「主のゆえに捨てるものと得るもの」

マルコによる福音書10章23~31節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは立ち去っていく金持ちの男性の後ろ姿を見ながら、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われ、さらに「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とも言われました。それを聞いた弟子たちは、富や財産は神からの祝福のしるしであるはずなのに、それを持つ者が神の国に入ることが難しいのであれば、「それでは誰が救われるのだろうか」と驚き、また絶望的になっています。

主はここで富める者が神の国に入るのは難しいということを強調しておられますが、なぜそうなのでしょうか。主はお金そのものを問題にしておられるというよりも、それらが人間に対して持つ力を問題にしておられます。あるいは、人が如何にそれらのものに振り回されるものであるかということを問題にしておられるのです。富める者たちが持っている共通の傾向は、持てば持つほどさらに多くのものを持とうとすることです。心が財産や富に奪われてしまうのです。それによって、その人から神が遠のき、さらには、隣人の存在もないもののように薄められてしまいます。神への愛と人への愛が、富によって消滅させられるということが起こるのです。富によってその人の心と魂が地上のことに縛られてしまう、そのことへの警告を主はなさっておられます。

混乱する弟子たちに対して主は言葉を続けられます。「人間にはできることではないが、神にはできる」と。富める者であろうが、富を持たない者であろうが、自力で神の国に入るのは難しいけれども、自分の側に自分を救い得るものは何もないことを知って、一切を神に委ねるならば、人の手によって開かれなかった神の国の扉が開かれると言われます。つまり地上の持ち物によらずに一切を神に委ねることによる可能性を主は語っておられます。それゆえわたしたちは、神の国に入ることの困難さや不可能性について論じるよりも、御国に入れられることの可能性を神との関係の中に見出すことが大事です。

主の言葉によって少しばかり希望を抱くことができるようになった弟子たちは、自分たちは何もかも捨てて主に従っています、地上の物には頼っていません、ということを告げています。それに対して主が応答しておられる言葉が、29~30節に記されています。その要点は、主への服従のために捨てることによって、捨てたもの以上のものを手にすることができるという約束です。捨てる対象として挙げられているものは、家族や財産などです。どれも大変身近なものばかりです。主に従うという目的のために何かを捨てたとき、その人に対して神は捨てたもの以上のものをもって報いてくださる、と主は言われます。捨てたものの百倍に当たるものを神の国で与えられるというのです。これは量的なものではなくて霊的なもの、地上的なものではなくて天的なものです。ひとことで言えば、「永遠の命」のことです。

さらにわたしたちが見落としてならないことは、百倍のものを受けるのは「捨てられたものたち」においても起こりうる、ということです。それらもやがて神との新しい関係に移されるというのが神の約束であり、それゆえにそのことがわたしたちの祈りでもあり希望ともなります。

「天に宝を積む」

マルコによる福音書10章17~22節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

「ある人」が主イエスのもとにやって来ました。この人は22節の記述から、お金持ちであったことが分かります。また並行箇所のマタイ福音書では「青年」とあり、ルカ福音書では「議員」として紹介されています。この人は若くして財産も社会的地位も手にすることができています。同時にそれに満足せずに「永遠の命」についての思いも持っていました。神の戒めを守り、真摯な生き方をしていたのですが、何かまだ手にしていない大事なものがあることを感じて、彼は主のもとにそれを求めてやってきています。

彼は主に「善き先生」と呼びかけています。彼にとって主は、なんでも教えてくれる最高の先生として受け止められていたようです。それに対して主は次のように答えられました。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」。これはどういう意味でしょうか。主はこの言葉によって、ご自身の背後におられる父なる神にこの人の目を向けさせようとしておられるのです。単に学ぶことや教わることによって地上の何かを積み上げ、今足りないと感じているものを補おうとするのではなくて、地上の次元を超えたお方に目を向けることによって、そのお方との関係の中で彼の願いがかなえられようにと、主は天の神を指し示しておられるます。

主は続いて彼に、神の戒め、特に十戒の中の人間に関する戒めを持ち出しておられます。それはこれらの戒めを表面的に守ることがそれを守ったことになるのではなく、戒めの背後にある神の御心を知って、それに従って生きることこそが大事なことなのだということを教えようとしておられるからです。それらの中心にあるのは、隣人への愛、隣人と共に生きようとする愛です。

