「眠り込む主イエスの弟子たち」

マルコによる福音書14章32~42節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

地面にひれ伏して祈られる主イエスのそばに、選ばれた三人の弟子たちの眠り込む姿が描かれています。彼らは主によって、「目を覚まして祈っていなさい」と命じられたにもかかわらず、主が少し離れた所に行かれたときには眠り込んでしまっています。それが三回も繰り返されました。この事実は弟子たちにとって恥ずべきことであり、できれば隠しておきたいことであるはずです。しかしマルコによる福音書の編集者は、それを隠すことなくありのままに記述しています。その狙いはいったい何なのでしょうか。

一つは、弟子たちに代表される人間の弱さや頼りなさをありのままに描くことによって、人間の現実を明らかにしようとしている、ということです。人は他者の苦しみを前にしても、眠りこけてしまう存在なのです。そして他の一つは、主はそのような弱さを抱えた弟子たちを、激しく叱責したり退けたりはなさらずに、赦し愛されるお方であることが示されています。主の慈しみの大きさを明らかにし、それと同じ愛と憐みがこの弟子たちの後に続く者たちにも注がれるということを教えるという目的もあるはずです。わたしたちに対しても主は同じように臨んでくださっています。

主はそのような弱さを抱えた弟子たちのことを、「心は燃えていても、肉体は弱い」(38)と言っておられます。これはどういうことでしょうか。人には、肉体とは別に、神の言葉を理解したり、御心に応答することができる働きを持った部分が備えられています。聖書はそれを「心」とか「霊」と言っています。その部分で、弟子たちは真実に、そして必死に神に応答しようとします。「心は燃えている」のです。しかし、それとは別の部分、すなわち弱い肉体がそれに伴いません。そのために、神の前で誓ったことと現実の自分とが異なるものとなってしまっています。使徒パウロもそれで苦しみました(ロマ7:7以下)。パウロとともに、わたしたちも「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ロマ7:25)と嘆くほかない者たちであることを覚えさせられます。

主はそのような人間の弱さをご存じです。それゆえ弱いわたしたちにキリストご自身の霊を注いでくださり、その霊の下で強く生きることができるようにしてくださいます(ロマ8:9参照)。そのような「キリストの霊」あるいは「神の霊」を受けることができるのは、祈りによります。人は祈りの戦いを抜きにして、霊的に生きることはできないのです。祈りを通してキリストの霊を受けることによって、わたしたちは自分の弱さや頼りなさを乗り越えて、いくらかでも御心に沿った生き方ができるものとされるのです。

主は最後に、「もうこれでいい。時が来た。…立て、行こう」と言って、ゲツセマネでの祈りを終えられました。主は御心を捉えることがおできになりました。神のお考えに対して確信を持つことがおできになりました。だからこそ、十字架の道へと恐れることなく進んで行かれるのです。

弟子たちは、眠い目をこすりながらでも、またよろける足を引きずりながらでも、主について行かなければなりません。そしてこれから主の身に起こることを目を開いて見なければなりません。そのようにして、主の十字架の目撃者、主の復活の証人としての道を歩いて行くのです。