主日礼拝 2022.2.20

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞詩編115編1節 (旧約 p955)
讃美歌1  かみのちからを
祈祷
聖書マルコによる福音書14章53~65節(その1)
信仰告白使徒信条
讃美歌197  おこりてたおるる
説教「主イエスの受けた裁判」
長老 栗林 恵一(原稿代読)
祈祷
讃美歌517  われにこよと
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄542  よをこぞりて
派遣と祝福コリント二、13章13節によって
後奏

「ユダの裏切りと主の逮捕」

マルコによる福音書14章43~52節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ゲツセマネでの祈りを終えられた主イエスを待ち受けていたのは、主の敵対者たちでした。彼らはエルサレムの権威者たちから送り込りこまれた「武装集団」でした。しかもその先頭に十二弟子の一人であるイスカリオテのユダがいて、彼らを率いています。

ユダはここでもなお「十二人の一人」と言われています。それはどういうことでしょうか。二つのことを考えることができます。その一つは、この時点でもなお彼に対する主の愛は消えていないことが示唆されている、ということです。主の愛に応えることができず、逆に主に敵意をいだいてしまったユダですが、しかし彼に対する主の愛は冷めてはいません。ユダは今も主によって選ばれた十二人の一人なのです。そのことがこの表現に反映されています。

もう一つの点は、十二弟子の一人であるユダが主を裏切ってしまったことは、他の弟子たちも同じ過ちを犯す可能性を持った者たちであるということが暗示されています。主は先に「あなたがたは皆、わたしにつまずく」(14:2)と言われました。ユダは特別に罪深い人間ではなく、他の弟子たちも「同じ穴のむじな」です。わたしたちも同じです。ということは、わたしたちも罪深さの中で、消えることのない愛を主から受けているということになります。

さてユダは主を捕らえようとしている人々とあらかじめ一つの打ち合わせをしていました。それは彼が接吻する相手が主イエスだ、という合図です。ユダは主に近寄って「先生」と言い、接吻をしました。「先生」という呼びかけも、接吻も、親しい者の間で交わされる日常的な挨拶です。ユダの裏切り行為は、特別な行動を通してではなく、日常の振る舞いを通してなされました。主を裏切るということは、主を敵対者に「引き渡す」ことです。日常の行いの中で、主を引き渡すことがなされています。そのような行為は、もしかするとわたしたちも、無意識の内に日常的に行っているかも知れません。一瞬の脇見運転が大事故につながることがあるように、わたしたちが主から目や心を離したときに、信仰における重大な事故が起こり得るのです。そのように主から離れることもある目と心を主の方へと引き戻すために、主の日の礼拝がわたしたちに備えられています。それは主なる神の大いなる憐れみのしるしです。

ところで、主が捕らえられるのを阻もうとして、おそらく弟子の中の一人が剣を抜いて敵に向かうということも起こっています。しかし彼も最終的には、他の弟子たちと共に主のもとから逃げています。彼の勇気は偽物でした。

主はそういう中で、「これは聖書の言葉が成就するためである」と言われて、敵から逃げることもなさらずに、捕らえられました。この主の言葉は、言い換えれば、「聖書の言葉は成就されねばならない」(口語訳)となります。つまり、主はご自身の十字架を、神の御心に従うこと、神の救いのご計画の実現のために避けてはならないこととして受け止めておられることを表しています。「主はユダの中に敵意を見ず、かえって父なる神の命令を見ておられる」(パスカル)ということです。この敬虔なお姿は、あのゲツセマネの祈りを通して御子イエスに与えられたものでした。祈りは御心を知るときであり、また神との結びつきが強められるときでもあることを強く教えられます。

主日礼拝 2022.2.13

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞イザヤ書53章6~7節 (旧約 p1150)
讃美歌62  主イエスのみいつと
祈祷
聖書マルコによる福音書14章43~52節
信仰告白使徒信条
讃美歌216  ああうるわしき
説教「ユダの裏切りと主の逮捕」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌239  さまようひとびと
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄542  よをこぞりて
祝祷
後奏

