「墓場を住まいとする人」

マルコによる福音書5章1~10節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

わたしたち人間にとって屈辱を覚えたり、耐えられない思いにさせられることは何でしょうか。人によって異なるかも知れませんが、おおむね共通のこととして、人間としての尊厳が奪われること、また自分の存在が無視されるということがあるのではないでしょうか。今日でも、ある人が他者の存在を傷つけることは人間疎外・人格否定という形で、現実にしばしば起こっています。

そのように人間としての尊厳が傷つけられた時、人はどのような反応を示すでしょうか。その一つは外に向かう反応で、自分を守るための手段として暴力を用い、自分の存在を荒々しく主張するということがあります。今日登場する男は名前を聞かれたとき、ローマの軍隊を意味する「レギオン」という名で自分を言い表しているのも、その一つの表れです。他方、内面に向かう反応もあり、その場合は悔しさや悲しさや痛みが激しく自分を責めさいなみ、心と体の変調をきたすという痛ましい状態になってしまいます。その人は異常な精神状態、いわゆる「狂った」と人から見られる状態に陥るのです。

今日主が出会われた男の人は異邦のゲラサ人であり、「汚れた霊に取りつかれている」ということで説明されるような、自分の力では制御できない異常な精神状態に置かれています。そのため人々によって墓場に追いやられました。その惨めさの中で、彼は自分を縛る鎖や足かせを破壊するほどの力を表していました。しかし、それによって他者を傷つけることはしませんでした。自分自身を傷つけ、石で打ち叩き、大声をあげて日々を過ごしていました。人から傷つけられたくないという思いが、自傷行為を行わせているのです。

そこに主が現れました。ガリラヤ湖のほとりで、先に「向こう岸に渡ろう」(4:35)と言われた向こう岸とは、異邦人のゲラサ人の地でした。墓場を住まいとしているこの人は、主イエスに出会ったとき「いと高き神の子、かまわないでくれ」と叫んでいます。精神の狂いの中にあっても、彼には聖なるもの・神なるものを見分ける力が備わっていたのかもしれません。さらに彼の「どうかわたしの邪魔をしないでほしい。ほっといてくれ」との叫びの背後に、これまで彼に関わった多くの人が彼を苦しめた過去が隠されているように思います。彼は他者に干渉されたくないのです。しかしそれは裏を返せば、真実に自分を受け止めてくれる人を求めている切なる叫びなのかもしれません。

主は彼の叫びにも拘らず彼に近づき、名前を尋ねられます。主は、この人は汚れた霊に取りつかれているという判断をなさって、次のように命じられました、「汚れた霊、この人から出て行け」と。その応答として「自分たちをここから追い出さないで欲しい」という言葉が記されています。これは彼の中に取りついている汚れた霊たちの叫びですが、実際は、彼自身の声として発せられたに違いありません。彼と、彼に取りついている汚れた霊たちは区別できないほどに一体化していることが分かります。主イエスは「かまわないでほしい」とのこの人の叫びに対して、「わたしはあなたに関わりたいのだ」と言って、彼の癒しに取り掛かられます。そのようにして主との出会いが彼に起こり、彼は癒されるのです。今もその主は働いておられます。

「なぜ怖がるのか」

マルコによる福音書4章35~41節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは数多くの奇跡をなさいましたが、今日のものは自然界に対して主が特別な力を表された出来事です。主は多くの群衆に神の国についての話をなさった後、ガリラヤ湖の向こう側のゲラサ地方に向かうために弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と声をかけられました。そのようにして主と弟子たちの舟は漕ぎだされたのですが、途中で激しい突風と波のために大きな危機に遭遇しました。弟子たちは必死になって舟を沈没から守るために働きました。しかしその状況は「おぼれ死ぬ」とさえ感じるほどでした。

その時弟子たちは、主イエスが船尾の方で眠っておられるのに気が付きました。弟子たちは怒りを抑えながら、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と声をかけ、主を起こしています。主は目を覚まされて、弟子たちに対してでなく波風に向かって「黙れ、静まれ」と叱られました。それによって「風はやみ、すっかり凪になった」のです。主は自然の力を制されました。そして弟子たちに対しては「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけておられます。これがガリラヤ湖の嵐の舟の中で起こった出来事です。

