「主イエスの受けた裁判」

マルコによる福音書14章53~65節(その1)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは捕らえられて大祭司カイアファの屋敷に連れて行かれました。そこで主に対する裁判が行われるのです。この場面を二回に分けて学びましょう。今、人間が神の子を裁くことがなされようとしています。果たしてそのようなことが可能なのでしょうか。裁きにおいては正義や公正の感覚、法や人間に対する正しい理解、そして何よりも裁く者自身が限界を持ったものであるとの認識による謙虚さや、絶対的な存在者に対する畏れが必要です。今主イエスを裁こうとしている人々にそれはあるのでしょうか。

主イエスの裁判を行おうとしている人々は、どういう人たちでしょうか。祭司長、長老、律法学者、そして裁判長の役割を持った大祭司など、エルサレムの70人議会を構成する最高法院の面々の名が挙げられています。この裁判は、大祭司の屋敷で密かに行われています。彼らがその裁判を急いでいることがそのことに表されています。しかも、先に「イエスは死刑」という判決が出されているに等しい裁判が、形式的に行われているのです。

その屋敷の中庭に、弟子ペトロが忍び込んでいました。主が捕らえられた時いったん逃げ去った(50節参照)彼が、再び主の近くに戻って来ています。「わたしはつまずきません」と豪語したその言葉にいくらかでも忠実であろうとしているのかも知れません。彼は主の裁判においては何の力も発揮することはできませんが、弱さを抱えながらでも何とか主への服従の道を探っているペトロの姿に、心打たれるものを感じる人もいることでしょう。

裁判では、「死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」(55)と記されているとおり、結論が先にある裁判において、その結論に合致する証言を、聖書の定め通りに(申命記19:15))二人以上の者から求めたのです。しかしそれはうまく行きませんでした。このことは、神の子を罪ある人間が裁くことの無謀さや限界とともに、判決が先に出された裁判が神の前に通用しないということを明らかにしています。しかし、彼らはついに力ずくで、この裁判の判決を自分たちが考えているとおりに出してしまうのです。そのことについては来週ご一緒に考えます。

ところで、わたしたちは今日を生きるキリスト者として、主イエスを証言する責任と務めを負っています。「イエスは主なり」、「主はよみがえられた」と証言し告白することが、偽りの多いこの社会という法廷でわたしたちに求められています。それぞれのキリスト者が懸命にその務めを果たそうとしています。しかしもし、そのようなキリスト者の証言が、互に食い違ったものであるならば、人々は混乱してしまうでしょう。それは力にはなりません。そういうことが起こらないように、わたしたちの信仰告白や証しの言葉は、繰り返し生けるみ言葉に触れることによって、真実なものとされなければなりません。それは、霊の戦いをするためには礼拝に連なることによって「神の武具」(エフェソ6:11、13)を身に着けて、整えられることが必要だということです。この世の支配と権威とに対抗できるものは、生ける神の言葉と聖霊の力しかありません。

「ユダの裏切りと主の逮捕」

マルコによる福音書14章43~52節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ゲツセマネでの祈りを終えられた主イエスを待ち受けていたのは、主の敵対者たちでした。彼らはエルサレムの権威者たちから送り込りこまれた「武装集団」でした。しかもその先頭に十二弟子の一人であるイスカリオテのユダがいて、彼らを率いています。

ユダはここでもなお「十二人の一人」と言われています。それはどういうことでしょうか。二つのことを考えることができます。その一つは、この時点でもなお彼に対する主の愛は消えていないことが示唆されている、ということです。主の愛に応えることができず、逆に主に敵意をいだいてしまったユダですが、しかし彼に対する主の愛は冷めてはいません。ユダは今も主によって選ばれた十二人の一人なのです。そのことがこの表現に反映されています。

もう一つの点は、十二弟子の一人であるユダが主を裏切ってしまったことは、他の弟子たちも同じ過ちを犯す可能性を持った者たちであるということが暗示されています。主は先に「あなたがたは皆、わたしにつまずく」(14:2)と言われました。ユダは特別に罪深い人間ではなく、他の弟子たちも「同じ穴のむじな」です。わたしたちも同じです。ということは、わたしたちも罪深さの中で、消えることのない愛を主から受けているということになります。

