「最後の晩餐の準備」

マルコによる福音書14章10~21節(その1)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ベタニアのシモンの家で一人の女性から香油を注がれることによって、主イエスはその内面においていよいよご自身の死に対する意識と覚悟を確かなものとされました。一方、主の死を確かなものとすることは、外的なことにおいても進んで行きました。それは十二弟子の一人であるイスカリオテのユダが、主に敵対する祭司長たちに主を引き渡す取引をしたことによってなされました。「引き渡す」という行為自体には善悪の要素はありません。しかし、誰を誰に引き渡すのか、何を誰に引き渡すのかによって、その行為の善悪が決定します。ユダの場合、自分の師であり主である方を金と交換で敵対者たちに引き渡すことによって、それは「裏切り」の行為となるのです。

なぜユダは主を裏切ることになったのでしょうか。いろんな説があるのですが、確たる理由や動機は福音書の記述の中に見出すことはできません。諸説のいずれも推測の域を出ないのです。むしろユダの裏切りの要因は主イエスの側にあると考えるべきではないでしょうか。それは、主が弟子たちや人々が望み、期待しているような救い主でないことがはっきりした、ということです。権威と力をもって支配する王の姿は主イエスの中には見られません。逆に人から仕えられるよりも、へりくだって僕(しもべ)のように人に仕えることを教え、自らそれを実践されるのが主イエスでした。それを見て来た弟子のユダは、主イエスによって裏切られたと思い、この方について行くことは無駄だと判断してしまったのです。ユダは主を見限ってしまいました。その結果、敵対者に手を貸す道に進んで行ったと考えられます。

他の弟子たちも同じような思いを持っていたかも知れませんが、行動に出たのはユダ一人だけでした。このユダ的なものはわたしたちの心の内にも巣くっているかも知れないと思わされます。わたしたちは、<わたしたちの内なるユダ>と常に戦っていかなければならないのです。

さて、主の死の時が近づく中で、主は次の日、エルサレムで弟子たちと共に過越の食事をとられます。そのために用意された場所で、弟子たちは食事の準備をしています。過越の食事は、イスラエルの民がエジプトを脱出するとき、小羊の血が家の鴨居に塗られることによって神の使いに打たれずに助かり、無事エジプトから逃れることができたことに由来するものです。主はご自身が十字架で小羊のように死に渡されることによって、人々が救われることになる神の御計画をご存じです。それが翌日起ころうとしています。

その死に先立って、主はこの食事において前もってご自身の死の意義を弟子たちに明らかにし、さらにそのことをこれからずっと記念するために、パンと杯を分かち合う式を執り行われたのでしょう。それが今日、教会が聖餐式として執り行っているものなのです。聖餐式は過越の食事にその一つの起源があることをわたしたちは心に刻み込みたいものです。この食事の主宰者は、わたしたちのために犠牲になられた主イエス・キリストです。主がわたしたちをこの食卓に招き、わたしたちに信仰の本質を指し示し、さらに信仰の軌道修正を図ろうとしておられます。誰もが洗礼を通してこの食卓に招かれています。この年、新たに食卓を囲む人が興されることを祈りましょう。