主は弟子たちの何を問題にされているのでしょうか。「まだ信じないのか」によって知ることができるのは、主は弟子たちが既に主に対して強い信頼をいだいていることを期待しておられたということです。寝食を共にし、神の国についての教えを繰り返し聞かされ、主の奇跡を通しての特別な力も体験してきた弟子たちでした。主はそうした弟子たちの内に主への揺るがない信頼が築き上げられている、と考えておられたに違いありません。しかし嵐の中での弟子たちの心は、主が期待しておられるところにまでは達していませんでした。

嵐の湖の中で漂う舟は古来、教会を象徴するものとして受け止められてきました。舟には主がおられる、しかしその舟も嵐にあうことがある、それは教会も同じです。その中で弟子たちは主への信頼を見失って自分たちの力ではどうしようもないところにまで追い込まれている、地上の教会も同じです。その時主ご自身が立ち上がって舟のために力を発揮してくださり、舟と弟子たちを危機から免れさせてくださいました。地上の教会も同じです。教会を危機から守ってくださるのは、いつも主です。

さらにこのことは、信仰者個人のことにも当てはまります。主を信じる道を歩みながら、さまざまな嵐にあうわたしたちです。慌てふためき、必死で自分の知恵と力でそれに対抗しようとします。しかしついに力尽きたところで主を思い出し助けを求めると、主はわたしたちを危機から助け出してくださいました。波に向かっての「ここまでは来てもよいが越えてはならない」(ヨブ記38:11)との言葉のように、この世の荒波を制してくださるのです。弟子たちと共に漕ぎだされた主が弟子たちを嵐から守られたように、この世に生きる信仰者を集めて、自らかしらとなって教会を結集された主は、「波にもまれてもなお沈まない」ものとして教会を守り、信仰者一人ひとりの歩みを支えてくださいます。だから「怖がらなくてよい」のです。

「小さな種、大きな実り」

マルコによる福音書4章26~34節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスの短いたとえ話が続いています。今日は26~29節の「成長する種のたとえ」と、30~32節の「からし種のたとえ」の二つです。それぞれについて考えてみましょう。

最初のものは、土の中にまかれた種が人の力によらないで成長していき、そしてついに実が熟して刈り入れの時が来るまでの様子を描いたものです。これは、種が本来持っている生命力の不思議さや神秘さを強調したものです。それによって、主は、そこで働く人の力を超えた神の力の神秘さに人々の目を向けさせようとしておられます。このたとえによって、み言葉の種がまかれて、それが少しずつ成長し、いくつかの段階を経ながら、ついには教会というかたちあるものが形成されるということが示唆されています。

実際の種まきの時に人間の働きが欠かせないように、み言葉の種まきにおいても人の働きは欠かせないものです。祈りや学びや交わり、そして証しなどの働きを通して、み言葉のもとに人々が結集して、教会が形作られます。しかしそのような出来事の本来的な原動力は、人間の力をはるかに超えた神の力です。使徒パウロは次のように述べています。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。ですから大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(コリント一、3:6~7)。

この成長させてくださる神に常に目を注ぎ、この方への熱い信頼に立って、わたしたちはただひたすら御言葉の種まきと水注ぎをしていけばよいのです。結果は、神がもたらしてくださるでしょう。

第二のたとえは「からし種のたとえ」と言われるものです。どんな種よりも小さいからし種が成長すると、想像できないほどの大きさになり、その枝に鳥が巣を作るほどになるという内容です。小さい始まりの中に、大きな実りが隠されています。主イエスの宣教活動も同じでした。神から派遣されてお一人で御言葉を宣べ伝え始められた主は、やがて12人の弟子を集められました。様々な困難に遭遇しながら、主は12人と共に神の国のことを人々に語っていかれました。弟子たちがこのたとえを聞いている時点では、主の周りにいる人々はほんのわずかでした。十字架の死の時には、その12人も散り散りになってしまいました。しかし、彼らは再結集され、主の復活を宣べ伝える者とされ、やがて教会の設立へと導かれて行きました。主はいつも「このままで終わることはない」と弟子たちを励まし続けられたのです。

