであるということです。第二は、身内の者がだれ一人として連なっていない葬りであるということです。それは、わたしたちの救い主イエス・キリストの葬りです。主イエスは金曜日の朝9時頃に十字架につけられました(25)。そしてその日の午後3時頃に息を引き取られました(34、37)。安息日が始まる午後6時頃の日没まで残された時間はあまりありません。このまま放っておくと、安息日の一日は何もすることが出来ず、主イエスの遺体は一日中、十字架上でさらしものになったままです。十字架のもとにいた女性たちは、どうしたら良いのかわからないまま思い悩んでいたかも知れません。

そのときひとりの人が現れて、主イエスの遺体を十字架から降ろさせてほしいと総督ピラトに願い出たのです。その人はアリマタヤ出身のヨセフという人でした。彼について聖書は多くを語っていませんが、まとめてみると次のような人物像が浮かび上がってきます。彼はエルサレム議会の身分の高い議員であり(43)、金持ちでした(マタイ27:57)。またイエスを死刑にするという議会の判決に対しては、同意していませんでした(ルカ23:51)。彼は「神の国を待ち望んでいた」(43)のですが、その思いを勇気を出して主イエスに告白することが出来ないまま、主の死を迎えてしまいました。しかし、今彼は「勇気を出して」(43)、ピラトに主イエスの遺体を引き渡してほしいと願い出たのです。誰も考えなかったことが今起こっています。ピラトはヨセフの願い出を聞き入れ、主の遺体をヨセフに「下げ渡した」のです(45)。ヨセフは主の遺体を白い亜麻布で巻いて、「自分の新しい墓」(マタイ27:60)に納めました。十字架の主を見たあの百人隊長は「この人は神の子だった」との信仰へと導かれ、今は、ヨセフが主の遺体を引き取り、葬るという勇気を与えられました。

ある人はヨセフは勇気を出すのが遅すぎた、と言います。エルサレム議会での裁判の時にこそ彼は勇気を出すべきだったと言うのです。しかしそうすることが出来なかった彼を誰が責めることができるでしょうか。今こそ、勇気を出すべき時が彼に来たのです。主は彼の勇気によって墓に葬られました。使徒信条の「(死んで)葬られ」の背後にヨセフの勇気があったことをわたしたちは忘れてはなりません。わたしたちにもこの勇気が求められることがあるのです。主はこのように遅くしか立ち上がることが出来なかった者を、どのようにご覧になるのでしょうか。「遅い」と言って責められるでしょうか。そういうことはありません。主の前における決断に遅すぎることはないのです。「立ち上がれ」との御声が響いてきたその時こそ、その人にとっての主に従う時が来たのです。わたしたちにとっても「勇気を出す」機会はこれまでもあったでしょうし、きっとこれからもあるに違いありません。

主の遺体を納めた墓の前には二人の婦人がいました。マグダラのマリアとヨセの母マリアです。彼女たちは愛する主イエスを失った悲しみに包まれているのですが、同時に安息日が明けたらいち早くこの墓に来て、主の遺体に香料を塗ろうと考えていたのです。今彼女たちが行うことが出来るのは、それだけでした。しかしそうした絶望の中にある彼女たちでしたが、誰よりも先に主の復活の出来事に出会い、復活の証人とされたのです。主への愛に生きる者には、その人にふさわしい務めが主から与えられることを教えられます。

「わが神、なぜお見捨てになったのですか」

マルコによる福音書15章33-41節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

十字架上の主イエスは息を引き取られる前に、アラム語で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。そしてこの言葉は、詩編22編2節の句を主が口にされたものとして知られています。主はなぜ、神への絶望を表すようなこの句を発せられたのでしょうか。二通りの理解の仕方があります。