さてユダは主を捕らえようとしている人々とあらかじめ一つの打ち合わせをしていました。それは彼が接吻する相手が主イエスだ、という合図です。ユダは主に近寄って「先生」と言い、接吻をしました。「先生」という呼びかけも、接吻も、親しい者の間で交わされる日常的な挨拶です。ユダの裏切り行為は、特別な行動を通してではなく、日常の振る舞いを通してなされました。主を裏切るということは、主を敵対者に「引き渡す」ことです。日常の行いの中で、主を引き渡すことがなされています。そのような行為は、もしかするとわたしたちも、無意識の内に日常的に行っているかも知れません。一瞬の脇見運転が大事故につながることがあるように、わたしたちが主から目や心を離したときに、信仰における重大な事故が起こり得るのです。そのように主から離れることもある目と心を主の方へと引き戻すために、主の日の礼拝がわたしたちに備えられています。それは主なる神の大いなる憐れみのしるしです。

ところで、主が捕らえられるのを阻もうとして、おそらく弟子の中の一人が剣を抜いて敵に向かうということも起こっています。しかし彼も最終的には、他の弟子たちと共に主のもとから逃げています。彼の勇気は偽物でした。

主はそういう中で、「これは聖書の言葉が成就するためである」と言われて、敵から逃げることもなさらずに、捕らえられました。この主の言葉は、言い換えれば、「聖書の言葉は成就されねばならない」(口語訳)となります。つまり、主はご自身の十字架を、神の御心に従うこと、神の救いのご計画の実現のために避けてはならないこととして受け止めておられることを表しています。「主はユダの中に敵意を見ず、かえって父なる神の命令を見ておられる」(パスカル)ということです。この敬虔なお姿は、あのゲツセマネの祈りを通して御子イエスに与えられたものでした。祈りは御心を知るときであり、また神との結びつきが強められるときでもあることを強く教えられます。

「眠り込む主イエスの弟子たち」

マルコによる福音書14章32~42節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

地面にひれ伏して祈られる主イエスのそばに、選ばれた三人の弟子たちの眠り込む姿が描かれています。彼らは主によって、「目を覚まして祈っていなさい」と命じられたにもかかわらず、主が少し離れた所に行かれたときには眠り込んでしまっています。それが三回も繰り返されました。この事実は弟子たちにとって恥ずべきことであり、できれば隠しておきたいことであるはずです。しかしマルコによる福音書の編集者は、それを隠すことなくありのままに記述しています。その狙いはいったい何なのでしょうか。

一つは、弟子たちに代表される人間の弱さや頼りなさをありのままに描くことによって、人間の現実を明らかにしようとしている、ということです。人は他者の苦しみを前にしても、眠りこけてしまう存在なのです。そして他の一つは、主はそのような弱さを抱えた弟子たちを、激しく叱責したり退けたりはなさらずに、赦し愛されるお方であることが示されています。主の慈しみの大きさを明らかにし、それと同じ愛と憐みがこの弟子たちの後に続く者たちにも注がれるということを教えるという目的もあるはずです。わたしたちに対しても主は同じように臨んでくださっています。

主はそのような弱さを抱えた弟子たちのことを、「心は燃えていても、肉体は弱い」(38)と言っておられます。これはどういうことでしょうか。人には、肉体とは別に、神の言葉を理解したり、御心に応答することができる働きを持った部分が備えられています。聖書はそれを「心」とか「霊」と言っています。その部分で、弟子たちは真実に、そして必死に神に応答しようとします。「心は燃えている」のです。しかし、それとは別の部分、すなわち弱い肉体がそれに伴いません。そのために、神の前で誓ったことと現実の自分とが異なるものとなってしまっています。使徒パウロもそれで苦しみました(ロマ7:7以下)。パウロとともに、わたしたちも「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ロマ7:25)と嘆くほかない者たちであることを覚えさせられます。

主はそのような人間の弱さをご存じです。それゆえ弱いわたしたちにキリストご自身の霊を注いでくださり、その霊の下で強く生きることができるようにしてくださいます(ロマ8:9参照)。そのような「キリストの霊」あるいは「神の霊」を受けることができるのは、祈りによります。人は祈りの戦いを抜きにして、霊的に生きることはできないのです。祈りを通してキリストの霊を受けることによって、わたしたちは自分の弱さや頼りなさを乗り越えて、いくらかでも御心に沿った生き方ができるものとされるのです。

