「大きな苦難の予告」

マルコによる福音書13章14~27節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

黙示書を学ぶ上で大切なことが二つあります。その一つは、主イエスが終わりの時のことを教えておられた当時の人々は、終末がすぐにでも来るという緊迫した思いでこれに耳を傾けていたということです。それだけに、彼らは聞くことに真剣でした。二つ目のことは、今日のわたしたちにとっては、「いつ」、「どんなふうに」その時がくるのかに関心を持つことよりも、その時が必ず来るとの思いの中で、それに備えるために今の時をどのように生きることが神の御心に適っているかを、真剣に問いつつ生きることです。

さて14~23節には、特別な事態が生じた時のことが記されています。そこで言及されている「憎むべき破壊者」とは、紀元前170年頃にエルサレムに侵入してユダヤ人たちに異教の神を拝むように強制したシリアの王アンティオコス・エピファネスのことです。それはユダヤ人にとってはとてもつらい厳しい出来事でした。主はその恐るべき歴史的事件を思い起こさせながら、これから先も同じ事が起こりうると予告しておられます。そのときには「戦え」と主は信仰者に命じておられません。むしろ「逃げよ」と命じておられます。なぜなのでしょうか。それは組織的・国家的な巨大な敵の力と戦うよりも、それから逃げることによって、とりあえず信仰を守れということなのです。主は信仰者の弱さや限界をご存じです。それを超えて戦えとは言われないのです。

さらに大切なことは、主ご自身がわたしたちに代わって戦ってくださるとの約束がここにあるということです。「この戦いをわたしに任せよ」、と主は言ってくださっています。この苦難が長引くことによって信仰から脱落するものが出ないように、主ご自身が戦ってくださって「その期間を縮めてくださる」のです。わたしたちはそれゆえに逃げながらでも、「祈りなさい」(18)と命じられています。信仰からの脱落者が出ないように、また教会と自分自身の信仰が守られるように祈らなければなりません。

わたしたちの国においてもかつて天皇への崇敬がすべての人々に求められ、キリスト教会もその圧力に屈することがありました。そのようなことが二度と起こらないとは誰も言えないのです。今日の教会は、国家に対する<見張りの務め>を果たしつつ、信じることの自由のために仕えなければなりません。

24節以下においては、「人の子」が登場します。主はダニエル書7章13節の「人の子」をそのまま用いて、ご自身の再臨の時のことについて語っておられます。そして主が再び来られた時には、「選ばれた人たち」(27)を神のもとに集めてくださると語られています。父なる神を信じる信仰者は、自分で神を選んだのではなくて、神によって選ばれた者たちです(ヨハネ15:16)。信仰の主体は神にあります。それゆえ神はご自身が選ばれた人々を、信仰のゆえの苦難や迫害において守り通してくださり、終わりの時にもれなくご自身のもとに呼び集めてくださいます。神の選びの力と愛は、わたしたちを神から引き離そうとする如何なる力よりもはるかに大きいのです。それがわたしたちの確信であり、平安の源です。その確信と平安のもとで日々を誠実に生きることが、終末に備えた生き方であると言ってよいでしょう。

「最後まで耐え忍ぶ者」

マルコによる福音書13章9~13節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは終末のことについて弟子たちに教えておられます。その中で今は、弟子たちに限らず信仰者として生きる者たちに加えられる苦難や迫害について語っておられます。主が繰り返し「わたしのために」とか「わたしの名のために」と述べておられることからも分かりますように、キリストに従う者はそのキリストへの信仰ゆえに苦しみを避けることはできないのです。主ご自身が苦しみに遭われたように、信仰者も苦しみに遭います。

そのような苦しみや信仰者への弾圧には三つの種類があることを主は語っておられます。それは何でしょうか。

第一に「地方法院」とか「会堂」(9)での裁きや罰が挙げられています。それは宗教的な面からの弾圧で、何を神として信じているかということが厳しく問われるのです。パウロもその信仰のゆえにユダヤ人から受けた鞭打ちの刑について述べています(コリント二、11:24~25)。

第二は、「総督や王の前」(9)での裁きが挙げられています。総督はローマの権力者、王はイスラエルの国の権力者ですから、彼らの「前」とは、政治的権力あるいは国家的権力がむき出しにされる場であると言えます。そこではキリスト信仰者が国家にとって危険な存在であるかどうかが問われます。