一つは、詩編22編は初めの部分こそ神から見捨てられたことによる神への絶望の叫びであるが、それが歌われていく中で、ついに神への感謝と賛美に変わっていくことに注目しようとするものです。そして主の十字架上のこの叫び声は、詩編22編全体を口にしようとされたものであって、神賛美こそが主の目的であった、という理解が生まれてきます。したがってこの場合、主の叫びは絶望や悲惨さよりも、希望の言葉として受け止めるべきものと考えられます。それが一つです。

他の理解の仕方は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という一句のみに注目するものです。神の子イエスはまさしく神から見捨てられた者のみが味わう絶望と恐れの中に叩き込まれて、そこからの叫び声を発しておられるのだ、ということです。すべての罪人の代表として、あるいはその身代わりとして神の前に立たれた御子イエスは、罪人が受けるべき神による裁きと断罪とをその身に受けておられるのです。主は「わたしは人から見捨てられた」とは言わずに、「神よ、なぜあなたはわたしをお見捨てになったのですか」と言っておられます。本来ならば、わたしたち罪人があげるべき叫びを、主はわたしたちに代わってあげておられるのです。なぜ御子イエスは、父なる神によってそのような扱いをお受けになったのでしょうか。それは罪人たちが、これと同じことを味わうことがないためです。御子がすべての罪人に代わってその悲惨さを身に受けられることによって、他の罪人の上に襲う絶望と悲惨を取り除いてくださっているのです。そのための十字架でした。そういう理解も成り立ちます。それゆえに主の十字架上の叫びはわたしたちに代わる叫びであり、それが救いの基となるのです。

そのことを示す一つの出来事が起こりました。それは異邦人の百人隊長が、十字架上の主を見つめることによって、次のような言葉を発したことです。「本当に、この人は神の子だった」(39)。これはいわば百人隊長の主イエスに対する信仰告白と言うべきものです。彼は、主イエスに起こった一連の出来事を見る中で、この信仰へと導かれて行きました。『讃美歌』(54年版)139番4節に次のように歌われています。「十字架のうえより/さしくるひかり/ふむべき道をば/照らしておしう」。百人隊長はまさしく十字架によって、これからの歩むべき道を示されました。

わたしたちは、十字架の上で苦痛を味わわれて死へと向かわれた主イエスを見つめるとき、わたしたちが遭遇する如何なる苦痛の中にも主がいてくださって、わたしたちを助けてくださるとの確信と慰めを与えられます。ヘブライ人への手紙2章18節に次のように記されているとおりです。「事実、(主)御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。一見、恐ろしく慰めなどないように思われる十字架上の主イエスの姿は、わたしたちにとって大きな慰めと希望が満ち満ちている所でもあるのです。

「十字架につけられる主イエス」

マルコによる福音書15章16-32節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスの十字架による処刑の時がついに来ました。主はピラトの官邸から十字架の処刑場であるゴルゴタの丘まで、自ら十字架をかついで行かなければませんでした。主は肩に食い込む十字架の重みと痛みに耐えながら歩いて行かれます。その十字架の重さは、人間の罪の重さを表しているものであるのかも知れません。この十字架への道が後世に<ヴィア・ドロロサ>=「悲しみの道」と呼ばれるようになりました。その途中で、兵士たちは主イエスの十字架を他者に担がせました。その人は、主とは直接何の関係もない北アフリカのキレネ人シモンという人でした。彼はもともとユダヤ人で、何らかの理由でキレネに移住していたのでしょう。彼はユダヤの大きな祭りである過越祭に参加するためにエルサレムにやって来て、たまたま十字架を担う主のそばを通りかかったときに、主に代わってその十字架を担う者とされたのです。それは彼にとっては屈辱的なことであったはずです。

