主日礼拝 2021.12.19

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞イザヤ書11章1~5節 (旧約 p1078)
讃美歌102  もろびとこえあげ
祈祷
聖書ミカ書 5章1節 (旧約p.1454)
ルカによる福音書2章1~7節 (新約 p102)
信仰告白使徒信条
讃美歌121  まぶねのなかに
説教飼い葉桶の中の救い主」(クリスマス説教)
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌112  もろびとこぞりて
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄540  みめぐみあふるる
祝祷
後奏

「マリアへの御子イエスの誕生予告」    (待降節 説教)

ルカによる福音書1章26~38節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

クリスマスの出来事の中で目立つことは、マリアやヨセフの従順さです。今日はマリアの従順に目を向けてみましょう。彼女はまだ15~6歳の若い女性でした。ヨセフとはいいなづけの間柄でしたが、まだ一緒にはなっていませんでした。そのマリアのもとに天使ガブリエルが訪れて神の祝福の言葉を語ります。マリアは何のことか分からずに、戸惑い、恐れます。天使はさらに告げます。「マリア、恐れることはありません。あなたは男の子を産みます。その子の名をイエスと名付けなさい。その子はイスラエルを救うものとなります」と。これもまた、マリアにとっては受け入れることができないものでした。

彼女は言います、「どうしてそんなことがあり得るでしょうか。わたしはまだヨセフとは一緒に住んでいません」。彼女は、あり得ないと思えることを何の疑いもなく受け入れることはできなかったのです。そのようなマリアについて、ルターは「彼女は、人間らしい血の通ったおとめであった」と述べています。疑い深いというのではなくて、起こる事柄に対して素直だったのです。

そのようなマリアに天使は、さらに告げます。「あなたの胎内の子は、聖霊の神の力によるものです。それゆえ生まれる子は神の子と呼ばれます。神にできないことは何一つないのです」。その時、マリアは疑いを捨てて、神の前から逃れることもせず、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、神にすべてをお委ねする神への素直さを表しました。神の名が彼女の耳に響くことによって、彼女の心は神に向けて変えられたのです。彼女は人間らしい女性であったと同時に、神を心から畏れ敬う信仰深いおとめでもありました。彼女の従順が、御子イエスの人としての誕生につながりました。

このマリアをわたしたちはどのように考えるべきでしょうか。カトリック教会のようにマリアを聖母として礼拝することはしません。しかし彼女に倣うことはあっても良いのではないでしょうか。「お言葉どおり、この身に成りますように」と一切を神に委ねた彼女の従順と素直さとひたむきさは、信仰に生きる者にとって欠かせないものです。これをわたしたちも自分のものとしたいのです。彼女は天使が告げる神の定めを、命令としてではなく、また律法としてではなく、新たな生き方への招きとして捉えたのです。

わたしたちにも時折、理不尽と思われる神の御心が示されたり、あり得ないとしか思えない道が神によって示されたりすることがあるかも知れません。その時、それを神からの招きとして捉え、自分の思いや力を超えて、「お言葉どおり、この身に成りますように」との応答ができるものでありたいと願います。マリアは、神から務めが与えられたことを、賛歌の中で、「あなたはこのはしためにも目を留めてくださいました」(48)と歌っています。務めが与えられることは、神が目を留めてくださっているからです。今日の世界で必要なことは、すべての人間が「主なる神よ、お言葉どおりこの身に成りますように」とのへりくだりと従順の祈りを回復することです。クリスマスを毎年祝うのは、人間中心の世界ではなく、神中心の世界を回復するためなのです。クリスマスの只中にヘリくだりの神が立っておられます。

主日礼拝 2021.12.12

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞イザヤ書9章1~6節 (旧約 p1073)
讃美歌24  ちちのかみよ
祈祷
聖書ルカによる福音書1章26~38節
信仰告白使徒信条
讃美歌96  エサイのねより
説教マリアへの御子イエスの誕生予告」(待降節説教)
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌98  あめにはさかえ
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄540  みめぐみあふるる
祝祷
後奏

