「マリアへの御子イエスの誕生予告」    (待降節 説教)

ルカによる福音書1章26~38節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

クリスマスの出来事の中で目立つことは、マリアやヨセフの従順さです。今日はマリアの従順に目を向けてみましょう。彼女はまだ15~6歳の若い女性でした。ヨセフとはいいなづけの間柄でしたが、まだ一緒にはなっていませんでした。そのマリアのもとに天使ガブリエルが訪れて神の祝福の言葉を語ります。マリアは何のことか分からずに、戸惑い、恐れます。天使はさらに告げます。「マリア、恐れることはありません。あなたは男の子を産みます。その子の名をイエスと名付けなさい。その子はイスラエルを救うものとなります」と。これもまた、マリアにとっては受け入れることができないものでした。

彼女は言います、「どうしてそんなことがあり得るでしょうか。わたしはまだヨセフとは一緒に住んでいません」。彼女は、あり得ないと思えることを何の疑いもなく受け入れることはできなかったのです。そのようなマリアについて、ルターは「彼女は、人間らしい血の通ったおとめであった」と述べています。疑い深いというのではなくて、起こる事柄に対して素直だったのです。

そのようなマリアに天使は、さらに告げます。「あなたの胎内の子は、聖霊の神の力によるものです。それゆえ生まれる子は神の子と呼ばれます。神にできないことは何一つないのです」。その時、マリアは疑いを捨てて、神の前から逃れることもせず、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、神にすべてをお委ねする神への素直さを表しました。神の名が彼女の耳に響くことによって、彼女の心は神に向けて変えられたのです。彼女は人間らしい女性であったと同時に、神を心から畏れ敬う信仰深いおとめでもありました。彼女の従順が、御子イエスの人としての誕生につながりました。

このマリアをわたしたちはどのように考えるべきでしょうか。カトリック教会のようにマリアを聖母として礼拝することはしません。しかし彼女に倣うことはあっても良いのではないでしょうか。「お言葉どおり、この身に成りますように」と一切を神に委ねた彼女の従順と素直さとひたむきさは、信仰に生きる者にとって欠かせないものです。これをわたしたちも自分のものとしたいのです。彼女は天使が告げる神の定めを、命令としてではなく、また律法としてではなく、新たな生き方への招きとして捉えたのです。

わたしたちにも時折、理不尽と思われる神の御心が示されたり、あり得ないとしか思えない道が神によって示されたりすることがあるかも知れません。その時、それを神からの招きとして捉え、自分の思いや力を超えて、「お言葉どおり、この身に成りますように」との応答ができるものでありたいと願います。マリアは、神から務めが与えられたことを、賛歌の中で、「あなたはこのはしためにも目を留めてくださいました」(48)と歌っています。務めが与えられることは、神が目を留めてくださっているからです。今日の世界で必要なことは、すべての人間が「主なる神よ、お言葉どおりこの身に成りますように」とのへりくだりと従順の祈りを回復することです。クリスマスを毎年祝うのは、人間中心の世界ではなく、神中心の世界を回復するためなのです。クリスマスの只中にヘリくだりの神が立っておられます。