しかしこのことはその時だけのこととして終わらずに、彼の人生の大きな転換点となりました。それは彼がこの後しばらくして、主イエスを信じる者になったということが起こったからです。聖書からそれが示されます。21節には彼の息子の「アレクサンドロとルフォス」の名が挙げられています。わざわざその名が挙げられているのは、マルコによる福音書が書かれた当時、この二人は既にキリスト者となっていて、多くのキリスト者仲間に知られていたことを示しています。またローマの信徒への手紙では、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく」(16章13節)とのパウロの言葉が記されています。ルフォスの母すなわちシモンの妻も、信仰者となっています。思いがけなく襲った苦難や災い、すなわち<強いられた十字架>は恵みに変わり、その人を主イエスとの出会いに導くことがあるということの典型的な例を、シモンに見ることが出来ます。

ゴルゴタの丘に着いた主は、すぐに十字架につけられました。死にゆく人のそばで賭け事をする兵士たちがいました。これは人間の醜悪さと鈍感さとを表しているものです。主の十字架には、「ユダヤ人の王」という罪状書きが打ち付けられています(26節)。それはもちろん主の死刑を最終的に判断した総督ピラトが、痛烈な皮肉を込めて書かせたものです。しかしこの侮蔑をこめた人間の業の中にも、神の真実は示されています。主イエスはまさしく、ユダヤ人の王であり、そして真の意味で世界の唯一の王であられます。わたしたちはそれを読みとることが出来ます。

十字架上の主に対してそばを通りかかった人や祭司長や律法学者、さらに主と共に十字架につけられている者たちがののしりの声を浴びせました。その内容の中心は「イエスよ、十字架から降りて自分を救ってみよ。そうすれば信じてやろう」というものです。しかし主は十字架から降りることはなさいませんでした。ご自身が十字架で死ぬことによって、罪人の罪が滅ぼされることを願って死に向かわれました。それによって主イエスのわたしたちに対する深い愛が示され、わたしたちの罪の赦しのための神への執り成しの業が成し遂げられました。次の言葉はわたしたちの胸を打ちます。「イエスが十字架から降りて来なかったので、わたしたちはイエスを救い主と信じるのだ」(救世軍の創設者ブース大将)。そうであるならばわたしたちも主に服従する中で担わなければならない自分の十字架を降ろさずに、それを担い続けることこそが信仰に生きることであることを教えられます。

「主イエスが受けた辱しめ」

マルコによる福音書15章16~32節(その1)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは敵対者たちによって捕らえられ、ユダヤの最高法院で死刑の判決を受けた後、死刑執行の最終的な決定権を持つ総督ピラトに引き渡されました。ピラトは恐らく最初は総督官邸の外で、主イエスに対する尋問を行い、人々にイエスとバラバのどちらを釈放するかを問うたりしました。そして結局ピラトは、主イエスの十字架刑を確定したのです。その後、主は官邸の中に引き入れられて、そこで十字架に処せられる準備がなされました。そのときの様子が、15章16~20節に描写されています。

官邸内にいる兵士たちは、ローマ兵たちです。彼らにとって何の被害を受けたこともなく、敵対関係にあったわけでもないにもかかわらず、憎しみをこめてさまざまな屈辱を主イエスに加えています。主を王に見立てて紫の服を着せたり、茨の冠をかぶらせたりしています。さらに肉体的な暴力を加え、唾をはきかけ、ひざまずいて拝んでいます。彼らはある人に言わせれば、「王さまごっこ」をしています。彼らは何の痛みも感じないまま主をなぶり者にしました。「聖書のこの部分を墨で黒々と塗りつぶしたくなる」と述べる人がいるくらい、心を痛める場面が描写されています。

しかし、わたしたちは目を見開いて、この現実を見なければなりません。それは一つにはわたしたち人間の愚かさや罪深さを知るためであり、またもう一つは主イエスがわたしたちのために、どれほどの屈辱を耐えられたかを知るためです。この惨めな主イエスの姿の中に、わたしたちはかえって、わたしたちの罪をその背に担って十字架の上での裁きを受けられた真の救い主を見ることが求められています。このように人間の過ちや愚かさから神の真理が輝き出ることがあるのです。そして主の身に起こったこのことはまた、イザヤ書の次の「主の僕」の預言が成就したことでもあることを教えられます。