「目を覚ましていなさい」

マルコによる福音書13章28~37節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

小黙示録と言われるマルコによる福音書13章の最後の部分には、二つの短い譬えが語られています。その一つは、28~30節で、「いちじくの木のたとえ」と呼ばれています。いちじくの木は落葉樹ですので、その葉の茂り方や枯れ方、そして落葉などによって、季節の移ろいを感じ取ることができます。例えば枝が柔らかくなり芽を出し葉が伸び始めると、夏が近づいてきたことが分かります。葉の変化が時のしるしとなるのです。それとよく似て、これまでに主が述べられてきたさまざまな天変地異、戦争、偽メシアの登場などが起こったときには、「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(29)と言われています。すなわち、再臨の主がこの世界に来られる時が近いと悟りなさい、ということです。わたしたちが生きている今の時代は、まさしくそのようなことが繰り返し起こっている時代です。ということは、主の再臨が明日にでも起こるとの緊張感をもって生きることがわたしたちに求められているということでしょう。わたしたちの感覚で「神の時」を推し量ることはできません。しかし時は縮まっているとの意識をもって主に従って生きることが大事です。

終わりの時「天地は滅びる」、しかし「主の言葉は決して滅びない」と言われています(31)。終わりが来た時、神の手によって造られたものは全くその様相を新たにする、ということです。それがどのような事象となるのかは、わたしたちは想像することはできません。ただ滅びゆく「天地」の中にわたしたち人間も含まれていることは確かです。しかし、そのような人間が滅びゆくことのない主の言葉に結びつくとき、滅びることなく、新しい存在へと変えられるのです。新しくされるとは、主の言葉が約束している罪の赦しや新しい命が付与されること、また神の国の一員とされることが実現することなどです。主が生きておられるからこそ、その約束も現実のこととなります。

もう一つの譬えに目を向けてみましょう。それは主人が僕(しもべ)たちに仕事を任せてしばらく旅に出るというものです。僕たちは、主人がいつ帰って来るかが告げられていないために、いつ主人が帰って来ても良いように、自分たちに任せられた務めに励み、成果を主人に差し出すことが求められます。その時のあり方が、「目を覚ましていなさい」という言葉で言い表されています。それは、主人がいないからということで怠慢に陥ることなく、主人が目の前にいるかのように誠実に務めに励むことを意味します。そうした生き方を日々していれば、主人がいつ帰って来ても僕たちは慌てることはないのです。

それは今日のわたしたちにもそのまま当てはまります。教会も「目を覚ましていなさい」と呼びかけられています。それはどうすることでしょうか。今は<教会の時>と言われます。つまり、主が天に昇られてから終わりの時までの間は、教会がこの世に「滅びることのない主の言葉」を宣べ伝えることによって、この世を終末に備えさせなければならない時ということです。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16:15)。「それから、終わりが来る」(マタイ24:14)のです。宣教こそが「目を覚ましている」ことの端的な姿です。それによって、神によって造られた人々が、滅び行くことがないものとされることに仕えることができるのです。

主日礼拝 2021.12.05

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞イザヤ書40章6~8節 (旧約 p1124)
讃美歌23  くるあさごとに
祈祷
聖書マルコによる福音書13章28~37節
信仰告白使徒信条
讃美歌164  こひつじをば
説教「目を覚ましていなさい」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌97  あさひはのぼりて
聖餐式
讃美歌204  すくいのきみなる
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄540  みめぐみあふるる
祝祷
後奏

「大きな苦難の予告」

マルコによる福音書13章14~27節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

黙示書を学ぶ上で大切なことが二つあります。その一つは、主イエスが終わりの時のことを教えておられた当時の人々は、終末がすぐにでも来るという緊迫した思いでこれに耳を傾けていたということです。それだけに、彼らは聞くことに真剣でした。二つ目のことは、今日のわたしたちにとっては、「いつ」、「どんなふうに」その時がくるのかに関心を持つことよりも、その時が必ず来るとの思いの中で、それに備えるために今の時をどのように生きることが神の御心に適っているかを、真剣に問いつつ生きることです。

さて14~23節には、特別な事態が生じた時のことが記されています。そこで言及されている「憎むべき破壊者」とは、紀元前170年頃にエルサレムに侵入してユダヤ人たちに異教の神を拝むように強制したシリアの王アンティオコス・エピファネスのことです。それはユダヤ人にとってはとてもつらい厳しい出来事でした。主はその恐るべき歴史的事件を思い起こさせながら、これから先も同じ事が起こりうると予告しておられます。そのときには「戦え」と主は信仰者に命じておられません。むしろ「逃げよ」と命じておられます。なぜなのでしょうか。それは組織的・国家的な巨大な敵の力と戦うよりも、それから逃げることによって、とりあえず信仰を守れということなのです。主は信仰者の弱さや限界をご存じです。それを超えて戦えとは言われないのです。