彼は主が示される戒めはみな子どもの時から守ってきたと言っています。清潔な生き方をしてきたのでしょう。しかし、主は彼の生き方の中に、上に述べた<愛>が決定的に欠けていることに気づいておられます。それは裏を返せば、彼は神の戒めを、神の御心にそった形では守っていないということです。それゆえ「あなたに欠けているものが一つある」と厳しい口調で語っておられるのです。それは愛です。しかし、彼はどうしてそう言われなければならないのでしょうか。それは彼の生き方に隣人の存在が全く欠けていて、財産などすべて善きものは自分だけのものとしてしか考えていなかったことにあります。主は言われました、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ6:21)。彼の富があるところに彼の心があるとは、神のところに彼の心はない、それゆえ貧しい人々のところにも彼の心はない、と言うことになります。富を他者のために用いるという発想は彼には全くなかったのです。その生き方を根本的に改善させるものは、愛です。それゆえ、彼が求めている「永遠の生命」の内容は、愛と言うことになります。

しかし彼の頭の中には全くなかったことを示され、促されて、彼はそうすることはできないという思いで主の前から悲しみつつ去っていきました。人は「神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)のです。彼が自分に向けられた主の慈しみの眼差し(21節参照)を思い出すことができるならば、きっともう一度のチャンスが与えられるに違いありません。

「子どもを祝福される主イエス」

マルコによる福音書10章13~16節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今の時代は<子ども受難の時代>と言われたりします。それほどに子どもや小さな命がさまざまな危機に直面しています。小さい存在が軽んじられる時代はどこかが歪んでいます。主イエスの時代はどうであったのでしょうか。

ある時、親が自分の子どもたちを主のもとに連れてきました。主から祝福を受けたいと願っていたからでした。しかしそれに対して弟子たちは叱って、彼らを追い払おうとしました。なぜ弟子たちはそうしたのでしょうか。それはきっと弟子たちの頭の中には、子どもにはまだ福音は分からない、彼らには神の国は関係ないということがあったからに違いありません。主イエスの宣教活動が子どもたちによって邪魔されてはいけない、という思いもあったことでしょう。彼らは誰が神の国にふさわしいかどうかの資格検査を勝手にしているのです。このような弟子たちの考えは間違っています。子どもたちにも罪はあります。それゆえ彼らにも罪の赦しが必要であり、救い主が必要なのです。弟子たちにはそのような子ども理解はありませんでした。

主は弟子たちに憤りを覚えられました。そしてこう言われたのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。…神の国はこのような者たちのものである」(14)。主イエスは明らかに子どもを拒んではおられません。それどころか彼らこそ神の国に入ることができる者たちである、とさえ言っておられます。主は子どものどのような特性に目を向けて、神の国にふさわしいものであると言っておられるのでしょうか。子どもの持つ純粋さとか、素直さとか、無邪気さでしょうか。しかし彼らにはそうした善きものだけでなく、わがままな面や自己中心的な面もあります。主は人が子どもに倣うべきものとして、何に注目しておられるのでしょうか。

それは、彼らの<全面的な依存性>ということとして考えられます。あるいは<全き受動性>と言ってよいかもしれません。子どもたちは自分たちだけでは、命を保つことはできません。親たちからの愛や保護や恵みによって生きることができます。つまり自分よりも大きな確かな存在に自己を委ねることによってのみ生きることができるのです。そうすることによって彼らの小ささや弱さが、彼らの強さとなるのです。神の国は人が勝ち取るものではなくて、自己を神に委ねることによって、神によって受け入れられるところにあるのです。それはわたしたちにおいても同じです。わたしたちも神の前にあっては小さな存在にすぎません。子どもが親の懐に飛び込むように、わたしたちも神の懐に飛び込むことによって、永遠の命を与えられるのです。そのことにおいて人は幼子たちの受動性・依存性に、信仰において倣うことが求められます。

