「飼い葉桶の中の救い主」 (クリスマス礼拝説教) 

ルカによる福音書2章1-7節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日はクリスマス礼拝です。どのような状況で神のひとり子、救い主イエス・キリストがお生まれになったかを、聖書から聞き取りましょう。

イエスさまの父と母になることを天使から告げられたヨセフとマリアは、イスラエルの北の地方のガリラヤのナザレに住んでいた若い男女でした。そこはガリラヤ湖近くの小さな町です。ところが、イスラエルの国を支配していたローマの王からイスラエルの全国民に、自分の故郷で住民登録をせよとの命令が下されました。それは、この国に何人の人がいるか、戦争に行ける男子はどれくらいか、また税金を納めることができる者はどれくらいいるかなどを調べるためでした。ヨセフとマリアは、ヨセフの故郷であるベツレヘムで登録をしなければなりませんでした。マリアさんのおなかは大きくなってもうすぐ赤ちゃんが生まれる時期だったのですが、ヨセフさんはマリアさんを連れてベツレヘムまで行くことにしました。

ナザレからベツレヘムまで、どれくらいの距離があるのでしょうか。地図で見ますと直線距離にして100~120キロはあります。この前の日曜学校の説教では、佐賀から長崎までぐらいだと話されました。逆の方向に行くと、佐賀から北九州くらいまでです。真っすぐには行けず、くねくねと曲がった道を行くとしたら、一週間くらいはかかる道のりでした。マリアさんは多分ロバに乗って、ヨセフさんは歩いて行くことにしました。つらい旅であったに違いありません。

イエスさまのお誕生の前に、こういう辛い旅があったことを忘れてはなりませんね。イエスさまの誕生を祝うクリスマスは、明るさや楽しさだけがあったのではなく、大変つらいことも背後にはあったということを心に刻んでおきたいと思います。

大変なことは、長い旅だけではありませんでした。一週間ほど歩いたあとやっと着いたベツレヘムでも、大変なことがありました。その一つは、ヨセフさんとマリアさんがベツレヘムに着いたときには、住民登録のために帰って来ていた人々によってその町はあふれていて、泊まるための宿を見つけることができなかったことです。二人はとても不安だったに違いありません。このあと祝会で見るDVDでは、二人が何軒もの宿を訪ねる場面が出てきます。いくつも断られるのです。

そのことは、大人の人に特に考えてもらいたいのですが、イエスさまは今も何人もの心の扉をたたいて、ご自身が受け入れられることを求めておられるのに、ほとんど断られるという人間の状況を示唆しているということです。他のことでいっぱいなので、イエス・キリストどころではない、ということなのでしょう。それでよいのかを考えさせられます。

さて、二人はやっと泊まる場所を見つけることができました。しかしそれは宿の暖かい部屋ではなくて、家畜小屋(馬小屋)でした。そこしか空いていなかったのです。そこで次の大変なことが生じます。それは家畜小屋に泊まっているその夜にマリアさんは、赤ちゃん、つまりイエスさまを産んだのです。

そこには温かい湯もありません。赤ちゃんをくるむ産着もありせん。赤ちゃんを寝かせる小さなベッドもありませんから、生まれたばかりのイエスさまは、家畜のえさを入れる飼い葉桶の中に寝かせられました。このように暗くて、寒くて、赤ちゃんのためのものが何もない家畜小屋でのイエスさまの誕生はとてもつらいことであったに違いありません。それでも赤ちゃんが無事に生まれたことを喜び合うマリアさんとヨセフさんの姿を想像すると、とてもいじらしく、けなげに思わされます。イエスさまの誕生はいろんなものが足りない中での誕生、貧しさの中での誕生でした。これも忘れてはなりません。

これらのことはとても不思議なことですが、なぜ神さまはひとり子イエスさまをこのような困難や貧しさの中で生まれさせられたのでしょうか。そのことを考える時に、イエスさまの誕生が、聖書に書いてあるのとは全く異なる状況であったらどうであっただろうかということを想像してみるのも良いかも知れません。イエスさまがもし、立派な宮殿(王様が住んでいる屋敷)や大病院で生まれたとしたら、羊飼いたちはそこに入ることができたでしょうか。外国の学者たちがそこに立ち入ることができたでしょうか。わたしたちも同じです。明るく輝く大きな屋敷の中で、立派なベッドに寝かせられているイエスさまを想像すると、わたしたちの足はすくんでしまいます。わたしたちは、イエスさまをわたしたちの身近な方として考えることはできないかも知れません。

しかし、実際はそうではありませんでした。イエスさまは家畜小屋で生れ、飼い葉桶の中に寝かせられたことを知るときに、わたしたちはイエスさまを、そして神さまをとても親しく、身近な方として感じるのです。わたしたちと同じ世界に住むためにイエスさまは来られたのだ、だからわたしたちは遠慮なくイエスさまに近づいて良いのだ、ということなのです。

