「大きな苦難の予告」

マルコによる福音書13章14~27節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

黙示書を学ぶ上で大切なことが二つあります。その一つは、主イエスが終わりの時のことを教えておられた当時の人々は、終末がすぐにでも来るという緊迫した思いでこれに耳を傾けていたということです。それだけに、彼らは聞くことに真剣でした。二つ目のことは、今日のわたしたちにとっては、「いつ」、「どんなふうに」その時がくるのかに関心を持つことよりも、その時が必ず来るとの思いの中で、それに備えるために今の時をどのように生きることが神の御心に適っているかを、真剣に問いつつ生きることです。

さて14~23節には、特別な事態が生じた時のことが記されています。そこで言及されている「憎むべき破壊者」とは、紀元前170年頃にエルサレムに侵入してユダヤ人たちに異教の神を拝むように強制したシリアの王アンティオコス・エピファネスのことです。それはユダヤ人にとってはとてもつらい厳しい出来事でした。主はその恐るべき歴史的事件を思い起こさせながら、これから先も同じ事が起こりうると予告しておられます。そのときには「戦え」と主は信仰者に命じておられません。むしろ「逃げよ」と命じておられます。なぜなのでしょうか。それは組織的・国家的な巨大な敵の力と戦うよりも、それから逃げることによって、とりあえず信仰を守れということなのです。主は信仰者の弱さや限界をご存じです。それを超えて戦えとは言われないのです。

さらに大切なことは、主ご自身がわたしたちに代わって戦ってくださるとの約束がここにあるということです。「この戦いをわたしに任せよ」、と主は言ってくださっています。この苦難が長引くことによって信仰から脱落するものが出ないように、主ご自身が戦ってくださって「その期間を縮めてくださる」のです。わたしたちはそれゆえに逃げながらでも、「祈りなさい」(18)と命じられています。信仰からの脱落者が出ないように、また教会と自分自身の信仰が守られるように祈らなければなりません。

わたしたちの国においてもかつて天皇への崇敬がすべての人々に求められ、キリスト教会もその圧力に屈することがありました。そのようなことが二度と起こらないとは誰も言えないのです。今日の教会は、国家に対する<見張りの務め>を果たしつつ、信じることの自由のために仕えなければなりません。

24節以下においては、「人の子」が登場します。主はダニエル書7章13節の「人の子」をそのまま用いて、ご自身の再臨の時のことについて語っておられます。そして主が再び来られた時には、「選ばれた人たち」(27)を神のもとに集めてくださると語られています。父なる神を信じる信仰者は、自分で神を選んだのではなくて、神によって選ばれた者たちです(ヨハネ15:16)。信仰の主体は神にあります。それゆえ神はご自身が選ばれた人々を、信仰のゆえの苦難や迫害において守り通してくださり、終わりの時にもれなくご自身のもとに呼び集めてくださいます。神の選びの力と愛は、わたしたちを神から引き離そうとする如何なる力よりもはるかに大きいのです。それがわたしたちの確信であり、平安の源です。その確信と平安のもとで日々を誠実に生きることが、終末に備えた生き方であると言ってよいでしょう。

主日礼拝 2021.11.28

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞ダニエル書7章13~14節(旧約 p1393)
讃美歌12  めぐみゆたけき主を
祈祷
聖書マルコによる福音書13章14~27節
信仰告白使徒信条
讃美歌162  あまつみつかいよ
説教「大きな苦難の予告」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧   長老 栗林 聖子(原稿代読)
祈祷
讃美歌385  うたがいまよいの
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
派遣と祝福コリント二、13章13節によって
後奏

「最後まで耐え忍ぶ者」

マルコによる福音書13章9~13節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは終末のことについて弟子たちに教えておられます。その中で今は、弟子たちに限らず信仰者として生きる者たちに加えられる苦難や迫害について語っておられます。主が繰り返し「わたしのために」とか「わたしの名のために」と述べておられることからも分かりますように、キリストに従う者はそのキリストへの信仰ゆえに苦しみを避けることはできないのです。主ご自身が苦しみに遭われたように、信仰者も苦しみに遭います。

そのような苦しみや信仰者への弾圧には三つの種類があることを主は語っておられます。それは何でしょうか。

第一に「地方法院」とか「会堂」(9)での裁きや罰が挙げられています。それは宗教的な面からの弾圧で、何を神として信じているかということが厳しく問われるのです。パウロもその信仰のゆえにユダヤ人から受けた鞭打ちの刑について述べています(コリント二、11:24~25)。

