「大いに心を打たれた人々」   (ペンテコステ礼拝)

使徒言行録2章37-42節

2021年5月23日(日) 佐賀めぐみ教会 牧師 久野 牧

主イエスの復活後50日目に、約束の聖霊が弟子たちの上に降った。いわゆるペンテコステの出来事である。聖霊の力を受けてペトロが行った説教が、2章14~36節に記されている。その中心のメッセージは、36節の「十字架につけられて殺され、三日目に復活されたイエスこそが、あなたがたの救い主である」ということである。そしてその説教を聞いた人々の反応が、2章37~42節に記されている。今日は、その中の前半部分を中心に、み言葉に耳を傾けたい。37節に次のように記されている。

「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」。

群衆は、イエス・キリストの十字架の死と復活と昇天について語るペトロの説教に激しい衝撃を受けている。「大いに心を打たれ」とは、別の表現では「深く心をえぐられ」となる。人々は、ペトロの話しの中の何かに、激しく心が揺り動かされているのである。今自分たちの目の前で語られ、自分たちの耳で聞き取ったことはただごとではない、このまま聞き過ごすことができるようなものではない、と多くの人々は受け止めているのである。その中心にある何かとは、イエス・キリストその方である。

神が御子イエス・キリストにおいてなされた御業は、十字架と復活の出来事に集約されるのであるが、それが聖霊の助けのもとに真実に語られ、真実に聞かれるならば、そこに何事かが起こるということを、この出来事は示している。他人事としてではなく、自分事として聞くとき、キリストにおける出来事の告知は、それを聴く人を揺り動かさずにはおかないのである。今の時代の礼拝における説教も、そのようなものとして用いられることはあり得るはずである。

しかし、どうであろうか。自分自身への厳しい戒めを込めながら思わされることは、今日教会においてそうしたことがめったに起こらないということである。語られるみ言葉が聞く人の心を打たないのだ。むしろ多くの人の心を打つのは、わたしたちの周辺で起こる小さな感動的出来事、日常の中で聞く心温まるエピソードなどである。それはそれで素晴らしいことである。しかし、世に遣わされた教会は、イエス・キリストを語ることにおいて人々の心に迫っていかなければならない。主イエスが今、ここにリアルに臨んでいてくださることを明らかにすることに仕えなければならない。教会はペンテコステの日のペトロの説教に秘められたあの力をもう一度手にしなければならないことを、強く思わされるのである。キリストの愛、義、赦しを生き生きと語る説教を回復しなければならない。そうした教会の真の姿の回復は、喫緊の課題である。

強く心を打たれた人々の口から発せられた言葉は、こうであった。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」。この「わたしたち(あるいは、わたし)はどうしたらよいのですか」との問いは、わたしたちがいろんな事柄に直面した時に、しばしばわたしたちの内面に生じてくるものである。岐路に立たされた時、今まで歩んできた道をそのまま進むべきか、それとも方向を変えて新しい道を選択すべきかとの問いが生まれる。今所有しているものをそのまま所有しておいてよいのか、それともいったん放棄すべきか。今の状況にまだ我慢し耐えるべきか、それとも立ち上がって断固戦いを挑むべきか。そうしたことでわたしたちは、「どうしたらよいのですか」としばしば悩み、煩悶するのである。

内村鑑三の言葉。 「人は、何人(なにびと)か懐疑なかろう。人生の矛盾は万人の感ずるところ、人生そのものが最大の疑問物である」。

わたしたちは、「わたしはどうしたらよいのか」との問いに、その都度懸命に答えを見出したり、また何かの拍子に回答を与えられたりしながら、それぞれの歩みを続けてきた。これからもそうであるに違いない。そうした問いを発せさせられる最大の出来事、重くて決定的なもの、それは神がわたしたちの生の中へ突入してきたときに生じるのである。「十字架につけられて死んだイエス、そしてよみがえられたイエスこそが、あなたの唯一の救い主である」、このことが突き付けられた時、神ご自身がキリストを通してわたしたちの生の中に入って来ておられるのだ。それは同時に自分の罪が明らかにされるときであり、またそれゆえ、今までの生き方で良いのかの問いが生まれて来ざるを得ないときなのである。つまり、「わたしはどうしたらよいのですか」との問いと叫びが生じるのである。

