開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 古賀 洋子
| 奏楽 | |
| 招詞 | イザヤ書40章30~31節(旧約 p1125) |
| 讃美歌 | 10 わがたまたたえよ |
| 祈祷 | |
| 聖書 | マルコによる福音書福音書9章42~50節 |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 75 ものみなこぞりて |
| 説教 | 「真の命に至る道」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 339 きみなるイエスよ |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 540 みめぐみあふるる |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 古賀 洋子
| 奏楽 | |
| 招詞 | イザヤ書40章30~31節(旧約 p1125) |
| 讃美歌 | 10 わがたまたたえよ |
| 祈祷 | |
| 聖書 | マルコによる福音書福音書9章42~50節 |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 75 ものみなこぞりて |
| 説教 | 「真の命に至る道」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 339 きみなるイエスよ |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 540 みめぐみあふるる |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
2021.05.23に開催された特別講演会の動画が視聴可能になりました。
ここからお進みください。
| 種別 | 特別講演会 |
| 講師 | 公文 和子 先生 |
| テーマ | 「輝くいのち」〜ひとりひとりが共に生きるということ〜 |
| 場所 | 佐賀めぐみ教会 |
| 日時 | 2020.05.23 13:30〜 |
弟子の一人ヨハネが12弟子以外の人のことについて、主に次のように報告しています。「主の名を使って悪霊を追い出している人がいたのですが、わたしたちに従わないのでやめさせようとしました」(38節参照)。ヨハネは、人が主イエスの名を使って癒しの業をするのであれば、自分たちと同じように主に従って来るべきだと考えたのでしょう。彼は主から「それでよい」とのお言葉がもらえるものと期待していたかもしれません。しかし主のお答えはそれとは違って意外なものでした。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方である」(39)。このお言葉の中には、ヨハネに対する戒めと、主の名を用いている人への配慮が含まれています。
ヨハネに対する戒めとは、彼の内にある偏狭な排他性や不寛容に対するものです。ヨハネは確かに漁師としてのすべてを捨てて主に従う者となりました。それは尊いことです。しかし現実には、12弟子と同じように何もかも捨てて主に従って行くという形をとれない者たちもいるのです。今はそれぞれの場所に留まって、そこで与えられた賜物を用いて主のために仕えている人たちもいます。ゲラサの地で主によって悪霊を追い出していただいた人は、主に従って行くことを申し出ましたが、主は彼に「家に帰って、身内の人に主の憐みを伝えなさい」(マルコ5:19参照)と命じられました。それはこの人に与えられた主に仕える形です。自分たちだけが主のために働いているとの考え違いをしていたヨハネに対して、主は今その特権意識を戒めて、他の形の服従の道もあることを教えておられるのです。
主はそのように12弟子とは異なる形で主のために働いている人のことを、「わたしの味方」と述べておられます。それは彼らが主の働きに対して妨害者とはならず、実質的には主の協力者として働いていることを寛容に受け入れておられるということです。つまり、彼らにも神からの務めの委託があって彼らはそれを果たしている、と主は受け取っておられるということではないでしょうか。神が彼らをも用いておられるということです。それは彼らに対する信頼と言うよりも、彼らを用いておられる神に対する信頼から出てくる言葉です。さらに主は、彼らは今は彼らなりの仕方で神の御業を果たしているが、やがて時が来るならば、彼らは次の段階に進むであろうという期待をも持っておられるに違いありません。無名の弟子たちにこのあと続いて起こるであろう次なる飛躍を待っておられる主の姿を、そこに見ることができます。そのように主は「主の味方」である人が、いつまでも今の形のままであり続けて良いとは考えておられないのです。彼らもやがて主の十字架と復活に対する信仰をもって、主のために身を捧げるものとなってほしいと願っておられます。
今日においてもキリスト教への良き理解者である「主の味方」、協力者はわたしたちの周囲にいます。その人たちによってわたしたちは間接的に支えられていることを感謝をもって覚えるものです。主はそのような人たちが「主の味方」から真の「主の弟子」になることを待っておられるに違いありません。それはわたしたち自身の祈りでもあります。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 十時 やよい
