「ゲツセマネでの主イエスの祈り」

マルコによる福音書14章32~42節(その1)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスの一行はゲツセマネの園に着きました。そして主はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて、さらに奥へと進んで行かれました。この三人の弟子はこれまでも主によって特別な場所へと伴われることがありました。一つは5章35節以下において、会堂長ヤイロの娘が死から命へと移される場面です。それは主イエスの神的力が表された出来事でした。また9章2節以下において、山の上で主のお姿が変貌する時にも、そこにいた弟子はこの三人だけでした。主は彼らに特別な訓練を与えておられるのです。これらは、一つは主が死を命に移されるお方であることの証人として、も一つは主が神との特別な交わりの中に生きておられることの証人として、彼らは目撃者の務めを与えられたものでした。それらはいずれも、御子イエスの≪神性≫(真の神であること)があらわにされた場面でした。しかし今回の祈りの場面では、主イエスは死を前にして恐れおののく姿を弟子たちの前で表しておられます。それは御子イエスの≪人性≫(真の人であること)があらわにされた場面でした。三人の弟子たちは人としてのイエスを目撃することを求められているのです。

こうして、わたしたちが『日本キリスト教会信仰の告白』の冒頭で、「神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人である」と告白していることの証人として、三人は用いられているのです。

主は今苦しんでおられます。何を苦しんでおられるのでしょうか。二つの点から考えることができます。一つは、主はご自身の死の意義を苦しみつつ問うておられるということです。敵対者たちは、主を何とかして十字架の死へと追いやろうとしています。その最終段階に来ています。できればそれを避けたいと考えておられます。一方、父なる神も御子イエスが十字架上で罪人に代わって死ぬことを求めておられます。神の決定には従わなければなりません。これら相反する力が、どちらもイエスを死へと追いやろうとしている、これは一体どういうことなのかと主は神に問うておられるのです。そのことが一つです。

他の一つは、主イエスは死を前にして、実際に死の苦しみと恐怖を体験しておられるということです。それを罪人との≪連帯≫と呼ぶ人もいます。宣教の初めに主は洗礼を受けられました。それも人間と共に歩もうとする連帯を表すものでした。そして今は、地上の最後の場面で死の苦しみを自ら味合うことにおいて、わたしたち人間と連帯してくださっています。わたしたちが死ぬとき、そこにも主が伴ってくださっていることのしるしがここにあります。

そのようにして苦しみつつ祈る主イエスは、最終的には「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、すべてのことを神にお委ねになりました。ご自分の思いをすべて神にぶちまけながら、最後には父なる神にすべてを委ねておられる御子の姿がそこにあります。神への絶対的な信頼に立って、御心のままに進んで行く決心を与えられた主は、「立て、行こう」と立ち上がられました。父なる神への真剣な祈りが、御子の決断と行動の源となっていることを教えられます。わたしたちもこのように御心を捉えて「行こう」という決断と行動が生まれるまで、徹底して神に祈ることが求められています。祈りは神との一対一の真剣な対話と対決の時です。