パウロは次のように語っています。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」(コリント一、4:7)。わたしたちが所有している地上のものはすべて、神の許しの下で自分のものとされています。それと同じように、あるいはそれ以上に、罪の赦し、体の復活、永遠の命の約束など、霊的な善きもののすべても、神からいただかなければ自分のものとなることはありません。つまり、究極的にわたしたちは神に依存している存在なのです。それはわたしたちにとって幸いなことです。そのことを子どもたちから学びなさいと主は教えてくださっています。

「神が合わせられたもの」

マルコによる福音書10章1~12節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日、家庭や親子関係や夫婦関係の崩壊が、社会の崩壊の最大の原因であると指摘されます。それほどに深刻な状況です。このことについての聖書の教えの一つが、今日の主イエスとファリサイ派の人々との問答にあります。

あるときファリサイ派の人々が主に次のように尋ねました。「夫が妻と離縁することは、律法に適っているでしょうか」(2)。これは苦悩の中からの問いではなくて、主が旧約聖書にどれほど通じているかを試そうとするものでした。しかし主はそれを軽くいなすことはなさらずに、正面から受け止めて「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返しておられます。つまり、律法にどう書かれているかを尋ねておられるのです。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えています。彼らはこの掟によって、夫は妻に恥ずべきことがあればいつでも離縁することができる、離縁は合法的である、夫の権利であるとさえ考えていたのでしょう。

しかし主はこのモーセの掟の中に、人間の弱さに対する神の憐みを見ておられます。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(5)。これは、崩れた結婚生活を続けることによって、互いがかえって傷つけあい、神への信仰や、礼拝を捧げることに支障が生じてくるようであれば、互いが神によって造られた人格を回復し、自身を維持するために別れることはあり得る、と主は解釈しておられます。人間の弱さに対する神の厳しさの緩和あるいは譲歩をこの掟の中に読み取っておられるのです。離婚の勧めではありません。神学者バルトは「主のこの教えと解釈によって、どれほど多くの傷ついた夫と妻が癒されたことであろうか」、また「離婚して再出発することが、神への服従として良い道であることが当事者において、また信仰の良心の下で認められた時、教会はこれを承認すべきである」と述べています。

しかし主の教えの中心は離縁にあるのではありません。主は続いて、神の創造の業に立ち帰って、そもそも男と女とはどういう関係にあるかを思い起こさせておられます。その内容は、神はご自分にかたどって人を男と女に創造された、その二人は神のもとで一体となることによってさらに神に近づくことができる、そのようにして神が結び合わされたものを人は離してはならない、というものです。神が人をご自身にかたどって造られたとは、人は神との対話の中で生きるものとされたということです。そして、男と女とが夫婦として結び合わされることによって、この神との対話はより豊かなものになる、というのが神の創造の目的です。その結びつきによって新たな人格が造り出されることになります。それゆえ、神は男と女とを創造されただけではなく、その結びつきである結婚も創造されたということになります。その結びつきは偶然のものではなくて、創造主なる神の意志の下にあるのです。それゆえ「実にこのことは信じられるべきことである」とさえ言われます。

わたしたちは常に神の創造の目的に従って人間というものを考え、また結婚について思いを巡らすべきです。人間の勝手な判断が人と人との関係のあり方を決定してはならないのです。それは社会の混乱の原因となります。今日の教会の務めの一つは、人々が神の創造の目的に従って人間を考え、家庭を考えることを回復するために仕えることです。

「真の命に至る道」

マルコによる福音書9章42~50節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは「小さい者」への愛をこれまで何度か説いてこられました。今日のテキストの冒頭でも、小さい者をつまずかせることに対する厳しい裁きの言葉を語っておられます。「つまずかせる」とはどういうことでしょうか。この語の本来の意味は、人の歩く道に石などを置いて歩く邪魔をする、妨害をすると言ったことです。これが信仰の世界において用いられると、自分の言葉や行いによって、信仰に生きる人の確信や主への信頼を揺るがして、主から切り離すことなどを指すことになります。意図的にあるいは無意識の内に、わたしたちはそのような言動をしてしまいがちです。それに対して主は今、それらの人は「海に投げ込まれる方がよい」と厳しい警告を発しておられます。なぜこれほど厳しい言葉が発せられるのでしょうか。