そして第三は、「親、兄弟」(12)による迫害です。家族関係の中であるいは肉親同士の間で、キリストへの信仰が激しくとがめられることがあるのです。

キリストへの信仰を貫こうとするとき、以前と現れ方は違っても、今日のキリスト者にも同じように迫害や弾圧は起こり得ます。このことはわたしたちと関係のないことではありません。なぜそれを避けることができないのでしょうか。主はこう言われます。「まず、福音があらゆる民に伝えられねばならない」(10)。み言葉は伝道者による宣教活動によってのみ、人々の前に差し出されるのではありません。それぞれの時代の信仰者の苦しみや戦いという手段を通してでも福音は証しされ、信仰者の信じる神がいかなるお方であるかということが広く明らかにされます。それは神の宣教の一つの手段です。

しかしわたしたちはそのような苦しみに耐えられるのでしょうか。裁きの座で、わたしたちの主であるイエス・キリストを正しく証言することができるのでしょうか。自信はありません。しかし主は言われます。何を言おうか、どう振舞おうかと「取り越し苦労をしてはならない」(11)。なぜならそのようなときに聖霊なる神が信仰者を助け、言葉と勇気を与えてくださるのだからと断言しておられます。聖霊は「弁護者」とも言われ、また「慰め主」とも言われる方です。その意味は、「かたわらにいてくださる方」ということです。

このことは何も裁判とか弾圧の場面だけのことではありません。あらゆるときに聖霊なる神はわたしたちのかたわらにいてくださり、わたしたちを助けてくださるのです。なんと慰めに満ちたことでしょうか。だからこそわたしたちは困難と艱難の只中においてだけでなく、さらに地上の生が終わる最後まで耐え忍ぶ者とされるのです。聖霊なる神がそうしてくださいます。それゆえわたしたちは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13)との言葉を自分自身への神の約束として聞くことが許されているのです。

「終末のしるし」

マルコによる福音書13章1~8節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

マルコによる福音書13章は「小黙示録」と呼ばれることがあります。黙示録とは、世の終わり(終末)に関する預言の文書のことですから、この章は終末のことが記されているということになります。終末のことを知るとは単に終わりの時の事柄について知るということだけではなく、それを知ることによって、今の自分たちの生き方を考えるということに結びつかなければなりません。

弟子たちは今、エルサレム神殿の建物の素晴らしさに驚嘆しています。しかし主イエスは彼らに共鳴なさらずに、思いがけないことを話されます。それはこの神殿が壊される時が来る、というものです。彼らの心は迫りつつある主イエスの死の時に向けられなければならないのに、その様子は少しも見られません。そのような弟子たちに対して主は、神殿の崩壊について預言されます。そのご意図は何なのでしょうか。

一つは、実際にこの神殿は、紀元70年にローマ軍によって破壊されるのですが、それを予言しておられるということが考えられます。人の手によるもので、永遠に輝くものは何一つとしてないことを教えておられます。第二のことは、これまで神殿という建物を中心に築かれてきたユダヤ人の信仰は、儀式や儀礼を重んじるものでしたが、それに大きな変化がもたらされることの示唆があります。「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4:23)と言われたように、主の復活以後、神殿以外のどこででも父なる神への礼拝が可能であることを示すものとしての神殿崩壊の預言という要素もあるのです。

こうして主は新しい時の到来を指し示しながら、さらに根源的に新しい時としての終わりの時について続けて語っておられます。そのことに気が付いた弟子たちは、不安そうに、あるいは興味深げに、「そのことはいつ起こるのですか」、また「そのときにはどんな徴があるのですか」と問うています(4)。終末のことが語られるときの人々の大きな関心事の一つは、「いつ起こるのか」であり、もう一つは「どんなふうに起こるのか」です。それらよりももっと大事なことは、「それでは自分たちはどのように生きたらよいのでしょうか」という問いであるはずですが、弟子たちにはそれが決定的に欠けています。

それに対して主は「いつ起こるか」ということは、誰にも分からない、ただ天の父なる神だけがご存じであると言われます。「いつ」と問うよりも、いつその時が来ても良いような、御心に沿った生き方を追求することの方が大事なことなのです。それから、前兆として何が起こるか、どんなことが前もって起こるかについても、明確にはお答えになっていません。偽メシアの登場、戦争の勃発、自然災害等が生じても、それらが即終末ということではない、それらは産みの苦しみであって、その後どれくらいの時が経過するかは分からないと言っておられます。終わりの時はそれらの災いの後すぐに来るかも知れませんし、ずっと長い間来ないかも知れません。