50章6節「(わたしは)打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」。

50章7節「主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている、わたしが辱められることはない、と」。

そのときの主イエスの祈りが、ルカによる福音書23章34節に次のように記されています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。御自身の死を前にしてもなお罪人のために祈られる主イエスは、今は十字架の死の後、復活して、天に昇って、神の右におられ、罪人の悔い改めと赦しのために執り成しの祈りをささげ続けてくださっているに違いありません。この主イエスの祈りによって、わたしたちも支えられており、神のもとに留まり続けることが出来ています。

この主の愛にお応えする道は、生涯にわたってわたしたちが自分の十字架を背負って、主への服従に生きること以外にありません。そしてわたしたちの生涯を、主を嘲るのではなくて、主を賛美するものとして貫くことが出来るように祈りたいものです。

「ピラトによる尋問」

マルコによる福音書15章1~5節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ユダヤの最高法院は、主イエスを「死刑にすべきだと決議した」(64)のですが、主の身柄を総督ピラトに引き渡しています。それは最高法院で死刑の判決を下しても、それを執行する権限がなかったからです。最終的には総督ピラトの判決と許可が必要でした。ピラトは当時ユダヤの国を支配していたローマ帝国から遣わされた役人で、ユダヤにおける最高責任者でした。最高法院がピラトに主イエスの罪状として示したのが、「イエスはユダヤ人の王として自称している者」ということでした。そのためピラトは主に対して「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問しています。宗教的な事柄に関する罪状であったならば、彼はあまり関心を示さなかったかも知れません。しかしユダヤを治めることが最大の務めであるピラトにとって、政治的なことは無視することが出来ません。ユダヤに新しい王が現れて、ローマに抵抗するなどということが起これば、大変なことになります。そのためにピラトは、イエスがユダヤの王なのかどうかを第一に問うているのです。しかしその問いはなんとなく緊張感や危機感を伴っていないように感じられます。「このみすぼらしい男がユダヤの王であるはずがない。でも訴えられているので試しに尋ねてみよう」といった程度の嘲りや侮蔑の思いを込めた軽い問いであると言ってよいでしょう。

主はそれに対してどのように答えられたでしょうか。「それは、あなたが言っていることです」が主のお答えでした。これはどういう意味でしょうか。口語訳聖書では「そのとおりである」と訳されていましたので、主は問いかけに肯定的に答えておられると考えられます。しかし今わたしたちが用いている新共同訳聖書の訳はそれとは違って「それはあなたが言っていることです」と多少謎めいた訳になっています。これは少し分かりにくいものですが、問いに対しての否定的な意味合いの強い答えのように響きます。その場合は、人々が主イエスのことを、ローマに抵抗する王であるかのように吹聴している、そしてもしピラトがそれを信じているようならそれは間違っている、という主張になります。主は人々が考え、訴えているような政治的・軍事的王などではないと明言しておられるのです。わたしたちはそのように受け取りましょう。

このような問答を前にしてわたしたちも問われています。つまり、他の人がどのように言おうとも、この「わたし」はナザレのイエスをどういうお方として信じるか、が問われています。その問いに対してわたしたちは自己の存在をかけて、真実に告白しなければなりません。

ピラトはこの裁判をこのあとどう進めて行くのでしょうか。結局彼はこの裁判に決着をつけて主の死刑を決定しました。彼はイエスは無罪だと確信していましたが、主を赦すことによって人々が騒ぎ立てたり、ピラトに反逆したりすることを恐れて、最高法院の決定通りにしました。それによって国家の代表が、神の子を死に引き渡すという大きな罪を犯しています。キリスト教会はそのことを忘れないように、また国家に対する<見張りの務め>と執り成しの祈りを続けるために、使徒信条の中にピラトの名を残しました、「主はポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」と。ピラトの判断は個人的なことにも結び付きます。それはピラトのように人を恐れるのではなく、神を畏れる生こそ、神の前に義とされるということです。

