「復活の主とマグダラのマリア」(復活節礼拝)

マルコによる福音書16章9-13節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

復活された主イエスは、「まず」(9)マグダラのマリアにご自身のお姿を現されました。このマリアは以前、主によって七つの悪霊を追い出していただいて救いを与えられた女性です。それ以来彼女の主イエスに従う新しい生が始まりました。彼女は主に従い、主に仕えて、宣教のために働く者となりました。ガリラヤからエルサレムまでの旅を共にし、主の十字架のもとにたたずんでその死を見届け、葬りにも立ち合いました。そして週の初めの日の早朝に主の遺体に香料を塗るために墓に出かけて行きました。復活の主は、そのマリアに誰よりも先にご自身を現してくださったのです。主を慕い、主を愛し、主を信じている彼女は、主イエス抜きにはもはや生きることが出来なくなっていました。そのようなマリアに主もまた応えてくださって、新たな出会いの時を設けてくださったのです。

主は伝道活動の中で、「強い」と自分自身を考えている者よりも、自分の弱さを知っている者を身元にお招きになりました。主は、自分を「義人」と見ている者よりも、罪人であるとの自覚を持って胸を打ちつつ生きる者の方に近づいて行かれました。彼らはそのようにして主によって受け入れられ、彼らもまた主を受け入れる者とされました。その主は復活後も同じように、弱い器であるマリアにまず近づいてくださって、彼女の悲しみと絶望とを取り除いてくださっています。使徒パウロの「わたしは弱いときにこそ強い」(コリント二、12:10)という言葉を思い出します。わたしたちの弱い所にこそ主は宿ってくださるのです。

主はマリアに何を語り、また何を託されたのでしょうか。それについては聖書には何も書かれていませんが、マリアの行動から推測することが出来ます。彼女は主との出会いの後、「イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた」(10)のです。つまり彼女は、主は死からよみがえられたということを人々に知らせる働きを始めています。それは別の言葉で言えば、<復活の証人>としての働きです。それが主によって彼女に託された務めでした。

マリアから主イエスのよみがえりの事実を知らされた人々は、それを信じようとはしませんでした。このあと復活の主と出会った二人の弟子たちが、そのことを同じ人々に伝えても、彼らはこれも信じようとはしませんでした。この人たちは主イエスの直弟子たちやガリラヤから主に従って来た婦人たちであり、また他にも主と共に行動してきた人々もいたことでしょう。彼らは生前の主から、三度にわたってご自身の十字架の死と葬りと三日後のよみがえりについて聞かされていた人々でした。しかし彼らは、主の明確な予告の言葉と、復活の主に出会ったマリアや二人の弟子たちの証しとを結びつけることが出来ないでいます。「信じなかった」という言葉が繰り返されていることの中に、復活を信じることの困難さが表されています。

それでは今日、復活の主に直接出会うことの出来ないわたしたちは、どのようにして復活を信じる者とされるのでしょうか。それは復活の主との特別な出会いによります。主は今は「別の姿」(12)でわたしたちに出会ってくださいます。それは礼拝において語られる御言葉としての説教と、見える神の言葉としての聖礼典によってです。復活の主は今日、それらによってわたしたちに語りかけてくださっています。その言葉を主ご自身のものとして聞くことによって、わたしたちの信仰は始まります(ロマ10:17参照)。聖霊の働きを祈り求めつつ御言葉に耳を傾け続けるとき、そこに復活の主との確かな出会いが必ず与えられるはずです。