「自分の十字架を負う」

マルコによる福音書8章34~9章1節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは、ご自身の受難と復活を予告された後、ご自身に従う者たちの覚悟をお教えになりました。それが、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」です。この語調から明らかにされることは、主が招いておられる新しい生き方は、強制されるものではなく、それぞれが神の前で、自分の自発的な決断によって選び取るべきものである、ということです。ここで主が人々に命じておられることは、「自分を捨てなさい」、「自分の十字架を背負いなさい」、そして「わたしに従いなさい」です。まとめますと、主に従うことが最終的な目的で、そのために二つのこと、即ち「自分を捨てよ」と、「自分の十字架を背負え」の二つが具体的に求められていることになります。この二つについてまず考えてみましょう。

「自分を捨てよ」と命じられています。別の表現をするならば、「自分自身を否みなさい」となります。これはどういうことでしょうか。それは自己放棄とか自己否定という言葉に言い換えられることもあります。これはもちろん自分の命を絶つということではありません。自己を捨てるとは、多くの人が持っている自己拡張の欲望を捨てて、自分を超えた存在のために自分を用いよ、ということです。したがって、自己否定を行う前に、肯定すべき何か大きなものとの出会いや発見があるということが前提となっています。その肯定すべきもの、そしてわたしたちに自分を捨てて従って来るようにと迫って来られるお方こそ、たった今ご自身の苦難と死を予告された主イエス・キリストです。その方の背後に自分を置き、その方に自分を賭け、その方のお心に従ってすべてを選び取っていく生き方、それが「自分を捨てる」ということです。それゆえ、自分を捨てることは決して消極的な生き方ではなくて、極めて積極的・意志的な生き方であることが分かります。

次に主が求めておられることは、「自分の十字架を背負え」です。主イエスにとって十字架を背負うことは、罪人の罪を担って十字架の上で死ぬことでした。その主が、従う者たちに「自分の十字架を背負え」と命じられるとき、それは従う者たちも十字架の上で死ねということなのでしょうか。究極的にはそのようなことまでもが含まれていることは、否定できません。しかしむしろ、ここでは死ぬことよりも生きることが命じられています。つまり、自分を捨てて主に從って生きようとするときに、自分自身の身に降りかかってくるさまざまな苦しみや困難や戦いから逃げようとせずにそれを受け止め、それらを耐え忍びながら主への服従を貫くことです。そのようにして、救い主を証しし、人々の救いのために仕えること、それが自分の十字架を背負うことです。

それはいつも何か特別なこととして起こるわけではありません。またすべての信仰者に等しい形と程度で起こるのでもありません。その人が置かれている状況の中で、日常的に、神の秤に従ってそれぞれに分け与えられるのです。各自の十字架の比較や評価は必要ではありません。それぞれにその人にふさわしい十字架を担わされる神は、同時にそれを担う力をも与えることによって支えてくださり、ご自身の器として用いられます。また主はその人の信仰が無くならないようにと祈りつつ、常にそばにいてくださるのです。

命を救うことと失うこと

「命を救うことと失うこと」

マルコによる福音書8章34~9章1節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

先に8章34節を中心に御言葉を聞きましたが、35節以下のみ言葉にも耳を傾けてみましょう。主は、ここで命には二つのものがあると言っておられます。用語はどちらも同じですので、見分けがつきにくいかもしれませんが、前後の関係から区別ができます。その一つは、地上に属する命、生物学的な命です。わたしたちが普通に命と言っているものです。もう一つは、神の国に属する命、永遠の命です。主は今、この二つの命について語っておられます。
35節に「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」とあります。自分の力だけで自分の命を守ろうとする者、自分の益のためにのみ生きようとする者は、結局、「それを失う」、つまり神の国に属する命を手にし損ねるということです。その人の地上の命の終わりが、すべての終わりということになります。

一方地上の命を失っても天に属する命を得ることができるのは、「主のため、また福音のために命を失う者」です。その人たちは地上の命を失っても、命を救うことができる、即ち、天における新しい命を約束される者となるということです。それは具体的にはいかなる生き方を指しているのでしょうか。先に「自分の十字架を背負って主に從え」と主は命じられました。この生き方こそが、主が言われる「主のために自分の命を失う」生き方であり、それがすべての人が手にすべき本来の命を手にすることができる唯一の道であるということです。これは、人が勝手に考え出した命についての教えではなくて、主なる神が約束してくださっていることです。わたしたちはそれを信じます。

