「自分の十字架を負う」

マルコによる福音書8章34~9章1節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは、ご自身の受難と復活を予告された後、ご自身に従う者たちの覚悟をお教えになりました。それが、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」です。この語調から明らかにされることは、主が招いておられる新しい生き方は、強制されるものではなく、それぞれが神の前で、自分の自発的な決断によって選び取るべきものである、ということです。ここで主が人々に命じておられることは、「自分を捨てなさい」、「自分の十字架を背負いなさい」、そして「わたしに従いなさい」です。まとめますと、主に従うことが最終的な目的で、そのために二つのこと、即ち「自分を捨てよ」と、「自分の十字架を背負え」の二つが具体的に求められていることになります。この二つについてまず考えてみましょう。

「自分を捨てよ」と命じられています。別の表現をするならば、「自分自身を否みなさい」となります。これはどういうことでしょうか。それは自己放棄とか自己否定という言葉に言い換えられることもあります。これはもちろん自分の命を絶つということではありません。自己を捨てるとは、多くの人が持っている自己拡張の欲望を捨てて、自分を超えた存在のために自分を用いよ、ということです。したがって、自己否定を行う前に、肯定すべき何か大きなものとの出会いや発見があるということが前提となっています。その肯定すべきもの、そしてわたしたちに自分を捨てて従って来るようにと迫って来られるお方こそ、たった今ご自身の苦難と死を予告された主イエス・キリストです。その方の背後に自分を置き、その方に自分を賭け、その方のお心に従ってすべてを選び取っていく生き方、それが「自分を捨てる」ということです。それゆえ、自分を捨てることは決して消極的な生き方ではなくて、極めて積極的・意志的な生き方であることが分かります。

次に主が求めておられることは、「自分の十字架を背負え」です。主イエスにとって十字架を背負うことは、罪人の罪を担って十字架の上で死ぬことでした。その主が、従う者たちに「自分の十字架を背負え」と命じられるとき、それは従う者たちも十字架の上で死ねということなのでしょうか。究極的にはそのようなことまでもが含まれていることは、否定できません。しかしむしろ、ここでは死ぬことよりも生きることが命じられています。つまり、自分を捨てて主に從って生きようとするときに、自分自身の身に降りかかってくるさまざまな苦しみや困難や戦いから逃げようとせずにそれを受け止め、それらを耐え忍びながら主への服従を貫くことです。そのようにして、救い主を証しし、人々の救いのために仕えること、それが自分の十字架を背負うことです。

それはいつも何か特別なこととして起こるわけではありません。またすべての信仰者に等しい形と程度で起こるのでもありません。その人が置かれている状況の中で、日常的に、神の秤に従ってそれぞれに分け与えられるのです。各自の十字架の比較や評価は必要ではありません。それぞれにその人にふさわしい十字架を担わされる神は、同時にそれを担う力をも与えることによって支えてくださり、ご自身の器として用いられます。また主はその人の信仰が無くならないようにと祈りつつ、常にそばにいてくださるのです。

命を救うことと失うこと