「癒し主でもあられるイエス・キリスト」

マルコによる福音書1章29〜34節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは安息日に会堂で教えられ、また汚れた霊にとりつかれた人を癒された後に、会堂を出てシモン・ペトロの家に向かわれました。そこではペトロの姑が熱を出して寝込んでいました。それを知らされた主は、早速彼女のそばに近寄り手を取って起こされると、彼女から熱が去り、健康を回復し、皆のもてなしをしました。この物語には考えるべきことが多く含まれています。

その一つは、ペトロと彼の家族との関係です。ペトロは主に従い始めることによって、仕事も家族も後に残して行ったはずです。ところが断ち切られたはずの彼の家も妻も彼のもとにまだあるのです。しかもペトロは主を、その古き世界に属するはずのところに連れてきています。これはいったいどういうことでしょうか。ここで推測を許されるならば、それはペトロが主に従い始めることによって、いったん断ち切られた古い関係、すなわち彼の家族との関係が、新しいものに造り変えられていったということです。ペトロと家族との関係をいったん断ち切った主が、今度は新しい関係を造り出してくださっているのです。ペトロは後日、妻を伴って伝道旅行に出かけています。信仰生活に入ることは、過去との断絶を伴いますが、しかし、主がそれを新しいものに造り変えてくださることを、ここで知ることができます。

もう一つ注目すべきことは、姑の癒しです。これは一見つつましい癒しの物語です。しかし大事なことが示唆されています。姑の病気の程度は分かりませんが、ルカによる福音書では、彼女は「高い熱に苦しんでいた」と記されています(4:38)。そのことはこの家にとっては重い課題であったに違いありません。それをご存じになられた主は、すぐに自ら姑に近づいて癒してくださいました。それによって彼女自身が苦しみから解放されただけではなく、家全体が平安に包まれることになりました。解決されなければならない課題や重荷を抱えている家庭に主イエス・キリストが迎え入れられるとき、そこに癒しと平安がもたらされることを、この物語は指し示しています。

癒された姑はその後どうしたでしょうか。彼女は主の一行をもてなす働きをしました。「もてなす」、すなわち「仕える」ことをしたのです。主が「仕える者になりなさい」と言われたときの言葉が用いられています。彼女は今まで病めるものとして家族に仕えられていましたが、今癒されたものとして「仕える」者に変えられました。これによって、私たちが仕える者となるためには、主によって癒されることが不可欠であるということを教えられます。主によって身も魂も癒され、慰められ、力を与えられた者は、他者に仕えることができるものとなります。癒されることによって、主に受け入れられている自分を発見した者は、今度は他の人を受け入れて、仕える者となることができるのです。

私たちは医者を必要としている病人です。赦され癒されなければならない罪人です。そのような私たちに主ご自身が近づいてきてくださって、御手を伸ばしてくださるとき、新しい自分が生まれるのです。

「汚れた霊よ、この人から出て行け」

マルコによる福音書1章21〜28節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは、四人の弟子を集められた後、安息日に会堂に入り、神の国について教え、また汚れた霊にとりつかれた人を癒されました。これらのことの中に、主イエスの業の中核にあるものが明らかに示されています。それは、弟子を集めること、教えをすること、そして癒すことです。これらが主イエスの業であることによって、主の後に続く教会も、これらが自分たちの大切な務めであることを認識しなければなりません。

会堂にいる人々は、初めて聞く主イエスの教えに非常に驚きました(22)。なぜでしょうか。その一つは、主の教えが律法学者のようでなかったことです。ただ律法の知識を形式的に語る学者からは、人々は感銘や慰めや希望を受け取ることができませんでした。一方、主イエスの教えには「権威」がありました。権威とは、この世的な権威をもって偉そうに語るということではありません。語られる言葉が、地上のことではなくて、初めて聞く神の国に関することであり、語られる言葉によって人々は、「それでは私たちはいったいどうしたらよいのか」と心が揺さぶられ、自分のこれからの生き方を問わざるを得なくさせられる力あるものだったのです。人々は、主の教えの中に新しい時代の到来と、新しい生き方への招きを強く感じ取ることができました。