現実はどうでしょうか。36~37節の主の言葉を聞くときに、わたしたちの多くは自分の命を失う生き方をしているのだということを思わせられます。「全世界を手に入れる」とは、自分の力だけで自分の命を守り、地上のあらゆる良きもの、それは物であったり、金銭であったり、人からの賞賛であったりしますが、それらで身を固めれば安心だという生き方のことです。それはだれか特定の少数者のことではなく、わたしたちの多くが何らかの形でそのような生き方を志向していると言わざるを得ないものです。そして死ぬときにこの生き方は間違っていたことに気が付き、すべてを差し出して天における命を手に入れようとしても、その代価は高すぎて、手にすることはできないと主は語っておられます。天における命は、神から与えられるものですから、地上の富などで買い取ることはできないのです。詩編には次のように記されています。

49編9節「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」。

ここでの「魂」は、天における命と考えて良いものです。

天地が滅んでもなお続く命、たとえ死んでも新たに生きる命、これは非科学的ですが、しかし、主イエス・キリストの死からの蘇りによって、その存在が明らかにされました。自分を捨て、自分の十字架を背負って死に至られた主は、地上の命は失われましたが、神によって天における命を与えられました。その主がわたしたちに今、真の命に至る道を指し示してくださっているのです。わたしたちもこの道を歩むようにと招いておられます。何を失っても、キリストの中にのみ新しい命を見ることができる信仰が、いよいよ確かなものとなるように祈りつつ、この道を歩みを続けていきましょう。

「主イエスの受難と復活の予告」

マルコによる福音書8章31~33節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

キリスト教は言葉の宗教と言われることがあります。この信仰に生きる者は自分たちの信仰内容を、明確な言葉で告白したり、証言したりすることが求められています。弟子たちは主からの問いに対して、ペトロが代表して明瞭な言葉で「あなたは、メシアです」と答えました。それはまさしく主イエス・キリストがどなたであられるかをふさわしく言い表したものです。主はそれに対して、そのことを誰にも話さないように命じられました。それだけでなく、ご自身が「メシア」であるとはどういうことなのかを弟子たちに明らかにされます。それが31節に記されている主の十字架の苦しみと死と死からの復活の予告です。これも明らかな言葉で述べられています。

ここで注目したいことは、「人の子は必ず……することになっている」との言葉遣いです。これは神の御計画の中で必ず起こるべきことを言い表したもので、「神的必然」と言われることもあります。主は、神がお定めになった十字架の死をご自身の身に受けるべきだとの覚悟を言い表しておられるのです。

それが意味していることが分からない弟子のペトロは、主をわきへお連れして主をいさめています。「そういうことを口にされてはなりません」と強い口調で述べたのでしょう。ペトロは直情径行の気質ゆえにすぐにそのように反応したとも評されます。しかしそれだけではなく、これはペトロの主に対する素朴な愛の表れとも見ることができます。自分の主であり師である方を死なせてはならないと、彼なりに主を守ろうとしているのです。人間味あふれるペトロの姿を見ることができるように思います。

しかし主はそれに対して、極めて厳しい言葉で対応されます。主の言葉は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」というものでした。今度は主がペトロをいさめておられます。ペトロに向かって「サタン」と呼びかけておられますが、これはペトロがサタンに変質してしまったということではありません。ペトロは今、神に敵対するサタンの攻撃を受けていることをご存じの主は、彼の中に侵入しているそのサタンを追い出そうとしておられるのです。ペトロの情熱や愛は良い、しかしそれが神の思いに従ったものではなく、神とは反対方向に導こうとするサタンに引きずられたものであるならば、それは退けなければならない、それが主の思いでした。主ご自身、十字架を避けさせようとしているサタンの攻撃を受けておられるからこそ、ペトロのこともよくお分かりなのです。

こうして主はペトロを叱ることによって、彼の内からサタンを追い払われました。それはペトロ自身を追い払っておられるのではありません。むしろ主は彼を正常な位置へと引き戻そうとしておられるのです。つまりペトロが主の前に立って主を導こうとするのではなく、主のあとに従う者としての位置に戻るようにと命じておられるのです。「あなたはメシア」と告白した主イエスのあとから従っていくことこそ、彼のなすべきことでした。彼は今新たに「わたしに従いなさい」との主の招きを受けているのです。わたしたちに対しても主は、いつもそうなさっておられるに違いありません。