この問いは、今新たに生じた動揺の中からの叫びであると同時に、新しい自分が生まれ出ようとする叫びでもある。じっとしてはいられない、何かをしなければならないという思いが募る、しかし何をどうしたら良いのか分からない。その煩悶の中から、神に向かっての叫びが生じる、それが「わたしはどうしたらよいのか」との叫びであろう。この神への叫びは、語られた御言葉とともに働く聖霊が引き起こしてくださったものである。聖霊なる神が、その人を揺さぶっておられるのである。聖霊の神は、このようにご自身の器であるペトロを通して、主イエスによる救いの証言を語らせるとともに、それを聞く人の内にも働いて、救いを求める叫びを生み出してくださっているのである。それゆえ御言葉を語る時、聖霊の働きを祈り求めることが欠かせない。

人々の真剣な問いかけに対して、ペトロが代表して答えている。

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」(38)。

ここでは主として二つのことが語られている。一つは、「悔い改めなさい」であり、二つ目は「洗礼を受けなさい」である。罪を赦していただきなさいはそれに含まれている。しかも「めいめい」と言われているように、集団としてではなく、一人ひとりが、またそれぞれの魂がなすべきことが示されている。それらは小手先のこととしてではなく、究極的には神との関係の中でなさるべきこととして語られているのだ。

まず「悔い改めよ」と命じられている。これは方向転換をせよということである。今まであなたは神に背を向けて生きて来た、あるいは神に向かっているつもりでもその方向は大きくそれていた、そのようなあなた自身を神の方に向け変えて、神と真正面に向き合うようにしなさい、ということである。悔い改めとは単に、今までの自分はだめだった、これまでの生き方は失敗だったと考え、もう二度と同じことはしないと内面的に反省をすることではない。むしろ神が心に侵入してくださることによって、「生き直し」が始まることである。今までの自分に「ノー」と言うだけではなく、神が「然り」と言われる方向に、自分の全身を差し向けることである。換言すれば生きる土台が置き換えられること、あるいは自分の生の「主人」が新しくされることである。心に侵入してくださる神がそうしてくださるのだ。したがって、悔い改めとは人間の行為であると同時に、神が生み出してくださるものであると言ってもよい。その意味で悔い改めは、祈り求める者に与えられる神からの賜物である。悔い改めとは、恵みに満ちた極めて生命的な、また動的な行為である。

そしてそのようにして神との新しい関係に入れられ、新しい存在とされた者、即ち神の国の一員として受け入れられた者に与えられる神からのしるしが、洗礼である。これもまた、わたしたち人間の側の決断である前に神の決断が先行しているものである。「あなたを罪なき者として受け入れる」との神の決断が、わたしたちの洗礼への決断を生み出すのである。受け入れてくださる神が先にそのことを示してくださらなければ、わたしたちの方から勝手に「わたしは神の前に罪を赦されて、神の国に属する者となります」などとは言えない。このような自分にも神は罪の赦しを与えて、御国に迎え入れてくださるとの神の決断への信頼が、すべてを神に委ねようとする人間の決断としての洗礼として結晶するのである。あの洗礼の時の水は、その人に伸ばされた神の御手のしるしである。御手がその人を捕えるのである。それは罪の赦しの宣言でもある。ペトロは、洗礼を受けて、あいまいさを残すことなくキリストに属する者としての歩みを始めるようにと一人ひとりに求めている。

ペトロは、「イエス・キリストの名によって」と言っている。イエス・キリストの名によるとは、イエス・キリストに起こった出来事を唯一の救いの根拠、救いの基礎として信じるということである。洗礼を受けるとはその信頼に立って自分自身をイエス・キリストに明け渡すことである。そしてわたしが主を裏切ることはあっても、主は決してわたしを裏切られることはないとの主に対する確かな信頼と結びつきの中で生きることが許されること、それがイエス・キリストの名による洗礼である。「主の名による洗礼」を受けるとは、「恐れるな、わたしはいつもあなたと共にいる」という主の言葉への信頼に立って生き始めるということでもあろう。

こうして、心を揺り動かされた人々が今なすべきことは何であるかを明らかにするペトロの言葉によって、その日洗礼を受けた人は「三千人」ほどであったと記されている(41)。これは聖霊が引き起こしてくださった出来事である。この数字が歴史的な事実として正確であるかは議論されるところであるが、極めて多くの人々が、悔い改めて洗礼を受けたことは間違いないことである。神がなさるならば、こうしたことも起こるのである。先に主イエスの弟子となった者たちやガリラヤから主に従って来た婦人たちも加えて、主イエス・キリストを唯一の救い主として信じる者たちの集団、即ち教会がここに誕生したのである。それは教会という共同体の誕生の出来事であるが、それを構成する一人ひとりの人間の新たな誕生があってこそそれが起こった、ということを忘れてはならない。

