「わが神、なぜお見捨てになったのですか」

マルコによる福音書15章33-41節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

十字架上の主イエスは息を引き取られる前に、アラム語で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。そしてこの言葉は、詩編22編2節の句を主が口にされたものとして知られています。主はなぜ、神への絶望を表すようなこの句を発せられたのでしょうか。二通りの理解の仕方があります。

一つは、詩編22編は初めの部分こそ神から見捨てられたことによる神への絶望の叫びであるが、それが歌われていく中で、ついに神への感謝と賛美に変わっていくことに注目しようとするものです。そして主の十字架上のこの叫び声は、詩編22編全体を口にしようとされたものであって、神賛美こそが主の目的であった、という理解が生まれてきます。したがってこの場合、主の叫びは絶望や悲惨さよりも、希望の言葉として受け止めるべきものと考えられます。それが一つです。

他の理解の仕方は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という一句のみに注目するものです。神の子イエスはまさしく神から見捨てられた者のみが味わう絶望と恐れの中に叩き込まれて、そこからの叫び声を発しておられるのだ、ということです。すべての罪人の代表として、あるいはその身代わりとして神の前に立たれた御子イエスは、罪人が受けるべき神による裁きと断罪とをその身に受けておられるのです。主は「わたしは人から見捨てられた」とは言わずに、「神よ、なぜあなたはわたしをお見捨てになったのですか」と言っておられます。本来ならば、わたしたち罪人があげるべき叫びを、主はわたしたちに代わってあげておられるのです。なぜ御子イエスは、父なる神によってそのような扱いをお受けになったのでしょうか。それは罪人たちが、これと同じことを味わうことがないためです。御子がすべての罪人に代わってその悲惨さを身に受けられることによって、他の罪人の上に襲う絶望と悲惨を取り除いてくださっているのです。そのための十字架でした。そういう理解も成り立ちます。それゆえに主の十字架上の叫びはわたしたちに代わる叫びであり、それが救いの基となるのです。

そのことを示す一つの出来事が起こりました。それは異邦人の百人隊長が、十字架上の主を見つめることによって、次のような言葉を発したことです。「本当に、この人は神の子だった」(39)。これはいわば百人隊長の主イエスに対する信仰告白と言うべきものです。彼は、主イエスに起こった一連の出来事を見る中で、この信仰へと導かれて行きました。『讃美歌』(54年版)139番4節に次のように歌われています。「十字架のうえより/さしくるひかり/ふむべき道をば/照らしておしう」。百人隊長はまさしく十字架によって、これからの歩むべき道を示されました。

わたしたちは、十字架の上で苦痛を味わわれて死へと向かわれた主イエスを見つめるとき、わたしたちが遭遇する如何なる苦痛の中にも主がいてくださって、わたしたちを助けてくださるとの確信と慰めを与えられます。ヘブライ人への手紙2章18節に次のように記されているとおりです。「事実、(主)御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。一見、恐ろしく慰めなどないように思われる十字架上の主イエスの姿は、わたしたちにとって大きな慰めと希望が満ち満ちている所でもあるのです。