「眠り込む主イエスの弟子たち」

マルコによる福音書14章32~42節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

地面にひれ伏して祈られる主イエスのそばに、選ばれた三人の弟子たちの眠り込む姿が描かれています。彼らは主によって、「目を覚まして祈っていなさい」と命じられたにもかかわらず、主が少し離れた所に行かれたときには眠り込んでしまっています。それが三回も繰り返されました。この事実は弟子たちにとって恥ずべきことであり、できれば隠しておきたいことであるはずです。しかしマルコによる福音書の編集者は、それを隠すことなくありのままに記述しています。その狙いはいったい何なのでしょうか。

一つは、弟子たちに代表される人間の弱さや頼りなさをありのままに描くことによって、人間の現実を明らかにしようとしている、ということです。人は他者の苦しみを前にしても、眠りこけてしまう存在なのです。そして他の一つは、主はそのような弱さを抱えた弟子たちを、激しく叱責したり退けたりはなさらずに、赦し愛されるお方であることが示されています。主の慈しみの大きさを明らかにし、それと同じ愛と憐みがこの弟子たちの後に続く者たちにも注がれるということを教えるという目的もあるはずです。わたしたちに対しても主は同じように臨んでくださっています。

主はそのような弱さを抱えた弟子たちのことを、「心は燃えていても、肉体は弱い」(38)と言っておられます。これはどういうことでしょうか。人には、肉体とは別に、神の言葉を理解したり、御心に応答することができる働きを持った部分が備えられています。聖書はそれを「心」とか「霊」と言っています。その部分で、弟子たちは真実に、そして必死に神に応答しようとします。「心は燃えている」のです。しかし、それとは別の部分、すなわち弱い肉体がそれに伴いません。そのために、神の前で誓ったことと現実の自分とが異なるものとなってしまっています。使徒パウロもそれで苦しみました(ロマ7:7以下)。パウロとともに、わたしたちも「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ロマ7:25)と嘆くほかない者たちであることを覚えさせられます。

主はそのような人間の弱さをご存じです。それゆえ弱いわたしたちにキリストご自身の霊を注いでくださり、その霊の下で強く生きることができるようにしてくださいます(ロマ8:9参照)。そのような「キリストの霊」あるいは「神の霊」を受けることができるのは、祈りによります。人は祈りの戦いを抜きにして、霊的に生きることはできないのです。祈りを通してキリストの霊を受けることによって、わたしたちは自分の弱さや頼りなさを乗り越えて、いくらかでも御心に沿った生き方ができるものとされるのです。

主は最後に、「もうこれでいい。時が来た。…立て、行こう」と言って、ゲツセマネでの祈りを終えられました。主は御心を捉えることがおできになりました。神のお考えに対して確信を持つことがおできになりました。だからこそ、十字架の道へと恐れることなく進んで行かれるのです。

弟子たちは、眠い目をこすりながらでも、またよろける足を引きずりながらでも、主について行かなければなりません。そしてこれから主の身に起こることを目を開いて見なければなりません。そのようにして、主の十字架の目撃者、主の復活の証人としての道を歩いて行くのです。

主日礼拝 2022.02.06

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞詩編86編5~7節 (旧約 p923)
讃美歌61  かがやくみとのよ
祈祷
聖書マルコによる福音書14章32~42節(その2)
信仰告白使徒信条
讃美歌214  きたのはてなる
説教「眠り込む主イエスの弟子たち」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌309  つみのなわめ
聖餐式
讃美歌202  くすしきみすがた
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄542  よをこぞりて
祝祷
後奏

「ゲツセマネでの主イエスの祈り」

マルコによる福音書14章32~42節(その1)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスの一行はゲツセマネの園に着きました。そして主はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて、さらに奥へと進んで行かれました。この三人の弟子はこれまでも主によって特別な場所へと伴われることがありました。一つは5章35節以下において、会堂長ヤイロの娘が死から命へと移される場面です。それは主イエスの神的力が表された出来事でした。また9章2節以下において、山の上で主のお姿が変貌する時にも、そこにいた弟子はこの三人だけでした。主は彼らに特別な訓練を与えておられるのです。これらは、一つは主が死を命に移されるお方であることの証人として、も一つは主が神との特別な交わりの中に生きておられることの証人として、彼らは目撃者の務めを与えられたものでした。それらはいずれも、御子イエスの≪神性≫(真の神であること)があらわにされた場面でした。しかし今回の祈りの場面では、主イエスは死を前にして恐れおののく姿を弟子たちの前で表しておられます。それは御子イエスの≪人性≫(真の人であること)があらわにされた場面でした。三人の弟子たちは人としてのイエスを目撃することを求められているのです。