地上のすべての教会も同じです。わたしたちの佐賀めぐみ教会も同様です。一人から、あるいは二、三人から始められた宣教の業は、「一人が種をまき、別の人が刈り入れる」(ヨハネ4:37)ということの連続や積み重ねの中で、やがて形あるものとなっていきます。成長させてくださる方が必ずそうしてくださるのです。その間の様々な困難や戦いを主はご存じです。その上でなお主は、わたしたちを種まきのために用いられます。主はその先に豊かな実りを用意してくださっているからです。

「あらわになる神の国」

マルコによる福音書4章21~25節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日の主イエスのお話しは、4章10~12節と同じように、12弟子や主のそば近くにいた人たちに対して語られたものと考えられます。主イエスは格言風、あるいはことわざ的な短いたとえを通して、人は神の言葉といかに向き合うべきかを教えておられます。ここには四つのたとえがありますが、それぞれについて短く考えてみましょう。

第一は「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」というものです。これは、明かりは物陰においてもその本来の役を果たすことはできない、燭台の上においてこそその役割を果たすことができる、という意味です。すなわち、神の言葉である福音は、ひそかに語られるものではなく、高々と掲げられて人々の前に堂々と差し出されなければならない、ということを主は教えておられます。

第二は「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」です。これは本来、何かをどんなに隠蔽しても、いずれはそれは明るみに出るという意味です。これが福音に適用されるとどうなるでしょうか。それは、初めの内は福音の真理はヴェールがかかったもののように覆われていても、必ず人々が理解できるものとして明らかになってくるということです。種まきから実りまで時間がかかるように、み言葉を聞いてから信仰が芽生えるまでも多くの時間が必要である、しかしついには実りの時が来るのだ、という約束が語られているものでもあります。

第三のものは「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられる」というものです。これは本来商売上の戒めで、不正な秤を用いて何かを売った者は、自分が買うときにも同じ不正な秤で買わなければならなくさせられるという戒めです。それは福音に関してはどうなるでしょうか。小さく見積もってしか福音を聞かない者は、小さくしか与えられない、しかし、大きな期待を持ち、白紙のような気持ちで福音に向き合うものは、豊かな恵みと賜物を受けるであろう、という約束が語られているものです。

第四のものは「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」です。これは神の言葉を聞く姿勢を正しく持っている者は豊かに与えられ、逆にヘリくだりや熱心を伴わない傲慢な聞き方をする者は、それ相当のものしか受け取ることができない、という戒めです。

このように四つのたとえはいずれも、正しく聞きなさいという警告と共に、謙虚な思いと熱心を持って神の言葉に耳を傾ける者は、救いの恵みを豊かに受け取ることができるとの祝福の約束を語っています。神の言葉には、神ご自身の存在の重みが伴っています。そうであるならば、それに耳を傾ける私たちも自分の人格を傾けて御言葉と向き合わなければなりません。そうすることができるとき、私たちは御言葉の中に神の命の鼓動を聞き取って、それが私たち自身の命の鼓動となることでしょう。御言葉を共に聞く場へと人々を伴うこと、それが御言葉を正しく聞く者たちの務めです。

「神の国の秘密」

マルコによる福音書4章10~12節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスが多くのたとえを用いて語られることに関して、弟子たちが質問しました。それは「種を蒔く人のたとえ」を語られた後です。その質問は、なぜたとえで話されるのですかということや、種を蒔く人のたとえはどういう意味ですかといったものでした。その最初の質問に対する主のお答えが、10~12節に記されています。難しい内容ですが、ご一緒に考えてみましょう。

主はまず「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と述べておられます。ここでの「あなたがた」とは、12弟子やいつも主のそば近くにいる人々を指しています。彼らは主に従う中で、たとえ話であれ直接的な神の国の教えであれ、それらをとおして御心を知ることができる機会を多く与えられていました。また主の生き方によって、神に従って生きることの手本を示されることもありました。そのようにして彼らは神の国に生きるとはどういうことかを知ることができました。主のそば近くいるということは、とても大切なことです。物理的距離の近さは、霊的距離の近さに結びつきます。