第二は、「総督や王の前」(9)での裁きが挙げられています。総督はローマの権力者、王はイスラエルの国の権力者ですから、彼らの「前」とは、政治的権力あるいは国家的権力がむき出しにされる場であると言えます。そこではキリスト信仰者が国家にとって危険な存在であるかどうかが問われます。

そして第三は、「親、兄弟」(12)による迫害です。家族関係の中であるいは肉親同士の間で、キリストへの信仰が激しくとがめられることがあるのです。

キリストへの信仰を貫こうとするとき、以前と現れ方は違っても、今日のキリスト者にも同じように迫害や弾圧は起こり得ます。このことはわたしたちと関係のないことではありません。なぜそれを避けることができないのでしょうか。主はこう言われます。「まず、福音があらゆる民に伝えられねばならない」(10)。み言葉は伝道者による宣教活動によってのみ、人々の前に差し出されるのではありません。それぞれの時代の信仰者の苦しみや戦いという手段を通してでも福音は証しされ、信仰者の信じる神がいかなるお方であるかということが広く明らかにされます。それは神の宣教の一つの手段です。

しかしわたしたちはそのような苦しみに耐えられるのでしょうか。裁きの座で、わたしたちの主であるイエス・キリストを正しく証言することができるのでしょうか。自信はありません。しかし主は言われます。何を言おうか、どう振舞おうかと「取り越し苦労をしてはならない」(11)。なぜならそのようなときに聖霊なる神が信仰者を助け、言葉と勇気を与えてくださるのだからと断言しておられます。聖霊は「弁護者」とも言われ、また「慰め主」とも言われる方です。その意味は、「かたわらにいてくださる方」ということです。

このことは何も裁判とか弾圧の場面だけのことではありません。あらゆるときに聖霊なる神はわたしたちのかたわらにいてくださり、わたしたちを助けてくださるのです。なんと慰めに満ちたことでしょうか。だからこそわたしたちは困難と艱難の只中においてだけでなく、さらに地上の生が終わる最後まで耐え忍ぶ者とされるのです。聖霊なる神がそうしてくださいます。それゆえわたしたちは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13)との言葉を自分自身への神の約束として聞くことが許されているのです。

主日礼拝 2021.11.21

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞詩編23編4~6節(旧約 p854)
讃美歌11  あめつちにまさる
祈祷
聖書マルコによる福音書13章9~13節
信仰告白使徒信条
讃美歌161  イマヌエルのきみのみ
説教「最後まで耐え忍ぶ者」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌263  よろこばしき
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
祝祷
後奏

「終末のしるし」

マルコによる福音書13章1~8節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

マルコによる福音書13章は「小黙示録」と呼ばれることがあります。黙示録とは、世の終わり(終末)に関する預言の文書のことですから、この章は終末のことが記されているということになります。終末のことを知るとは単に終わりの時の事柄について知るということだけではなく、それを知ることによって、今の自分たちの生き方を考えるということに結びつかなければなりません。

弟子たちは今、エルサレム神殿の建物の素晴らしさに驚嘆しています。しかし主イエスは彼らに共鳴なさらずに、思いがけないことを話されます。それはこの神殿が壊される時が来る、というものです。彼らの心は迫りつつある主イエスの死の時に向けられなければならないのに、その様子は少しも見られません。そのような弟子たちに対して主は、神殿の崩壊について預言されます。そのご意図は何なのでしょうか。

一つは、実際にこの神殿は、紀元70年にローマ軍によって破壊されるのですが、それを予言しておられるということが考えられます。人の手によるもので、永遠に輝くものは何一つとしてないことを教えておられます。第二のことは、これまで神殿という建物を中心に築かれてきたユダヤ人の信仰は、儀式や儀礼を重んじるものでしたが、それに大きな変化がもたらされることの示唆があります。「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4:23)と言われたように、主の復活以後、神殿以外のどこででも父なる神への礼拝が可能であることを示すものとしての神殿崩壊の預言という要素もあるのです。