主は最後に、「もうこれでいい。時が来た。…立て、行こう」と言って、ゲツセマネでの祈りを終えられました。主は御心を捉えることがおできになりました。神のお考えに対して確信を持つことがおできになりました。だからこそ、十字架の道へと恐れることなく進んで行かれるのです。

弟子たちは、眠い目をこすりながらでも、またよろける足を引きずりながらでも、主について行かなければなりません。そしてこれから主の身に起こることを目を開いて見なければなりません。そのようにして、主の十字架の目撃者、主の復活の証人としての道を歩いて行くのです。

「ゲツセマネでの主イエスの祈り」

マルコによる福音書14章32~42節(その1)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスの一行はゲツセマネの園に着きました。そして主はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて、さらに奥へと進んで行かれました。この三人の弟子はこれまでも主によって特別な場所へと伴われることがありました。一つは5章35節以下において、会堂長ヤイロの娘が死から命へと移される場面です。それは主イエスの神的力が表された出来事でした。また9章2節以下において、山の上で主のお姿が変貌する時にも、そこにいた弟子はこの三人だけでした。主は彼らに特別な訓練を与えておられるのです。これらは、一つは主が死を命に移されるお方であることの証人として、も一つは主が神との特別な交わりの中に生きておられることの証人として、彼らは目撃者の務めを与えられたものでした。それらはいずれも、御子イエスの≪神性≫(真の神であること)があらわにされた場面でした。しかし今回の祈りの場面では、主イエスは死を前にして恐れおののく姿を弟子たちの前で表しておられます。それは御子イエスの≪人性≫(真の人であること)があらわにされた場面でした。三人の弟子たちは人としてのイエスを目撃することを求められているのです。

こうして、わたしたちが『日本キリスト教会信仰の告白』の冒頭で、「神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人である」と告白していることの証人として、三人は用いられているのです。

主は今苦しんでおられます。何を苦しんでおられるのでしょうか。二つの点から考えることができます。一つは、主はご自身の死の意義を苦しみつつ問うておられるということです。敵対者たちは、主を何とかして十字架の死へと追いやろうとしています。その最終段階に来ています。できればそれを避けたいと考えておられます。一方、父なる神も御子イエスが十字架上で罪人に代わって死ぬことを求めておられます。神の決定には従わなければなりません。これら相反する力が、どちらもイエスを死へと追いやろうとしている、これは一体どういうことなのかと主は神に問うておられるのです。そのことが一つです。

他の一つは、主イエスは死を前にして、実際に死の苦しみと恐怖を体験しておられるということです。それを罪人との≪連帯≫と呼ぶ人もいます。宣教の初めに主は洗礼を受けられました。それも人間と共に歩もうとする連帯を表すものでした。そして今は、地上の最後の場面で死の苦しみを自ら味合うことにおいて、わたしたち人間と連帯してくださっています。わたしたちが死ぬとき、そこにも主が伴ってくださっていることのしるしがここにあります。

そのようにして苦しみつつ祈る主イエスは、最終的には「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、すべてのことを神にお委ねになりました。ご自分の思いをすべて神にぶちまけながら、最後には父なる神にすべてを委ねておられる御子の姿がそこにあります。神への絶対的な信頼に立って、御心のままに進んで行く決心を与えられた主は、「立て、行こう」と立ち上がられました。父なる神への真剣な祈りが、御子の決断と行動の源となっていることを教えられます。わたしたちもこのように御心を捉えて「行こう」という決断と行動が生まれるまで、徹底して神に祈ることが求められています。祈りは神との一対一の真剣な対話と対決の時です。

「ペトロの離反予告」

マルコによる福音書14章27~31節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスと弟子たちは過越の食事を終えた後、オリーブ山に向かいました(26)。そこにはゲツセマネという園があって、そこで祈るためでした。途中で主はいきなり「あなたがたはみなわたしにつまずく」と言われました。主の身にこれから起こる一連の出来事—逮捕、裁判、屈辱、十字架等―が、ますます主の弱さや貧しさや惨めさを際立たせることになる、そしてそれに対して弟子たちはもはや主イエスについて行けないとの思いを持って主から離れて行く、と予告しておられるのです。弟子たちの主に対する信頼と希望はこの後一気にしぼんでしまうということが、主によって告げられています。