さらに、主の言葉に権威があることが目に見える形で表される出来事が起こりました。それは「汚れた霊」にとりつかれている人が、主の一言の言葉によって癒された出来事です。主は大声を上げる男の中に、その人の力ではどうすることもできない霊が宿っていることを見抜かれました。今日の私たちには理解しにくい面がありますが、人の力では制御できない霊的なものによって人が捕らわれることはありうることでした。主はその霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」とお命じになりました。この人を会堂から追い出すのではなくて、この人にとりついている悪しき霊を追い出されるのです。その主の命令によって、とりついていた汚れた霊は男から出ていきました。それはこの人が発作を伴いながらでも、健常な状態に戻ったことによって知ることができます。

主イエスは、神の愛の対象とされている人間の心に宿るべきは、その人を苦しめ混乱させる悪しき霊や汚れた霊ではなく、神の霊であることを、このことによって示してくださっています。主は、悪しき霊が宿っていたこの人の心の座から悪しき霊を追い出し、その空いたところに神の霊を宿らせられたのです。主はこのように、私たちの心の中に神の霊を送り、その人を神の子にふさわしく造り変えてくださいます。このことは安息日の会堂で起こりました。ひとりの人の命の回復がもたらされたのです。それは最初にも触れましたが、今日の教会の主の日の礼拝においても起こりうることです。主が、痛める心を持った人にふさわしく関わってくださるならば、そこに命の癒しと回復が起こります。わたしたちの礼拝はその主の業を妨げるものではなく、それにお仕えするものでなければなりません。

「すぐに従った四人の男たち」

マルコによる福音書1章16〜20節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

していたシモン・ペトロとアンデレ、そして漁を終えたばかりで網を繕っていたヤコブとヨハネの二組の兄弟を、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」とお招きになりました。四人の漁師たちは、それぞれに主の招きの言葉を聞いて、主に従い始めたのです。彼らは仕事の道具である網や舟、そして家族までをそこに置いたまま、主の弟子となりました。

主イエスの宣教開始の言葉のすぐ後になされた最初の業は、弟子たちを集めることでした。舞台はガリラヤ湖の北岸のほとりです。主はガリラヤ湖で漁を
ここで目立つのは、主イエスの招きの唐突さ、さらにそれに応えた男たちの唐突さです。主イエスの側には、私たちにはよく分かりませんが、彼らを招く必然性があったに違いありません。男たちには、主の側にある必然性は見えていません。けれども彼らは主の言葉に「すぐに」従いました。マルコはこのことを描くことによって、私たちが主の招きに応える時の基本的な姿勢を明らかにしています。それは「すぐに」応えるということです。こうして主の業の敏速性、それに応えるべき私たち人間の敏速性を学ぶことができます。

この四人の漁師たちが後ろに残したものに目を向けるとき、なんと大それたことを彼らはしたのだろうかと考えさせられます。主の招きに応じる時、すべての人が同じようにしなければならないということではありません。しかし彼らの行動によって、主に従うときに起こる避けられない事柄が何であるかが、端的にここに示されています。それは神の召しに人が応じるとき、必ず何らかの中断、断絶、断念が生じるということです。それはいわば過去との決別です。ある人の言葉に次のようなものがあります。「人は二つの道を考えることはできるが、二つの道を行くことはできない」。一つを選び取るとき、いろんな悲しみや痛みが伴うかもしれません。また、決断をもって従い始めた者たちにも迷いや戸惑いが生じるかもしれません。しかし、主なる神は従う者たちにも、残されたものにも、ついには大いなる祝福をもって報いてくださるに違いないのです。私たちが従う神は、慈しみと憐みに富んでおられる方なのです。