こうして主は新しい時の到来を指し示しながら、さらに根源的に新しい時としての終わりの時について続けて語っておられます。そのことに気が付いた弟子たちは、不安そうに、あるいは興味深げに、「そのことはいつ起こるのですか」、また「そのときにはどんな徴があるのですか」と問うています(4)。終末のことが語られるときの人々の大きな関心事の一つは、「いつ起こるのか」であり、もう一つは「どんなふうに起こるのか」です。それらよりももっと大事なことは、「それでは自分たちはどのように生きたらよいのでしょうか」という問いであるはずですが、弟子たちにはそれが決定的に欠けています。

それに対して主は「いつ起こるか」ということは、誰にも分からない、ただ天の父なる神だけがご存じであると言われます。「いつ」と問うよりも、いつその時が来ても良いような、御心に沿った生き方を追求することの方が大事なことなのです。それから、前兆として何が起こるか、どんなことが前もって起こるかについても、明確にはお答えになっていません。偽メシアの登場、戦争の勃発、自然災害等が生じても、それらが即終末ということではない、それらは産みの苦しみであって、その後どれくらいの時が経過するかは分からないと言っておられます。終わりの時はそれらの災いの後すぐに来るかも知れませんし、ずっと長い間来ないかも知れません。

わたしたちにとって死が免れられないように、終末も免れることはできません。必ずそれは来ます。「その時」の前の日々を今わたしたちは生きています。その時がいつ来ても良いように、常に主に直面しているかのように生きること、それがキリストを主と仰ぐ信仰者の終末的な生き方です。

主日礼拝 2021.11.14

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞エレミヤ書29章10~11節(旧約 p1230)
讃美歌9  ちからの主を
祈祷
聖書マルコによる福音書13章1~8節
信仰告白使徒信条
讃美歌90  ここもかみの
説教「終末のしるし」
長老 加藤 治(原稿代読)
祈祷
讃美歌169  きけよやひびく
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
派遣と祝福コリント二、13章13節によって
後奏

「貧しいやもめの献金」

マルコによる福音書12章38~44節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

教会の交わりにおいて「人を見るな、神のみを見つめよ」とよく言われます。信仰は神から来るものですから、それは当然のことです。しかし、信仰に生きている人を見ることによって益を得ることもありますし、逆にそうあってはならないとの学びを与えられることもあります。大事なことは、他者の中に何を見、他者の何に倣うかべきか、倣ってはならないかということです。

主は倣ってはならない例として、38~40節で、律法学者たちが人の関心を引こうとして行う社会における振る舞いや、自分の敬虔深いことを人に見せようとして長い祈りをすること、そして弱い立場のやもめを世話をしているように見せかけながら、それを食い物にすることなどを挙げておられます。そのような行為は後に続く者たちの手本にも目標にもなりません。

主はその指摘の後、弟子たちを神殿の賽銭箱が見える場所に連れて行き、そこで捧げものをする人々の姿を見ることによって何かを教えようとしておられます。初めは金持ちたちの献金の様子が弟子たちの目に入りました。続いて、貧しいやもめが献金する様子も弟子たちは目撃しました。多くの人は、捧げる額を見ることによって、その人の信仰を判断するようなことをしがちです。しかし、そのことの過ちを主は今弟子たちに教えておられます。

金持ちたちはたくさんの捧げ物をしていました。しかし、それは「有り余る中から」(44)捧げているにすぎないことを主は見抜いておられます。一方、同じ賽銭箱に入れていたやもめの献金は、レプトン銅貨二枚だけです。レプトンとは当時の貨幣単位の最小のものです。金持ちたちの捧げものとは比べ物にならないほど小さなものです。しかしそれは彼女が「持っている物のすべて」、「生活費の全部」でした。彼女は二枚の貨幣の一枚を手元に残すこともできたはずですが、そうはせずすべてを捧げ切りました。主はそれをご存じでした。

このことから主はやもめが「だれよりもたくさん入れた」(43)と言っておられます。主は表面に表れる金額だけを見て、多い・少ないということを判断しておられるのではありません。目に見えない心の内をご覧になって、それぞれがいかなる姿勢で神に捧げ物をしているか、さらに自分自身をどのように捧げようとしているかを判断しておられるのです。それを指し示すことによって主は、弟子たちが今、自分自身をいかなるものとして神に捧げようとしているかを問うておられます。自分の側に、心・体・時間・働き・物質的なもの等の多くのものを留保しておいて、わずかな捧げものによって満足していないかを問いかけておられます。弟子たちは貧しいやもめの姿を見ることによって、信仰に生きるとはどうあることかを学び取る機会が与えられています。