「あなたは、メシア」

マルコによる福音書8章27~30節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

わたしたちは人生において多くの出会いを経験します。どのような出会いが与えられるかによって、人生が決定されると言ってもよいほどです。信仰においては、神が遣わされたひとり子イエスに、どのようなお方として出会うかが決定的に大事なことです。弟子たちはどうだったでしょうか。

主イエスは弟子たちと共にフィリポ・カイザリア地方に行かれ、そこで改めて彼らと向き合われます。そして二つの問いを投げかけられます。一つは、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」です。主の周りに集まってきている群衆が、主をどのように見ているかを問うておられます。それは、人々の評判を気にしておられるのではなく、彼らの主に対する認識が正しいかどうかを知ろうとしておられるのです。さらにその問いは、弟子たちに対する第二の問いの準備としての意味も持っているものです。弟子たちは、人々の主に対する評判を「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」、「預言者の一人」というようにありのままに報告しています。人々は、主イエスを偉大なお方として捉えていますし、旧約聖書との関係も踏まえていることが分かります。

しかし主は弟子たちのその返答に何も応答されずに、続いて第二の問いを投げかけられます。それは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いです。今度は弟子たち自身の主に対する受け止め方を問うておられるのです。これまで行動を共にし、主による教育と訓練を受けて来た弟子たちが、主に対する正しい認識を持つに至っているかを確認しておられるのです。彼らは今、霊的な視力が問われています。

弟子たちを代表してペトロが次のように答えました。「あなたは、メシアです」。主イエスこそ、神から遣わされた救い主(メシア、キリスト)と告白しています。これは言葉の上では正しい答えであるに違いありません。人々の理解とは奥行が違います。これは聖霊によって導かれた告白と言っても良いでしょう。次のように記されているとおりです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリント一、12:3)。

しかし、それに対して主は「そのとおりだ」とか、「それで十分だ」とは言っておられません。不思議なことに「自分のことをだれにも話さないように」との沈黙命令を出しておられるのです。これはどういう訳でしょうか。おそらく、弟子たちの告白は言葉の上では正しいけれども、「メシア」の真の内容についての理解がまだ不十分であることを主はご存じあられたのでしょう。世間には政治的メシアとか魔術的メシアといった理解がある中で、主がメシアであられるということはそうしたレベルのことではないことを、弟子たちは知らなければなりません。この後(8:31など)続いて語られる十字架と復活におけるメシアとして主イエスに出会うことが、弟子たちに必要なのです。

わたしたちも主によって、「あなたはわたしを何者だというのか」と常に問われています。主が求めておられる告白をなし続けるために、わたしたちは聖書の言葉と聖霊によって、繰り返し主イエスに出会うことが求められています。「主よ、わたしに正しい告白を与え続けてください」。

「真理に開かれる目」

マルコによる福音書8章22~26節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

本日のテキストである8章22~26節は、マルコによる福音書における重要な位置を占めています。それを意識しながら御言葉に耳を傾けましょう。

これは盲人の癒しの物語です。舞台はガリラヤ湖北岸のベトサイダです。主イエスの一行がそこに行かれたとき、人々が一人の盲人を主のもとに連れてきました。もちろん、見えない目を癒していただくためです。主はその盲人を人々から切り離して村の外に連れて行かれました。癒しの行為は見世物ではなく、また主の力を誇る場でもありません。一対一の関係の中で、癒される人が主と出会う場なのです。主はそういう状況を作り出しておられます。

この癒しの出来事が持っている特徴は、目が見えるようになる癒しが二段階で行われているということです。最初は主によって目に唾がつけられ、手が置かれると、少し見えるようになりました。盲人は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と言っています。おぼろげに人の姿が見えるようになりました。しかしそれではまだ完全に癒しがなされたことにはなりません。主がもう一度手を置かれると、今度は「何でもはっきり見えるように」なりました。癒しが完了したことになります。その人が見えるようになった目で最初にはっきり見たのは、主イエス・キリストでした。