わたしたちにとって死が免れられないように、終末も免れることはできません。必ずそれは来ます。「その時」の前の日々を今わたしたちは生きています。その時がいつ来ても良いように、常に主に直面しているかのように生きること、それがキリストを主と仰ぐ信仰者の終末的な生き方です。

「貧しいやもめの献金」

マルコによる福音書12章38~44節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

教会の交わりにおいて「人を見るな、神のみを見つめよ」とよく言われます。信仰は神から来るものですから、それは当然のことです。しかし、信仰に生きている人を見ることによって益を得ることもありますし、逆にそうあってはならないとの学びを与えられることもあります。大事なことは、他者の中に何を見、他者の何に倣うかべきか、倣ってはならないかということです。

主は倣ってはならない例として、38~40節で、律法学者たちが人の関心を引こうとして行う社会における振る舞いや、自分の敬虔深いことを人に見せようとして長い祈りをすること、そして弱い立場のやもめを世話をしているように見せかけながら、それを食い物にすることなどを挙げておられます。そのような行為は後に続く者たちの手本にも目標にもなりません。

主はその指摘の後、弟子たちを神殿の賽銭箱が見える場所に連れて行き、そこで捧げものをする人々の姿を見ることによって何かを教えようとしておられます。初めは金持ちたちの献金の様子が弟子たちの目に入りました。続いて、貧しいやもめが献金する様子も弟子たちは目撃しました。多くの人は、捧げる額を見ることによって、その人の信仰を判断するようなことをしがちです。しかし、そのことの過ちを主は今弟子たちに教えておられます。

金持ちたちはたくさんの捧げ物をしていました。しかし、それは「有り余る中から」(44)捧げているにすぎないことを主は見抜いておられます。一方、同じ賽銭箱に入れていたやもめの献金は、レプトン銅貨二枚だけです。レプトンとは当時の貨幣単位の最小のものです。金持ちたちの捧げものとは比べ物にならないほど小さなものです。しかしそれは彼女が「持っている物のすべて」、「生活費の全部」でした。彼女は二枚の貨幣の一枚を手元に残すこともできたはずですが、そうはせずすべてを捧げ切りました。主はそれをご存じでした。

このことから主はやもめが「だれよりもたくさん入れた」(43)と言っておられます。主は表面に表れる金額だけを見て、多い・少ないということを判断しておられるのではありません。目に見えない心の内をご覧になって、それぞれがいかなる姿勢で神に捧げ物をしているか、さらに自分自身をどのように捧げようとしているかを判断しておられるのです。それを指し示すことによって主は、弟子たちが今、自分自身をいかなるものとして神に捧げようとしているかを問うておられます。自分の側に、心・体・時間・働き・物質的なもの等の多くのものを留保しておいて、わずかな捧げものによって満足していないかを問いかけておられます。弟子たちは貧しいやもめの姿を見ることによって、信仰に生きるとはどうあることかを学び取る機会が与えられています。

さらに大切なことは主はここで、やもめが自分の側に何も残らないまでに捧げつくすその姿の中に、数日後に十字架の上でご自分のすべてを捧げつくされる主ご自身のあり方を弟子たちに予め示しておられるということです。主は生活費どころか、ご自分の命・存在のすべてを捧げて、わたしたちの救いを勝ち取ってくださるのです。その主の十字架上での死によって、わたしたちは新しい命を約束されています。それゆえわたしたちも主に倣って、自分自身のすべてを捧げつくして、主の証人として生きたいものです。

「イエスはダビデの子か」

マルコによる福音書12章35~37節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエス・キリストはどのような意味で救い主(メシア)であられるかをご自分から明らかにしようとしておられるのが、今日のテキストの内容です。詩編110編1節を引用してのお話しですが、決して分かりやすいものではありません。難しいというよりも複雑な文章構造を読み取り、その意味を考えることにいささか複雑な面があるのです。しかし、ご一緒に考えてみましょう。