さらに大切なことは主はここで、やもめが自分の側に何も残らないまでに捧げつくすその姿の中に、数日後に十字架の上でご自分のすべてを捧げつくされる主ご自身のあり方を弟子たちに予め示しておられるということです。主は生活費どころか、ご自分の命・存在のすべてを捧げて、わたしたちの救いを勝ち取ってくださるのです。その主の十字架上での死によって、わたしたちは新しい命を約束されています。それゆえわたしたちも主に倣って、自分自身のすべてを捧げつくして、主の証人として生きたいものです。

主日礼拝 2021.11.07

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞詩編51編18~19節 (旧約 p885)
讃美歌7  主のみいつと
祈祷
聖書マルコによる福音書12章38~44節
信仰告白使徒信条
讃美歌88  すぎにしむかしも
説教「貧しいやもめの献金」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌338  主よ、おわりまで
聖餐式
讃美歌202  くすしきみすがた
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
祝祷
後奏

「神の愛はあなたに向けて」

ヨハネによる福音書3章16~21節

佐賀めぐみ教会 秋の特伝礼拝 久野 牧

「聖書の中心的なメッセージは何か、ひとことで言って欲しい」と求められることがある。今日ご出席の求道者の中にも、そういう方がおられるかもしれない。それに対して、それは礼拝の中で告白する「使徒信条」に言い表されている、と答えることもできる。しかし、それは少し長すぎる。そういう場合には、聖書の中の有名な言葉を指し示す、ということもありうる。

例えば、「神は愛である」とか、「あなたの敵を愛しなさい」とか、「右の頬を打たれたら、左の頬も出しなさい」という言葉がある。さらには、「人からしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」といった言葉が、聖書の精神をよく表している、と言うこともできるであろう。しかし、それでも十分ではないように感じられる。

そういう中で、ヨハネによる福音書3章16節こそ、聖書の教えの集約である、と言われてきた。宗教改革者ルターはこの3章16節について、「これは小さい聖書である」、あるいは「これは小さな福音書である」と言った。それはこの一つの節に、聖書が述べようとしていること、あるいは福音書全体が述べようとしていることの中心的な内容が凝縮されている、という意味である。これは全聖書の縮図である、ということである。しかしこの句は、そういった意味で内容は深いのだが、必ずしも分かりやすいものではない。本日はこれについてご一緒に考えてみよう。

ところで信仰における第一の問題は、人間が何をするかではなく、神がわたしたち人間のために何をしてくださったか、である。そのことを知らせるのが、この聖句である。神のわたしたちに対する行為の中心に、人間に対する神の愛があるとこの句は述べている。そしてその神の愛は、神が独り子イエスを、この世に向かって、またわたしたちのために派遣されたことの中に、端的に表されている、というのである。

次のように述べられている。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(16節)。この一文の中の「その独り子」とは、神の独り子、イエス・キリストのことである。それはまた、神ご自身の人間との関りを表しているものである、と言ってもよい。また、「世」とは、わたしたち人間の世界のこと、もっと言えば、わたしたち人間そのもののことである。

神が独り子イエス・キリストを、わたしたち人間のもとに送られたことの中に、神の愛が表れている。神から何かを受けるに値しないわたしたちの中に、そのことが起こったのは、全く神の一方的な愛と恵みのゆえなのである。この句はそのことを述べている、そしてそれが聖書の中心的メッセージなのである。

それでは愛とは何であろうか。それは端的に言えば、

  • 相手を大切にすること、相手の存在に敬意を払うこと、
  • 相手を生かすように働きかけ、仕えること、
  • 相手とどんな時にも共にいようとすること、

そういった言葉で言い表すことができる。

それは、相手に対してつねに関心を持つことから始まるものである。愛の反対語は何であろうか。わたしたちは、愛の反対語として、憎しみということをすぐに思い浮かべるかもしれない。それも間違いではないが、愛の反対は、憎しみというより、無関心である、と言われる。愛を持つことと関心を持つこと、これは並行しており、同じことである。神はわたしたちを愛しておられる、神はわたしたち人間に対して、無関心ではない、つねに関心を持っておられる、そのしるしが、御子のわたしたちのもとへの派遣という出来事となって表されたのだ。