ところでマルコ福音書は全体で16章から成っています。今日のテキスト部分は分量的にちょうど全体の中間に位置しており、これ以後、福音書は後半部分に入ります。内容的には、前半は主がなさったことが中心に記されてきました。それは神の子イエスがどのような意味で神からの方であるかを明らかにするものでした。これからの後半部分は、8章29節におけるペトロの「あなたは、メシアです」という告白から一気に主イエスの受難予告が3回繰り返されながら、主がいかなる意味でメシアであられるかが明らかにされて行きます。そういった意味で、今日の盲人の目の癒しが二段階でなされた癒しは象徴的です。それは弟子たちの信仰の成長の過程を示唆してるように思われます。

先の箇所で、弟子たちが主によって「まだ分からないのか。悟らないのか」ととがめられたことを聞きました。彼らはまだおぼろげにしか、主イエスがどなたであるかが分かっていませんでした。しかし、ペトロの信仰告白によっても明らかなように、主がメシアであられることが少しずつ認識されるようになっています。まだ十分ではありませんが、彼らの信仰は少しばかり主イエスに近づいています。そのように信仰は一気にすべてが理解される形で与えられるものではなくて、少しずつあるいは段階的に成長しながら、主が求められるものに近づいて行きます。盲人の癒しの物語はそのことを示唆しています。

わたしたちの信仰も同じです。わたしたちも主によって「まだ分からないのか」と言われる状態を続けながら、いろんなことをきっかけに次の段階に進むことができるものとされます。その間主は忍耐をもってわたしたちを捕え続け、導いてくださいます。盲人の目に主の手が置かれたように、わたしたちの心の目に聖霊が働きかけてくださって、わたしたちの信仰は少しずつ高みへと導かれていくのです。わたしたちの中に生じた信仰を、主は「キリスト・イエスの日までに」(フィリピ1:6)完成してくださるのです。

「まだ悟らないのか」

マルコによる福音書8章11~21節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主は、4千人の人々にパンを分け与えられた後、ダルマヌタの地方に行かれました。そこにファリサイ派の人々がやって来て、主を試そうとして、天からのしるしを求めました。彼らは、「主イエスが神から遣わされたメシアであるならば、それを証拠立てる、目を見張る業を示して欲しい。そうすればわたしたちはあなたを信じます」と言っているのです。それに対して主は、「今の時代には、決してしるしは与えられない」と答えられました。それは、ファリサイ派の人々が求めているような劇的なしるしは決して起こらない、主イエスご自身がそこに存在し、神からの業をなさっていることそれ自体が、最大のしるしなのだ、と言っておられるのと同じです。

わたしたちも時には、著しい奇跡的なことが教会によってなされるならば、多くの人が教会に目を向けるようになるのではないかと考えたりします。しかしわたしたちにとっても神からのしるしは、主イエス・キリスト以外にはないのです。使徒パウロは次のように述べています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(コリント一、1:22~23)。教会は時代がどんなに変わろうとも、十字架の主イエスを宣べ伝えることに全力を注ぐのです。

主イエスの一行はその地を去って、舟に乗って向こう岸に渡ろうとしています。その舟の中で、弟子たちは自分たちの手元にパンが一つしかないことで論じ合っていました。それを聞かれた主は話題を、食べるパンからファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に移されました。この場合のパン種とは、誤った教えのことです。ファリサイ派の教えは自分たちの考えを絶対的規準としたものであり、ヘロデの教えは権力と欲望を中心とするものと言ってよいでしょう。それは主イエスの教えに真っ向から敵対するものです。主はそれらの教えに多くの人々が影響を受け、誤った思想に染まることがないように気をつけなさいと、弟子たちに教えておられるのです。しかし弟子たちは、主のその忠告が何を意味しているか分からないままでした。

そこで主は先のパンの二つの奇跡を持ち出されます。しかもそれぞれの場合に、そこにいた人々の数ではなくて、残ったパン屑を入れた籠の数を思い起こさせておられます。これはどういうことでしょうか。5千人の場合、残ったパン屑の籠の数は12でした。それはまずイスラエルの全12部族に福音を運べと言う意味でした。さらに4千人の場合は、残ったパン屑の籠は7でした。7が完全数ということから、全世界にあまねく福音を伝えよとのメッセージがそこにあることを教えられました。誤った教えが世界に蔓延する前に、あなたがたは真の命のパンであるイエス・キリストの福音を世界に運べと教えておられるのです。このことは小さな舟の中でなされました。舟は教会を象徴しています。教会には命のパンであるイエス・キリストがおられます。そのパンを全世界に運ぶ、それが教会の主からの委託です。悪しきパン種で世界が膨れ上がる前に、教会は「これを食べる者は決して飢えることがない」と言われる真のパンであるイエス・キリストを全世界に運ぶのです。