「イエスを知らないと言うペトロ」

マルコによる福音書14章66~72節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは最後の晩餐のあとゲツセマネに向かう途中で、弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われ、特にペトロに対しては「あなたは三度わたしを知らないと言う」と告げられました。第一のことは主が捕らえられたときに弟子たちが皆逃げ出したことによって現実のこととなりました(50)。そして第二のことが現実のこととなるのが今日の出来事です。

大祭司の屋敷の中庭に忍び込んだペトロでしたが(54)、そこにいた人々によって不審がられました。それは女中からは二度にわたって、そしてそこに居合わせた人からは一度、「お前はあのナザレのイエスの仲間であろう」と問われたことの中に表されています。ペトロはその都度、自分と主イエスとの関係を否定しています。三度目の問いに対しては、「そんな人は知らない、もし関係があるとすれば何と呪われたことか」と、呪いの言葉さえはきながら、主イエスを冷たく突き放す言葉を口にしています。そのとき、主が先に予告しておられたように鶏が二度目に鳴きました。そしてペトロは、「鶏が二度鳴く前に三度わたしを知らないと言う」と言われた主の言葉を思い出し、そのとおりになったことを知らされて激しく泣き出しています。

ペトロが先に「わたしは主を知らないなどとは決して言わない」と力強く誓ったことは、どうしてこのようにいとも簡単に破られてしまったのでしょうか。きっとペトロは法廷とか権威者の前に立たされて主イエスとの関係を問われたときには、決して自分は主を否定しない、いや逆にはっきりと、自分は主の弟子であるということを宣言しようと考えていたのでしょう。ところが主イエスとの関係を問われる場とか機会は、思いがけないかたちでやって来ました。大祭司の屋敷の中庭での何気ない会話の中で、彼は主との関係を問われたのです。そのとき彼はそれを否定することは何でもないことだと考えたに違いありません。問いかける者たちに対しても、まともに答える必要のない相手と軽く考えたのです。そこに彼の錯覚と過ちがありました。イエス・キリストをわが主として告白する場は、大掛かりなかたちでやって来るだけではなく、日常生活の只中でそれはやって来ます。生活の場がキリスト告白の場であり、日常が主イエスを証しする時なのです。ペトロはそのことに思いを向けることができませんでした。そのため彼への問いかけを軽く受け流してしまいました。

ところで、彼の流した涙はどのような内容の涙だったのでしょうか。一つは、主を知らないと言ってしまった自分の軽さ、不真実、そして主への裏切りなどを思い知らされて流した悔恨の涙であったに違いありません。さらに考えを深めると、このように主を知らないと言う過ちをペトロが犯すことを主が先にご存じであられたにもかかわらず、彼を愛し続けられる主の赦しの慈しみと愛を知らされての涙である、ということを思わされます。ペトロはこのような辛い体験を通してしか、主の愛を真に知ることができないことを主はとっくにご存じでした。だからこそこのような体験を主はペトロに与えておられるのです。それゆえいま流しているペトロの涙は、彼の再出発の機会とされるのです。罪を責めるよりもそれを赦して再出発の機会とされる主の深い愛によって、わたしたちも生かされてきたことを教えられる場面です。

「主イエスへの死刑判決」

マルコによる福音書14章53~65節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスに対する裁判が進められていますが、議員たちから決め手となる証言が得られないでいます。そこで裁判長である大祭司が自ら主イエスに尋問しています。それは「お前はほむべき方の子、メシアなのか」というものでした。「ほむべき方」というのは、天の父なる神のことであり、「メシア」とは旧約聖書の時代からユダヤの人々が待ち望んでいた救い主のことです。大祭司は、無言を貫いて来た主イエスであっても、この問いには答えざるを得ないに違いないという思いを込めて尋問しています。その問いは信じようとする思いから出たものではなく、嘲りや罠が秘められているものでした。