一方「外の人々」(11)はどうでしょうか。外の人々とは、主を遠巻きにして物理的にも精神的にも、意図的に主に近づこうとはしない人々のことです。律法学者やファリサイ派の人々、さらにこの時点では、主の身内の人々もそれに属しています。彼らは主の教えを音声としては聞くけれども、自分たちの生き方との関連の中でそれに耳を傾けることはしませんし、主のお言葉を心の内に迎え入れることもしませんでした。逆に主のあげ足を取ろうとしたり、神冒瀆で訴えるきっかけを掴もうと虎視眈々と狙ってさえいました。そういう姿勢でしたから、彼らには主の教えによって神のもとに立ち帰って赦しを祈り願うなどということは起こらなかったのです。そうしたことは、すでに旧約の預言者イザヤが預言していたことであるということで、イザヤ書6章9~10節が引用されています。彼らは、自分たちの正当性を確認するために、あるいは悔い改めないために、神の言葉を聞いているようなものだということです。旧約の時代だけではなく、救い主イエス・キリストが地上においでになったときにも、そうした人々が多くいたのです。「赦されることはない」(12)との結果の責任は、彼ら自身が負わなければならないことでした。

ここで注意しなければならないことは、神が初めから人々の間に、このような区別をお決めになったのではない、ということです。主はいつも「わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」(ヨハネ10:16)との思いで、み言葉を語られました。今そば近くにいる人々だけでなく、「外」にいる人々も、主は招いておられるのです。「内」と「外」は固定化されたものではありません。その違いは神の言葉そのものであられるイエス・キリストといかに向き合うかによって決定づけられるのです。神は御言葉においてわたしたちに決断を迫っておられます。「外」にいる人に、み言葉が語られ続けるならば、み言葉に秘められている神の力がその人を「内」へと導き入れてくださることでしょう。

「種を蒔く人への約束」

マルコによる福音書4章1~9、13~20節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは多くのたとえを語られましたが、今日取り上げます「種を蒔く人のたとえ」は特によく知られています。このたとえ話の形式上の特徴は、最初にたとえそのものが語られて(3~9)、そのあとにたとえの説明がなされている(13~20)ことです。まずたとえそのものを見てみましょう。主は「よく聞きなさい」と呼びかけてこのたとえを語っておられますから、これは「聞くこと」に関する教えであると推測することができます。

農夫によってまかれた種が、四つの種類の土地に落ちました。みな同じ穀物の種です。「道端」に落ちた種は芽を出すことなく、鳥についばまれて消えました。「石だらけで土が少ない所」に落ちた種は、すぐ芽を出しましたが、強い日照によって枯れてしまいました。「茨が生えている地」に落ちた種は、成長しましたが、茨の勢いに負けて実を結ぶことはできませんでした。そして四番目の種は「良い土地」に落ちたために多くの実を結びました。たとえの終わりにまた「聞くこと」に関する注意の言葉が語られています(9)。

このようなことは実際の農業生活においてよくあることであったに違いありません。主はこれによって何を教えようとしておられるのでしょうか。説明の部分の初めの方で(14)、次のように語られています。「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」。つまり、神の言葉、あるいは福音の言葉を宣べ伝える時に、ひとの聞き方によって、み言葉が消えてしまうか、あるいは力ある信仰が興されるかの大きな違いが生じるということを、種まきのたとえをとおして語っておられるのです。そして主は、実りが生じるような聞き方をしなさいと訴えておられます。