や教派においては、今日でも大人数の洗礼式がなされていることも知らされる。しかし逆に大多数の教会においては、「今年も受洗者は与えられなかった」と一年が振り返えられるのである。なぜそうなのか。ペトロが言っているように今の時代が「邪悪」(40)だからであろうか。わたしたちはこの問題を時代のせいにしてはならないであろう。この厳しい現実はもっぱら教会のみ言葉の説教の弱さと、人々の悔い改めを願うわたしたちの祈りと情熱の不足に起因するものではないか。まさしく、わたしたち信仰者と教会には、今も悔い改めること、すなわち教会の方向転換が求められているのかもしれない。

最後に、このような出来事は、今日ではもはや起こらないのであろうか。きわめて少数の教会三千人でなくてよい。せめて自分が心に覚えているあの人を洗礼へと導いてくださいという祈りを、あのペンテコステ前の弟子たちが「心を合わせ、熱心に祈った」(1:14)ように、そして新しく生まれた教会が「祈ることに熱心であった」(42)ように、今わたしたちが心を込めて祈るならば、何かが起こるであろう。わたしたちの神にできないことは何もないとの確信が新たにされるとき、それがペンテコステである。

主日礼拝 2021.05.23

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞詩編22編28~30節  (旧約 p854)
讃美歌161  インマヌエルのきみのみ
祈祷
聖書使徒言行録2章37~42節 (新約 p216)
信仰告白使徒信条
讃美歌181  みたまよくだりて
説教「大いに心を打たれた人々」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌217  あまつましみず
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
祝祷
後奏

「山上での主イエスの輝き」

マルコによる福音書9章2~13節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスが弟子たちにご自身の受難と復活の予告をなさり、さらに自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさいと命じられたときから六日が経過しました。主は今、三人の弟子たちを伴われて山に登っておられます。そこで主イエスのお姿が変わり、また旧約時代のモーセとエリヤが現れるという現象が起こりました。これはいったい何を意味しているのでしょうか。

モーセは、旧約聖書の重要な要素の一つである「律法」を代表する者として登場しています。また、エリヤは同じように重要な「預言者」の代表です。またこの二人は、その死に関して不思議なことが伴っていたために、彼らは再びこの世に来るということがイスラエルにおいて信じられていました。そのような二人が主イエス・キリストの前に現れ、親しく語り合っている様子が展開されています。それによって、旧約聖書が目指していたことは、主イエスにおいて目に見える形となって表されたということが明らかにされています。旧約全体が指し示していたことは、新約のイエス・キリストにおいて成就したということです。ここに旧約と新約の連続性と関係性が明らかにされています。

目の前で起こっていることの意味を理解することの出来なかったペトロは、この現象がいつまでも続けばよいと考えました。その時、天からの声が響きました。それは「これはわたしの愛する子、これに聞け」というものでした。先に主イエスが洗礼を受けられた時には、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」(1:11)との声が天から聞こえました。それは御子イエスに対して語られたものでしたが、今回は弟子たちに向けて語られています。「これに聞け」と命じられています。それは、どのような状況にあってもあなたがたは、御心に敵う神の子イエス・キリストに聞き従えということです。これから主イエスの身に大きな出来事が起こる、また弟子たちの上にも思いがけないことが必ず起こる、しかしいかなる時にもこの主エス・キリストに聞き従いなさいと神は命じておられます。

なぜこの時、このような現象が弟子たちに示されたのでしょうか。それは、弟子たちが主と崇めるイエス・キリストは、苦しみに会い、十字架の上で死ぬことになっているが、それで終わらずに、復活の命に移されることも約束されていることを明らかにするためです。弟子たちの頭には、今は、つい先日聞かされた主の苦しみと死のことしかないかもしれません。しかし、主ははっきりとご自身の復活のこともお語りになっておられました。そのことに心を向けられないでいる弟子たちに、神は山の上での輝きに満ちたイエスのお姿、それは死に勝利されたお姿ですが、それを弟子たちに表すことによって、主の最後の様子を明らかに示しておられるのです。それによって、この主に從う者たちにも、同じように輝きに満ちた終わりの時が用意されていることを約束してくださっています。彼らも終わりの時に変容するのです。その約束を目に見える形で示されることによって弟子たちが徹底して主に從う生き方を貫く者となるようにと、励ましておられます。主に從う者たちには、希望に満ちた輝きが終わりの時に神によって備えられていることを教えられます。