しかも主は、それらのことは偶然のことではなく、旧約聖書にも預言されていたこととして、ゼカリヤ書13章7節の言葉を引用しておられます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」がそれです。主は、ご自分の死は神の救いの御計画の中にあることを示しておられるのです。

主の言葉に弟子たちはどのように反応したでしょうか。まずペトロが反応して、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いました。彼は、最後の晩餐の席で主が「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われたとき、「そんなことはいたしません」と言うことができませんでした。しかし今は、はっきりと汚名挽回とばかりに「自分は決して主を裏切らない」と断言しています。しかし主はそれに続いて、さらに具体的にペトロのこれからのつまずきや裏切りの行為を明らかにされます。「今夜、鶏が二度鳴く前に、ペトロは主イエスのことを、三度知らないという」とまで言われました。主は彼の心の内を見通しでした。けれどもペトロは今回は引き下がりません。続けてこう言います。「たとえ主とご一緒に死なねばならなくても、あなたのことを知らないなどとは決して口にしません」。ここまで言って大丈夫だろうかと思わせられるようなペトロの言葉です。

何とペトロの言葉は力強いことでしょうか。何とペトロは頼もしい弟子でしょうか。しかし同時に何と彼の言葉は軽いことでしょうか。彼は自分が口にしていることの意味が分かっているのでしょうか。確かに彼の言葉は、彼の真実の言葉、心から出てくるものであったのでしょう。しかしそれは自分の力の限界を知らない者の無謀な言葉でした。そのような言葉や力は、彼よりも少し強い者に出くわすと、もろくも崩れてしまうのです。わたしたちの弱さの中に、主の力が、そして主ご自身が入って来て下さらなければ、わたしたちはどのような力にも対抗することはできません。主の力がわたしを支えてくださるときにこそ、わたしは強い者とされます。パウロが語る「わたしは弱いときにこそ強い」(コリント二、12:10)との言葉は、主との関係の中での真理です。

主はこのようなつまずくことばかりの弟子たちを冷たく突き放されることはありません。主は「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(28)と言っておられます。そこで弟子たちの再結集が行われるのです。それは裏切る弟子たちへの主の赦しの宣言でもあります。彼らには再出発の時がもう備えられているのです。つまずき多いわたしたちに対しても主は、「礼拝で会おう」と繰り返し言ってくださっています。

「最後の晩餐と聖餐式」

マルコによる福音書14章22~26節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは過越の食事のさなかで、儀式的な食事の行為をなさいました。それは現在、わたしたちの教会が聖餐式として行っている式典の起源となったものです。この最初の式典に与っている者たちは、主イエスをいろんな意味で裏切る弟子たちです。だからこそ、彼らはこの式典の意味を正しく知り、今後それを守り続けることによって、繰り返し主のもとに帰らなければならないのです。そのことは今日のわたしたちにおいても同じです。

主はまず一つのパンを取り、そして賛美の祈りをささげられました。次にそれを裂き、弟子たち一人ひとりに分け与えられました。そのとき語られた言葉は、「取りなさい。これはわたしの体である」というものでした。今弟子たちの目の前で裂かれ、分け与えられているパンは、十字架上で切り裂かれる主イエスの体を表しているということです。それを手に取り、口にし、食するということは、主の死をわたしの罪の赦しのための死として信じるということです。さらに主ご自身の命を自分の体の中に取り入れることをも意味しています。しかもそれは主の死を一般的な教えとして理解するのでなく、この自分のための死として体ごと味合うことです。キリストによって生かされている自分であることを、パンを食することを通して知らされ、確信するのです。

使徒パウロは次のように述べています。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。

聖餐式のパンはわたしたちを繰り返し、その信仰に立ち帰らせるものです。

主は続いて赤いぶどう酒の入った杯を取ってこう言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。まず、「契約の血」ということについて考えてみましょう。旧約の時代、契約が交わされるときには小羊などが裂かれて血が流されました。それは、契約を交わすもの同士が命をかけた約束をしていることのしるしでした。主は十字架上で血を流されました。それは神からの罪の赦しと新しい命が人に与えられるために、御子の血が流されたということです。主イエスの血の代価が支払われることによって、神からの大いなる恵みが罪人のために引き出されたのです。したがってこの杯を口にするとき、わたしたちは主イエスの死を偲びつつ、わたしたちも命をかけて神の御心に従って生きようとの新たな誓いへと導かれます。パンと杯、体と血は、二つに分けて語られていますが、結局、根拠としているもの、目指しているものは同じであることが分かります。

