マルコによる福音書16章19-20節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
マルコによる福音書の連続講解説教の最終回として本日は、後代に加筆されたと考えられる「結び 二」の16章19~20節からみ言葉を聞いて、わたしちにとっても一区切りとしたいと思います。
ここに記されていることの第一は、復活された主イエス・キリストが、地上から天に上げられた、ということです。使徒言行録によると復活の主が地上におられたのは40日間でした(1:3)。その間に主は弟子たちを相手に復活の事実を繰り返し明らかに示し、彼らが確信をもって復活の証人としての働きをするように教育し、訓練されました。それから神の時が満ちて、主は天に上げられたのです。「天」とはどこにあるのでしょうか。それは空の上とか宇宙のかなたではありません。詩編115編3節に「わたしたちの神は天にいます」と謳われていますように、神がおられる場所が天です。神は生きておられる存在です。そうであれば、神がおられる場所もあるはずです。それを聖書は「天」と言い表しています。
さらに天に上げられた主は、「神の右の座」に着かれました。ここでも場所を表す言葉が用いられています。これも空間的な場所のことではなく、権威や働きを表す言葉として理解すべきものです。主は最高法院で尋問を受けられたとき、「今から後、人の子は全能の神の右に座る」と自ら告げられました(ルカ27:69)。それは天において神と等しい力と権威をもって、世界を治め、教会を導き、さらに罪人の救いのための執り成しの働きをするとの宣言です。「執り成し」の働きとは、主イエスが神の右におられて、父なる神に祈り神に近づき神に救いを求めている人々のために仲立ちをしてくださることです。それによって人々は神に結びつき、神の国に招き入れられるものとなります。わたしたちの祈りも、この主の執り成しによって神に届けられ、わたしたちは神との豊かな交わりの中で生きる者とされます。
こうして主イエスが地上から離れて天に上げられることは、わたしたち人間にとって決して不利益なことではなくて、神の救いの歴史が新しい段階に進んだことを示しています。わたしたちはそれによって新たな恵みを受けるものとされます。
一方、地上に残された弟子たちはその後どうしたでしょうか。彼らは「出かけて行って、至るところで宣教した」(20)と記されています。弟子たちは主が地上におられないということで気力を失ってしまうことなく、復活の主の「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16:15)の御委託に応えて、主の復活を語る福音宣教に励んでいます。そうすることができるのも、彼らが復活の主の訓練によって復活信仰を強められたからです。さらに天にある主はその後も彼らと共に働いて、彼らの言葉が真実であること、すなわち神からの言葉であることを明らかにしてくださっています。天にある主が地上の弟子たちと共にもいてくださることによって、彼らの宣教活動は力あるもの、真実なものとされました。
復活の主は今も霊においてわたしたちと共に働いてくださり、、信じる者を生み出し、教会を造り出してくださっています。ときにわたしたちは、キリスト者が少数であることを嘆き、自分たちの力の弱さをかこち、実りの生じないことによって諦めを覚えたりすることがあります。しかしそのようなわたしたちのかたわらに復活の主がいてくださって、わたしたちを励まし、力づけてくださっています。主なる神がヨシュアに語られた言葉を思い出しましょう。「わたしは…あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」(ヨシュア記1:5~6)。その主なる神の御声がわたしたちにも響いてきます。