「大いに心を打たれた人々」   (ペンテコステ礼拝)

使徒言行録2章37-42節

2021年5月23日(日) 佐賀めぐみ教会 牧師 久野 牧

主イエスの復活後50日目に、約束の聖霊が弟子たちの上に降った。いわゆるペンテコステの出来事である。聖霊の力を受けてペトロが行った説教が、2章14~36節に記されている。その中心のメッセージは、36節の「十字架につけられて殺され、三日目に復活されたイエスこそが、あなたがたの救い主である」ということである。そしてその説教を聞いた人々の反応が、2章37~42節に記されている。今日は、その中の前半部分を中心に、み言葉に耳を傾けたい。37節に次のように記されている。

「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」。

群衆は、イエス・キリストの十字架の死と復活と昇天について語るペトロの説教に激しい衝撃を受けている。「大いに心を打たれ」とは、別の表現では「深く心をえぐられ」となる。人々は、ペトロの話しの中の何かに、激しく心が揺り動かされているのである。今自分たちの目の前で語られ、自分たちの耳で聞き取ったことはただごとではない、このまま聞き過ごすことができるようなものではない、と多くの人々は受け止めているのである。その中心にある何かとは、イエス・キリストその方である。

神が御子イエス・キリストにおいてなされた御業は、十字架と復活の出来事に集約されるのであるが、それが聖霊の助けのもとに真実に語られ、真実に聞かれるならば、そこに何事かが起こるということを、この出来事は示している。他人事としてではなく、自分事として聞くとき、キリストにおける出来事の告知は、それを聴く人を揺り動かさずにはおかないのである。今の時代の礼拝における説教も、そのようなものとして用いられることはあり得るはずである。

しかし、どうであろうか。自分自身への厳しい戒めを込めながら思わされることは、今日教会においてそうしたことがめったに起こらないということである。語られるみ言葉が聞く人の心を打たないのだ。むしろ多くの人の心を打つのは、わたしたちの周辺で起こる小さな感動的出来事、日常の中で聞く心温まるエピソードなどである。それはそれで素晴らしいことである。しかし、世に遣わされた教会は、イエス・キリストを語ることにおいて人々の心に迫っていかなければならない。主イエスが今、ここにリアルに臨んでいてくださることを明らかにすることに仕えなければならない。教会はペンテコステの日のペトロの説教に秘められたあの力をもう一度手にしなければならないことを、強く思わされるのである。キリストの愛、義、赦しを生き生きと語る説教を回復しなければならない。そうした教会の真の姿の回復は、喫緊の課題である。

強く心を打たれた人々の口から発せられた言葉は、こうであった。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」。この「わたしたち(あるいは、わたし)はどうしたらよいのですか」との問いは、わたしたちがいろんな事柄に直面した時に、しばしばわたしたちの内面に生じてくるものである。岐路に立たされた時、今まで歩んできた道をそのまま進むべきか、それとも方向を変えて新しい道を選択すべきかとの問いが生まれる。今所有しているものをそのまま所有しておいてよいのか、それともいったん放棄すべきか。今の状況にまだ我慢し耐えるべきか、それとも立ち上がって断固戦いを挑むべきか。そうしたことでわたしたちは、「どうしたらよいのですか」としばしば悩み、煩悶するのである。

内村鑑三の言葉。 「人は、何人(なにびと)か懐疑なかろう。人生の矛盾は万人の感ずるところ、人生そのものが最大の疑問物である」。

わたしたちは、「わたしはどうしたらよいのか」との問いに、その都度懸命に答えを見出したり、また何かの拍子に回答を与えられたりしながら、それぞれの歩みを続けてきた。これからもそうであるに違いない。そうした問いを発せさせられる最大の出来事、重くて決定的なもの、それは神がわたしたちの生の中へ突入してきたときに生じるのである。「十字架につけられて死んだイエス、そしてよみがえられたイエスこそが、あなたの唯一の救い主である」、このことが突き付けられた時、神ご自身がキリストを通してわたしたちの生の中に入って来ておられるのだ。それは同時に自分の罪が明らかにされるときであり、またそれゆえ、今までの生き方で良いのかの問いが生まれて来ざるを得ないときなのである。つまり、「わたしはどうしたらよいのですか」との問いと叫びが生じるのである。

この問いは、今新たに生じた動揺の中からの叫びであると同時に、新しい自分が生まれ出ようとする叫びでもある。じっとしてはいられない、何かをしなければならないという思いが募る、しかし何をどうしたら良いのか分からない。その煩悶の中から、神に向かっての叫びが生じる、それが「わたしはどうしたらよいのか」との叫びであろう。この神への叫びは、語られた御言葉とともに働く聖霊が引き起こしてくださったものである。聖霊なる神が、その人を揺さぶっておられるのである。聖霊の神は、このようにご自身の器であるペトロを通して、主イエスによる救いの証言を語らせるとともに、それを聞く人の内にも働いて、救いを求める叫びを生み出してくださっているのである。それゆえ御言葉を語る時、聖霊の働きを祈り求めることが欠かせない。