この尋問に対して主は初めて口を開かれます。これは主にとって沈黙することを許されない問いであり、またすべての人が主ご自身からその答え聞くべき主の自己宣言を求める問いかけです。主はその問いを避けられません。次のように答えられました。「そうです」(62)。口語訳聖書では、「わたしがそれである」と訳されていました。大祭司の問いかけをそのまま肯定しておられるのです。そこには一点の曇りもありません。それにつ付け加えて主は、旧約聖書ダニエル書7章における終わりのときの「人の子」の来臨の預言を引用して、ご自身においてそれが成就している、とも告げておられます。この「人の子」の来臨の預言も、ユダヤの人々にとってはよく知られていたもので、彼らが待ち望んでいたことでした。主はそれによっても自己を宣言しておられます。

主イエスに「あなたは神の子ですか」と問い、「メシアですか」と問う者は、「そうである」との答えが主から返ってきたとき、それに従う者でなければなりません。主に問う者は、与えられる主からの答えに沿った生き方をするとの決断をもって問わなければなりません。いい加減な問いと応答は、主の前では許されないのです。

大祭司はどうしたでしょうか。彼は主イエスの答えを、主イエスが何者であるかを示す決定的な証言としては受け取らずに、逆に決定的な神に対する冒涜の言葉として受け取りました(64)。そしてこれ以上の証言を議員たちに求めず、主に対する判決のみを問いました。そして議員たちの一斉の「死刑だ」との叫びによって、主イエスに対して死刑の判決が下されたのです。大祭司の狙い通りの筋書きでした。その後人々は、主をなぶりものにしました。神を冒涜することが死に値するのであれば、今、神の子イエスを辱めている人々もそれによって神を冒涜していることになるのですから、彼らも死に値するものとなるということです。しかし悲しいことに、彼らはそのことに全く気が付いていません。人間の罪の闇の深さを思わされます。そのような罪人たちのために、主はその罪を負って十字架につけられるのです。

わたしたちは、不当な裁判の席においてではありますが、主の口から、ご自身が何者であるかの証言の言葉を聞くことが許されました。わたしたちにとっても主イエスに関してこれ以上の証言は必要はありません。あとは、それを聞いたわたしたちの応答が求められるだけです。「立て、行こう」の応答のみがふさわしいものであることを思わされます。

「主イエスの受けた裁判」

マルコによる福音書14章53~65節(その1)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは捕らえられて大祭司カイアファの屋敷に連れて行かれました。そこで主に対する裁判が行われるのです。この場面を二回に分けて学びましょう。今、人間が神の子を裁くことがなされようとしています。果たしてそのようなことが可能なのでしょうか。裁きにおいては正義や公正の感覚、法や人間に対する正しい理解、そして何よりも裁く者自身が限界を持ったものであるとの認識による謙虚さや、絶対的な存在者に対する畏れが必要です。今主イエスを裁こうとしている人々にそれはあるのでしょうか。

主イエスの裁判を行おうとしている人々は、どういう人たちでしょうか。祭司長、長老、律法学者、そして裁判長の役割を持った大祭司など、エルサレムの70人議会を構成する最高法院の面々の名が挙げられています。この裁判は、大祭司の屋敷で密かに行われています。彼らがその裁判を急いでいることがそのことに表されています。しかも、先に「イエスは死刑」という判決が出されているに等しい裁判が、形式的に行われているのです。

その屋敷の中庭に、弟子ペトロが忍び込んでいました。主が捕らえられた時いったん逃げ去った(50節参照)彼が、再び主の近くに戻って来ています。「わたしはつまずきません」と豪語したその言葉にいくらかでも忠実であろうとしているのかも知れません。彼は主の裁判においては何の力も発揮することはできませんが、弱さを抱えながらでも何とか主への服従の道を探っているペトロの姿に、心打たれるものを感じる人もいることでしょう。