それは信仰に生きようとしている人たちは、次のような人たちだからです。「この兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(コリント一、8:11)。すなわちそれらの人々は御子の命が十字架に捧げられることによって、神のもとに取り戻された人たちなのです。そのように主の愛が注がれた人たちを、わたしたちは自分の軽率なあるいは悪意に満ちた言動によって主から切り離してはならないのです。そのことの重大さを示すために主は厳しい裁きを語っておられます。主はまたその言葉によって、つまずかせる人を滅ぼそうとしておられるのではなく、他者との間に生かし合う命の関係を築き上げるようにと促してもおられます。

さらに主は自分自身をつまずかせることについても語っておられます。自分の手や足や目が自分自身をつまずかせるというのは分かりにくいことですが、要するに自分の内面から生じてくるキリストへの背反や罪への誘いに気が付いた時は、それに勝利するための真剣な闘いを挑めということでしょう。肉体の病でしたら、病んでいる部分を切除することによって、健康が回復したり命が保たれたりすることがあります。その場合、切除の痛みに耐えなければなりません。それでは自分自身をキリストから切り離そうとする罪という霊的な病の場合はどうすればよいのでしょうか。それは比喩的に言われている手とか足とか目の実際の切除によってなされるものではなくて、真剣な祈りを伴いつつなされる敵対するものとの血を流すほどの闘いによって、それに打ち勝とうとすることです。そうすることによって人は「命にあずかる」すなわち真の命を得ることや、「神の国に入る」ことができるものとされます。戦わずしてわたしたちは御国の一員としてあり続けることはできないのです。

主は最後に「自分自身の内に塩を持ちなさい」と教えておられます。金属の鉱石が火によって精錬され、純度を高めていくように、わたしたちも試練や霊的な闘いを通して、邪悪なものや不信仰なものを取り除かれて、神の国の一員にふさわしいものとされて行きます。そのよう中で与えられるものが「塩」です。それは神からの賜物です。福音を聴くこと、それに従って生きることによって与えられたその塩味をわたしたちはきょうだいたちの信仰のために、彼らの慰めや励ましのために、さらに教会の形成のために用いることが求められています。そうすることは「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4:6)とのパウロの教訓に通じるものです。

「だれが主の味方か」

マルコによる福音書9章38~41節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

弟子の一人ヨハネが12弟子以外の人のことについて、主に次のように報告しています。「主の名を使って悪霊を追い出している人がいたのですが、わたしたちに従わないのでやめさせようとしました」(38節参照)。ヨハネは、人が主イエスの名を使って癒しの業をするのであれば、自分たちと同じように主に従って来るべきだと考えたのでしょう。彼は主から「それでよい」とのお言葉がもらえるものと期待していたかもしれません。しかし主のお答えはそれとは違って意外なものでした。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方である」(39)。このお言葉の中には、ヨハネに対する戒めと、主の名を用いている人への配慮が含まれています。

ヨハネに対する戒めとは、彼の内にある偏狭な排他性や不寛容に対するものです。ヨハネは確かに漁師としてのすべてを捨てて主に従う者となりました。それは尊いことです。しかし現実には、12弟子と同じように何もかも捨てて主に従って行くという形をとれない者たちもいるのです。今はそれぞれの場所に留まって、そこで与えられた賜物を用いて主のために仕えている人たちもいます。ゲラサの地で主によって悪霊を追い出していただいた人は、主に従って行くことを申し出ましたが、主は彼に「家に帰って、身内の人に主の憐みを伝えなさい」(マルコ5:19参照)と命じられました。それはこの人に与えられた主に仕える形です。自分たちだけが主のために働いているとの考え違いをしていたヨハネに対して、主は今その特権意識を戒めて、他の形の服従の道もあることを教えておられるのです。

