主日礼拝 2021.09.05

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞イザヤ書56章7節 (旧約 p1154)
讃美歌52  主のさかえに
祈祷
聖書マルコによる福音書11章15-19節
信仰告白使徒信条
讃美歌88  すぎにしむかしも
説教「神殿を清める主イエス」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌313  このよのつとめ
聖餐式
讃美歌205  わが主よ、いまここにて
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄543  主イェスのめぐみよ
祝祷
後奏

「実のないいちじくの木」

マルコによる福音書11章12~14、20~21節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

聖書の中には難解な言葉や教えがいくつもありますが、本日のいちじくの木に関する事柄もその一つです。主がエルサレム入城を果たされてから二日目のことです。主イエスの一行は滞在しておられたベタニアを出てエルサレムに向かっておられます。そのとき主は空腹を覚えられて、実を求めていちじくの木に近づかれました。しかしその木には実がなっていませんでした。それで主はその木に向かって「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われました。これはあとでペトロが「呪われたいちじくの木」(21)と言っているように、呪いの言葉でした。呪いとは神の裁きを求める言葉と言ってもよいでしょう。事実、その木は翌日枯れてしまいました(21)。

なぜ主はそのようなことをなさったのでしょうか。時期は過越しの祭りに近い頃ですから春先であり、この頃のいちじくの木には普通は実がならないのです(13節参照)。しかし主があえてこのようなことをなさったのは、弟子たちに何かを教えようとされてのことであったに違いありません。いちじくの木はぶどうの木と並んで旧約聖書において、イスラエルを表す(象徴する)ものとしてよく用いられました。そしてそのいちじくの木に実がならないということを、預言者たちはしばしば警告しました(エレミヤ書8:13等参照)。つまりイスラエルの人々が悔い改めて主なる神のもとに帰ることがなかなか起こらないということを訴えたのです。

主はそのことを踏まえながら、今イスラエルの人々に悔い改めの実を見ることができないことを示し、それが結果として招くことは、神による裁きであることをこの出来事を通して教えておられます。これはある種のたとえ話的なものです。主がよく用いられる言葉によるたとえ話ではなくて、<行為によるたとえ話>として霊的な教えを含んでいるものです。つまりこのままいくならば、イスラエルは神の裁きを受けて滅びを免れることはできない、との警告がここでなされているのです。弟子たちは、そのことを学び取ることが求められていますが、しかし彼らはまだそのことに気が付いていません。

このような警告をなさった主イエスですが、実際は、神の裁きを受けられたのは主ご自身でした。イスラエルの人々が、そしてすべての罪人が悔い改めの実をならさないままに神の裁きを受けることを主は良しとなさらず、すべての者に代わって自ら十字架での裁きを受けることによって、人々の永遠の死にいたる神の裁きを免れさせてくださったのです。そこに神の「慈しみと俊厳」が表されました。

御子を裁くことによって罪人の裁きを完了したこととし、この御子の死の中に自分の罪と死を認めて、神のもとに立ち帰る者に、主なる神は救いを約束してくださっているのです。エルサレムでの主イエスの数日は、そのことが明らかにされる決定的な日々でした。

この救いの出来事は、わたしたち人間が自分たちに都合が良いように勝手に造り出した救済劇ではありません。神ご自身の手による救いの事実なのです。わたしたちも葉ばかり生い茂っているいちじくのようではなくて、神が喜ばれる悔い改めの実を実らせるものでありたいと願います。そのためには、ますます十字架の主イエスに近づかなければなりません。

主日礼拝 2021.08.29

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞エレミヤ書8章13節 (旧約 p1191)
讃美歌55  きょうはひかりを
祈祷
聖書マルコによる福音書11章12~14、20-21節
信仰告白使徒信条
讃美歌162  あまつみつかいよ
説教「実のないいちじくの木」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌239  さまようひとびと
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄542  よをこぞりて
祝祷
後奏