裁判では、「死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」(55)と記されているとおり、結論が先にある裁判において、その結論に合致する証言を、聖書の定め通りに(申命記19:15))二人以上の者から求めたのです。しかしそれはうまく行きませんでした。このことは、神の子を罪ある人間が裁くことの無謀さや限界とともに、判決が先に出された裁判が神の前に通用しないということを明らかにしています。しかし、彼らはついに力ずくで、この裁判の判決を自分たちが考えているとおりに出してしまうのです。そのことについては来週ご一緒に考えます。

ところで、わたしたちは今日を生きるキリスト者として、主イエスを証言する責任と務めを負っています。「イエスは主なり」、「主はよみがえられた」と証言し告白することが、偽りの多いこの社会という法廷でわたしたちに求められています。それぞれのキリスト者が懸命にその務めを果たそうとしています。しかしもし、そのようなキリスト者の証言が、互に食い違ったものであるならば、人々は混乱してしまうでしょう。それは力にはなりません。そういうことが起こらないように、わたしたちの信仰告白や証しの言葉は、繰り返し生けるみ言葉に触れることによって、真実なものとされなければなりません。それは、霊の戦いをするためには礼拝に連なることによって「神の武具」(エフェソ6:11、13)を身に着けて、整えられることが必要だということです。この世の支配と権威とに対抗できるものは、生ける神の言葉と聖霊の力しかありません。

「ユダの裏切りと主の逮捕」

マルコによる福音書14章43~52節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ゲツセマネでの祈りを終えられた主イエスを待ち受けていたのは、主の敵対者たちでした。彼らはエルサレムの権威者たちから送り込りこまれた「武装集団」でした。しかもその先頭に十二弟子の一人であるイスカリオテのユダがいて、彼らを率いています。

ユダはここでもなお「十二人の一人」と言われています。それはどういうことでしょうか。二つのことを考えることができます。その一つは、この時点でもなお彼に対する主の愛は消えていないことが示唆されている、ということです。主の愛に応えることができず、逆に主に敵意をいだいてしまったユダですが、しかし彼に対する主の愛は冷めてはいません。ユダは今も主によって選ばれた十二人の一人なのです。そのことがこの表現に反映されています。

もう一つの点は、十二弟子の一人であるユダが主を裏切ってしまったことは、他の弟子たちも同じ過ちを犯す可能性を持った者たちであるということが暗示されています。主は先に「あなたがたは皆、わたしにつまずく」(14:2)と言われました。ユダは特別に罪深い人間ではなく、他の弟子たちも「同じ穴のむじな」です。わたしたちも同じです。ということは、わたしたちも罪深さの中で、消えることのない愛を主から受けているということになります。

さてユダは主を捕らえようとしている人々とあらかじめ一つの打ち合わせをしていました。それは彼が接吻する相手が主イエスだ、という合図です。ユダは主に近寄って「先生」と言い、接吻をしました。「先生」という呼びかけも、接吻も、親しい者の間で交わされる日常的な挨拶です。ユダの裏切り行為は、特別な行動を通してではなく、日常の振る舞いを通してなされました。主を裏切るということは、主を敵対者に「引き渡す」ことです。日常の行いの中で、主を引き渡すことがなされています。そのような行為は、もしかするとわたしたちも、無意識の内に日常的に行っているかも知れません。一瞬の脇見運転が大事故につながることがあるように、わたしたちが主から目や心を離したときに、信仰における重大な事故が起こり得るのです。そのように主から離れることもある目と心を主の方へと引き戻すために、主の日の礼拝がわたしたちに備えられています。それは主なる神の大いなる憐れみのしるしです。

ところで、主が捕らえられるのを阻もうとして、おそらく弟子の中の一人が剣を抜いて敵に向かうということも起こっています。しかし彼も最終的には、他の弟子たちと共に主のもとから逃げています。彼の勇気は偽物でした。