主はそのように12弟子とは異なる形で主のために働いている人のことを、「わたしの味方」と述べておられます。それは彼らが主の働きに対して妨害者とはならず、実質的には主の協力者として働いていることを寛容に受け入れておられるということです。つまり、彼らにも神からの務めの委託があって彼らはそれを果たしている、と主は受け取っておられるということではないでしょうか。神が彼らをも用いておられるということです。それは彼らに対する信頼と言うよりも、彼らを用いておられる神に対する信頼から出てくる言葉です。さらに主は、彼らは今は彼らなりの仕方で神の御業を果たしているが、やがて時が来るならば、彼らは次の段階に進むであろうという期待をも持っておられるに違いありません。無名の弟子たちにこのあと続いて起こるであろう次なる飛躍を待っておられる主の姿を、そこに見ることができます。そのように主は「主の味方」である人が、いつまでも今の形のままであり続けて良いとは考えておられないのです。彼らもやがて主の十字架と復活に対する信仰をもって、主のために身を捧げるものとなってほしいと願っておられます。

今日においてもキリスト教への良き理解者である「主の味方」、協力者はわたしたちの周囲にいます。その人たちによってわたしたちは間接的に支えられていることを感謝をもって覚えるものです。主はそのような人たちが「主の味方」から真の「主の弟子」になることを待っておられるに違いありません。それはわたしたち自身の祈りでもあります。

「主イエスを受け入れること」

マルコによる福音書9章30~37節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスがご自身の受難と復活の二回目の予告をなさった後、弟子たちの間で議論されていたことは、誰がいちばん偉いかということでした。なぜ彼らはそのような議論をしたのでしょうか。考えられる一つの理由は、彼らが主の予告を誤解して、まもなく主はエルサレムで王位に着かれる、そのとき誰が主に続く地位に着くだろうかということに関心を抱いていたからということです。主は弟子たちのそうした心をご存じであられました。そのため、十二弟子たちを呼び寄せて主に従うことの意味を改めて教えておられます。それが仕える者として生きることと、子どもを受け入れることについてです。

主は言われます。「いちばん先になりたい者は、…すべての人に仕える者になりなさい」。「仕える」とは、本来奴隷が食卓に仕え、世話をするという意味をもっています。それを突き詰めるならば、他の人の命と生存のために自分の身を差し出すことです。多くの人が他者よりも自分を上に置き、他者に仕えさせる生き方をしようとする中で、逆に他の人の生のために自分を差し出す生き方をせよと主は命じておられます。これは厳しい律法ではありません。むしろ、仕えることの中に主がおられる、その同じ場所にわたしたちを招いておられるということによって、それは福音であり、賜物であると言うべきでしょう。

宗教改革者ルターは次のように言っています。「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも服さない。キリスト者はすべての者に仕える僕(しもべ)であって、誰にでも服する」。キリスト者はイエス・キリストを唯一の主とするゆえに、他の誰にも服さない自由を持っている。それとと共にキリスト者は、主が小さい者に仕えられたがゆえに、誰にでも仕えることができる自由の中に生きる。これがキリスト者のあり方です。

主はさらに仕えることの意味を深めるために、小さな子どもを受け入れることへと話を展開されます。当時、ユダヤの社会においては子どもは価値の低いものと考えられていました。誰がいちばん偉いかと議論している弟子たちには、小さい子どもの存在など眼中になかったことでしょう。そのような弟子たちに対して、小さい子どもを受け入れることは、主を受け入れることに等しいと教えておられます。その場合の「受け入れる」とはどういうことでしょうか。それは何よりもその存在をありのままに認めることです。この小さな存在にも神の愛は向けられ、彼らの救いのためにも主は十字架を担われたということを信じることです。それが「主の名のために」受け入れるということです。

「その(弱い)兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(コリント一、8:11参照)のです。その弱い者の中にわたしたち自身も含まれています。主によってそのように仕えられた貧しいわたしたちが、他の小さな存在をどうして無視することができるでしょうか。パウロは言います、「…キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(ロマ15:7)。そうすることは主を受け入れることであり、ひいては神を受け入れることになると主は言われます。他の人、特に小さな存在と如何に関わるかは、主イエスとの関り、ひいては神との関りをもそのうちに含んだものであるという重要な関連を、わたしたちは教えられます。

「祈りによらなければ」

マルコによる福音書9章14~29節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスが三人の弟子たちと共に山から下りて他の弟子たちのところに来られた時のことです。弟子たちを大勢の人々が取り囲んで議論していました。それは、父親が汚れた霊にとりつかれた我が子の癒しを求めて弟子たちのところに来たけれども、彼らは癒すことができなかったということを巡っての議論でした。それをお知りになった主は、「なんと信仰のない時代なのか」と言って嘆かれました。主はどのような意味で「信仰のない時代」と言われたのでしょうか。また弟子たちはどうして癒すことができなかったのでしょうか。