道端のような聞き方とは、み言葉に対して初めから拒否反応を示す人です。石地のような人は、み言葉を聞いた時すぐそれに飛びつくけれども、少しばかりつらいことが起こったらみ言葉を捨ててしまう人のことです。茨の地のような人は、み言葉を最初は受け入れて喜びますが、その内、諸々の思い煩いやこの世的欲望に心を惹かれて、どっちつかずになってしまう人のことです。そして四番目の良い土地のような人は、み言葉を心をからっぽにして聞いて、また謙虚に受け入れて、その中にある神の命の約束を人間にとって最も大切なものとして受け止めることができている人のことです。そのような人は心の耳が神に向かっている人です。主はこのたとえによって、神の言葉は人に受け入れられることを待っている、み言葉を受け入れてそれに従って生きる者となるようにと、多くの人に呼び掛けておられるのです。このたとえを通して、わたしたち自身のみ言葉の聞き方を再吟味することが求められています。

またこのたとえには、種蒔き人の働きが無駄になったと思えるようなことが多々あっても、必ず実りを結ぶものがあるということも強調されています。それによって、神の言葉の種まきに励む者たちに祝福の約束を与えておられます。今日の教会の伝道の働きに対する希望の約束がここにあります。これもこのたとえから聞き取るべき大切なメッセージです。

「主イエスの兄弟とはだれか」

マルコによる福音書3章31~35節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

教会の伝道の働きにおいて、家族伝道はいつも大きな課題として語られます。教会は何よりもまず身内の者に伝道すべきであって、それがうまくいっていないのに、教会の外への伝道はうまくいくはずがない、と言われることもあります。その主張に耳を傾けなければならない面はありますが、しかし、家族伝道がうまくいっているときにのみ外への伝道が許されるというのは、現実的ではありません。わたしたちはその両方に取り組まなければならないのです。

主イエスの場合、家族との関係はいかなるものだったでしょうか。主イエスの宣教活動の初期には、イエスに対する家族の無理解が目立ちます。21節には身内の人がイエスを取り押さえに来たと記されており、31節以下では主イエスの母や兄弟たちがイエスを家に連れ戻そうとしている様子も描かれています。彼らは、イエスは「気が変になった」と考えていて、主イエスのそばに近づこうとはしていません。それは彼らが主イエスが教えておられることに耳を傾ける意思を持っていないことを表しています。

主イエスはそのような身内の人に関して、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と突き放すようなことを語っておられます。何かとても冷たいものを感じさせられる言葉です。主がここで明らかにしようとしておられることは、主ご自身の行動・あり方を決定する者は、血のつながりのある者たちではない、ご自身をこの世に遣わされた天の父がのみがその方である、ということです。ですから、母や兄弟がイエスのあり方を肉の関係で支配しようとしても、それに従うことはできない、というのが主イエスの主張です。

そのあとに、主イエスの真の母や兄弟や姉妹は誰であるかを明らかにしておられます。それは、「神の御心を行う人」、その人々が真に主イエスの家族であるということです。すなわち神を父とする家族がそこにのみ形成されるのです。それは血肉による結びつきではなく、霊的な結びつきによる家族である、と言ってよいでしょう。その場合の神の御心を行うとはどういうことでしょうか。ヨハネ福音書(6:28~29)に次のような問答があります。弟子たちが「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねたのに対して、主は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えられた問答です。人が神の業を行うこと、御心を行うことの中心に、神が遣わされたイエスを救い主として信じることがあることが分かります。

これは、イエスの肉親たちにもそのまま当てはまることです。彼らは血肉の関係を超えて、イエスとの新たな関係へと招かれています。またこの主の招きは、地上において何の頼るべきものも誇るべきものも持たず、何の功績もない人々に大きな慰めと励ましの言葉として響いています。なぜならそのような人々は、神の御心を行うこと、すなわち主イエスを救い主として信じることによって、神を父とする新しい家族の一員とされるからです。わたしたちの教会の祈りと願いは、この「神の家族」をさらに増やしていくことです。この家族は、決して閉ざされた集団ではないのです。