主日礼拝 2021.05.16

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

前奏
招詞詩編84編11~13節  (旧約 p922)
讃美歌2  いざやともに
祈祷
聖書マルコによる福音書9章2~13節
信仰告白使徒信条
讃美歌71  つくりぬしよ
説教「山上での主イエスの輝き」 
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌168  イェスきみのみなに
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
祝祷
後奏

「命を救うことと失うこと」

マルコによる福音書8章34~9章1節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

先に8章34節を中心に御言葉を聞きましたが、35節以下のみ言葉にも耳を傾けてみましょう。主は、ここで命には二つのものがあると言っておられます。用語はどちらも同じですので、見分けがつきにくいかもしれませんが、前後の関係から区別ができます。その一つは、地上に属する命、生物学的な命です。わたしたちが普通に命と言っているものです。もう一つは、神の国に属する命、永遠の命です。主は今、この二つの命について語っておられます。
35節に「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」とあります。自分の力だけで自分の命を守ろうとする者、自分の益のためにのみ生きようとする者は、結局、「それを失う」、つまり神の国に属する命を手にし損ねるということです。その人の地上の命の終わりが、すべての終わりということになります。

一方地上の命を失っても天に属する命を得ることができるのは、「主のため、また福音のために命を失う者」です。その人たちは地上の命を失っても、命を救うことができる、即ち、天における新しい命を約束される者となるということです。それは具体的にはいかなる生き方を指しているのでしょうか。先に「自分の十字架を背負って主に從え」と主は命じられました。この生き方こそが、主が言われる「主のために自分の命を失う」生き方であり、それがすべての人が手にすべき本来の命を手にすることができる唯一の道であるということです。これは、人が勝手に考え出した命についての教えではなくて、主なる神が約束してくださっていることです。わたしたちはそれを信じます。

現実はどうでしょうか。36~37節の主の言葉を聞くときに、わたしたちの多くは自分の命を失う生き方をしているのだということを思わせられます。「全世界を手に入れる」とは、自分の力だけで自分の命を守り、地上のあらゆる良きもの、それは物であったり、金銭であったり、人からの賞賛であったりしますが、それらで身を固めれば安心だという生き方のことです。それはだれか特定の少数者のことではなく、わたしたちの多くが何らかの形でそのような生き方を志向していると言わざるを得ないものです。そして死ぬときにこの生き方は間違っていたことに気が付き、すべてを差し出して天における命を手に入れようとしても、その代価は高すぎて、手にすることはできないと主は語っておられます。天における命は、神から与えられるものですから、地上の富などで買い取ることはできないのです。詩編には次のように記されています。

49編9節「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」。

ここでの「魂」は、天における命と考えて良いものです。

天地が滅んでもなお続く命、たとえ死んでも新たに生きる命、これは非科学的ですが、しかし、主イエス・キリストの死からの蘇りによって、その存在が明らかにされました。自分を捨て、自分の十字架を背負って死に至られた主は、地上の命は失われましたが、神によって天における命を与えられました。その主がわたしたちに今、真の命に至る道を指し示してくださっているのです。わたしたちもこの道を歩むようにと招いておられます。何を失っても、キリストの中にのみ新しい命を見ることができる信仰が、いよいよ確かなものとなるように祈りつつ、この道を歩みを続けていきましょう。

「自分の十字架を負う」

マルコによる福音書8章34~9章1節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは、ご自身の受難と復活を予告された後、ご自身に従う者たちの覚悟をお教えになりました。それが、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」です。この語調から明らかにされることは、主が招いておられる新しい生き方は、強制されるものではなく、それぞれが神の前で、自分の自発的な決断によって選び取るべきものである、ということです。ここで主が人々に命じておられることは、「自分を捨てなさい」、「自分の十字架を背負いなさい」、そして「わたしに従いなさい」です。まとめますと、主に従うことが最終的な目的で、そのために二つのこと、即ち「自分を捨てよ」と、「自分の十字架を背負え」の二つが具体的に求められていることになります。この二つについてまず考えてみましょう。