「ろばに乗って来られる主」

マルコによる福音書11章7~11節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

11章1節以下には主イエスのエルサレム入城の様子が描かれていますが、今日のテキスト部分では、特に人々の動きが二つの面から描かれています。一つは弟子たちや人々が、主イエスが乗られるろばの背に、鞍代わりに自分たちの服をかけたことです。そして主がろばに乗って歩かれる道には、服を敷いたり、野原から集めて来た葉のついた枝などを敷いています。これは絨毯の代わりなのでしょう。これらの行為は、ゼカリヤ書9章9節の預言を思い起こし、その預言が成就したことを彼らなりに表現しているものです。こうして人々は主イエスを待望の「メシア」、新しい王として歓迎しています。

さらに人々は、「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように」と讃美の声をあげています。これは、詩編118編25-26節からの引用で、わたしたちの救い主がついにおいでになった、主よ、どうか一日も早く救いを実現してください、との思いで叫ばれている讃美であり、祈りです。

このように主イエスを歓迎している人々とは誰のことでしょうか。十二弟子たちは当然含まれていますが、ほかにガリラヤから主に従ってきた人々、さらにはエルサレムで主を迎える人々などが考えられます。彼らは小さな芝居をしているようですが、そうではなくて旧約聖書の預言の成就を主イエスの到来に見て、精一杯聖書に忠実に主をお迎えしていると見るべきでしょう。

こう考えると、人々は主イエスに対して正しい認識と信仰とを持っているかのように見えます。それがなぜ、数日後には弟子たちは主のもとから逃げ去り、エルサレムの人々は主に対して「十字架につけろ」と叫ぶようになったのでしょうか。それは彼らが預言者たちが示した新しいメシア、新しい王に対して間違った思い込みや先入観を持っていたからということによります。彼らは、新しいメシアは政治的、軍事的にイスラエルを輝かせるものと思い描いていました。勝手なメシア像を作り上げていたのです。しかし数日の間に、主イエスの実体は、そのようなものではないということがはっきりしてきました。そのため人々は裏切られたと思い、主に対する反旗を翻したのです。

このことはわたしたちにとって大きな教訓となります。わたしたちが主を人々に証しするとき、人々の要求に何でも応えてくださるお方であるかのように、主による安価な恵みとか救いを約束することがあってはならないということです。相手に迎合するような形でキリスト像をゆがめないようにしなければなりません。パウロは「神の慈しみと厳しさを考えなさい」(ロマ11:22)と述べています。主の愛や赦しとともに、裁きの厳しさも語らなければなりません。主は裁きつつ赦したもうお方なのです。

ところで、人々の歓迎ムードの中で、主はどう応えられたでしょうか。主は用意されたとおりに入城された後、神殿の様子をご覧になって夕刻にエルサレムを離れられました。その間、主は人々の歓迎ぶりの中に、人々の置かれている状況、即ち救いを必要としている状況を肌で感じられたことでしょう。飼い主のいない羊の群れのような人々がそこにいます。その人々に主の憐みは向けられます。そして「ホサナ、主よ、お救いください」との叫びは、人々の期待する形ではなく、十字架において結晶するのです。

主日礼拝 2021.08.22

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞ゼカリヤ書9章9~10節 (旧約 p1489)
讃美歌54  よろこびのひよ
祈祷
聖書詩編118編25~26節 (旧約 p958)
マルコによる福音書11章7~11節
信仰告白使徒信条
讃美歌90  ここもかみの
説教「ろばに乗って来られる主」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌130  よろこべや
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄542  よをこぞりて
祝祷
後奏

「主がお入り用なのです」

マルコによる福音書11章1~6節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

マルコによる福音書11章から終わりまで、主イエスのエルサレムにおける最後の一週間が記述されます。この福音書全体の実に三分の一以上の分量が用いられていることから、この一週間が如何に重要であるかが分かります。

主は今エルサレムに入られます。この都市は城壁に囲まれた都市でしたから、そこに入ることは「入城」として言い表されます。主がその入城のために用いられた方法が特別なものでした。それを二つの面から考えてみましょう。

一つは主がろばに乗って入城されたことです。それは、旧約聖書の預言通りのことを主がなさったためです。ゼカリヤ書に次のように記されています。

「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る」(9:9)。

この預言通り主はイスラエルの王として、また約束のメシア(救い主)として、ろばに乗ってエルサレムに入って行かれます。それはこの預言が、今主イエスによって実現されていることを人々に示す行為でした。そしてエルサレムの人々も、ろばに乗って入城される主イエスを見て、この預言を思い起こし、その成就を確信し、歓迎しています。この時の様子については、次週に7節以下でもう少し詳しく考えます。主がろばを用いられたことの第一の理由は、預言との関係からなされたことでした。