「聖霊と悪霊」

マルコによる福音書3章20~30節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエス・キリストの評判は、この方は「神から遣わされた方だ」というものと、「サタンの手下だ」という二つのものがありました。今日の場面には、後者に属する人々が登場します。その一つの集団は、イエスの身内の人たちでした。彼らはイエスは気が変になっているという噂を聞いて、取り押さえにやって来たのです。もう一つの集団はエルサレムから来た律法学者たちです。彼らは主イエスがなさっている神の国についての新しい教えとか癒しの業とかを見聞きして、「イエスはサタンのかしらであるベルゼブルの力に支配されている」と思い込んで、人々に主イエスを信じることをやめさせようとしています。彼らはイエスの背後に神がおられることを見ようとはしないのです。

それに対して主はまず三つのたとえによって、彼らの批判の間違いを明らかにされます。その内容は、サタンの世界であれ、国であれ、家であれ、内輪で争っていては、それらは成り立たないというものです。主は今、悪霊にとりつかれた人や病の人を癒しておられる、それはある意味ではサタンに対する制圧である、という認識を持っておられます。それゆえご自分の力はサタンからのものではなく、神からのものであることを明らかにしておられるのです。

さらに主は、強盗がある家に押し入るとき、まずその家の一番強い者をしばりあげるというたとえで、ご自分が来られたのは人の世界を苦しめている「死」という最も強力なものを打ち破って、新しい神の時代が来たことを証明するものである、と告げておられます。それゆえ主の復活後も続くサタンの攻撃によるさまざな悪しきことや苦難や病は、かしらが既に滅ぼされたのだから、それらもついには滅ぼされる、ということなのです。これは難解な面がありますが、主の死からの復活はサタンに対する主の勝利であることを告げています。

主はさらに極めて重要なことを告げておられます。一つは、人が犯す罪は赦されるということ、第二は、しかし聖霊を冒瀆する者は赦されることがないということです。罪が赦されることは自動的に起こることではなくて、悔い改める者に主なる神が赦しを用意しておられるという意味です。人は罪を犯す存在です。福音はわたしたちの罪を暴きます。しかしそれで終わりません。悔い改めて祈る者に、神は赦しを与えてくださるのです。聖霊の力によって、わたしたちは罪を赦されたものとしての確信に立って生きることができるのです。福音を聞くとはそこまで聞き取ることです。わたしたちは使徒信条において聖霊の神の働きとしての罪の赦しを信じる、と告白しています。

しかし、主イエスの働きをサタンの力によるものと考え、また聖霊の神を否定し、聖霊の神による罪の赦しを受け入れない者は、罪を赦されることはないと主ははっきり述べておられます。なぜなら、罪の赦しをわたしたちのものとしてくださる聖霊なる神を否定し、拒むことは、そのまま自ら赦しを拒絶していることになるからです。わたしたちは「罪を赦された者」として生きることの招きと恵みを主イエスから受けています。わたしたちは神のみから来るその恵みの中で、伸びやかに生きてよいのです。

「12弟子の選び」

マルコによる福音書3章7~19節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

本日の聖書朗読では3章7~19節をお読みしましたが、説教では13節以下の弟子の選びを中心に、み言葉に耳を傾けることにいたします。主は今「これと思う人々」を身元に呼び寄せておられます。それは「主の御心にかなった」人々のことです。主の招きに応えて人々が集まってきました。簡潔な記述ですが、荘厳な雰囲気を漂わせる出来事が展開されています。

主は集まって来た人々の中からさらに12人を選び出し、彼らを「使徒」と名付けられました。12人の弟子の誕生です。その目的は何でしょうか。「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」と記されています。一つの目的は、彼らを主のもとにおいて寝食を共にしながら、神の国について教え、神に従って生きるとはどういうことかを身につけさせるためでした。いわば信仰教育と訓練が目的でした。彼らは、主から直接教えを受け、信仰の神髄を正しく理解し、人々に福音を伝えるにふさわしい言葉と生き方を身につけることが求められています。

そのようにして訓練された12人は、次に主のもとから派遣されます。語るべき神の国についての言葉を携えて、また必要に応じて病める人を癒すことができる力を備えられて、彼らは主のもとから多くの人々のところへと遣わされるのです。そのための主のもとにおける教育と訓練でした。主は別の箇所で次のように語っておられます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20:21)。宣教活動の連鎖は、こうして終末の時まで続きます。教会は今、その連鎖の中に置かれているのです。わたしたちも主によって招かれ、主によってこの世へと遣わされる者たちです。