| 奏楽 | |
| 招詞 | エレミヤ書17章9~10節 (旧約 p1209) |
| 讃美歌 | 9 ちからの主よ |
| 祈祷 | |
| 聖書 | マルコによる福音書福音書9章38~41節 |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 80 わが主のみわざは |
| 説教 | 「だれが主の味方か」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 380 たてよいざたて |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 540 みめぐみあふるる |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
主イエスがご自身の受難と復活の二回目の予告をなさった後、弟子たちの間で議論されていたことは、誰がいちばん偉いかということでした。なぜ彼らはそのような議論をしたのでしょうか。考えられる一つの理由は、彼らが主の予告を誤解して、まもなく主はエルサレムで王位に着かれる、そのとき誰が主に続く地位に着くだろうかということに関心を抱いていたからということです。主は弟子たちのそうした心をご存じであられました。そのため、十二弟子たちを呼び寄せて主に従うことの意味を改めて教えておられます。それが仕える者として生きることと、子どもを受け入れることについてです。
主は言われます。「いちばん先になりたい者は、…すべての人に仕える者になりなさい」。「仕える」とは、本来奴隷が食卓に仕え、世話をするという意味をもっています。それを突き詰めるならば、他の人の命と生存のために自分の身を差し出すことです。多くの人が他者よりも自分を上に置き、他者に仕えさせる生き方をしようとする中で、逆に他の人の生のために自分を差し出す生き方をせよと主は命じておられます。これは厳しい律法ではありません。むしろ、仕えることの中に主がおられる、その同じ場所にわたしたちを招いておられるということによって、それは福音であり、賜物であると言うべきでしょう。
宗教改革者ルターは次のように言っています。「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも服さない。キリスト者はすべての者に仕える僕(しもべ)であって、誰にでも服する」。キリスト者はイエス・キリストを唯一の主とするゆえに、他の誰にも服さない自由を持っている。それとと共にキリスト者は、主が小さい者に仕えられたがゆえに、誰にでも仕えることができる自由の中に生きる。これがキリスト者のあり方です。
主はさらに仕えることの意味を深めるために、小さな子どもを受け入れることへと話を展開されます。当時、ユダヤの社会においては子どもは価値の低いものと考えられていました。誰がいちばん偉いかと議論している弟子たちには、小さい子どもの存在など眼中になかったことでしょう。そのような弟子たちに対して、小さい子どもを受け入れることは、主を受け入れることに等しいと教えておられます。その場合の「受け入れる」とはどういうことでしょうか。それは何よりもその存在をありのままに認めることです。この小さな存在にも神の愛は向けられ、彼らの救いのためにも主は十字架を担われたということを信じることです。それが「主の名のために」受け入れるということです。
「その(弱い)兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(コリント一、8:11参照)のです。その弱い者の中にわたしたち自身も含まれています。主によってそのように仕えられた貧しいわたしたちが、他の小さな存在をどうして無視することができるでしょうか。パウロは言います、「…キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(ロマ15:7)。そうすることは主を受け入れることであり、ひいては神を受け入れることになると主は言われます。他の人、特に小さな存在と如何に関わるかは、主イエスとの関り、ひいては神との関りをもそのうちに含んだものであるという重要な関連を、わたしたちは教えられます。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 古賀 洋子
| 奏楽 | |
| 招詞 | 詩編51編18~19節 (旧約 p885) |
| 讃美歌 | 7 主のみいつと |
| 祈祷 | |
| 聖書 | マルコによる福音書福音書9章30~37節 |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 73 くすしきかみ |
| 説教 | 「主イエスを受け入れること」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 352 あめなるよろこび |
| 聖 餐 式 | |
| 讃美歌 | 206 主のきよきつくえより |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 540 みめぐみあふるる |