次に預言にも「高ぶることなく」とあるように、主はろばを用いることによってご自身の仕える姿を表しておられます。ろばは、一般的に言って馬ほど見栄えのよいものものではありません。家畜の初子が生まれた時にはそれを神に捧げるのが決まりでしたが、ろばの場合は小羊に代えられました(出エジプト34:20)。価値が低いということなのでしょう。しかしろばは柔和な性格で忍耐強く、重荷を背負って黙々と働きます。華々しい軍馬ではなくて、ろばを用いることによって、主はご自身が人々に仕える者としてのメシアであることを示しておられます。人々は預言の成就に関してはある程度理解できたでしょうが、ろばを用いることの信仰的意味には気が付いていないかもしれません。

こうして主はエルサレムに入られるのですが、このろばをどのようにして調達されたのでしょうか。それは、弟子たちに命じて、ある村からろばを借りてくることによってでした。弟子たちは命令通り出かけてろばを借りることができたのですが、そのとき、これは「主がお入り用なのです」と断って借りています。主が前もって手配しておられたのでしょうが、そのろばを新しい王としての主がエルサレムに入城するために必要なものとして借りることができたのです。主が必要としておられるものが、主のご要望通りに用いられるとは何と幸いなことでしょうか。

主はわたしたちをも、時に応じて呼び出されます。そのときわたしたちが「なぜなのですか」と問うならば、主は言われます。「わたしがあなたを必要としているからだ」と。それに対する応答の道は一つしかありません。それは主が今必要とされているものを差し出すことです。

「主よ、わたしをあなたの平和の器として用いてください」(アッシジのフランチェスコの祈り『平和の器』より)。

主日礼拝 2021.08.15

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    栗林 聖子

奏楽
招詞詩編34編2~4節 (旧約 p864)
讃美歌82  ひろしともひろし
祈祷
聖書マルコによる福音書11章1~6節
信仰告白使徒信条
讃美歌291  主にまかせよ、ながみを
説教「主がお入り用なのです」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌320  主よ、みもとにちかづかん
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄541  ちち、みこ、みたまの
祝祷
後奏

「見えるようになりたいのです」

マルコによる福音書10章46~52節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

これはエリコの町における主イエスとバルティマイという盲人との出会いの物語です。バルティマイが物乞いのために道端に座っていた時、自分の前を通って行かれるお方が、ナザレのイエスであることを知らされました。すると彼はすぐにこう呼びかけています、「ダビデの子イエスよ」と。「ダビデの子」とは、イスラエルの偉大な王であるダビデの子孫ということですが、これはある特別な意味を持っていました。すなわち、神がこの国に送ると約束されているメシアがその名で呼ばれていたのです。バルティマイは、神から与えられた特別な認識の賜物によって、イエスをメシア、すなわち約束の救い主と信じて呼びかけているのです。これは彼に与えられた信仰告白の言葉です。

さらに彼は、主イエスに「わたしを憐れんでください」とも言っています。つまり自分の見えない目を見えるようにしてくださいとの祈りをささげています。この機会を逃しては二度とこの方にお会いする機会はないと感じてのことなのか、必死に主に向かって祈りの言葉を投げかけています。

それに対して主の周りにいた多くの人々(その中には弟子たちも含まれていたかもしれません)は、彼を制して主に近づけないようにしています。以前、子どもたちを主のもとに連れてきた人たちを弟子たちが叱りつけたように(10:13以下)、この時も人々は同じようなことをしています。主に近づける人とそうでない人とを勝手により分けている主の周辺にいる人々の相変わらずの心がここに表されています。彼らは自分たち自身のことはどのように考えていたのでしょうか。