こうして、わたしたちが『日本キリスト教会信仰の告白』の冒頭で、「神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人である」と告白していることの証人として、三人は用いられているのです。

主は今苦しんでおられます。何を苦しんでおられるのでしょうか。二つの点から考えることができます。一つは、主はご自身の死の意義を苦しみつつ問うておられるということです。敵対者たちは、主を何とかして十字架の死へと追いやろうとしています。その最終段階に来ています。できればそれを避けたいと考えておられます。一方、父なる神も御子イエスが十字架上で罪人に代わって死ぬことを求めておられます。神の決定には従わなければなりません。これら相反する力が、どちらもイエスを死へと追いやろうとしている、これは一体どういうことなのかと主は神に問うておられるのです。そのことが一つです。

他の一つは、主イエスは死を前にして、実際に死の苦しみと恐怖を体験しておられるということです。それを罪人との≪連帯≫と呼ぶ人もいます。宣教の初めに主は洗礼を受けられました。それも人間と共に歩もうとする連帯を表すものでした。そして今は、地上の最後の場面で死の苦しみを自ら味合うことにおいて、わたしたち人間と連帯してくださっています。わたしたちが死ぬとき、そこにも主が伴ってくださっていることのしるしがここにあります。

そのようにして苦しみつつ祈る主イエスは、最終的には「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、すべてのことを神にお委ねになりました。ご自分の思いをすべて神にぶちまけながら、最後には父なる神にすべてを委ねておられる御子の姿がそこにあります。神への絶対的な信頼に立って、御心のままに進んで行く決心を与えられた主は、「立て、行こう」と立ち上がられました。父なる神への真剣な祈りが、御子の決断と行動の源となっていることを教えられます。わたしたちもこのように御心を捉えて「行こう」という決断と行動が生まれるまで、徹底して神に祈ることが求められています。祈りは神との一対一の真剣な対話と対決の時です。

主日礼拝 2022.01.30

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏     古賀 洋子

奏楽
招詞詩編64編2~3、11節 (旧約 p896)
讃美歌58  かみよみまえに
祈祷
聖書マルコによる福音書14章32~42節(その1)
信仰告白使徒信条
讃美歌194  さかえにみちたる
説教「ゲツセマネでの主イエスの祈り」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌308  いのりはくちより
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄541  ちちみこみたまの
祝祷
後奏

「ペトロの離反予告」

マルコによる福音書14章27~31節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスと弟子たちは過越の食事を終えた後、オリーブ山に向かいました(26)。そこにはゲツセマネという園があって、そこで祈るためでした。途中で主はいきなり「あなたがたはみなわたしにつまずく」と言われました。主の身にこれから起こる一連の出来事—逮捕、裁判、屈辱、十字架等―が、ますます主の弱さや貧しさや惨めさを際立たせることになる、そしてそれに対して弟子たちはもはや主イエスについて行けないとの思いを持って主から離れて行く、と予告しておられるのです。弟子たちの主に対する信頼と希望はこの後一気にしぼんでしまうということが、主によって告げられています。

しかも主は、それらのことは偶然のことではなく、旧約聖書にも預言されていたこととして、ゼカリヤ書13章7節の言葉を引用しておられます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」がそれです。主は、ご自分の死は神の救いの御計画の中にあることを示しておられるのです。

主の言葉に弟子たちはどのように反応したでしょうか。まずペトロが反応して、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いました。彼は、最後の晩餐の席で主が「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われたとき、「そんなことはいたしません」と言うことができませんでした。しかし今は、はっきりと汚名挽回とばかりに「自分は決して主を裏切らない」と断言しています。しかし主はそれに続いて、さらに具体的にペトロのこれからのつまずきや裏切りの行為を明らかにされます。「今夜、鶏が二度鳴く前に、ペトロは主イエスのことを、三度知らないという」とまで言われました。主は彼の心の内を見通しでした。けれどもペトロは今回は引き下がりません。続けてこう言います。「たとえ主とご一緒に死なねばならなくても、あなたのことを知らないなどとは決して口にしません」。ここまで言って大丈夫だろうかと思わせられるようなペトロの言葉です。