主は「多くの人のために流されるわたしの血」とも言われました。それは主の血は、今まさに杯を口にしている者のために流されたものであると同時に、その人以外の他のすべての人々のためにも流された、ということを意味しています。パンが裂かれたことも同じ意味を持っていました。聖餐に与る者はまず、徹底して主の死を自分のためのものとして受け止めることが大切ですが、それに留まらず、次に立ち上がってこの恵みの食卓にさらに多くの人々が加えられることを願って、教会から遣わされる者とならなければなりません。パンと杯がわたしのところで止まってしまってはいけないのです。この食卓につくことは、すべての人に対する主の命令であり、招きなのです。

「ユダの裏切りの予告」

マルコによる福音書14章10~21節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

過越の食事は主イエスが弟子たちと共に囲まれる最後の食事です。弟子たちはまだそのことに気が付いていません。その席で主はいきなりこう言われました。「あなたがたの内の一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18)。それを聞いた弟子たちはそれぞれに「まさかわたしのことでは」と言っています。彼らの反応は「まさかわたしたちの中にそんな者がいるはずはありません」ではありませんでした。逆に、「それはもしかしたらわたしかもしれない」、という反応でした。

これはどういうことでしょうか。それは弟子たち皆が、主を裏切る者となるユダと同じような心を持っていたということを表しています。ユダの心は、先週も考えましたが、次のようなものでした。すなわち、ユダにとって主イエスは自分が持っているメシア(救い主)像から遠く離れたものであることが分かってきました。彼にとって主イエスは自分の命や存在をかけて従って行く価値のあるものではなくなっていたのです。つまり彼にとって不用なものとなりました。そのためユダは主に従う思いが失せて、少しでも自分の益になるために金と引き換えに、主を敵対者に引き渡す行為に走ったのです。

ユダは何を間違ったのでしょうか。それはユダはいつの間にか主の上に立つ者となって、主を裁いているということです。自分の判断が規準となっています。彼は主に「主よ、わたしはあなたのことが分からなくなりました。どうしたらよいのでしょうか」と問うべきでした。しかしそうはせずに、ユダは自分自身に「どうしようか」と問うています。そして自ら出した結論が、主を捨てるということでした。ユダが主を裁いているのです。他の弟子たちにもそれと同じような心があったに違いありません。それゆえに彼らの心は、主の言葉を聞いて騒いでいるのです。「心を痛めた」(19)のも、裏切られる主に対してではなくて、自分や仲間がもしかすると裏切る者となるかもしれないということに対してでした。彼らの心は主の悲しみから遠く離れた所にあります。

そのことはここにいるわたしたち自身にも当てはまります。わたしたちも「主よ、まさかわたしのことでは」と言いかねない者たちです。わたしたちも弟子たちと同じような弱さと不信仰とを抱え持った者たちです。ユダはわたしたちと関係のない人物ではありません。わたしたちはいつでも「ユダ」になり得るものであることを弁えていなければなりません。主に対して歪みそうなそうした心が正されるのが、主が備えてくださった聖晩餐においてです。

主が裏切る者について語られた「生まれなかった方が、その者のためによかった」(21)との言葉は、わたしたちの心を鋭くえぐります。しかしこれは呪いの言葉ではありません。主の苦しみと悲しみの中からのユダに対する悔い改めを促す言葉なのです。主はユダに「わたしのもとに帰って来い」と呼びかけておられます。ぎりぎりまで待たれる主の姿がそこにあります。けれどもユダはそれによって心を変えることはありませんでした。そのユダも過越の食事になお加えられていることは、なんという主イエスの憐みの大きさでしょうか。その憐みの中でわたしたちも生かされているのです。

「最後の晩餐の準備」

マルコによる福音書14章10~21節(その1)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ベタニアのシモンの家で一人の女性から香油を注がれることによって、主イエスはその内面においていよいよご自身の死に対する意識と覚悟を確かなものとされました。一方、主の死を確かなものとすることは、外的なことにおいても進んで行きました。それは十二弟子の一人であるイスカリオテのユダが、主に敵対する祭司長たちに主を引き渡す取引をしたことによってなされました。「引き渡す」という行為自体には善悪の要素はありません。しかし、誰を誰に引き渡すのか、何を誰に引き渡すのかによって、その行為の善悪が決定します。ユダの場合、自分の師であり主である方を金と交換で敵対者たちに引き渡すことによって、それは「裏切り」の行為となるのです。