しかし主は言われます、「あの男を呼んで来なさい」。群衆の騒ぎ立てる声を超えて、主はひとりの人の必死の叫びを聞き取り、その人をご自身のもとに招かれるのです。ちょうど大勢の群衆の中にいてそっと手を伸ばして主の衣の裾に触れたあの出血の止まらない女性の手を見分けられたように(マルコ5:25以下)。呼ばれた彼は躍り上がって主のもとにやって来ます。主がわたしたちの叫びや祈りに耳を傾けてくださることは、こんなにも大きな喜びなのです。主はこの人の願いが何であるかを確認した上で、それを聞き入れてくださいました。「あなたの信仰があなたを救った」と言われるとおり、彼の目は主の憐みを受けて、見えるようになりました。主は、彼の主にすがる一途な思いを彼の「信仰」と言ってくださっています。長血の女性の場合も同じでした。

多くの人にその人固有の叫びがあります。自分の願いと現実との隔たりの中で苦しんでいる人たちが多くいます。それぞれに「叫び」を内に抱えているのです。それを抱えて主のもとに行こうとするとき、いろいろな力が「やめとけ」と言って制します。もしかすると自分が自分自身を制して、「やめなさい」、「意味がない」と言っている場合もあるかもしれません。しかし主はそのような人たちの内なる叫びを聞き取って、「その人をわたしのもとに連れて来なさい」と言ってくださっています。主のもとに来るべきか否かは人が決めることではありません。主ご自身がお決めになります。主は今も「あの人をわたしのもとに連れて来なさい」と呼びかけておられます。

主日礼拝 2021.08.08

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞イザヤ書29章17~19節 (旧約 p1106)
讃美歌26  こころをかたむけ
祈祷
聖書マルコによる福音書10章46~52節
信仰告白使徒信条
讃美歌87B  めぐみのひかりは
説教「見えるようになりたいのです」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌333  主よ、われをば
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄542  よをこぞりて
祝祷
後奏

「仕える者として生きる」

マルコによる福音書10章42~45節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

御国が完成した時には王位に着かれるはずの主イエスの右と左の座に自分たちを着かせてほしいと願う弟子ヤコブとヨハネの求めに対して、主は弟子たちが本来求めるべきことは何であるかを教えておられます。その中心にあるのは、「仕える者」として生きよ、ということです。

そのことを語られるにあたって、主はまず異邦人の生き方について触れておられます。異邦人とは、イスラエル民族以外の人々のことで、内容的には真の神を知らない人々ということになるでしょう。彼らは、畏れるものを知らないために、この世の力や財産を多く持つことによって人々の上に立ち、人々を支配しようとします。主の時代の異邦人はそのようでした。主は、弟子たちはそうであってはならないと言われます。

一方、主の弟子たち、また真の神を知らされた者たちの生き方は、内容的には、「皆に仕える者」、「すべての人の僕(しもべ)になること」として言い表されています。そのような生き方が可能となるのは何によってでしょうか。どこにその見本となるものを見出せばよいのでしょうか。それに対して主は、ご自身のことを明らかにされることによって、答えておられます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45)。「人の子」とは、主ご自身のことです。この言葉の中に、主がいかなるお方であられるかが端的に言い表されています。人は罪という悪しき力の捕らわれとなっている、そのような人間を解放するために、神の前にご自身の命を差し出して、その結果、神から罪人の命を買い戻してくださる、という主イエスによる救いのこと、さらには贖い(あがない)のことが語られています。わたしたちは、その主の身代金によって、神のものとして買い戻されました。それゆえ、主に従う者たちも、主に倣って人の命のために自分の身を差し出すのです。それが仕えるということの本質です。

さらに使徒パウロは、主イエスは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6~7)と告白しています。これは人となられた神の子イエスのヘリくだりを述べたものです。その主のへりくだりの姿の中にわたしたちのあるべき姿を見出して、わたしたちも自分のことに固執せずに、他者が真に生きる者となるために、また他者の命が神のもとに連れ帰されるために、自分自身の命と存在を投げ出して用いることが勧められています。そのような生き方こそが「仕える」ということであり、それは主イエスに倣うことによってわたしたちの内に始まるものです。

主は最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われた後に、次のように言われました。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:15)。弟子たちの生き方の基本は、このような主のへりくだりと仕える姿の中にあることが今示されました。彼らは天の主イエスの右と左の座を争うことから解放されて、他の人に向かわなければなりません。それはわたしたちにおいても同様です。