この四人の漁師たちが主によって招かれたことの目的は何であったのでしょうか。それは彼らを「人間をとる漁師」にするためでした。彼らが魚をとる漁師であることになぞらえて、このような巧みな言葉が用いられています。漁師たちは、魚を自分たちのためにとります。とった魚は死にます。一方、人間をとる漁師は、「とった」人々を新たに生かすために、そして神のためにとります。人々を神の言葉によって新しい人とし、神の国の一員とするためです。それを神は喜んでくださるのです。

四人の男たちは従い始めたときには、主が言われることも、自分たちのなすべきことの意味もよくは分からなかったことでしょう。誰もが従い始める時には同じです。しかし従う中で、すべては明らかにされてくるのです。

「悔い改めて福音を信ぜよ」

マルコによる福音書1章14〜15節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

荒れ野で40日間を過ごされた主イエスは、その後、本格的な宣教活動に入られました。そのきっかけとなったと思われる一つのことが14節の初めに記されている「ヨハネが捕らえられた」という出来事です。洗礼者ヨハネは神の言葉を語ることによって王に捕らえられました。それを知られた主イエスは、いよいよご自分が神のために働く時が来たことをお知りになったのです。神の救いの歴史の舞台に主イエスが登場されます。

ここで、ヨハネが「捕らえられた」という事実をもう少し掘り下げて考えてみましょう。そのことは、神の言葉を語ることによって主イエスも捕えられるかもしれない可能性があるということを示しています。しかし、主イエスはそれを恐れずに人々の前に現れ、神による救いを伝える働きを始められます。主イエスを突き動かしているのはご自分の思いではなく、神の御心のみです。

主イエスの第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。最初の「時は満ち、神の国は近づいた」は事実の告知ですし、後半の「悔い改めて福音を信じなさい」は人々に対する招きと命令です。

「時が満ちる」とは神が定められた準備の時は終わり、神による救いの最終段階が主イエスとともに始まったということです。このことは、私たちにも起こります。準備の時、待つ時が終わり、決断し信じ始める時が必ず来ます。主イエスとの出会いが真に起こるその時が、決断の時、信じる時の始まりです。主イエス・キリストは、神の代理者として私たちの世界に来てくださいました。このイエス・キリストとの関係を結ぶことによって、神との関係の中に入ることができます。裏を返せば、主イエスを通してしか、神に至ることはできないのです。そういうお方として、父なる神は御子を送ってくださいました。主イエス・キリストとの現在の関係が、神との関係における将来を決定することになります。この時をわたしたちは逃してはなりません。

ではどうすればよいのでしょうか。主は言われます、「悔い改めて福音を信じなさい」と。悔い改めるとは、前回も考えましたが、「神に帰ること」です。神から遠ざかる方向に生きていた私たちが、向きを変えて、神の方に帰っていくこと、神のもとで生きようとすることです。それが悔い改めることです。そして福音を信じるとは、福音そのものであられる主イエス・キリストを信じるということです。主イエスのみが私たちの罪を赦し、新しい命を与え、私たちを神の子としてくださる唯一のお方であると信じることです。

悔い改めは、私たちが起こす行動というよりも、私たちを迎え入れようとしておられる神が私たちに送ってくださった賜物、贈り物です。誰もがその贈り物を主イエス・キリストを通して受け取ることができます。それゆえ、悔い改めよとは、厳しいおきて・戒めではなく、神が私たちのために開いてくださった本来の命への復帰の促しです。すべての人がその恵みに招かれています。教会はそのことを告げ広めていく務めを持っています。