そのように自分が関心を持ち、愛している相手に、何かを与えるとしたら、あってもなくてもよいようなものを与えることはしない。自分にとって最も価値あるもの、尊いものを与えようとする。わたしたち人間でさえそうするのである。ましてや神は、ご自身にとって最も大事なものをわたしたち人間に与えてくださるのである。その最も大切なものが独り子イエス・キリストである。御子をこの世に送られたことこそが、神がわたしたちに関心をもっておられることの確かなしるし(証拠)なのである。

さらに愛や関心を持っている相手に対しては、相手と同じ所にいようとする。愛は、相手と同じ場に一緒にいたいと願う。相手がどんな状況であろうが、愛は、相手と共にそこにいようとするものである。たとえそれによって自分に痛みや損失が伴うことがあっても、そうしようとする。
神は、神から離れてしまっている人間のもとに、独り子イエスを送られた。それは、神はイエス・キリストをとおして、わたしたちと共にいようとしてくださっていることの表れである。神はイエス・キリストにおいて、わたしたちと同じところにまで降りてきてくださったのである。

それでは、何のために神はそうなさったのであろうか。神の人間に対する愛の行為は、何を目的としていたのであろうか。それについて聖書は続いて、次のように述べている。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節後半)。わたしたち人間が、神を知らないままに死んで行くことがないように、もっと積極的に言えば、人が「永遠の命」を得るために、神は御子を遣わされた、と言われている。

永遠の命とは、真の命、ほんものの命のことである。神は、それをイエス・キリストをとおして、わたしたちに与えようとしておられるのである。人が真の命に触れることがないままに、人生を終わることがないように、神は御子イエスをわたしたちのもとに送られたのである。

苦しみ、悩み、悲しみの中で、「自分はひとりぽっちだ」、「死にたい」と思うのではなくて、「あなたにはわたしがいつも一緒にいる」と言われる真の神を知らせるのだ。神はわたしたちの生きることを助けるために、独り子を送られた、そこに愛があると伝えるのである。苦しみがないことも大事だが、それ以上に、愛されることは人生に欠くことのできないものなのである。

また、罪や悪の誘惑に負けようとするときに、わたしたちが「こういう自分を神がご覧になって、心を痛められるに違いない」と考えて、そうしないように踏みとどまるために、神はわたしたちへの愛のしるしである独り子を見える形で、この世に送られた。

死を迎えようとするとき、何の希望もなくこの世を去っていくのではなくて、わたしたちを愛してくださる神のもとに行くのだ、神のもとに帰って行くのだ、だから恐れることはない、という希望を与えるために、神はイエス・キリストをわたしたちのもとに送られた。この神との結びつきの中で、神のもとに帰って行く命こそ、永遠の命と言われるものである。教会はこれを知らせるのである。神はわたしたち人間を造ってくださった。だから神はわたしたちの生まれるときも、生きるときも、死ぬときも、そして死んだあとも、ずっとわたしたちに関心を寄せ、わたしたちを見つめ、見守ってくださるのである。その確かなしるしが、神が独り子をこの世に送ってくださったあの出来事なのである。

次に「世」について考えてみよう。これは、人間の世界のこと、さらにつきつめて言えば、そこで生きているわたしたち人間のことである、と初めに述べた。そうであれば、この「世」という文字のところに、「わたしたち」という文字を入れて、おきかえて読んでも、意味は同じということになるに違いない。「神は、その独り子をお与えになったほどに、わたしたちを愛された」。17節も同じである。 「神が御子をわたしたちに遣わされたのは、わたしたちを裁くためではなく、御子によってわたしたちが救われるためである」。

「世」とは、自分とは関係のないこの世の人々、自分以外の何か、世間一般ではない。まさに、わたし自身が世である。「一人も滅びないで」(16節)の「一人」とは、まさしく、このわたし自身のことである。全体の中に個が消えてしまうことはないのである。

そうであれば、さらに、この「世」という文字のところに、わたしたちは自分自身の名をおいて考えてもよい、ということになるであろう。皆さんお一人お一人が、「世」という文字のところに、自分の名を入れ替えて読んでみてほしい。

他の人の名前を勝手に用いるのは失礼なので、おこがましいのだが、わたし自身の名前を入れて読んでみたい。「神はその独り子をお与えになったほどに、久野牧を愛された。……神が御子を、久野牧に遣わされたのは、久野牧を裁くためではなく、御子によって久野牧が救われるためである」。

