「まだ悟らないのか」

マルコによる福音書8章11~21節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主は、4千人の人々にパンを分け与えられた後、ダルマヌタの地方に行かれました。そこにファリサイ派の人々がやって来て、主を試そうとして、天からのしるしを求めました。彼らは、「主イエスが神から遣わされたメシアであるならば、それを証拠立てる、目を見張る業を示して欲しい。そうすればわたしたちはあなたを信じます」と言っているのです。それに対して主は、「今の時代には、決してしるしは与えられない」と答えられました。それは、ファリサイ派の人々が求めているような劇的なしるしは決して起こらない、主イエスご自身がそこに存在し、神からの業をなさっていることそれ自体が、最大のしるしなのだ、と言っておられるのと同じです。

わたしたちも時には、著しい奇跡的なことが教会によってなされるならば、多くの人が教会に目を向けるようになるのではないかと考えたりします。しかしわたしたちにとっても神からのしるしは、主イエス・キリスト以外にはないのです。使徒パウロは次のように述べています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(コリント一、1:22~23)。教会は時代がどんなに変わろうとも、十字架の主イエスを宣べ伝えることに全力を注ぐのです。

主イエスの一行はその地を去って、舟に乗って向こう岸に渡ろうとしています。その舟の中で、弟子たちは自分たちの手元にパンが一つしかないことで論じ合っていました。それを聞かれた主は話題を、食べるパンからファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に移されました。この場合のパン種とは、誤った教えのことです。ファリサイ派の教えは自分たちの考えを絶対的規準としたものであり、ヘロデの教えは権力と欲望を中心とするものと言ってよいでしょう。それは主イエスの教えに真っ向から敵対するものです。主はそれらの教えに多くの人々が影響を受け、誤った思想に染まることがないように気をつけなさいと、弟子たちに教えておられるのです。しかし弟子たちは、主のその忠告が何を意味しているか分からないままでした。

そこで主は先のパンの二つの奇跡を持ち出されます。しかもそれぞれの場合に、そこにいた人々の数ではなくて、残ったパン屑を入れた籠の数を思い起こさせておられます。これはどういうことでしょうか。5千人の場合、残ったパン屑の籠の数は12でした。それはまずイスラエルの全12部族に福音を運べと言う意味でした。さらに4千人の場合は、残ったパン屑の籠は7でした。7が完全数ということから、全世界にあまねく福音を伝えよとのメッセージがそこにあることを教えられました。誤った教えが世界に蔓延する前に、あなたがたは真の命のパンであるイエス・キリストの福音を世界に運べと教えておられるのです。このことは小さな舟の中でなされました。舟は教会を象徴しています。教会には命のパンであるイエス・キリストがおられます。そのパンを全世界に運ぶ、それが教会の主からの委託です。悪しきパン種で世界が膨れ上がる前に、教会は「これを食べる者は決して飢えることがない」と言われる真のパンであるイエス・キリストを全世界に運ぶのです。