「御心にかなう方の登場」

マルコによる福音書1章9〜13節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

マルコによる福音書の冒頭で、「神の子イエス・キリストの福音の初め」として紹介されたイエス・キリストが、9節に至って初めて登場されます。しかも、洗礼者ヨハネから洗礼を受ける方として登場されるのです。なぜ罪を犯されなかった主イエスが、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を受けられたのでしょうか。主イエスも、罪の赦しを必要とされたのでしょうか。そんなはずはありません。ヘブライ書(4:15)には、「このお方は罪は犯されなかった」とはっきり記されています。それではなぜ主はこの洗礼を受けられたのでしょうか。それは、主イエスが、罪人である私たち人間のところにまで身を低くして降りて来てくださり、罪人と同じ立場に立たれ、罪人と共に生きていこうとされる御意志の表れなのです。それは、主のヘリくだりであり、また私たち罪人との連帯・一致のしるしなのです。そのようにして、主は私たちに近づいてくださいました。そうであるならば、私たちも主に近づいて、洗礼を授けられて主と一つとされることが求められているのです。主が受けられた洗礼は、私たちに対する「あなたも洗礼を受けなさい」との招きでもあります。

主が洗礼を受けられた後、聖霊が主イエスの上に降るとともに、天からの声が聞こえました。それは父なる神の声です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」。これと似たことは、主イエスが山の上で姿を変えられた時にも聞こえてきました。その時には、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という言葉でした(ルカ9:35)。これらは何を意味しているのでしょうか。それは、父なる神は、ご自身のひとり子イエス・キリストに、地上においてなすべきすべての権限を委ねられたということでしょう。そして、神の御心を求める者は、主イエス・キリストに聞けばよい、神の思いはすべてイエス・キリストによって示される、ということです。私たちは、生きることについて、死ぬことについて、愛することについてなど人生の重い課題についてすべて御子に問えばよいのです。そうすれば、必ず御心は示されるということが約束されています。そして私たちも洗礼を受けるとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」という声を聴くことができるでしょう。

さて、主イエスは、洗礼を受けられた後、霊に導かれて、荒れ野に向かわれ、そこで悪しき力の誘惑を受けられました。これはどういうことなのでしょうか。それは、人は信仰に生きるものとなった後に本格的な誘惑に会い、また悪しき力との戦いが始まるということです。生き方の旗印を鮮明にすれば、それだけ周囲からの抵抗も戦いも激しさを増して来ます。しかし、大丈夫です。主イエスが聖霊によって守られ、神の天使たちによって守られていたように、私たちも同じです。神に従って生きていこうとしているものが、悪しき力と戦っているとき、神は決して見放すことなく、自ら手を伸ばして、その人を守り、共に戦ってくださるのです。預言者イザヤはそのような神のことを「主の手は短くはない」と言い表しています(イザヤ50:2)。

「洗礼者ヨハネとイエス・キリスト」 

マルコによる福音書1章1ー8節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

神の子イエス・キリストが救い主として現れる直前に神から遣わされた預言者が洗礼者ヨハネでした。ヨハネの生活ぶりは、荒れ野に住んで、らくだの毛衣を着たり、いなごと野密を食物としていたと描かれています。その生活ぶりは何を意味しているのでしょうか。一つは、1章3節に預言の言葉が引用され、そこで描かれていた通りの生活をすることによって、ヨハネは自分が神からの最後の預言者であることを示そうとしているということです。

しかし、それ以上に大切なことは、彼が荒れ野での生活を選んだのは、神に集中するためであった、と言って良いでしょう。人々から距離を置いて生きることは、彼にとって辛く寂しいことではなくて、かえって、神により近づくために必要な生き方であったのです。ヨハネはそこから人々に呼び掛けて、人々が決断をもってヨハネのもとにやってくることを願っています。彼は、人を避けた生き方をしながら、人を自分のもとに呼び寄せている、そういう伝道の方法で、人々の救いに仕えました。教会も教会の外に出かけて、人々に神を証しし、救いのありかを指し示すことをしなければなりません。それと同時に、教会に人々が決断をもってやって来て、礼拝に連なることも願い続けなければなりません。出かけること、待つこと、その両面を教会は持っています。

