奏楽 | 古賀 洋子 |
招詞 | ヨナ書2章7b~10節 (旧約 p1446) |
讃美歌 | 61 かがやくみとのよ |
祈祷 | |
聖書 | マルコによる福音書8章27~30節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 68 ちちなるみかみに |
説教 | 「あなたは、メシア」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 216 あぁうるわしき |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 545 ちちのみかみに |
祝祷 | |
後奏 |
投稿者: 共同管理者MT
「真理に開かれる目」
マルコによる福音書8章22~26節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
本日のテキストである8章22~26節は、マルコによる福音書における重要な位置を占めています。それを意識しながら御言葉に耳を傾けましょう。
これは盲人の癒しの物語です。舞台はガリラヤ湖北岸のベトサイダです。主イエスの一行がそこに行かれたとき、人々が一人の盲人を主のもとに連れてきました。もちろん、見えない目を癒していただくためです。主はその盲人を人々から切り離して村の外に連れて行かれました。癒しの行為は見世物ではなく、また主の力を誇る場でもありません。一対一の関係の中で、癒される人が主と出会う場なのです。主はそういう状況を作り出しておられます。
この癒しの出来事が持っている特徴は、目が見えるようになる癒しが二段階で行われているということです。最初は主によって目に唾がつけられ、手が置かれると、少し見えるようになりました。盲人は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と言っています。おぼろげに人の姿が見えるようになりました。しかしそれではまだ完全に癒しがなされたことにはなりません。主がもう一度手を置かれると、今度は「何でもはっきり見えるように」なりました。癒しが完了したことになります。その人が見えるようになった目で最初にはっきり見たのは、主イエス・キリストでした。
ところでマルコ福音書は全体で16章から成っています。今日のテキスト部分は分量的にちょうど全体の中間に位置しており、これ以後、福音書は後半部分に入ります。内容的には、前半は主がなさったことが中心に記されてきました。それは神の子イエスがどのような意味で神からの方であるかを明らかにするものでした。これからの後半部分は、8章29節におけるペトロの「あなたは、メシアです」という告白から一気に主イエスの受難予告が3回繰り返されながら、主がいかなる意味でメシアであられるかが明らかにされて行きます。そういった意味で、今日の盲人の目の癒しが二段階でなされた癒しは象徴的です。それは弟子たちの信仰の成長の過程を示唆してるように思われます。
先の箇所で、弟子たちが主によって「まだ分からないのか。悟らないのか」ととがめられたことを聞きました。彼らはまだおぼろげにしか、主イエスがどなたであるかが分かっていませんでした。しかし、ペトロの信仰告白によっても明らかなように、主がメシアであられることが少しずつ認識されるようになっています。まだ十分ではありませんが、彼らの信仰は少しばかり主イエスに近づいています。そのように信仰は一気にすべてが理解される形で与えられるものではなくて、少しずつあるいは段階的に成長しながら、主が求められるものに近づいて行きます。盲人の癒しの物語はそのことを示唆しています。
わたしたちの信仰も同じです。わたしたちも主によって「まだ分からないのか」と言われる状態を続けながら、いろんなことをきっかけに次の段階に進むことができるものとされます。その間主は忍耐をもってわたしたちを捕え続け、導いてくださいます。盲人の目に主の手が置かれたように、わたしたちの心の目に聖霊が働きかけてくださって、わたしたちの信仰は少しずつ高みへと導かれていくのです。わたしたちの中に生じた信仰を、主は「キリスト・イエスの日までに」(フィリピ1:6)完成してくださるのです。
主日礼拝 2021.04.18
奏楽 | 十時やよい |
招詞 | 箴言1章7節 (旧約 p990) |
讃美歌 | 58 かみよみまえに |
祈祷 | |
聖書 | マルコによる福音書8章.22~26節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 67 よろずのもの |
説教 | 「真理に開かれる目」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 285 主よみてもて |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 545 ちちのみかみに |
祝祷 | |
後奏 |
「まだ悟らないのか」
マルコによる福音書8章11~21節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