「自分を捨てよ」と命じられています。別の表現をするならば、「自分自身を否みなさい」となります。これはどういうことでしょうか。それは自己放棄とか自己否定という言葉に言い換えられることもあります。これはもちろん自分の命を絶つということではありません。自己を捨てるとは、多くの人が持っている自己拡張の欲望を捨てて、自分を超えた存在のために自分を用いよ、ということです。したがって、自己否定を行う前に、肯定すべき何か大きなものとの出会いや発見があるということが前提となっています。その肯定すべきもの、そしてわたしたちに自分を捨てて従って来るようにと迫って来られるお方こそ、たった今ご自身の苦難と死を予告された主イエス・キリストです。その方の背後に自分を置き、その方に自分を賭け、その方のお心に従ってすべてを選び取っていく生き方、それが「自分を捨てる」ということです。それゆえ、自分を捨てることは決して消極的な生き方ではなくて、極めて積極的・意志的な生き方であることが分かります。

次に主が求めておられることは、「自分の十字架を背負え」です。主イエスにとって十字架を背負うことは、罪人の罪を担って十字架の上で死ぬことでした。その主が、従う者たちに「自分の十字架を背負え」と命じられるとき、それは従う者たちも十字架の上で死ねということなのでしょうか。究極的にはそのようなことまでもが含まれていることは、否定できません。しかしむしろ、ここでは死ぬことよりも生きることが命じられています。つまり、自分を捨てて主に從って生きようとするときに、自分自身の身に降りかかってくるさまざまな苦しみや困難や戦いから逃げようとせずにそれを受け止め、それらを耐え忍びながら主への服従を貫くことです。そのようにして、救い主を証しし、人々の救いのために仕えること、それが自分の十字架を背負うことです。

それはいつも何か特別なこととして起こるわけではありません。またすべての信仰者に等しい形と程度で起こるのでもありません。その人が置かれている状況の中で、日常的に、神の秤に従ってそれぞれに分け与えられるのです。各自の十字架の比較や評価は必要ではありません。それぞれにその人にふさわしい十字架を担わされる神は、同時にそれを担う力をも与えることによって支えてくださり、ご自身の器として用いられます。また主はその人の信仰が無くならないようにと祈りつつ、常にそばにいてくださるのです。

命を救うことと失うこと

主日礼拝 2021.05.09

奏楽古賀 洋子
招詞イザヤ書46章3~4節  (旧約 p1137)
讃美歌1  かみのちからを
祈祷
聖書マルコによる福音書8章34~9章1節
信仰告白使徒信条
讃美歌70  ちち みこ みたまの
説教「自分の十字架を負う」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
派遣と祝福
後奏

「主イエスの受難と復活の予告」

マルコによる福音書8章31~33節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

キリスト教は言葉の宗教と言われることがあります。この信仰に生きる者は自分たちの信仰内容を、明確な言葉で告白したり、証言したりすることが求められています。弟子たちは主からの問いに対して、ペトロが代表して明瞭な言葉で「あなたは、メシアです」と答えました。それはまさしく主イエス・キリストがどなたであられるかをふさわしく言い表したものです。主はそれに対して、そのことを誰にも話さないように命じられました。それだけでなく、ご自身が「メシア」であるとはどういうことなのかを弟子たちに明らかにされます。それが31節に記されている主の十字架の苦しみと死と死からの復活の予告です。これも明らかな言葉で述べられています。

ここで注目したいことは、「人の子は必ず……することになっている」との言葉遣いです。これは神の御計画の中で必ず起こるべきことを言い表したもので、「神的必然」と言われることもあります。主は、神がお定めになった十字架の死をご自身の身に受けるべきだとの覚悟を言い表しておられるのです。

それが意味していることが分からない弟子のペトロは、主をわきへお連れして主をいさめています。「そういうことを口にされてはなりません」と強い口調で述べたのでしょう。ペトロは直情径行の気質ゆえにすぐにそのように反応したとも評されます。しかしそれだけではなく、これはペトロの主に対する素朴な愛の表れとも見ることができます。自分の主であり師である方を死なせてはならないと、彼なりに主を守ろうとしているのです。人間味あふれるペトロの姿を見ることができるように思います。