誰の名前でも同じように当てはめて考えることができるのである。一人ひとりと向き合われるのが神の真実である。

このように自分自身の名を入れてここを読むとき、神がとても身近な存在、身近なお方として感じられるのではないだろうか。そのことは、次のような考えにまで到る。

「神が御子キリストをこの世に送られたとき、すでに、神はこのわたしのことも、救いのご計画に入れてくださっていたのだ」。

そういう思いもかけないことが明らかになってくる。これは驚くべきことであり、また信じがたいことである。「わたしなんか…」と、だれもが言いたくなるであろう。しかしこれは、聖書が告げる真実、事実なのである。

神がご自分の民イスラエルに向かって言われた言葉が、旧約聖書のイザヤ書に記されている。43:1 (本日の招詞)

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」。

神は、このわたしの名を呼んで、「わたしはあなたのために独り子を送る」と言ってくださっているのである。神の御子派遣の出来事は、このわたし抜きには起こらなかったのである。神は、わたしたち一人ひとりの名を呼んで、「あなたのためにひとり子イエスを送る。つらい時、淋しい時にはイエスのもとに行け。罪を犯した時には、赦しを求めてイエスのもとに行け。生きることに困難を覚える時には、イエスのもとに行け。そうすれば、必ず、あなたは新しく生きる力と目標が与えられる」、そのようなメッセージがこの句には込められているのだ。

最後に、このように、神さまに愛されているわたしたちは、どのように神にお応えしたら良いのであろうか。このことについて考えてみよう。
尊い独り子をわたしたちのために送ってくださった神に対して、わたしたちは何をささげたらよいのであろうか。何かをささげることができるのであろうか。何をささげたら良いのか分からないわたしたちである。わたしたちは、神さまを喜ばせる大きな宝や物は、何も持ち合わせていないのである。

それではどうすれば良いのであろうか。「わたしたちは、この愛の贈りものを、手でも、足でも捉えることはできない。修道院に入ってもできない。ただ心と信仰をもってのみ捉えることができる」(バルト)。神が御子イエス・キリストにおいてわたしたちに近づいてくださったのだから、わたしたちも自分の存在と心を傾けて、神に近づくのである。それは具体的には、次のようなことである。

  • 自分自身を憎まず、神に愛されている自分であることを知って、自分自身を大切に考えながら生きていくこと。
  • 他の人を憎まず、この人も神によって愛され大切にされているひとりなのだから、ということを知って、共に生きようとすること。
  • わたしたちも神に関心を持ち、神はこのわたしに何を求めておられるか、どのように生きることを欲しておられるかを繰り返し尋ね求めて、示されたことに忠実に生きること。

このようにして、この世界とその中にいるすべての人々が、自分は神に愛されているということを知って、自分自身を重んじるとともに、神に愛されている者同士が、互いを重んじ、愛し合う世界を造りあげようとして、互いの命のために仕え合う、それが神に対するわたしたちの応答である。

困難と労苦の中にある人が、キリストを見つめて励ましや力を得ることが出来るように。悲しみと痛みの中にある人が、キリストに結びつくことによって、喜びや慰めを与えられるように。絶望している人が、神の愛のなかで明るい希望を見出すように。また人生は生きるに値しないと思っている人が、キリストの前で生きることの意味と価値を発見することができるように、と心から願いつつ、互いに仕え合うのである。それが神の愛へのわたしたちの応答である。

今日初めて教会の礼拝に出席された方がおられたら、ぜひこの神の愛を真剣に考えてほしい。すべての人が、そして特に生き悩んでいる人が、キリストによって自分に差し出された神の愛に支えられ、導かれて、新しい出発を始めるものとされることを、心から願う。わたしたちの教会はそのために良き働きを続けていきたいものである。

主日礼拝 2021.10.31(秋季特別伝道礼拝)

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞イザヤ書43章1~2節 (旧約 p1130)
讃美歌6  われら主を
祈祷
聖書ヨハネによる福音書3章16~21節
信仰告白使徒信条
讃美歌87B  めぐみのひかりは
説教「神の愛はあなたに向けて」 動画
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌267  かみはわがやぐら
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄544  あまつみたみも
祝祷
後奏