| 派遣と祝福 | |
| 後奏 |
主イエスが三人の弟子たちと共に山から下りて他の弟子たちのところに来られた時のことです。弟子たちを大勢の人々が取り囲んで議論していました。それは、父親が汚れた霊にとりつかれた我が子の癒しを求めて弟子たちのところに来たけれども、彼らは癒すことができなかったということを巡っての議論でした。それをお知りになった主は、「なんと信仰のない時代なのか」と言って嘆かれました。主はどのような意味で「信仰のない時代」と言われたのでしょうか。また弟子たちはどうして癒すことができなかったのでしょうか。
主は父親にその子をここに連れてくるように命じられました。激しい症状を表すその子をご覧になって主は心を痛められたに違いありません。主に対して父親はすぐに癒しを求めました。その時の言葉は、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」というものでした。父親はなぜ「おできになるなら」という言葉遣いをしているのでしょうか。それは一見遠慮がちで控えめな姿を現しているようにも聞こえます。それに対して主は厳しい言葉を返されます。「『できれば』と言うのか。信じる者には何でもできる」。主のお言葉から知ることができるのは、父親の姿は謙虚さを表すものではなく、主への絶対の信頼を欠いたものであるということです。「わたしに対してはそのような言葉は不要である」とでも主は言っておられるかのようです。
ここでわたしたちは自分たちのことを考えさせられます。わたしたちも神に対して「もしできますならば」の信仰、いや不信仰を抱えている者です。神の可能性への限界を勝手に設けているのです。そのために、わたしたちの愛する人々の救いに関しても、「もしできれば」という程度の思いに留まっているのではないでしょうか。「神におできにならないことは何もない」との熱い思いで神と向き合うことが信仰においては不可欠であることを思わせられます。それが共に生きる人たちの救いにもつながるのです。
主は汚れた霊にとりつかれた子どもを癒すために、「汚れた霊よ、わたしの命令だ。この子から出て行け」と命じられました。すると直ちに霊はその子から出て行き、この子は癒されました。これを見た弟子たちは、「どうしてわたしたちにはできなかったのでしょうか」と尋ねています。それに対する主の答えはこうでした。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」。主は、信仰の足りなさは祈りの足りなさである、信仰の弱さは祈りの弱さであるということを教えておられます。弟子たちは自分たちの悪霊追放の方法が間違っていたのかもしれないとの思いで主にお尋ねしたのですが、主は信仰の基本的なところにおける弱さを指摘しておられます。信仰は神への全面的な自己委託であり、祈りはその行為です。「信仰のない時代」とは、神に対する真摯な祈りの欠如の時代として見ることができます。
わたしたちも、父親が「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだように、信じる心と信じえない心を抱え持った者たちです。内に信仰と不信仰が共存しているわたしたちです。その中で信仰を自分の生の中心の座に据えるためには、祈り以外にないことを教えられます。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 十時 やよい
| 前奏 | |
| 招詞 | 詩編68編20~21節 (旧約 p900) |
| 讃美歌 | 6 われら主を |
| 祈祷 | |
| 聖書 | マルコによる福音書福音書9章14~29節 |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 182 きませみたまよ |
| 説教 | 「祈りによらなければ」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 270 しんこうこそたびじを |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 539 あめつちこぞりて |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
主イエスの復活後50日目に、約束の聖霊が弟子たちの上に降った。いわゆるペンテコステの出来事である。聖霊の力を受けてペトロが行った説教が、2章14~36節に記されている。その中心のメッセージは、36節の「十字架につけられて殺され、三日目に復活されたイエスこそが、あなたがたの救い主である」ということである。そしてその説教を聞いた人々の反応が、2章37~42節に記されている。今日は、その中の前半部分を中心に、み言葉に耳を傾けたい。37節に次のように記されている。
「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」。
群衆は、イエス・キリストの十字架の死と復活と昇天について語るペトロの説教に激しい衝撃を受けている。「大いに心を打たれ」とは、別の表現では「深く心をえぐられ」となる。人々は、ペトロの話しの中の何かに、激しく心が揺り動かされているのである。今自分たちの目の前で語られ、自分たちの耳で聞き取ったことはただごとではない、このまま聞き過ごすことができるようなものではない、と多くの人々は受け止めているのである。その中心にある何かとは、イエス・キリストその方である。
