「目を覚ましていなさい」

マルコによる福音書13章28~37節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

小黙示録と言われるマルコによる福音書13章の最後の部分には、二つの短い譬えが語られています。その一つは、28~30節で、「いちじくの木のたとえ」と呼ばれています。いちじくの木は落葉樹ですので、その葉の茂り方や枯れ方、そして落葉などによって、季節の移ろいを感じ取ることができます。例えば枝が柔らかくなり芽を出し葉が伸び始めると、夏が近づいてきたことが分かります。葉の変化が時のしるしとなるのです。それとよく似て、これまでに主が述べられてきたさまざまな天変地異、戦争、偽メシアの登場などが起こったときには、「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(29)と言われています。すなわち、再臨の主がこの世界に来られる時が近いと悟りなさい、ということです。わたしたちが生きている今の時代は、まさしくそのようなことが繰り返し起こっている時代です。ということは、主の再臨が明日にでも起こるとの緊張感をもって生きることがわたしたちに求められているということでしょう。わたしたちの感覚で「神の時」を推し量ることはできません。しかし時は縮まっているとの意識をもって主に従って生きることが大事です。

終わりの時「天地は滅びる」、しかし「主の言葉は決して滅びない」と言われています(31)。終わりが来た時、神の手によって造られたものは全くその様相を新たにする、ということです。それがどのような事象となるのかは、わたしたちは想像することはできません。ただ滅びゆく「天地」の中にわたしたち人間も含まれていることは確かです。しかし、そのような人間が滅びゆくことのない主の言葉に結びつくとき、滅びることなく、新しい存在へと変えられるのです。新しくされるとは、主の言葉が約束している罪の赦しや新しい命が付与されること、また神の国の一員とされることが実現することなどです。主が生きておられるからこそ、その約束も現実のこととなります。

もう一つの譬えに目を向けてみましょう。それは主人が僕(しもべ)たちに仕事を任せてしばらく旅に出るというものです。僕たちは、主人がいつ帰って来るかが告げられていないために、いつ主人が帰って来ても良いように、自分たちに任せられた務めに励み、成果を主人に差し出すことが求められます。その時のあり方が、「目を覚ましていなさい」という言葉で言い表されています。それは、主人がいないからということで怠慢に陥ることなく、主人が目の前にいるかのように誠実に務めに励むことを意味します。そうした生き方を日々していれば、主人がいつ帰って来ても僕たちは慌てることはないのです。

それは今日のわたしたちにもそのまま当てはまります。教会も「目を覚ましていなさい」と呼びかけられています。それはどうすることでしょうか。今は<教会の時>と言われます。つまり、主が天に昇られてから終わりの時までの間は、教会がこの世に「滅びることのない主の言葉」を宣べ伝えることによって、この世を終末に備えさせなければならない時ということです。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16:15)。「それから、終わりが来る」(マタイ24:14)のです。宣教こそが「目を覚ましている」ことの端的な姿です。それによって、神によって造られた人々が、滅び行くことがないものとされることに仕えることができるのです。