さらに大切なことは、主ご自身がわたしたちに代わって戦ってくださるとの約束がここにあるということです。「この戦いをわたしに任せよ」、と主は言ってくださっています。この苦難が長引くことによって信仰から脱落するものが出ないように、主ご自身が戦ってくださって「その期間を縮めてくださる」のです。わたしたちはそれゆえに逃げながらでも、「祈りなさい」(18)と命じられています。信仰からの脱落者が出ないように、また教会と自分自身の信仰が守られるように祈らなければなりません。

わたしたちの国においてもかつて天皇への崇敬がすべての人々に求められ、キリスト教会もその圧力に屈することがありました。そのようなことが二度と起こらないとは誰も言えないのです。今日の教会は、国家に対する<見張りの務め>を果たしつつ、信じることの自由のために仕えなければなりません。

24節以下においては、「人の子」が登場します。主はダニエル書7章13節の「人の子」をそのまま用いて、ご自身の再臨の時のことについて語っておられます。そして主が再び来られた時には、「選ばれた人たち」(27)を神のもとに集めてくださると語られています。父なる神を信じる信仰者は、自分で神を選んだのではなくて、神によって選ばれた者たちです(ヨハネ15:16)。信仰の主体は神にあります。それゆえ神はご自身が選ばれた人々を、信仰のゆえの苦難や迫害において守り通してくださり、終わりの時にもれなくご自身のもとに呼び集めてくださいます。神の選びの力と愛は、わたしたちを神から引き離そうとする如何なる力よりもはるかに大きいのです。それがわたしたちの確信であり、平安の源です。その確信と平安のもとで日々を誠実に生きることが、終末に備えた生き方であると言ってよいでしょう。

主日礼拝 2021.11.28

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞ダニエル書7章13~14節(旧約 p1393)
讃美歌12  めぐみゆたけき主を
祈祷
聖書マルコによる福音書13章14~27節
信仰告白使徒信条
讃美歌162  あまつみつかいよ
説教「大きな苦難の予告」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧   長老 栗林 聖子(原稿代読)
祈祷
讃美歌385  うたがいまよいの
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
派遣と祝福コリント二、13章13節によって
後奏

「最後まで耐え忍ぶ者」

マルコによる福音書13章9~13節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは終末のことについて弟子たちに教えておられます。その中で今は、弟子たちに限らず信仰者として生きる者たちに加えられる苦難や迫害について語っておられます。主が繰り返し「わたしのために」とか「わたしの名のために」と述べておられることからも分かりますように、キリストに従う者はそのキリストへの信仰ゆえに苦しみを避けることはできないのです。主ご自身が苦しみに遭われたように、信仰者も苦しみに遭います。

そのような苦しみや信仰者への弾圧には三つの種類があることを主は語っておられます。それは何でしょうか。

第一に「地方法院」とか「会堂」(9)での裁きや罰が挙げられています。それは宗教的な面からの弾圧で、何を神として信じているかということが厳しく問われるのです。パウロもその信仰のゆえにユダヤ人から受けた鞭打ちの刑について述べています(コリント二、11:24~25)。

第二は、「総督や王の前」(9)での裁きが挙げられています。総督はローマの権力者、王はイスラエルの国の権力者ですから、彼らの「前」とは、政治的権力あるいは国家的権力がむき出しにされる場であると言えます。そこではキリスト信仰者が国家にとって危険な存在であるかどうかが問われます。

そして第三は、「親、兄弟」(12)による迫害です。家族関係の中であるいは肉親同士の間で、キリストへの信仰が激しくとがめられることがあるのです。

キリストへの信仰を貫こうとするとき、以前と現れ方は違っても、今日のキリスト者にも同じように迫害や弾圧は起こり得ます。このことはわたしたちと関係のないことではありません。なぜそれを避けることができないのでしょうか。主はこう言われます。「まず、福音があらゆる民に伝えられねばならない」(10)。み言葉は伝道者による宣教活動によってのみ、人々の前に差し出されるのではありません。それぞれの時代の信仰者の苦しみや戦いという手段を通してでも福音は証しされ、信仰者の信じる神がいかなるお方であるかということが広く明らかにされます。それは神の宣教の一つの手段です。