神が御子イエス・キリストにおいてなされた御業は、十字架と復活の出来事に集約されるのであるが、それが聖霊の助けのもとに真実に語られ、真実に聞かれるならば、そこに何事かが起こるということを、この出来事は示している。他人事としてではなく、自分事として聞くとき、キリストにおける出来事の告知は、それを聴く人を揺り動かさずにはおかないのである。今の時代の礼拝における説教も、そのようなものとして用いられることはあり得るはずである。
しかし、どうであろうか。自分自身への厳しい戒めを込めながら思わされることは、今日教会においてそうしたことがめったに起こらないということである。語られるみ言葉が聞く人の心を打たないのだ。むしろ多くの人の心を打つのは、わたしたちの周辺で起こる小さな感動的出来事、日常の中で聞く心温まるエピソードなどである。それはそれで素晴らしいことである。しかし、世に遣わされた教会は、イエス・キリストを語ることにおいて人々の心に迫っていかなければならない。主イエスが今、ここにリアルに臨んでいてくださることを明らかにすることに仕えなければならない。教会はペンテコステの日のペトロの説教に秘められたあの力をもう一度手にしなければならないことを、強く思わされるのである。キリストの愛、義、赦しを生き生きと語る説教を回復しなければならない。そうした教会の真の姿の回復は、喫緊の課題である。
強く心を打たれた人々の口から発せられた言葉は、こうであった。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」。この「わたしたち(あるいは、わたし)はどうしたらよいのですか」との問いは、わたしたちがいろんな事柄に直面した時に、しばしばわたしたちの内面に生じてくるものである。岐路に立たされた時、今まで歩んできた道をそのまま進むべきか、それとも方向を変えて新しい道を選択すべきかとの問いが生まれる。今所有しているものをそのまま所有しておいてよいのか、それともいったん放棄すべきか。今の状況にまだ我慢し耐えるべきか、それとも立ち上がって断固戦いを挑むべきか。そうしたことでわたしたちは、「どうしたらよいのですか」としばしば悩み、煩悶するのである。
内村鑑三の言葉。 「人は、何人(なにびと)か懐疑なかろう。人生の矛盾は万人の感ずるところ、人生そのものが最大の疑問物である」。
わたしたちは、「わたしはどうしたらよいのか」との問いに、その都度懸命に答えを見出したり、また何かの拍子に回答を与えられたりしながら、それぞれの歩みを続けてきた。これからもそうであるに違いない。そうした問いを発せさせられる最大の出来事、重くて決定的なもの、それは神がわたしたちの生の中へ突入してきたときに生じるのである。「十字架につけられて死んだイエス、そしてよみがえられたイエスこそが、あなたの唯一の救い主である」、このことが突き付けられた時、神ご自身がキリストを通してわたしたちの生の中に入って来ておられるのだ。それは同時に自分の罪が明らかにされるときであり、またそれゆえ、今までの生き方で良いのかの問いが生まれて来ざるを得ないときなのである。つまり、「わたしはどうしたらよいのですか」との問いと叫びが生じるのである。
この問いは、今新たに生じた動揺の中からの叫びであると同時に、新しい自分が生まれ出ようとする叫びでもある。じっとしてはいられない、何かをしなければならないという思いが募る、しかし何をどうしたら良いのか分からない。その煩悶の中から、神に向かっての叫びが生じる、それが「わたしはどうしたらよいのか」との叫びであろう。この神への叫びは、語られた御言葉とともに働く聖霊が引き起こしてくださったものである。聖霊なる神が、その人を揺さぶっておられるのである。聖霊の神は、このようにご自身の器であるペトロを通して、主イエスによる救いの証言を語らせるとともに、それを聞く人の内にも働いて、救いを求める叫びを生み出してくださっているのである。それゆえ御言葉を語る時、聖霊の働きを祈り求めることが欠かせない。
人々の真剣な問いかけに対して、ペトロが代表して答えている。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」(38)。
ここでは主として二つのことが語られている。一つは、「悔い改めなさい」であり、二つ目は「洗礼を受けなさい」である。罪を赦していただきなさいはそれに含まれている。しかも「めいめい」と言われているように、集団としてではなく、一人ひとりが、またそれぞれの魂がなすべきことが示されている。それらは小手先のこととしてではなく、究極的には神との関係の中でなさるべきこととして語られているのだ。