何とペトロの言葉は力強いことでしょうか。何とペトロは頼もしい弟子でしょうか。しかし同時に何と彼の言葉は軽いことでしょうか。彼は自分が口にしていることの意味が分かっているのでしょうか。確かに彼の言葉は、彼の真実の言葉、心から出てくるものであったのでしょう。しかしそれは自分の力の限界を知らない者の無謀な言葉でした。そのような言葉や力は、彼よりも少し強い者に出くわすと、もろくも崩れてしまうのです。わたしたちの弱さの中に、主の力が、そして主ご自身が入って来て下さらなければ、わたしたちはどのような力にも対抗することはできません。主の力がわたしを支えてくださるときにこそ、わたしは強い者とされます。パウロが語る「わたしは弱いときにこそ強い」(コリント二、12:10)との言葉は、主との関係の中での真理です。

主はこのようなつまずくことばかりの弟子たちを冷たく突き放されることはありません。主は「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(28)と言っておられます。そこで弟子たちの再結集が行われるのです。それは裏切る弟子たちへの主の赦しの宣言でもあります。彼らには再出発の時がもう備えられているのです。つまずき多いわたしたちに対しても主は、「礼拝で会おう」と繰り返し言ってくださっています。

主日礼拝 2022.01.23

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞イザヤ書55章6~7節 (旧約 p1152)
讃美歌55  きょうはひかりを
祈祷
聖書ゼカリヤ書13章7節  (旧約p1493)
マルコによる福音書14章27~31節
信仰告白使徒信条
讃美歌191  いともとうとき
説教「ペトロの離反予告」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌243  ああ主のひとみ
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄541  ちちみこみたまの
祝祷
後奏

「最後の晩餐と聖餐式」

マルコによる福音書14章22~26節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは過越の食事のさなかで、儀式的な食事の行為をなさいました。それは現在、わたしたちの教会が聖餐式として行っている式典の起源となったものです。この最初の式典に与っている者たちは、主イエスをいろんな意味で裏切る弟子たちです。だからこそ、彼らはこの式典の意味を正しく知り、今後それを守り続けることによって、繰り返し主のもとに帰らなければならないのです。そのことは今日のわたしたちにおいても同じです。

主はまず一つのパンを取り、そして賛美の祈りをささげられました。次にそれを裂き、弟子たち一人ひとりに分け与えられました。そのとき語られた言葉は、「取りなさい。これはわたしの体である」というものでした。今弟子たちの目の前で裂かれ、分け与えられているパンは、十字架上で切り裂かれる主イエスの体を表しているということです。それを手に取り、口にし、食するということは、主の死をわたしの罪の赦しのための死として信じるということです。さらに主ご自身の命を自分の体の中に取り入れることをも意味しています。しかもそれは主の死を一般的な教えとして理解するのでなく、この自分のための死として体ごと味合うことです。キリストによって生かされている自分であることを、パンを食することを通して知らされ、確信するのです。

使徒パウロは次のように述べています。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。

聖餐式のパンはわたしたちを繰り返し、その信仰に立ち帰らせるものです。

主は続いて赤いぶどう酒の入った杯を取ってこう言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。まず、「契約の血」ということについて考えてみましょう。旧約の時代、契約が交わされるときには小羊などが裂かれて血が流されました。それは、契約を交わすもの同士が命をかけた約束をしていることのしるしでした。主は十字架上で血を流されました。それは神からの罪の赦しと新しい命が人に与えられるために、御子の血が流されたということです。主イエスの血の代価が支払われることによって、神からの大いなる恵みが罪人のために引き出されたのです。したがってこの杯を口にするとき、わたしたちは主イエスの死を偲びつつ、わたしたちも命をかけて神の御心に従って生きようとの新たな誓いへと導かれます。パンと杯、体と血は、二つに分けて語られていますが、結局、根拠としているもの、目指しているものは同じであることが分かります。

主は「多くの人のために流されるわたしの血」とも言われました。それは主の血は、今まさに杯を口にしている者のために流されたものであると同時に、その人以外の他のすべての人々のためにも流された、ということを意味しています。パンが裂かれたことも同じ意味を持っていました。聖餐に与る者はまず、徹底して主の死を自分のためのものとして受け止めることが大切ですが、それに留まらず、次に立ち上がってこの恵みの食卓にさらに多くの人々が加えられることを願って、教会から遣わされる者とならなければなりません。パンと杯がわたしのところで止まってしまってはいけないのです。この食卓につくことは、すべての人に対する主の命令であり、招きなのです。