詩編110編は、ダビデの作であるという前提で主は話しておられます。次のように引用しておられます。「主は、わたしの主にお告げになった」(36)。このときの最初の「主」は主なる神のこと、「わたし」はダビデ自身のこと、そして二番目の「主」は「救い主(メシア)」のことです。ここで主イエスは、ダビデがメシアに向かって「わたしの主」と言っていることに注目しておられます。主イエスは、確かに新しく神から遣わされるメシアは、伝統的にダビデの子(子孫)としてこの世においでになる、しかしその「メシア」をダビデが「わたしの主」として崇めているのだから、メシアはダビデよりも優れた存在である、と語っておられます。わたしたちはその教えを受け入れましょう。

それによって主は何を語り、何を明らかにしようとしておられるのでしょうか。ダビデは政治的・軍事的に優れた王でした。その王に勝るメシアは、ダビデをはるかに超えたこの世的力を持って、イスラエルを異教の支配者から解放し、世界を支配するものとするということなのでしょうか。そうではありません。主はかつて次のように言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ11:43~45)。人々の救いのために自分の命を投げ出すということにおいて、新しいメシアはダビデよりも優れているのです。ここで、そのメシアはご自分であるとは主イエスは語っておられませんが、暗にそれを示唆しておられます。間違いなく、ダビデのすえに生まれられた方、しかし力による征服ではなく、ご自分の命を身代わりとして差し出すことによって、罪の支配から人々を救い出されるメシア、それはダビデに勝る救い主の姿です。人々はやがてそのことを、主イエスの死と死からの復活によって、はっきりと示されることになりますが、主イエスは今は、暗示的に示しておられます。しかし、最終的にイスラエルの人々は、このようなメシアを受け入れることができず、主イエスを十字架の死へと追いやることになります。そのことによって、逆に主がダビデにまさるメシアであられることがはっきりと示されることになります。

わたしたちもイエス・キリストに対してさまざまに思い描くことがあります。しかし大事なことは、自分の思いの枠の中に主イエスを閉じ込めてそれしか受け入れないというのではなくて、聖書がはっきりと示している主イエスをそのまま救い主として受け入れる信仰に生きることです。「天が地を高く超えているように、わたしの思いは人の思いをはるかに超えている」(イザヤ55:9参照)と言われる主なる神と救い主イエス・キリストへの信仰を、主の日毎の礼拝を通して聞く御言葉によって研ぎ澄ませたいものです。

「神への愛と人への愛」

マルコによる福音書12章28~34節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日のテキストでは一人の律法学者が主の前に現れています。この人は、これまでの多くの人たちのように主イエスに対して対立的ではなく、逆に真剣に何かを教わろうとしています。彼の問いは、数多くある神の掟の中で何が第一の掟でしょうかというものでした。彼はそれを知って、自分の生の基盤としたいと願っているのです。主は彼の思いを即座に感じ取られました。そしていつものように質問者に問い返すことはなさらずに、正面から答えられます。

主のお答えは、「第一のものは、イスラエルの唯一の主であられる神を、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛することである。そして第二のことは、隣人を自分のように愛することである」というものでした。つまり「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つが、同じ神からの一つの掟として示されています。それらは別々の二つではなくて、切り離しえない同じ一つの掟の表と裏という関係のものである、と言われています。神を愛するとは、全人格を傾けて、神を賛美し、礼拝し、神に祈り、御心に全幅の信頼を寄せて生きることです。また、隣人を愛するとは、抽象的なことや言葉だけのことではなく、自分自身を愛する時のように具体的で実践的な愛に生きることです。神への愛という水源から、人への愛という水流が生まれ出てくるのです。主イエスは、これこそが、唯一の神が人間に与えられた掟の中で中心的なものである、と教えられました。

それを聞いた律法学者はその教えに納得し、確信をもって受け入れています。彼の中でもやもやしていたものは今全く解消されて、生きることの目標と基盤がはっきりし、彼はこれから唯一の主なる神の僕として生きて行くことができるに違いありません。そのような律法学者を見て主は、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。そしてついには彼は、「あなたは神の国の一員である」と言われるまでに神に近づくことができる者となるに違いありません。彼の信仰を通して、神の愛が彼に流れ込むからです。今日、わたしたちが共に生きている人々の中にも、主イエスによって「あなたは神の国から遠くない」と言われるような人もいるかも知れません。わたしたちの目にはそれは分かりませんが、そのような人々が実際に神の国の一員とされる時が来るようにと祈り、共に生きることも、隣人への愛であることを思わせられます。

