「空腹のまま帰らせたくない」

マルコによる福音書8章1~10節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

一般に「パンの奇跡」と呼ばれている出来事は、6章35節以下に記されていました。それとよく似た出来事が8章1節以下にも記されています。二つはどのような関係にあるのでしょうか。ある人は、これは一つの出来事が人々の間で言い伝えられていく間に、少しずつ変化してきて二つの物語になったと考えます。他の人は、この二つはいくつかの点で相違している、その相違が重要であることを考えると、これはもともと異なる二つの出来事であったと考えます。わたしたちは後者の考えに立って、御言葉に聞きたいと思います。

今回の出来事は、異邦人の地デカポリス地方のガリラヤ湖南東岸近くでなされました。そこには異邦人が多くいたはずです。その点において第一回目の出来事とは異なります。集まって来た人々は、三日間も主イエスから神の国に関しての話を聞き続けてきました。霊的な糧を人々は十分に受けました。その群衆に対して主は今度は、肉体のパンの心配をしておられます。彼らに食べ物がない状態を主は「かわいそうだ」と感じておられます。それは五千人のパンの奇跡の時の群衆を「深く憐れまれた」ことと同じ用語です。マタイによる福音書の並行記事においては、主が語られた「空腹のまま帰らせたくない」との言葉が記されています。主は今、人々の肉体のパンに関しても心を寄せておられ、彼らの飢えをどうにかして満たしたいとの強い意志をもっておられます。

そして今回は自ら、弟子たちにパンの手配をするように求めておられます。弟子たちは前の時と同じように、どのようにして人々のパンを手に入れたらよいのか戸惑い、不満に思っています。しかし主に命じられてパンを集めると、七つありましたし、魚も少しだけありました。主は感謝の祈りを捧げて、それらを四千人の人々に分けられると、人々は満腹するまで食べることができました。残ったパンの屑は七籠になりました。群衆の数も、残ったパンの数も、第一回目の時とは異なります。ここで「七」という数字に注目してみましょう。前回の十二という数は、イスラエルの十二部族すべてに福音が伝えられることを約束するものでしたが、七は何を象徴しているのでしょうか。七は完全数と言われます。この奇跡が異邦人の地でなされたこととも関係していて、その数字は福音がイスラエルを超えて全世界に広まることの約束が示されている、と理解することができます。弟子たちは今回も残されたパン屑の籠の数から、大切なことを教えられているのです。

わたしたちは、この出来事から教会の使命を改めて考えさせられます。現代の厳しい状況において、霊的パンに飢えている人が多くおり、また肉的パンにおいても飢え渇いている人々が多くいます。そういう中で教会はどのようにして託された務めと責任を果たしていくかが問われています。弟子たちが「こんな人里離れた所で一体どうすればよいのか」とつぶやいたように、わたしたちもこんな厳しい時代状況の中で一体何ができるのかとつぶやきがちです。しかし主が「彼らを空腹のまま帰らせたくない」と言われたことに真摯に応えなければなりません。それは何よりもまず神の恵みの御言葉を広く伝えることにもっと力を注ぐべきだということではないでしょうか。多くの人々を霊的飢えの状態のまま放っておき人生の途中で倒れさせることは、教会には決して許されないことなのです。