主は、4千人の人々にパンを分け与えられた後、ダルマヌタの地方に行かれました。そこにファリサイ派の人々がやって来て、主を試そうとして、天からのしるしを求めました。彼らは、「主イエスが神から遣わされたメシアであるならば、それを証拠立てる、目を見張る業を示して欲しい。そうすればわたしたちはあなたを信じます」と言っているのです。それに対して主は、「今の時代には、決してしるしは与えられない」と答えられました。それは、ファリサイ派の人々が求めているような劇的なしるしは決して起こらない、主イエスご自身がそこに存在し、神からの業をなさっていることそれ自体が、最大のしるしなのだ、と言っておられるのと同じです。
わたしたちも時には、著しい奇跡的なことが教会によってなされるならば、多くの人が教会に目を向けるようになるのではないかと考えたりします。しかしわたしたちにとっても神からのしるしは、主イエス・キリスト以外にはないのです。使徒パウロは次のように述べています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(コリント一、1:22~23)。教会は時代がどんなに変わろうとも、十字架の主イエスを宣べ伝えることに全力を注ぐのです。
主イエスの一行はその地を去って、舟に乗って向こう岸に渡ろうとしています。その舟の中で、弟子たちは自分たちの手元にパンが一つしかないことで論じ合っていました。それを聞かれた主は話題を、食べるパンからファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に移されました。この場合のパン種とは、誤った教えのことです。ファリサイ派の教えは自分たちの考えを絶対的規準としたものであり、ヘロデの教えは権力と欲望を中心とするものと言ってよいでしょう。それは主イエスの教えに真っ向から敵対するものです。主はそれらの教えに多くの人々が影響を受け、誤った思想に染まることがないように気をつけなさいと、弟子たちに教えておられるのです。しかし弟子たちは、主のその忠告が何を意味しているか分からないままでした。
そこで主は先のパンの二つの奇跡を持ち出されます。しかもそれぞれの場合に、そこにいた人々の数ではなくて、残ったパン屑を入れた籠の数を思い起こさせておられます。これはどういうことでしょうか。5千人の場合、残ったパン屑の籠の数は12でした。それはまずイスラエルの全12部族に福音を運べと言う意味でした。さらに4千人の場合は、残ったパン屑の籠は7でした。7が完全数ということから、全世界にあまねく福音を伝えよとのメッセージがそこにあることを教えられました。誤った教えが世界に蔓延する前に、あなたがたは真の命のパンであるイエス・キリストの福音を世界に運べと教えておられるのです。このことは小さな舟の中でなされました。舟は教会を象徴しています。教会には命のパンであるイエス・キリストがおられます。そのパンを全世界に運ぶ、それが教会の主からの委託です。悪しきパン種で世界が膨れ上がる前に、教会は「これを食べる者は決して飢えることがない」と言われる真のパンであるイエス・キリストを全世界に運ぶのです。
主日礼拝 2021.04.11
奏楽 | 古賀 洋子 |
招詞 | イザヤ書2章1~3節 (旧約 p1063) |
讃美歌 | 55 きょうはひかりを |
祈祷 | |
聖書 | マルコによる福音書8章.11~21節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 66 せいなるせいなる |
説教 | 「まだ悟らないのか」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 259 あめなる主イエスの |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 545 ちちのみかみに |
祝祷 | |
後奏 |
「あの方は復活なさった」(復活節礼拝)
マルコによる福音書16章1~8節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
主の復活の朝を迎えました。それは死が命に変わった日です。わたしたちは皆、死に向かって進んでいます。そして死はすべての終わりであると考えています。死の後にいかなることも期待することはできないし、死者に対して何もすることができないのです。しかし、そうした考え方がひっくり返される出来事が起こりました。それが主イエス・キリストの死からの復活です。
主の弟子たちも主の死ですべてが終わったと考えていました。主の死のあと主に従った者たちに何かまだすることが残っているとすれば、主の遺体に香油を塗ることだけです。金曜日の夕刻には、慌てて主の遺体を十字架から降ろして墓に納めたために、それをすることができなかったからです。
三人の女性たちが週の初めの日(日曜日)に、夜が明けるか明けないうちに、主の遺体が納められた墓に行きました。香油を塗るためです。墓の穴を塞いでいる石をどうしようかと案じながら墓に向かった彼女たちでしたが、墓に着くとその石はすでに取り除けられ、白い衣を着た若者が中にいたのです。この若者は神の使いです。墓には主の遺体は見つかりませんでした。神の使いは彼女たちにこう告げました。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。このことを弟子たちに伝えなさい」。それを聞かされた女性たちは、今見たことや告げられたことに対する驚きや恐怖に耐えることができず、急いで墓から逃げ去りました。彼女たちは正気を失ってしまいました。