しかし主はそれに対して、極めて厳しい言葉で対応されます。主の言葉は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」というものでした。今度は主がペトロをいさめておられます。ペトロに向かって「サタン」と呼びかけておられますが、これはペトロがサタンに変質してしまったということではありません。ペトロは今、神に敵対するサタンの攻撃を受けていることをご存じの主は、彼の中に侵入しているそのサタンを追い出そうとしておられるのです。ペトロの情熱や愛は良い、しかしそれが神の思いに従ったものではなく、神とは反対方向に導こうとするサタンに引きずられたものであるならば、それは退けなければならない、それが主の思いでした。主ご自身、十字架を避けさせようとしているサタンの攻撃を受けておられるからこそ、ペトロのこともよくお分かりなのです。

こうして主はペトロを叱ることによって、彼の内からサタンを追い払われました。それはペトロ自身を追い払っておられるのではありません。むしろ主は彼を正常な位置へと引き戻そうとしておられるのです。つまりペトロが主の前に立って主を導こうとするのではなく、主のあとに従う者としての位置に戻るようにと命じておられるのです。「あなたはメシア」と告白した主イエスのあとから従っていくことこそ、彼のなすべきことでした。彼は今新たに「わたしに従いなさい」との主の招きを受けているのです。わたしたちに対しても主は、いつもそうなさっておられるに違いありません。

主日礼拝 2021.05.02

奏楽十時やよい
招詞詩編91編14~16節  (旧約 p930)
讃美歌62  主イエスのみいつと
祈祷
聖書マルコによる福音書8章31~33節
信仰告白使徒信条
讃美歌321  わが主イエスよ
説教「主イエスの受難と復活の予告」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌257  じゅうじかのうえに
聖餐式
讃美歌205  わが主よ
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄545  ちちのみかみに
祝祷
後奏

「あなたは、メシア」

マルコによる福音書8章27~30節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

わたしたちは人生において多くの出会いを経験します。どのような出会いが与えられるかによって、人生が決定されると言ってもよいほどです。信仰においては、神が遣わされたひとり子イエスに、どのようなお方として出会うかが決定的に大事なことです。弟子たちはどうだったでしょうか。

主イエスは弟子たちと共にフィリポ・カイザリア地方に行かれ、そこで改めて彼らと向き合われます。そして二つの問いを投げかけられます。一つは、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」です。主の周りに集まってきている群衆が、主をどのように見ているかを問うておられます。それは、人々の評判を気にしておられるのではなく、彼らの主に対する認識が正しいかどうかを知ろうとしておられるのです。さらにその問いは、弟子たちに対する第二の問いの準備としての意味も持っているものです。弟子たちは、人々の主に対する評判を「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」、「預言者の一人」というようにありのままに報告しています。人々は、主イエスを偉大なお方として捉えていますし、旧約聖書との関係も踏まえていることが分かります。

しかし主は弟子たちのその返答に何も応答されずに、続いて第二の問いを投げかけられます。それは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いです。今度は弟子たち自身の主に対する受け止め方を問うておられるのです。これまで行動を共にし、主による教育と訓練を受けて来た弟子たちが、主に対する正しい認識を持つに至っているかを確認しておられるのです。彼らは今、霊的な視力が問われています。

弟子たちを代表してペトロが次のように答えました。「あなたは、メシアです」。主イエスこそ、神から遣わされた救い主(メシア、キリスト)と告白しています。これは言葉の上では正しい答えであるに違いありません。人々の理解とは奥行が違います。これは聖霊によって導かれた告白と言っても良いでしょう。次のように記されているとおりです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリント一、12:3)。

しかし、それに対して主は「そのとおりだ」とか、「それで十分だ」とは言っておられません。不思議なことに「自分のことをだれにも話さないように」との沈黙命令を出しておられるのです。これはどういう訳でしょうか。おそらく、弟子たちの告白は言葉の上では正しいけれども、「メシア」の真の内容についての理解がまだ不十分であることを主はご存じあられたのでしょう。世間には政治的メシアとか魔術的メシアといった理解がある中で、主がメシアであられるということはそうしたレベルのことではないことを、弟子たちは知らなければなりません。この後(8:31など)続いて語られる十字架と復活におけるメシアとして主イエスに出会うことが、弟子たちに必要なのです。

わたしたちも主によって、「あなたはわたしを何者だというのか」と常に問われています。主が求めておられる告白をなし続けるために、わたしたちは聖書の言葉と聖霊によって、繰り返し主イエスに出会うことが求められています。「主よ、わたしに正しい告白を与え続けてください」。