主は父親にその子をここに連れてくるように命じられました。激しい症状を表すその子をご覧になって主は心を痛められたに違いありません。主に対して父親はすぐに癒しを求めました。その時の言葉は、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」というものでした。父親はなぜ「おできになるなら」という言葉遣いをしているのでしょうか。それは一見遠慮がちで控えめな姿を現しているようにも聞こえます。それに対して主は厳しい言葉を返されます。「『できれば』と言うのか。信じる者には何でもできる」。主のお言葉から知ることができるのは、父親の姿は謙虚さを表すものではなく、主への絶対の信頼を欠いたものであるということです。「わたしに対してはそのような言葉は不要である」とでも主は言っておられるかのようです。

ここでわたしたちは自分たちのことを考えさせられます。わたしたちも神に対して「もしできますならば」の信仰、いや不信仰を抱えている者です。神の可能性への限界を勝手に設けているのです。そのために、わたしたちの愛する人々の救いに関しても、「もしできれば」という程度の思いに留まっているのではないでしょうか。「神におできにならないことは何もない」との熱い思いで神と向き合うことが信仰においては不可欠であることを思わせられます。それが共に生きる人たちの救いにもつながるのです。

主は汚れた霊にとりつかれた子どもを癒すために、「汚れた霊よ、わたしの命令だ。この子から出て行け」と命じられました。すると直ちに霊はその子から出て行き、この子は癒されました。これを見た弟子たちは、「どうしてわたしたちにはできなかったのでしょうか」と尋ねています。それに対する主の答えはこうでした。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」。主は、信仰の足りなさは祈りの足りなさである、信仰の弱さは祈りの弱さであるということを教えておられます。弟子たちは自分たちの悪霊追放の方法が間違っていたのかもしれないとの思いで主にお尋ねしたのですが、主は信仰の基本的なところにおける弱さを指摘しておられます。信仰は神への全面的な自己委託であり、祈りはその行為です。「信仰のない時代」とは、神に対する真摯な祈りの欠如の時代として見ることができます。

わたしたちも、父親が「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだように、信じる心と信じえない心を抱え持った者たちです。内に信仰と不信仰が共存しているわたしたちです。その中で信仰を自分の生の中心の座に据えるためには、祈り以外にないことを教えられます。

「山上での主イエスの輝き」

マルコによる福音書9章2~13節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスが弟子たちにご自身の受難と復活の予告をなさり、さらに自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさいと命じられたときから六日が経過しました。主は今、三人の弟子たちを伴われて山に登っておられます。そこで主イエスのお姿が変わり、また旧約時代のモーセとエリヤが現れるという現象が起こりました。これはいったい何を意味しているのでしょうか。

モーセは、旧約聖書の重要な要素の一つである「律法」を代表する者として登場しています。また、エリヤは同じように重要な「預言者」の代表です。またこの二人は、その死に関して不思議なことが伴っていたために、彼らは再びこの世に来るということがイスラエルにおいて信じられていました。そのような二人が主イエス・キリストの前に現れ、親しく語り合っている様子が展開されています。それによって、旧約聖書が目指していたことは、主イエスにおいて目に見える形となって表されたということが明らかにされています。旧約全体が指し示していたことは、新約のイエス・キリストにおいて成就したということです。ここに旧約と新約の連続性と関係性が明らかにされています。

目の前で起こっていることの意味を理解することの出来なかったペトロは、この現象がいつまでも続けばよいと考えました。その時、天からの声が響きました。それは「これはわたしの愛する子、これに聞け」というものでした。先に主イエスが洗礼を受けられた時には、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」(1:11)との声が天から聞こえました。それは御子イエスに対して語られたものでしたが、今回は弟子たちに向けて語られています。「これに聞け」と命じられています。それは、どのような状況にあってもあなたがたは、御心に敵う神の子イエス・キリストに聞き従えということです。これから主イエスの身に大きな出来事が起こる、また弟子たちの上にも思いがけないことが必ず起こる、しかしいかなる時にもこの主エス・キリストに聞き従いなさいと神は命じておられます。