「あの方は復活なさった」(復活節礼拝) 

マルコによる福音書16章1~8節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主の復活の朝を迎えました。それは死が命に変わった日です。わたしたちは皆、死に向かって進んでいます。そして死はすべての終わりであると考えています。死の後にいかなることも期待することはできないし、死者に対して何もすることができないのです。しかし、そうした考え方がひっくり返される出来事が起こりました。それが主イエス・キリストの死からの復活です。

主の弟子たちも主の死ですべてが終わったと考えていました。主の死のあと主に従った者たちに何かまだすることが残っているとすれば、主の遺体に香油を塗ることだけです。金曜日の夕刻には、慌てて主の遺体を十字架から降ろして墓に納めたために、それをすることができなかったからです。

三人の女性たちが週の初めの日(日曜日)に、夜が明けるか明けないうちに、主の遺体が納められた墓に行きました。香油を塗るためです。墓の穴を塞いでいる石をどうしようかと案じながら墓に向かった彼女たちでしたが、墓に着くとその石はすでに取り除けられ、白い衣を着た若者が中にいたのです。この若者は神の使いです。墓には主の遺体は見つかりませんでした。神の使いは彼女たちにこう告げました。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。このことを弟子たちに伝えなさい」。それを聞かされた女性たちは、今見たことや告げられたことに対する驚きや恐怖に耐えることができず、急いで墓から逃げ去りました。彼女たちは正気を失ってしまいました。

主が生きておられたとき、三度にわたってご自身の十字架の死と死からのよみがえりについて語られました。それを女性たちも聞かされていたはずです。しかし、主が予告されたことが現実に起こったとき、弟子たちも彼女たちも、主の言葉をすぐには思い出すことができなかったのです。彼らは主が言われたことも十分に理解できていませんでしたし、たった今目撃した事柄も主の言葉と結びつけて受け止めることができませんでした。

ある神学者が、「復活の出来事の前で、誰でも思考や知恵がいったん止まるほかない」と述べています。まさしくそのことが主への服従に生きた者たちに起こっています。わたしたち人間の思考の先に復活があるのではありません。それがいったん遮断される形で主なる神が引き起こしてくださる出来事が、死から命への移行、即ち復活です。それでは信じえない者たちが主の復活を信じることができるようになるためには、何が必要なのでしょうか。それは復活の主ご自身との出会い以外にありません。この後、女性たちや弟子たちは復活の主との出会いを与えられて、少しずつ信じる者へと変えられて行きました。

イエス・キリストの復活によってすべての人間の前に大きく立ちはだかっていた死という岩が取り除かれて、新しい命の世界が切り開かれました。死を超えた命が主によってもたらされたのです。わたしたちは主に結びつくとき、永遠の死へと死んでいくのではなくて、真の命に向けて死んでいくのだということを教えられます。主は言われました、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)。わたしたちは、死を恐れる者ではなく、主の復活のゆえに死を超えた命の希望に生きる者とされているのです。

「イエスかバラバか」(棕梠の主日礼拝) 

マルコによる福音書15章6~15節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日は棕梠の主日です。聖書においては、つい数日前に棕梠の葉を道に敷いて「ホサナ」と叫びながら主イエスを歓迎した人々が、今は「イエスを十字架につけよ」と叫ぶ者に大変身しています。そしてついに最高法院で死刑の判決を受けた主は今、死刑確定のために総督ピラトのもとに引き渡されました。尋問の中で沈黙を守り続ける主に対して、ピラトは不思議な思いを抱くとともに、この人は無罪だとも思い始めています。しかし人々の「十字架につけよ」との声は大きくなるばかりです。注意して聞けばその叫び声の中にわたしの声も混じっているかもしれません。