なぜユダは主を裏切ることになったのでしょうか。いろんな説があるのですが、確たる理由や動機は福音書の記述の中に見出すことはできません。諸説のいずれも推測の域を出ないのです。むしろユダの裏切りの要因は主イエスの側にあると考えるべきではないでしょうか。それは、主が弟子たちや人々が望み、期待しているような救い主でないことがはっきりした、ということです。権威と力をもって支配する王の姿は主イエスの中には見られません。逆に人から仕えられるよりも、へりくだって僕(しもべ)のように人に仕えることを教え、自らそれを実践されるのが主イエスでした。それを見て来た弟子のユダは、主イエスによって裏切られたと思い、この方について行くことは無駄だと判断してしまったのです。ユダは主を見限ってしまいました。その結果、敵対者に手を貸す道に進んで行ったと考えられます。

他の弟子たちも同じような思いを持っていたかも知れませんが、行動に出たのはユダ一人だけでした。このユダ的なものはわたしたちの心の内にも巣くっているかも知れないと思わされます。わたしたちは、<わたしたちの内なるユダ>と常に戦っていかなければならないのです。

さて、主の死の時が近づく中で、主は次の日、エルサレムで弟子たちと共に過越の食事をとられます。そのために用意された場所で、弟子たちは食事の準備をしています。過越の食事は、イスラエルの民がエジプトを脱出するとき、小羊の血が家の鴨居に塗られることによって神の使いに打たれずに助かり、無事エジプトから逃れることができたことに由来するものです。主はご自身が十字架で小羊のように死に渡されることによって、人々が救われることになる神の御計画をご存じです。それが翌日起ころうとしています。

その死に先立って、主はこの食事において前もってご自身の死の意義を弟子たちに明らかにし、さらにそのことをこれからずっと記念するために、パンと杯を分かち合う式を執り行われたのでしょう。それが今日、教会が聖餐式として執り行っているものなのです。聖餐式は過越の食事にその一つの起源があることをわたしたちは心に刻み込みたいものです。この食事の主宰者は、わたしたちのために犠牲になられた主イエス・キリストです。主がわたしたちをこの食卓に招き、わたしたちに信仰の本質を指し示し、さらに信仰の軌道修正を図ろうとしておられます。誰もが洗礼を通してこの食卓に招かれています。この年、新たに食卓を囲む人が興されることを祈りましょう。

「福音の香り―主に香油を注いだ女」

マルコによる福音書14章1~9節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

終末に関する教えが終わって、エルサレムにおける主イエスを巡る出来事に福音書の記述は戻ります。14章の初めには、主イエスの死が差し迫ってくる中で起こった、良い香りを漂わせる一つの出来事が記されています。

時は「過越祭と除酵祭の二日前」(1)と記されていることから、主イエスのエルサレムでの最後の週の金曜日の二日前、即ち水曜日です。場所は、主イエスが宿を取っておられるマルタとマリアの姉妹の家があるベタニア村です。しかしこの出来事は彼女たちの家ではなくて、重い皮膚病が癒されたシモンという人の家で起こりました。主イエスの一行が食卓に着いておられたとき、一人の女性が予告なしにそこに入ってきていきなり、非常に高価なナルドの香油の入った壺を壊して、香油を主の頭に注ぎかけたのです。良い香りが部屋中に漂いました。その香油はお金に換算すると300デナリオン(5)と言われていますから、当時の労働者の一年分の賃金に相当します。

そばにいた人たちはこの常軌を逸した行為を見て憤慨し、「それを売ってお金に換えて、それを貧しい人々に施す方がよほど良い」と言い張りました。もっともな考え方かも知れません。しかし、主はそれとはまったく異なる反応を示されました。主は、「彼女はわたしに良いことをしてくれた」と言われます。なぜなら「貧しい人たちは、これからもあなた方の近くにいる。彼らへの奉仕の機会はたくさんある。しかしわたしは間もなく十字架にかけられて死ぬことになっている。そのわたしに彼女は今、彼女にできる最大の奉仕をしてくれたのだから」というのです。これはどういうことでしょうか。