主はそういう中で、「これは聖書の言葉が成就するためである」と言われて、敵から逃げることもなさらずに、捕らえられました。この主の言葉は、言い換えれば、「聖書の言葉は成就されねばならない」(口語訳)となります。つまり、主はご自身の十字架を、神の御心に従うこと、神の救いのご計画の実現のために避けてはならないこととして受け止めておられることを表しています。「主はユダの中に敵意を見ず、かえって父なる神の命令を見ておられる」(パスカル)ということです。この敬虔なお姿は、あのゲツセマネの祈りを通して御子イエスに与えられたものでした。祈りは御心を知るときであり、また神との結びつきが強められるときでもあることを強く教えられます。

「眠り込む主イエスの弟子たち」

マルコによる福音書14章32~42節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

地面にひれ伏して祈られる主イエスのそばに、選ばれた三人の弟子たちの眠り込む姿が描かれています。彼らは主によって、「目を覚まして祈っていなさい」と命じられたにもかかわらず、主が少し離れた所に行かれたときには眠り込んでしまっています。それが三回も繰り返されました。この事実は弟子たちにとって恥ずべきことであり、できれば隠しておきたいことであるはずです。しかしマルコによる福音書の編集者は、それを隠すことなくありのままに記述しています。その狙いはいったい何なのでしょうか。

一つは、弟子たちに代表される人間の弱さや頼りなさをありのままに描くことによって、人間の現実を明らかにしようとしている、ということです。人は他者の苦しみを前にしても、眠りこけてしまう存在なのです。そして他の一つは、主はそのような弱さを抱えた弟子たちを、激しく叱責したり退けたりはなさらずに、赦し愛されるお方であることが示されています。主の慈しみの大きさを明らかにし、それと同じ愛と憐みがこの弟子たちの後に続く者たちにも注がれるということを教えるという目的もあるはずです。わたしたちに対しても主は同じように臨んでくださっています。

主はそのような弱さを抱えた弟子たちのことを、「心は燃えていても、肉体は弱い」(38)と言っておられます。これはどういうことでしょうか。人には、肉体とは別に、神の言葉を理解したり、御心に応答することができる働きを持った部分が備えられています。聖書はそれを「心」とか「霊」と言っています。その部分で、弟子たちは真実に、そして必死に神に応答しようとします。「心は燃えている」のです。しかし、それとは別の部分、すなわち弱い肉体がそれに伴いません。そのために、神の前で誓ったことと現実の自分とが異なるものとなってしまっています。使徒パウロもそれで苦しみました(ロマ7:7以下)。パウロとともに、わたしたちも「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ロマ7:25)と嘆くほかない者たちであることを覚えさせられます。

主はそのような人間の弱さをご存じです。それゆえ弱いわたしたちにキリストご自身の霊を注いでくださり、その霊の下で強く生きることができるようにしてくださいます(ロマ8:9参照)。そのような「キリストの霊」あるいは「神の霊」を受けることができるのは、祈りによります。人は祈りの戦いを抜きにして、霊的に生きることはできないのです。祈りを通してキリストの霊を受けることによって、わたしたちは自分の弱さや頼りなさを乗り越えて、いくらかでも御心に沿った生き方ができるものとされるのです。

主は最後に、「もうこれでいい。時が来た。…立て、行こう」と言って、ゲツセマネでの祈りを終えられました。主は御心を捉えることがおできになりました。神のお考えに対して確信を持つことがおできになりました。だからこそ、十字架の道へと恐れることなく進んで行かれるのです。

弟子たちは、眠い目をこすりながらでも、またよろける足を引きずりながらでも、主について行かなければなりません。そしてこれから主の身に起こることを目を開いて見なければなりません。そのようにして、主の十字架の目撃者、主の復活の証人としての道を歩いて行くのです。