「真理に開かれる目」

マルコによる福音書8章22~26節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

本日のテキストである8章22~26節は、マルコによる福音書における重要な位置を占めています。それを意識しながら御言葉に耳を傾けましょう。

これは盲人の癒しの物語です。舞台はガリラヤ湖北岸のベトサイダです。主イエスの一行がそこに行かれたとき、人々が一人の盲人を主のもとに連れてきました。もちろん、見えない目を癒していただくためです。主はその盲人を人々から切り離して村の外に連れて行かれました。癒しの行為は見世物ではなく、また主の力を誇る場でもありません。一対一の関係の中で、癒される人が主と出会う場なのです。主はそういう状況を作り出しておられます。

この癒しの出来事が持っている特徴は、目が見えるようになる癒しが二段階で行われているということです。最初は主によって目に唾がつけられ、手が置かれると、少し見えるようになりました。盲人は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と言っています。おぼろげに人の姿が見えるようになりました。しかしそれではまだ完全に癒しがなされたことにはなりません。主がもう一度手を置かれると、今度は「何でもはっきり見えるように」なりました。癒しが完了したことになります。その人が見えるようになった目で最初にはっきり見たのは、主イエス・キリストでした。

ところでマルコ福音書は全体で16章から成っています。今日のテキスト部分は分量的にちょうど全体の中間に位置しており、これ以後、福音書は後半部分に入ります。内容的には、前半は主がなさったことが中心に記されてきました。それは神の子イエスがどのような意味で神からの方であるかを明らかにするものでした。これからの後半部分は、8章29節におけるペトロの「あなたは、メシアです」という告白から一気に主イエスの受難予告が3回繰り返されながら、主がいかなる意味でメシアであられるかが明らかにされて行きます。そういった意味で、今日の盲人の目の癒しが二段階でなされた癒しは象徴的です。それは弟子たちの信仰の成長の過程を示唆してるように思われます。

先の箇所で、弟子たちが主によって「まだ分からないのか。悟らないのか」ととがめられたことを聞きました。彼らはまだおぼろげにしか、主イエスがどなたであるかが分かっていませんでした。しかし、ペトロの信仰告白によっても明らかなように、主がメシアであられることが少しずつ認識されるようになっています。まだ十分ではありませんが、彼らの信仰は少しばかり主イエスに近づいています。そのように信仰は一気にすべてが理解される形で与えられるものではなくて、少しずつあるいは段階的に成長しながら、主が求められるものに近づいて行きます。盲人の癒しの物語はそのことを示唆しています。

わたしたちの信仰も同じです。わたしたちも主によって「まだ分からないのか」と言われる状態を続けながら、いろんなことをきっかけに次の段階に進むことができるものとされます。その間主は忍耐をもってわたしたちを捕え続け、導いてくださいます。盲人の目に主の手が置かれたように、わたしたちの心の目に聖霊が働きかけてくださって、わたしたちの信仰は少しずつ高みへと導かれていくのです。わたしたちの中に生じた信仰を、主は「キリスト・イエスの日までに」(フィリピ1:6)完成してくださるのです。