「終末のしるし」

マルコによる福音書13章1~8節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

マルコによる福音書13章は「小黙示録」と呼ばれることがあります。黙示録とは、世の終わり(終末)に関する預言の文書のことですから、この章は終末のことが記されているということになります。終末のことを知るとは単に終わりの時の事柄について知るということだけではなく、それを知ることによって、今の自分たちの生き方を考えるということに結びつかなければなりません。

弟子たちは今、エルサレム神殿の建物の素晴らしさに驚嘆しています。しかし主イエスは彼らに共鳴なさらずに、思いがけないことを話されます。それはこの神殿が壊される時が来る、というものです。彼らの心は迫りつつある主イエスの死の時に向けられなければならないのに、その様子は少しも見られません。そのような弟子たちに対して主は、神殿の崩壊について預言されます。そのご意図は何なのでしょうか。

一つは、実際にこの神殿は、紀元70年にローマ軍によって破壊されるのですが、それを予言しておられるということが考えられます。人の手によるもので、永遠に輝くものは何一つとしてないことを教えておられます。第二のことは、これまで神殿という建物を中心に築かれてきたユダヤ人の信仰は、儀式や儀礼を重んじるものでしたが、それに大きな変化がもたらされることの示唆があります。「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4:23)と言われたように、主の復活以後、神殿以外のどこででも父なる神への礼拝が可能であることを示すものとしての神殿崩壊の預言という要素もあるのです。

こうして主は新しい時の到来を指し示しながら、さらに根源的に新しい時としての終わりの時について続けて語っておられます。そのことに気が付いた弟子たちは、不安そうに、あるいは興味深げに、「そのことはいつ起こるのですか」、また「そのときにはどんな徴があるのですか」と問うています(4)。終末のことが語られるときの人々の大きな関心事の一つは、「いつ起こるのか」であり、もう一つは「どんなふうに起こるのか」です。それらよりももっと大事なことは、「それでは自分たちはどのように生きたらよいのでしょうか」という問いであるはずですが、弟子たちにはそれが決定的に欠けています。

それに対して主は「いつ起こるか」ということは、誰にも分からない、ただ天の父なる神だけがご存じであると言われます。「いつ」と問うよりも、いつその時が来ても良いような、御心に沿った生き方を追求することの方が大事なことなのです。それから、前兆として何が起こるか、どんなことが前もって起こるかについても、明確にはお答えになっていません。偽メシアの登場、戦争の勃発、自然災害等が生じても、それらが即終末ということではない、それらは産みの苦しみであって、その後どれくらいの時が経過するかは分からないと言っておられます。終わりの時はそれらの災いの後すぐに来るかも知れませんし、ずっと長い間来ないかも知れません。

わたしたちにとって死が免れられないように、終末も免れることはできません。必ずそれは来ます。「その時」の前の日々を今わたしたちは生きています。その時がいつ来ても良いように、常に主に直面しているかのように生きること、それがキリストを主と仰ぐ信仰者の終末的な生き方です。