イスラエルの国では、死者を墓に葬る場合、異臭や死臭を消すという目的で、死体に香油を塗る習慣があります。主イエスは二日後に十字架の上で死んで墓に葬られることになっています。それは主ご自身のみがご存じでした。そのように死んでいく主のために、この女性は前もって香油を注いで、葬りの備えをしてくれたのだ、と言っておられます。主はこの香油がご自分の頭に注がれることによって、いよいよご自分の死は神の定めとして避けられないことを自覚されたに違いありません。そういう意味で、彼女のこの行為は福音の前進に仕えることになったのです。彼女がそうしたことをはっきり意識していたかどうかは分かりません。しかし彼女は主のこれまでの言動によって、主の死が近いことを鋭く感じ取っていたことでしょう。そして今自分が主に対して行うことができることは何かを考えた時に、彼女の大切なものを主に差し上げるということに導かれたのです。それを主は高く評価されます。

わたしたちがこのことから教えられることは、どんなに小さなことでも、また他の人からどのように批判されることがあったとしても、「これが今、主イエスに対してわたしが行うことができるただ一つのことである」という真実の心をもって行うとき、主がそれを受け止めて、本人が考えている以上の意義をそれに与えてくださり、それを福音宣教のために用いてくださるに違いないということです。それは次に続く人々の新しい行為を生み、そのようにして福音は展開されて行きます。「自分にできる限りのことを、今する」ということの尊さを、この女性の行為からわたしたちは教えられます。

「目を覚ましていなさい」

マルコによる福音書13章28~37節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

小黙示録と言われるマルコによる福音書13章の最後の部分には、二つの短い譬えが語られています。その一つは、28~30節で、「いちじくの木のたとえ」と呼ばれています。いちじくの木は落葉樹ですので、その葉の茂り方や枯れ方、そして落葉などによって、季節の移ろいを感じ取ることができます。例えば枝が柔らかくなり芽を出し葉が伸び始めると、夏が近づいてきたことが分かります。葉の変化が時のしるしとなるのです。それとよく似て、これまでに主が述べられてきたさまざまな天変地異、戦争、偽メシアの登場などが起こったときには、「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(29)と言われています。すなわち、再臨の主がこの世界に来られる時が近いと悟りなさい、ということです。わたしたちが生きている今の時代は、まさしくそのようなことが繰り返し起こっている時代です。ということは、主の再臨が明日にでも起こるとの緊張感をもって生きることがわたしたちに求められているということでしょう。わたしたちの感覚で「神の時」を推し量ることはできません。しかし時は縮まっているとの意識をもって主に従って生きることが大事です。

終わりの時「天地は滅びる」、しかし「主の言葉は決して滅びない」と言われています(31)。終わりが来た時、神の手によって造られたものは全くその様相を新たにする、ということです。それがどのような事象となるのかは、わたしたちは想像することはできません。ただ滅びゆく「天地」の中にわたしたち人間も含まれていることは確かです。しかし、そのような人間が滅びゆくことのない主の言葉に結びつくとき、滅びることなく、新しい存在へと変えられるのです。新しくされるとは、主の言葉が約束している罪の赦しや新しい命が付与されること、また神の国の一員とされることが実現することなどです。主が生きておられるからこそ、その約束も現実のこととなります。

もう一つの譬えに目を向けてみましょう。それは主人が僕(しもべ)たちに仕事を任せてしばらく旅に出るというものです。僕たちは、主人がいつ帰って来るかが告げられていないために、いつ主人が帰って来ても良いように、自分たちに任せられた務めに励み、成果を主人に差し出すことが求められます。その時のあり方が、「目を覚ましていなさい」という言葉で言い表されています。それは、主人がいないからということで怠慢に陥ることなく、主人が目の前にいるかのように誠実に務めに励むことを意味します。そうした生き方を日々していれば、主人がいつ帰って来ても僕たちは慌てることはないのです。

それは今日のわたしたちにもそのまま当てはまります。教会も「目を覚ましていなさい」と呼びかけられています。それはどうすることでしょうか。今は<教会の時>と言われます。つまり、主が天に昇られてから終わりの時までの間は、教会がこの世に「滅びることのない主の言葉」を宣べ伝えることによって、この世を終末に備えさせなければならない時ということです。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16:15)。「それから、終わりが来る」(マタイ24:14)のです。宣教こそが「目を覚ましている」ことの端的な姿です。それによって、神によって造られた人々が、滅び行くことがないものとされることに仕えることができるのです。