困惑しきったピラトが思いついたのは、祭りの度ごとに囚人を一人釈放してきたこれまでの慣例です。それによってイエスを赦そうと考えたのでした。しかし人々は主イエスではなく、暴動と殺人の罪で十字架刑が決まっているバラバの釈放を求めました。それはピラトの予想に反することでした。人々は、自身を神の子と称し、悔い改めを求めるイエスより、ユダヤの国家のためにローマへの抵抗運動をしたバラバの方がまだましだと考えたのでしょう。人々が、少しもおごらず、ヘリくだりをもって他者に仕えることを教える主ではなくて、力と暴力によって目的を達成しようとするバラバを選んだことの中に、多くの人が何を原理として生きようとしているかが如実に表されています。今日においてもイエスではなく、バラバを選ぶ人がきっと多くいることでしょう。

ピラトはどうしたでしょうか。彼も結局は民衆の声に押されてバラバを釈放する決断をします。彼は真実や正義を重んじることよりも、民衆に迎合し自己保身を図るためにそうしたのです。国家の代表が、神の御子を死刑に処した、そのことを教会が忘れることがないようにと、「使徒信条」では彼の名が刻まれることになりました。御子イエスは国家権力によって死に渡されたのです。これらのことは、わたしたちの生き方に大きな問いを投げかけています。力と暴力と不正によって自分を守るか、それともへりくだって人に仕える道を歩もうとするか、いつもわたしたちは問われているのです。

さて、バラバが赦されたことに注目してみましょう。百パーセント死刑に処せられるはずのバラバが、主イエスの代わりに赦されて生きる者とされました。一方、死に値する罪を犯されなかったにもかかわらず主イエスは、死刑の判決を受けました。バラバという死すべき人間が、イエスの十字架と引き換えに死から命に移されたのです。これこそが、主イエスの十字架の死による罪人の救いと贖いを最も端的に、そして象徴的に表しているものです。主イエスの死は罪人の身代わりの死だったのです。バラバが赦されたのは、彼自身の中にそれに値する何かがあったわけではありません。ただ彼に代わって死に渡される身代わりの人、主イエス・キリストがおられたということのみが、バラバの救いの根拠なのです。これは神の愛に基づく罪人の救いのための御業なのです。主イエスの死を代償にして罪人が救われることは、父なる神が備えてくださった罪人の唯一の救いの手段です。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ5:8)。

「空腹のまま帰らせたくない」

マルコによる福音書8章1~10節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

一般に「パンの奇跡」と呼ばれている出来事は、6章35節以下に記されていました。それとよく似た出来事が8章1節以下にも記されています。二つはどのような関係にあるのでしょうか。ある人は、これは一つの出来事が人々の間で言い伝えられていく間に、少しずつ変化してきて二つの物語になったと考えます。他の人は、この二つはいくつかの点で相違している、その相違が重要であることを考えると、これはもともと異なる二つの出来事であったと考えます。わたしたちは後者の考えに立って、御言葉に聞きたいと思います。

今回の出来事は、異邦人の地デカポリス地方のガリラヤ湖南東岸近くでなされました。そこには異邦人が多くいたはずです。その点において第一回目の出来事とは異なります。集まって来た人々は、三日間も主イエスから神の国に関しての話を聞き続けてきました。霊的な糧を人々は十分に受けました。その群衆に対して主は今度は、肉体のパンの心配をしておられます。彼らに食べ物がない状態を主は「かわいそうだ」と感じておられます。それは五千人のパンの奇跡の時の群衆を「深く憐れまれた」ことと同じ用語です。マタイによる福音書の並行記事においては、主が語られた「空腹のまま帰らせたくない」との言葉が記されています。主は今、人々の肉体のパンに関しても心を寄せておられ、彼らの飢えをどうにかして満たしたいとの強い意志をもっておられます。

そして今回は自ら、弟子たちにパンの手配をするように求めておられます。弟子たちは前の時と同じように、どのようにして人々のパンを手に入れたらよいのか戸惑い、不満に思っています。しかし主に命じられてパンを集めると、七つありましたし、魚も少しだけありました。主は感謝の祈りを捧げて、それらを四千人の人々に分けられると、人々は満腹するまで食べることができました。残ったパンの屑は七籠になりました。群衆の数も、残ったパンの数も、第一回目の時とは異なります。ここで「七」という数字に注目してみましょう。前回の十二という数は、イスラエルの十二部族すべてに福音が伝えられることを約束するものでしたが、七は何を象徴しているのでしょうか。七は完全数と言われます。この奇跡が異邦人の地でなされたこととも関係していて、その数字は福音がイスラエルを超えて全世界に広まることの約束が示されている、と理解することができます。弟子たちは今回も残されたパン屑の籠の数から、大切なことを教えられているのです。