主が生きておられたとき、三度にわたってご自身の十字架の死と死からのよみがえりについて語られました。それを女性たちも聞かされていたはずです。しかし、主が予告されたことが現実に起こったとき、弟子たちも彼女たちも、主の言葉をすぐには思い出すことができなかったのです。彼らは主が言われたことも十分に理解できていませんでしたし、たった今目撃した事柄も主の言葉と結びつけて受け止めることができませんでした。
ある神学者が、「復活の出来事の前で、誰でも思考や知恵がいったん止まるほかない」と述べています。まさしくそのことが主への服従に生きた者たちに起こっています。わたしたち人間の思考の先に復活があるのではありません。それがいったん遮断される形で主なる神が引き起こしてくださる出来事が、死から命への移行、即ち復活です。それでは信じえない者たちが主の復活を信じることができるようになるためには、何が必要なのでしょうか。それは復活の主ご自身との出会い以外にありません。この後、女性たちや弟子たちは復活の主との出会いを与えられて、少しずつ信じる者へと変えられて行きました。
イエス・キリストの復活によってすべての人間の前に大きく立ちはだかっていた死という岩が取り除かれて、新しい命の世界が切り開かれました。死を超えた命が主によってもたらされたのです。わたしたちは主に結びつくとき、永遠の死へと死んでいくのではなくて、真の命に向けて死んでいくのだということを教えられます。主は言われました、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)。わたしたちは、死を恐れる者ではなく、主の復活のゆえに死を超えた命の希望に生きる者とされているのです。
主日礼拝 2021.04.04
奏楽 | 十時 やよい |
招詞 | 詩編16編7~11節 (旧約 p846) |
讃美歌 | 54 よろこびのひよ |
祈祷 | |
聖書 | マルコによる福音書16章.1~8節 |
信仰告白 | 日本キリスト教会信仰の告白 |
讃美歌 | 148 すくいのぬしは |
説教 | 「あの方は復活なさった」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 151 よろずのたみ |
洗礼式 | |
讃美歌 | 199 わがきみイエスよ |
聖餐式 | |
讃美歌 | 204 すくいのきみなる |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 545 ちちのみかみに |
祝祷 | |
後奏 |
「イエスかバラバか」(棕梠の主日礼拝)
マルコによる福音書15章6~15節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
今日は棕梠の主日です。聖書においては、つい数日前に棕梠の葉を道に敷いて「ホサナ」と叫びながら主イエスを歓迎した人々が、今は「イエスを十字架につけよ」と叫ぶ者に大変身しています。そしてついに最高法院で死刑の判決を受けた主は今、死刑確定のために総督ピラトのもとに引き渡されました。尋問の中で沈黙を守り続ける主に対して、ピラトは不思議な思いを抱くとともに、この人は無罪だとも思い始めています。しかし人々の「十字架につけよ」との声は大きくなるばかりです。注意して聞けばその叫び声の中にわたしの声も混じっているかもしれません。
困惑しきったピラトが思いついたのは、祭りの度ごとに囚人を一人釈放してきたこれまでの慣例です。それによってイエスを赦そうと考えたのでした。しかし人々は主イエスではなく、暴動と殺人の罪で十字架刑が決まっているバラバの釈放を求めました。それはピラトの予想に反することでした。人々は、自身を神の子と称し、悔い改めを求めるイエスより、ユダヤの国家のためにローマへの抵抗運動をしたバラバの方がまだましだと考えたのでしょう。人々が、少しもおごらず、ヘリくだりをもって他者に仕えることを教える主ではなくて、力と暴力によって目的を達成しようとするバラバを選んだことの中に、多くの人が何を原理として生きようとしているかが如実に表されています。今日においてもイエスではなく、バラバを選ぶ人がきっと多くいることでしょう。
ピラトはどうしたでしょうか。彼も結局は民衆の声に押されてバラバを釈放する決断をします。彼は真実や正義を重んじることよりも、民衆に迎合し自己保身を図るためにそうしたのです。国家の代表が、神の御子を死刑に処した、そのことを教会が忘れることがないようにと、「使徒信条」では彼の名が刻まれることになりました。御子イエスは国家権力によって死に渡されたのです。これらのことは、わたしたちの生き方に大きな問いを投げかけています。力と暴力と不正によって自分を守るか、それともへりくだって人に仕える道を歩もうとするか、いつもわたしたちは問われているのです。