こうして12人が選ばれ遣わされるのですが、その名前が16~19節に記されています。他の福音書にも違った形で弟子の一覧表が掲載されていますが、共通しているのは、第一にシモン・ペトロ、そして12番目にイスカリオテのユダの名が記されていることです。この12人の弟子たち・使徒たちの間に、主によって選ばれるのにふさわしいと思われる共通の規準というものがあるのでしょうか。漁師出身の人、徴税人の仕事をしていた人、政治的な活動をしていた思われる人、ここにしか名前がなくてその人物についてほとんど知りえない人など、さまざまな人が弟子として集められています。人間の側には、共通の規準というものを見出すことが困難です。唯一共通の規準があるとすれば、人の思いを超えて、彼らは「主が、これと思う人々」であったということです。主ご自身が彼らをご自分の弟子として望まれたということです。

わたしたちに関しても同じことが言えます。なぜわたしが主によって選ばれ、信仰者とされたのか、その規準は何なのかと問うても答えは出てきません。ただ、主なる神が選んでくださったということのみです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。わたしたちはこの聖なる事実に立って信仰者として生きていくのです。

「命を救うことと殺すこと」

マルコによる福音書3章1~6節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

先週に引き続いて安息日における出来事が記されています。場所はユダヤ教の会堂内です。多くの人が礼拝を捧げるために集っていましたが、その中に片手の萎えた人がいました。彼はいつも礼拝に出ていたのか、その時たまたまそこに集ってきたのかは不明です。もしかすると主の敵対者になりつつあるファリサイ派の人々のある魂胆によって、そこに連れてこられたのかもしれません。つまり、安息日に主イエスがこの手の不自由な人をどうなさるかを試すために彼は連れてこられたということもありえます。彼の癒しを求めてではなくて、主を陥れるための道具としてひとりの人が用いられようとしている、それは許されることではありません。主はそれを見抜いておられました。

主はこの人に命じられました、「真ん中に立ちなさい」と。主はこの人の癒しにとりかかろうとしておられます。この人は会堂の隅にいて、できるだけ目立たないようにしていたのかもしれません。しかし、主は彼を真ん中に、そして主の前に呼び出されるのです。これですでに彼の癒しは始まったと考えることもできます。それと同時に主は、彼を道具のように用いようとしている人々の歪んだ心をも癒そうとしておられるのです。「あなた方の心も萎えている。それも癒しの対象だ」と主は暗に語っておられます。そのとき主は人々に問われました。「安息日に許されているのは、命を救うことか、それとも殺すことか」と。人々は答えません。答えは明らかなのですが、答えると彼らの意図が台無しになるために黙っています。

主は手の萎えた人にさらに命じられました、「手を伸ばしなさい」と。すると彼の手は元通りになりました。癒されたのです。人々は、安息日に命に関する緊急性のない病やけがは癒してはならない、という安息日規定に立って、主がもしこの手の萎えた人の癒しの行為を行ったら、当局に訴えるつもりでした。しかし、安息日に命が大事か、否かと問われて答えることができなかった人々は、主の癒しの業に対しても何も言うことができないままでした。ただ主イエスに対する憎しみの思いを強めることだけでした。彼らについて「ここに病人を癒した人を憎むという全く異様な人々がいる」と述べた人がいます。彼らは憐れとしか言いようがありません。

主は今も、隅の方にいる者には「今いる狭い場所から真ん中に出て来なさい」と、生き方に伸びやかさを失っている者には「手を伸ばしなさい」と、内にこもりがちな者には「萎えた心をわたしの前で広げなさい」と、それぞれにふさわしく呼び掛けておられます。そして、主の前で、伸ばした手で、開いた心で、主が差し出してくださる恵みをしっかりと受け取るようにと招いておられます。こうして、主はそれぞれの内にご自身の恵みを注ぎ込んでくださるのです。そのような主の招きを聞き取る日として主の日の礼拝に集う人々が多く与えられることを、わたしたちは祈り続けましょう。