ところでヨハネの洗礼は、新しい命そのものを作り出すものではありませんでした。彼は、人は悔い改めて神のもとに帰り、神からの赦しを得て、救いを自分のものにすることが必要だと呼びかけたのです。そして、自分はそのようなものになりたいとの志を示した者に、水による洗礼を授けて、救い主が来られるまでその決断を失うことがないようにと求めました。これは、主イエス・キリストが与えてくださる洗礼とは異なっています。それを受けるための前準備ができたということを示すもの、それがヨハネによる洗礼です。それは思い切って今日の教会のことで言い表すならば、ヨハネの洗礼は、洗礼準備会が済み小会(長老たちの会議)で試問を受けて、受洗を「承認」された段階のことです。それは洗礼そのものではありません。その人はやがて主の名による洗礼を受けることによって、真の救いと新しい命を獲得することができるのです。

ここでもう一つ考えておきたいことは、「悔い改め」と「反省」とは異なるということです。反省は、あのことが悪かったから、これからは同じ過ちをしないようにしようという心の状態をいいます。一方、悔い改めは、その言葉の本来の意味が<方向転換>を意味しているように、生きる方向を根本的に変えることです。神から離れる方向に生きていたものが、神に向かう方向に生き方の向きを変えることです。それは「神に帰る」ことです。私たちの教会は、神に背を向けて生きている多くの人たちに、神に向かって生き方の方向を変えようと呼びかけなければなりません。神は、人がご自身のもとに帰ってくることを喜ばれるお方なのです。そのために、教会はこの地上に建てられています。

「神の子イエス・キリストの福音」

マルコによる福音書1章1〜8節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まっています。ここで言われる「福音」とは何でしょうか。それは端的に言えば、神から遣わされた唯一の救い主イエス・キリストのことです。したがって、冒頭の句は「神の子イエス・キリストの福音が、今ここに始まる」ということになります。マルコによる福音書全体を通して、私たちは神の子イエス・キリストに出会うことが求められています。イエス・キリストに出会わずに、この書を読み終えることはあってはならないということです。神は御子において、人間の再創造の業に取り組まれたのです。

その句に続いて、預言者イザヤの言葉が引用されています。これは、救い主がイスラエルの世界に遣わされる前に、神は多くの預言者を送るという預言です。事実、イスラエルの国には、イザヤをはじめ、多くの預言者が神から遣わされて、救い主が来られる準備を人々に促しました。そして、そのような預言者の最後のものとして、洗礼者ヨハネが遣わされるのです。それが、4節以下に記されています。

これらのことが示していることは、神はある人のための救いの働きをなさる前に、その救い主を迎える準備をさせるために、いろいろな人を送られるということです。それは、先駆者とも呼ばれます。その先駆者によって、人はイエス・キリストと出会う備えをすることができます。
私たちも振り返ってみるならば、私たちが救い主イエス・キリストに出会う前に、私たちのために道を備えてくださった人が幾人もいたことを思い起こさせられます。あの人、この人が、私の救いのために神から遣わされてきたのだ、その方たちの導きによって私は救いを手にすることができた、と感謝をもって思い起こすことができる人々がいます。その時は気が付かなかったとしても、今振り返るなら、その人々は間違いなく、神が備えてくださった私のための先駆者であったのです。

そのことを感謝をもって思い起こす時、次は、私たち自身があの人、この人のために、また私たちの愛する人たちのために、先駆者としての働きをしなければならないということを思わせられます。自分は他者の救いのために神から遣わされているのだという意識を強く持つことは大切なことです。その思いは、自然と、心に覚える人たちのために祈ることになり、また、聖書の大切な一言を書き加えた手紙を書き送るということにもつながるはずです。
そのようなことができるものとなるためにも、私たちはこの福音書を通して、真の救い主イエス・キリストに何度も出会って、心が揺さぶられることが大切です。そのための主日礼拝であり、またそのことが起こるような聖書の朗読、説教を聞くことが繰り返されるようにと祈ります。