わたしたちは、この出来事から教会の使命を改めて考えさせられます。現代の厳しい状況において、霊的パンに飢えている人が多くおり、また肉的パンにおいても飢え渇いている人々が多くいます。そういう中で教会はどのようにして託された務めと責任を果たしていくかが問われています。弟子たちが「こんな人里離れた所で一体どうすればよいのか」とつぶやいたように、わたしたちもこんな厳しい時代状況の中で一体何ができるのかとつぶやきがちです。しかし主が「彼らを空腹のまま帰らせたくない」と言われたことに真摯に応えなければなりません。それは何よりもまず神の恵みの御言葉を広く伝えることにもっと力を注ぐべきだということではないでしょうか。多くの人々を霊的飢えの状態のまま放っておき人生の途中で倒れさせることは、教会には決して許されないことなのです。

「神の言葉を聞く耳・語る口」

マルコによる福音書7章31~37節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

異教の地での時を過ごされた後、主イエスはかなりの距離を移動されて、今ガリラヤ湖の東南岸に来ておられます。主の活動範囲の広さに驚かされます。主が来られたことを知ったその地の人々が、「耳が聞こえず、舌の回らない人」を主のもとに連れて来て、癒してくださるように求めました。ここにも、重荷を負った人のために動く人々がいることを教えられます。

「耳が聞こえない」ということは、単に聴力の問題だけではありません。人は言葉を聞いて考え、行動し、自分を形成していきます。聞こえないことは、そのことにおいて大きな重荷を抱えているということです。さらに「舌が回らない」ことは、他者との間で十分に言葉や心を交わし合うことができない困難があった、ということです。それは彼の痛みでした。そうした人々は招詞で読みましたイザヤ書35章4節の「心おののく人々」です。しかしそのような人を見捨てず、その生きることを応援する他者が必ずいます。この人は人々によって主イエスのもとに連れてこられました。その時、何かが起こります。

主はこの人との一対一の状況を作り出して、指を彼の両耳に差し入れ、また指に唾をつけてその舌に触れられました。何か原始的な、また呪術的な治療行為に見えますが、それには主の愛が込められていました。「この耳が聞こえないのだね」、「この舌が回らないのだね」と確認しながら、主は神に彼の癒しを求めて祈られました。そして深い息をついて「エッファタ」と言われました。これは「開け」と言う意味のアラム語です。わたしたちは「タリタ、クム」(マルコ5:41)を思い出します。エッファタの一言によって、彼の耳は聞こえるようになり、また舌のもつれも解けました。これは体の中の不自由な一部の器官が癒されて機能を回復したというだけではなく、新しい人の誕生の出来事として捉えるべきでしょう。新たな人が、今生まれたのです。彼は肉体的な耳と口の障がいが取り除かれただけではありません。神の言葉を聞きまた語るという霊的な耳と口が新たにされ強められて、神を賛美する者とされました。

主イエスの祈りに応えて父なる神が働いてくださるとき、イザヤが述べている「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」という預言が成就するのです。三重苦のヘレン・ケラー女史は、指と指との接触で他者との間に会話ができるようになったとき、イザヤ書のこの言葉が自分において成就したと確信したと記しています(『わたしの生涯』)。

この癒しの出来事がわたしたちの時代に対して持っている意味を考えてみましょう。今の時代にも、神の言葉を聞くことができず、また神の言葉を語り合うことができない人々が多くいます。その現実を主はご存じです。しかし、主がご存じだからわたしたちは何もしないでよいということではありません。わたしたちは、霊的飢饉の中にある自分自身の状況とわたしたちを取り巻く状況を深く自覚しつつ、祈らなければなりません。「神よ、この時代の人々の上に手を置いてください」、「わたしたちに『エッファタ』と命じてください」と祈り続けなければなりません。その時、天からの力がわたしたちの時代の上に注がれて、何かがきっと起こることでしょう。