なぜこの時、このような現象が弟子たちに示されたのでしょうか。それは、弟子たちが主と崇めるイエス・キリストは、苦しみに会い、十字架の上で死ぬことになっているが、それで終わらずに、復活の命に移されることも約束されていることを明らかにするためです。弟子たちの頭には、今は、つい先日聞かされた主の苦しみと死のことしかないかもしれません。しかし、主ははっきりとご自身の復活のこともお語りになっておられました。そのことに心を向けられないでいる弟子たちに、神は山の上での輝きに満ちたイエスのお姿、それは死に勝利されたお姿ですが、それを弟子たちに表すことによって、主の最後の様子を明らかに示しておられるのです。それによって、この主に從う者たちにも、同じように輝きに満ちた終わりの時が用意されていることを約束してくださっています。彼らも終わりの時に変容するのです。その約束を目に見える形で示されることによって弟子たちが徹底して主に從う生き方を貫く者となるようにと、励ましておられます。主に從う者たちには、希望に満ちた輝きが終わりの時に神によって備えられていることを教えられます。

「自分の十字架を負う」

マルコによる福音書8章34~9章1節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは、ご自身の受難と復活を予告された後、ご自身に従う者たちの覚悟をお教えになりました。それが、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」です。この語調から明らかにされることは、主が招いておられる新しい生き方は、強制されるものではなく、それぞれが神の前で、自分の自発的な決断によって選び取るべきものである、ということです。ここで主が人々に命じておられることは、「自分を捨てなさい」、「自分の十字架を背負いなさい」、そして「わたしに従いなさい」です。まとめますと、主に従うことが最終的な目的で、そのために二つのこと、即ち「自分を捨てよ」と、「自分の十字架を背負え」の二つが具体的に求められていることになります。この二つについてまず考えてみましょう。

「自分を捨てよ」と命じられています。別の表現をするならば、「自分自身を否みなさい」となります。これはどういうことでしょうか。それは自己放棄とか自己否定という言葉に言い換えられることもあります。これはもちろん自分の命を絶つということではありません。自己を捨てるとは、多くの人が持っている自己拡張の欲望を捨てて、自分を超えた存在のために自分を用いよ、ということです。したがって、自己否定を行う前に、肯定すべき何か大きなものとの出会いや発見があるということが前提となっています。その肯定すべきもの、そしてわたしたちに自分を捨てて従って来るようにと迫って来られるお方こそ、たった今ご自身の苦難と死を予告された主イエス・キリストです。その方の背後に自分を置き、その方に自分を賭け、その方のお心に従ってすべてを選び取っていく生き方、それが「自分を捨てる」ということです。それゆえ、自分を捨てることは決して消極的な生き方ではなくて、極めて積極的・意志的な生き方であることが分かります。

次に主が求めておられることは、「自分の十字架を背負え」です。主イエスにとって十字架を背負うことは、罪人の罪を担って十字架の上で死ぬことでした。その主が、従う者たちに「自分の十字架を背負え」と命じられるとき、それは従う者たちも十字架の上で死ねということなのでしょうか。究極的にはそのようなことまでもが含まれていることは、否定できません。しかしむしろ、ここでは死ぬことよりも生きることが命じられています。つまり、自分を捨てて主に從って生きようとするときに、自分自身の身に降りかかってくるさまざまな苦しみや困難や戦いから逃げようとせずにそれを受け止め、それらを耐え忍びながら主への服従を貫くことです。そのようにして、救い主を証しし、人々の救いのために仕えること、それが自分の十字架を背負うことです。

それはいつも何か特別なこととして起こるわけではありません。またすべての信仰者に等しい形と程度で起こるのでもありません。その人が置かれている状況の中で、日常的に、神の秤に従ってそれぞれに分け与えられるのです。各自の十字架の比較や評価は必要ではありません。それぞれにその人にふさわしい十字架を担わされる神は、同時にそれを担う力をも与えることによって支えてくださり、ご自身の器として用いられます。また主はその人の信仰が無くならないようにと祈りつつ、常にそばにいてくださるのです。

命を救うことと失うこと