また生まれた時から辛いことや苦しいことを味合われたイエスさまは、わたしたちのことを誰よりもよくわかってくださって、わたしたちに寄り添ってくださるのです。

わたしたちが苦しい時、悲しい時、つらい時に一番欲しいものは何でしょうか。それは自分のそばにいてくれる人、自分のことを分かってくれる人がいることです。馬小屋で生れたイエスさまは、わたしたちに対して、「わたしがいつもあなたのそばにいるよ」と言ってくださっているのです。そのようなイエスさまであることを教えるために、神さまは、わざわざひとり子イエスさまを小さな町ベツレヘムの貧しい馬小屋で生れるようにされたのです。

そのように考えると、ヨセフさんとマリアさんが王(政治的権力)の命令に振り回されているように見えるこの出来事は、実は、さらにその上に見えない神の力が働いていたことを教えられるのです。ベツレヘムでの救い主の誕生は、旧約聖書・ミカ書5章1節に預言されていることが実現したものでした。その預言が実現するために、神さまはヨセフとマリアをベツレヘムに行かせ、そこでイエスさまを生むようにされたのです。小さな町での出来事にも、神さまの御手が伸ばされていることが分かります。この世のことに振り回されるわたしたちですが、それらのさまざまなことの背後に、神さまの御心がどのように働いているのかを考えることは大切なことですね。そして神の御心が分かるとき、わたしたちは苦しいことの中にも平安や希望を見出すに違いありません。

イエスさまは、ヨセフさんたちが宿屋の扉を次々にたたき続けたように、今、わたしたちの心の扉をたたき続けておられます。「あなたの心の片隅にわたしを迎え入れてほしい」と呼びかけておられます。もしそうすることができれば、暗く冷たい馬小屋が明るく輝く部屋に変えられたように、わたしたちの心にも明かりがともされ、これまでとは違った生き方ができる者となるでしょう。

わたしたちがもし暗さや惨めさや醜さを抱えていたとしても、それをイエスさまは嫌われません。そこを目指して主イエスは近づいて行かれ、扉をたたかれるのです。「その暗さの中にわたしは宿りたいのだ」と主イエスは扉をたたかれます。そのノックの音が聞こえたら、わたしたちはすぐイエスさまを迎え入れるために、心の扉を開きましょう。クリスマスは、その決断が与えられる特別な日です。

「マリアへの御子イエスの誕生予告」    (待降節 説教)

ルカによる福音書1章26~38節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

クリスマスの出来事の中で目立つことは、マリアやヨセフの従順さです。今日はマリアの従順に目を向けてみましょう。彼女はまだ15~6歳の若い女性でした。ヨセフとはいいなづけの間柄でしたが、まだ一緒にはなっていませんでした。そのマリアのもとに天使ガブリエルが訪れて神の祝福の言葉を語ります。マリアは何のことか分からずに、戸惑い、恐れます。天使はさらに告げます。「マリア、恐れることはありません。あなたは男の子を産みます。その子の名をイエスと名付けなさい。その子はイスラエルを救うものとなります」と。これもまた、マリアにとっては受け入れることができないものでした。

彼女は言います、「どうしてそんなことがあり得るでしょうか。わたしはまだヨセフとは一緒に住んでいません」。彼女は、あり得ないと思えることを何の疑いもなく受け入れることはできなかったのです。そのようなマリアについて、ルターは「彼女は、人間らしい血の通ったおとめであった」と述べています。疑い深いというのではなくて、起こる事柄に対して素直だったのです。

そのようなマリアに天使は、さらに告げます。「あなたの胎内の子は、聖霊の神の力によるものです。それゆえ生まれる子は神の子と呼ばれます。神にできないことは何一つないのです」。その時、マリアは疑いを捨てて、神の前から逃れることもせず、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、神にすべてをお委ねする神への素直さを表しました。神の名が彼女の耳に響くことによって、彼女の心は神に向けて変えられたのです。彼女は人間らしい女性であったと同時に、神を心から畏れ敬う信仰深いおとめでもありました。彼女の従順が、御子イエスの人としての誕生につながりました。

このマリアをわたしたちはどのように考えるべきでしょうか。カトリック教会のようにマリアを聖母として礼拝することはしません。しかし彼女に倣うことはあっても良いのではないでしょうか。「お言葉どおり、この身に成りますように」と一切を神に委ねた彼女の従順と素直さとひたむきさは、信仰に生きる者にとって欠かせないものです。これをわたしたちも自分のものとしたいのです。彼女は天使が告げる神の定めを、命令としてではなく、また律法としてではなく、新たな生き方への招きとして捉えたのです。

わたしたちにも時折、理不尽と思われる神の御心が示されたり、あり得ないとしか思えない道が神によって示されたりすることがあるかも知れません。その時、それを神からの招きとして捉え、自分の思いや力を超えて、「お言葉どおり、この身に成りますように」との応答ができるものでありたいと願います。マリアは、神から務めが与えられたことを、賛歌の中で、「あなたはこのはしためにも目を留めてくださいました」(48)と歌っています。務めが与えられることは、神が目を留めてくださっているからです。今日の世界で必要なことは、すべての人間が「主なる神よ、お言葉どおりこの身に成りますように」とのへりくだりと従順の祈りを回復することです。クリスマスを毎年祝うのは、人間中心の世界ではなく、神中心の世界を回復するためなのです。クリスマスの只中にヘリくだりの神が立っておられます。