まず「悔い改めよ」と命じられている。これは方向転換をせよということである。今まであなたは神に背を向けて生きて来た、あるいは神に向かっているつもりでもその方向は大きくそれていた、そのようなあなた自身を神の方に向け変えて、神と真正面に向き合うようにしなさい、ということである。悔い改めとは単に、今までの自分はだめだった、これまでの生き方は失敗だったと考え、もう二度と同じことはしないと内面的に反省をすることではない。むしろ神が心に侵入してくださることによって、「生き直し」が始まることである。今までの自分に「ノー」と言うだけではなく、神が「然り」と言われる方向に、自分の全身を差し向けることである。換言すれば生きる土台が置き換えられること、あるいは自分の生の「主人」が新しくされることである。心に侵入してくださる神がそうしてくださるのだ。したがって、悔い改めとは人間の行為であると同時に、神が生み出してくださるものであると言ってもよい。その意味で悔い改めは、祈り求める者に与えられる神からの賜物である。悔い改めとは、恵みに満ちた極めて生命的な、また動的な行為である。
そしてそのようにして神との新しい関係に入れられ、新しい存在とされた者、即ち神の国の一員として受け入れられた者に与えられる神からのしるしが、洗礼である。これもまた、わたしたち人間の側の決断である前に神の決断が先行しているものである。「あなたを罪なき者として受け入れる」との神の決断が、わたしたちの洗礼への決断を生み出すのである。受け入れてくださる神が先にそのことを示してくださらなければ、わたしたちの方から勝手に「わたしは神の前に罪を赦されて、神の国に属する者となります」などとは言えない。このような自分にも神は罪の赦しを与えて、御国に迎え入れてくださるとの神の決断への信頼が、すべてを神に委ねようとする人間の決断としての洗礼として結晶するのである。あの洗礼の時の水は、その人に伸ばされた神の御手のしるしである。御手がその人を捕えるのである。それは罪の赦しの宣言でもある。ペトロは、洗礼を受けて、あいまいさを残すことなくキリストに属する者としての歩みを始めるようにと一人ひとりに求めている。
ペトロは、「イエス・キリストの名によって」と言っている。イエス・キリストの名によるとは、イエス・キリストに起こった出来事を唯一の救いの根拠、救いの基礎として信じるということである。洗礼を受けるとはその信頼に立って自分自身をイエス・キリストに明け渡すことである。そしてわたしが主を裏切ることはあっても、主は決してわたしを裏切られることはないとの主に対する確かな信頼と結びつきの中で生きることが許されること、それがイエス・キリストの名による洗礼である。「主の名による洗礼」を受けるとは、「恐れるな、わたしはいつもあなたと共にいる」という主の言葉への信頼に立って生き始めるということでもあろう。
こうして、心を揺り動かされた人々が今なすべきことは何であるかを明らかにするペトロの言葉によって、その日洗礼を受けた人は「三千人」ほどであったと記されている(41)。これは聖霊が引き起こしてくださった出来事である。この数字が歴史的な事実として正確であるかは議論されるところであるが、極めて多くの人々が、悔い改めて洗礼を受けたことは間違いないことである。神がなさるならば、こうしたことも起こるのである。先に主イエスの弟子となった者たちやガリラヤから主に従って来た婦人たちも加えて、主イエス・キリストを唯一の救い主として信じる者たちの集団、即ち教会がここに誕生したのである。それは教会という共同体の誕生の出来事であるが、それを構成する一人ひとりの人間の新たな誕生があってこそそれが起こった、ということを忘れてはならない。
や教派においては、今日でも大人数の洗礼式がなされていることも知らされる。しかし逆に大多数の教会においては、「今年も受洗者は与えられなかった」と一年が振り返えられるのである。なぜそうなのか。ペトロが言っているように今の時代が「邪悪」(40)だからであろうか。わたしたちはこの問題を時代のせいにしてはならないであろう。この厳しい現実はもっぱら教会のみ言葉の説教の弱さと、人々の悔い改めを願うわたしたちの祈りと情熱の不足に起因するものではないか。まさしく、わたしたち信仰者と教会には、今も悔い改めること、すなわち教会の方向転換が求められているのかもしれない。
最後に、このような出来事は、今日ではもはや起こらないのであろうか。きわめて少数の教会三千人でなくてよい。せめて自分が心に覚えているあの人を洗礼へと導いてくださいという祈りを、あのペンテコステ前の弟子たちが「心を合わせ、熱心に祈った」(1:14)ように、そして新しく生まれた教会が「祈ることに熱心であった」(42)ように、今わたしたちが心を込めて祈るならば、何かが起こるであろう。わたしたちの神にできないことは何もないとの確信が新たにされるとき、それがペンテコステである。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 古賀 洋子
| 奏楽 | |
| 招詞 | 詩編22編28~30節 (旧約 p854) |
| 讃美歌 | 161 インマヌエルのきみのみ |
| 祈祷 | |
| 聖書 | 使徒言行録2章37~42節 (新約 p216) |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 181 みたまよくだりて |
| 説教 | 「大いに心を打たれた人々」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 217 あまつましみず |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 539 あめつちこぞりて |
| 祝祷 | |
| 後奏 |