さて、バラバが赦されたことに注目してみましょう。百パーセント死刑に処せられるはずのバラバが、主イエスの代わりに赦されて生きる者とされました。一方、死に値する罪を犯されなかったにもかかわらず主イエスは、死刑の判決を受けました。バラバという死すべき人間が、イエスの十字架と引き換えに死から命に移されたのです。これこそが、主イエスの十字架の死による罪人の救いと贖いを最も端的に、そして象徴的に表しているものです。主イエスの死は罪人の身代わりの死だったのです。バラバが赦されたのは、彼自身の中にそれに値する何かがあったわけではありません。ただ彼に代わって死に渡される身代わりの人、主イエス・キリストがおられたということのみが、バラバの救いの根拠なのです。これは神の愛に基づく罪人の救いのための御業なのです。主イエスの死を代償にして罪人が救われることは、父なる神が備えてくださった罪人の唯一の救いの手段です。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ5:8)。
主日礼拝(棕梠の主日礼拝)2021.03.28
奏楽 | 古賀 洋子 |
招詞 | エレミヤ書23章5~6節 (旧約 p1219) |
讃美歌 | 52 主のさかえに |
祈祷 | |
聖書 | マルコによる福音書15章.6~15節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 260下 ちとせのいわよ |
説教 | 「イエスかバラバか」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 136 ちしおしたたる |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 544 あまつみたみも |
祝祷 | |
後奏 |
「空腹のまま帰らせたくない」
マルコによる福音書8章1~10節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
一般に「パンの奇跡」と呼ばれている出来事は、6章35節以下に記されていました。それとよく似た出来事が8章1節以下にも記されています。二つはどのような関係にあるのでしょうか。ある人は、これは一つの出来事が人々の間で言い伝えられていく間に、少しずつ変化してきて二つの物語になったと考えます。他の人は、この二つはいくつかの点で相違している、その相違が重要であることを考えると、これはもともと異なる二つの出来事であったと考えます。わたしたちは後者の考えに立って、御言葉に聞きたいと思います。
今回の出来事は、異邦人の地デカポリス地方のガリラヤ湖南東岸近くでなされました。そこには異邦人が多くいたはずです。その点において第一回目の出来事とは異なります。集まって来た人々は、三日間も主イエスから神の国に関しての話を聞き続けてきました。霊的な糧を人々は十分に受けました。その群衆に対して主は今度は、肉体のパンの心配をしておられます。彼らに食べ物がない状態を主は「かわいそうだ」と感じておられます。それは五千人のパンの奇跡の時の群衆を「深く憐れまれた」ことと同じ用語です。マタイによる福音書の並行記事においては、主が語られた「空腹のまま帰らせたくない」との言葉が記されています。主は今、人々の肉体のパンに関しても心を寄せておられ、彼らの飢えをどうにかして満たしたいとの強い意志をもっておられます。
そして今回は自ら、弟子たちにパンの手配をするように求めておられます。弟子たちは前の時と同じように、どのようにして人々のパンを手に入れたらよいのか戸惑い、不満に思っています。しかし主に命じられてパンを集めると、七つありましたし、魚も少しだけありました。主は感謝の祈りを捧げて、それらを四千人の人々に分けられると、人々は満腹するまで食べることができました。残ったパンの屑は七籠になりました。群衆の数も、残ったパンの数も、第一回目の時とは異なります。ここで「七」という数字に注目してみましょう。前回の十二という数は、イスラエルの十二部族すべてに福音が伝えられることを約束するものでしたが、七は何を象徴しているのでしょうか。七は完全数と言われます。この奇跡が異邦人の地でなされたこととも関係していて、その数字は福音がイスラエルを超えて全世界に広まることの約束が示されている、と理解することができます。弟子たちは今回も残されたパン屑の籠の数から、大切なことを教えられているのです。
わたしたちは、この出来事から教会の使命を改めて考えさせられます。現代の厳しい状況において、霊的パンに飢えている人が多くおり、また肉的パンにおいても飢え渇いている人々が多くいます。そういう中で教会はどのようにして託された務めと責任を果たしていくかが問われています。弟子たちが「こんな人里離れた所で一体どうすればよいのか」とつぶやいたように、わたしたちもこんな厳しい時代状況の中で一体何ができるのかとつぶやきがちです。しかし主が「彼らを空腹のまま帰らせたくない」と言われたことに真摯に応えなければなりません。それは何よりもまず神の恵みの御言葉を広く伝えることにもっと力を注ぐべきだということではないでしょうか。多くの人々を霊的飢えの状態のまま放っておき人生の途中で倒れさせることは、教会には決して許されないことなのです。