「イエスを知らないと言うペトロ」

マルコによる福音書14章66~72節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは最後の晩餐のあとゲツセマネに向かう途中で、弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われ、特にペトロに対しては「あなたは三度わたしを知らないと言う」と告げられました。第一のことは主が捕らえられたときに弟子たちが皆逃げ出したことによって現実のこととなりました(50)。そして第二のことが現実のこととなるのが今日の出来事です。

大祭司の屋敷の中庭に忍び込んだペトロでしたが(54)、そこにいた人々によって不審がられました。それは女中からは二度にわたって、そしてそこに居合わせた人からは一度、「お前はあのナザレのイエスの仲間であろう」と問われたことの中に表されています。ペトロはその都度、自分と主イエスとの関係を否定しています。三度目の問いに対しては、「そんな人は知らない、もし関係があるとすれば何と呪われたことか」と、呪いの言葉さえはきながら、主イエスを冷たく突き放す言葉を口にしています。そのとき、主が先に予告しておられたように鶏が二度目に鳴きました。そしてペトロは、「鶏が二度鳴く前に三度わたしを知らないと言う」と言われた主の言葉を思い出し、そのとおりになったことを知らされて激しく泣き出しています。

ペトロが先に「わたしは主を知らないなどとは決して言わない」と力強く誓ったことは、どうしてこのようにいとも簡単に破られてしまったのでしょうか。きっとペトロは法廷とか権威者の前に立たされて主イエスとの関係を問われたときには、決して自分は主を否定しない、いや逆にはっきりと、自分は主の弟子であるということを宣言しようと考えていたのでしょう。ところが主イエスとの関係を問われる場とか機会は、思いがけないかたちでやって来ました。大祭司の屋敷の中庭での何気ない会話の中で、彼は主との関係を問われたのです。そのとき彼はそれを否定することは何でもないことだと考えたに違いありません。問いかける者たちに対しても、まともに答える必要のない相手と軽く考えたのです。そこに彼の錯覚と過ちがありました。イエス・キリストをわが主として告白する場は、大掛かりなかたちでやって来るだけではなく、日常生活の只中でそれはやって来ます。生活の場がキリスト告白の場であり、日常が主イエスを証しする時なのです。ペトロはそのことに思いを向けることができませんでした。そのため彼への問いかけを軽く受け流してしまいました。

ところで、彼の流した涙はどのような内容の涙だったのでしょうか。一つは、主を知らないと言ってしまった自分の軽さ、不真実、そして主への裏切りなどを思い知らされて流した悔恨の涙であったに違いありません。さらに考えを深めると、このように主を知らないと言う過ちをペトロが犯すことを主が先にご存じであられたにもかかわらず、彼を愛し続けられる主の赦しの慈しみと愛を知らされての涙である、ということを思わされます。ペトロはこのような辛い体験を通してしか、主の愛を真に知ることができないことを主はとっくにご存じでした。だからこそこのような体験を主はペトロに与えておられるのです。それゆえいま流しているペトロの涙は、彼の再出発の機会とされるのです。罪を責めるよりもそれを赦して再出発の機会とされる主の深い愛によって、わたしたちも生かされてきたことを教えられる場面です。