人々の真剣な問いかけに対して、ペトロが代表して答えている。

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」(38)。

ここでは主として二つのことが語られている。一つは、「悔い改めなさい」であり、二つ目は「洗礼を受けなさい」である。罪を赦していただきなさいはそれに含まれている。しかも「めいめい」と言われているように、集団としてではなく、一人ひとりが、またそれぞれの魂がなすべきことが示されている。それらは小手先のこととしてではなく、究極的には神との関係の中でなさるべきこととして語られているのだ。

まず「悔い改めよ」と命じられている。これは方向転換をせよということである。今まであなたは神に背を向けて生きて来た、あるいは神に向かっているつもりでもその方向は大きくそれていた、そのようなあなた自身を神の方に向け変えて、神と真正面に向き合うようにしなさい、ということである。悔い改めとは単に、今までの自分はだめだった、これまでの生き方は失敗だったと考え、もう二度と同じことはしないと内面的に反省をすることではない。むしろ神が心に侵入してくださることによって、「生き直し」が始まることである。今までの自分に「ノー」と言うだけではなく、神が「然り」と言われる方向に、自分の全身を差し向けることである。換言すれば生きる土台が置き換えられること、あるいは自分の生の「主人」が新しくされることである。心に侵入してくださる神がそうしてくださるのだ。したがって、悔い改めとは人間の行為であると同時に、神が生み出してくださるものであると言ってもよい。その意味で悔い改めは、祈り求める者に与えられる神からの賜物である。悔い改めとは、恵みに満ちた極めて生命的な、また動的な行為である。

そしてそのようにして神との新しい関係に入れられ、新しい存在とされた者、即ち神の国の一員として受け入れられた者に与えられる神からのしるしが、洗礼である。これもまた、わたしたち人間の側の決断である前に神の決断が先行しているものである。「あなたを罪なき者として受け入れる」との神の決断が、わたしたちの洗礼への決断を生み出すのである。受け入れてくださる神が先にそのことを示してくださらなければ、わたしたちの方から勝手に「わたしは神の前に罪を赦されて、神の国に属する者となります」などとは言えない。このような自分にも神は罪の赦しを与えて、御国に迎え入れてくださるとの神の決断への信頼が、すべてを神に委ねようとする人間の決断としての洗礼として結晶するのである。あの洗礼の時の水は、その人に伸ばされた神の御手のしるしである。御手がその人を捕えるのである。それは罪の赦しの宣言でもある。ペトロは、洗礼を受けて、あいまいさを残すことなくキリストに属する者としての歩みを始めるようにと一人ひとりに求めている。

ペトロは、「イエス・キリストの名によって」と言っている。イエス・キリストの名によるとは、イエス・キリストに起こった出来事を唯一の救いの根拠、救いの基礎として信じるということである。洗礼を受けるとはその信頼に立って自分自身をイエス・キリストに明け渡すことである。そしてわたしが主を裏切ることはあっても、主は決してわたしを裏切られることはないとの主に対する確かな信頼と結びつきの中で生きることが許されること、それがイエス・キリストの名による洗礼である。「主の名による洗礼」を受けるとは、「恐れるな、わたしはいつもあなたと共にいる」という主の言葉への信頼に立って生き始めるということでもあろう。

こうして、心を揺り動かされた人々が今なすべきことは何であるかを明らかにするペトロの言葉によって、その日洗礼を受けた人は「三千人」ほどであったと記されている(41)。これは聖霊が引き起こしてくださった出来事である。この数字が歴史的な事実として正確であるかは議論されるところであるが、極めて多くの人々が、悔い改めて洗礼を受けたことは間違いないことである。神がなさるならば、こうしたことも起こるのである。先に主イエスの弟子となった者たちやガリラヤから主に従って来た婦人たちも加えて、主イエス・キリストを唯一の救い主として信じる者たちの集団、即ち教会がここに誕生したのである。それは教会という共同体の誕生の出来事であるが、それを構成する一人ひとりの人間の新たな誕生があってこそそれが起こった、ということを忘れてはならない。

や教派においては、今日でも大人数の洗礼式がなされていることも知らされる。しかし逆に大多数の教会においては、「今年も受洗者は与えられなかった」と一年が振り返えられるのである。なぜそうなのか。ペトロが言っているように今の時代が「邪悪」(40)だからであろうか。わたしたちはこの問題を時代のせいにしてはならないであろう。この厳しい現実はもっぱら教会のみ言葉の説教の弱さと、人々の悔い改めを願うわたしたちの祈りと情熱の不足に起因するものではないか。まさしく、わたしたち信仰者と教会には、今も悔い改めること、すなわち教会の方向転換が求められているのかもしれない。

最後に、このような出来事は、今日ではもはや起こらないのであろうか。きわめて少数の教会三千人でなくてよい。せめて自分が心に覚えているあの人を洗礼へと導いてくださいという祈りを、あのペンテコステ前の弟子たちが「心を合わせ、熱心に祈った」(1:14)ように、そして新しく生まれた教会が「祈ることに熱心であった」(42)ように、今わたしたちが心を込めて祈るならば、何かが起こるであろう。わたしたちの神にできないことは何もないとの確信が新たにされるとき、それがペンテコステである。