しかしわたしたちはそのような苦しみに耐えられるのでしょうか。裁きの座で、わたしたちの主であるイエス・キリストを正しく証言することができるのでしょうか。自信はありません。しかし主は言われます。何を言おうか、どう振舞おうかと「取り越し苦労をしてはならない」(11)。なぜならそのようなときに聖霊なる神が信仰者を助け、言葉と勇気を与えてくださるのだからと断言しておられます。聖霊は「弁護者」とも言われ、また「慰め主」とも言われる方です。その意味は、「かたわらにいてくださる方」ということです。

このことは何も裁判とか弾圧の場面だけのことではありません。あらゆるときに聖霊なる神はわたしたちのかたわらにいてくださり、わたしたちを助けてくださるのです。なんと慰めに満ちたことでしょうか。だからこそわたしたちは困難と艱難の只中においてだけでなく、さらに地上の生が終わる最後まで耐え忍ぶ者とされるのです。聖霊なる神がそうしてくださいます。それゆえわたしたちは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13)との言葉を自分自身への神の約束として聞くことが許されているのです。

主日礼拝 2021.11.21

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞詩編23編4~6節(旧約 p854)
讃美歌11  あめつちにまさる
祈祷
聖書マルコによる福音書13章9~13節
信仰告白使徒信条
讃美歌161  イマヌエルのきみのみ
説教「最後まで耐え忍ぶ者」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌263  よろこばしき
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
祝祷
後奏

「終末のしるし」

マルコによる福音書13章1~8節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

マルコによる福音書13章は「小黙示録」と呼ばれることがあります。黙示録とは、世の終わり(終末)に関する預言の文書のことですから、この章は終末のことが記されているということになります。終末のことを知るとは単に終わりの時の事柄について知るということだけではなく、それを知ることによって、今の自分たちの生き方を考えるということに結びつかなければなりません。

弟子たちは今、エルサレム神殿の建物の素晴らしさに驚嘆しています。しかし主イエスは彼らに共鳴なさらずに、思いがけないことを話されます。それはこの神殿が壊される時が来る、というものです。彼らの心は迫りつつある主イエスの死の時に向けられなければならないのに、その様子は少しも見られません。そのような弟子たちに対して主は、神殿の崩壊について預言されます。そのご意図は何なのでしょうか。

一つは、実際にこの神殿は、紀元70年にローマ軍によって破壊されるのですが、それを予言しておられるということが考えられます。人の手によるもので、永遠に輝くものは何一つとしてないことを教えておられます。第二のことは、これまで神殿という建物を中心に築かれてきたユダヤ人の信仰は、儀式や儀礼を重んじるものでしたが、それに大きな変化がもたらされることの示唆があります。「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4:23)と言われたように、主の復活以後、神殿以外のどこででも父なる神への礼拝が可能であることを示すものとしての神殿崩壊の預言という要素もあるのです。

こうして主は新しい時の到来を指し示しながら、さらに根源的に新しい時としての終わりの時について続けて語っておられます。そのことに気が付いた弟子たちは、不安そうに、あるいは興味深げに、「そのことはいつ起こるのですか」、また「そのときにはどんな徴があるのですか」と問うています(4)。終末のことが語られるときの人々の大きな関心事の一つは、「いつ起こるのか」であり、もう一つは「どんなふうに起こるのか」です。それらよりももっと大事なことは、「それでは自分たちはどのように生きたらよいのでしょうか」という問いであるはずですが、弟子たちにはそれが決定的に欠けています。

それに対して主は「いつ起こるか」ということは、誰にも分からない、ただ天の父なる神だけがご存じであると言われます。「いつ」と問うよりも、いつその時が来ても良いような、御心に沿った生き方を追求することの方が大事なことなのです。それから、前兆として何が起こるか、どんなことが前もって起こるかについても、明確にはお答えになっていません。偽メシアの登場、戦争の勃発、自然災害等が生じても、それらが即終末ということではない、それらは産みの苦しみであって、その後どれくらいの時が経過するかは分からないと言っておられます。終わりの時はそれらの災いの後すぐに来るかも知れませんし、ずっと長い間来ないかも知れません。

わたしたちにとって死が免れられないように、終末も免れることはできません。必ずそれは来ます。「その時」の前の日々を今わたしたちは生きています。その時がいつ来ても良いように、常に主に直面しているかのように生きること、それがキリストを主と仰ぐ信仰者の終末的な生き方です。