ところで、わたしたちは主が示された第一の掟と第二の掟に忠実に従って生きることができるのでしょうか。『ハイデルベルク信仰問答』の第5問答では、「それはできない。なぜならわたしたち人間の心は、生まれつき神と人とを憎む方向へと傾いているから」ときわめて明快で正直な指摘がなされています。ではどうしたら良いのでしょうか。それは主なる神が御子イエスにおいて示してくださり、わたしたちに与えてくださったあの愛に触れ続ける以外にありません。その時、生まれながらのわたしたちには不可能であった神への愛と人への愛が、少しずつわたしたちのものとされるでしょう。愛は神からの賜物です。したがってそれはまず与えられなければ、自分のものとはなりません。「愛を与えてください」と祈るわたしたちに、神はそれに応えてきっと一人ひとりにふさわしい愛を与えてくださるに違いありません。

「生きている者の神」

マルコによる福音書12章18~27節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスには様々な人が論争を仕掛けていますが、本日のテキストではサドカイ派の人々が現れています。彼らは復活を否定することで知られているグループです。彼らは本当に悩み苦しんで主に問いかけているのではありません。主の上げ足を取ろうとしている彼らの意図は明らかです。その問いは「ある女性が一人の男に嫁ぎ、子どもがいないまま夫が死んだ。このあと他の六人の兄弟にも次々嫁いだが、兄弟も子どもがないままに亡くなった。復活の時その女性は誰の妻となるのか」というものでした。実際にはほとんどありそうもない仮定の状況を設定して主を追い詰めようとしているのです。これは旧約聖書の「ある女性の夫が死に、子どもがいない場合は、女性はその兄弟に嫁がなければならない」(申命記25:5)と規定されていることに基づいての問いです。イスラエルはそのようにして、その家の血を絶やさないようにしてきました。

主はそれに対してまず「あなたたちは聖書も神の力も知らない」、それゆえ神に関して「思い違い」をしていると厳しく責めておられます。それは神のなさることを人間の合理的な思考の枠内に押しとどめているということです。聖書は正しく理解されなければ力とならないだけでなく、却って危険なものとなってしまいます。そこで主が彼らに教えられたことの第一は、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともない」ということでした。ここで注目すべきことは、主が死者の復活があることを前提として語っておられることです。主は今はご自身の復活についてではなくて、神に結びついて死んだ者たちの復活について語っておられます。さらに、復活のときには、地上の人間関係の継続や再現が起こるのではなくて、人は全く新しい存在に変えられるということをも明らかにしておられます。パウロは人には地上の体と天に属する体とがあることを述べています。天に属する体に移された者は、天使のように地上の存在を超えた新しい存在に変えられる、それゆえ、地上の人間関係の単なる継続はないということなのです。そのことはわたしたちにとってがっかりしたり安心したりようなことではなくて、復活の後のことに関してはもはや思い煩う必要はないとの平安へと導かれることです。

主はさらに神がモーセに言われた「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3:6)を引用されました。これは神が「わたしはかつてアブラハムの神であったが、今もアブラハムの神である」と言っておられることとして主は引用しておられます。つまり、アブラハムはかつて生きていたが、今も神の前で生きているということとして、主はこの神の自己宣言の言葉を解釈しておられます。それは言い換えれば、アブラハムは復活していると語られているのと同じことです。そのことから主は次の印象深い言葉をお語りになります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。これはわたしたちにどのように関わってくるのでしょうか。それはアブラハムの名を自分の名に置き換えて、神の自己宣言を理解してよいということです。主なる神は、わたしたちが生きているときにも、死んで新しい命に移されてからも、わたしたちの神であってくださるのです。それゆえわたしたちは死のあとのことについて何も思い煩う必要はないのです。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」

マルコによる福音書12章13~17節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

この有名な言葉が主イエスの口から発せられたのは、神殿の境内においてでした。相手はファリサイ派とヘロデ派の人たちです。彼らは主を何とかして陥れようとして、一つの問いかけをしました。それは、当時イスラエルを支配していたローマの皇帝に対して、税金を納めるべきか否かという問いでした。

その問いに隠されている罠とは何でしょうか。それは、もし主イエスがローマに税金を納めるべきだと答えたとしたら、偶像を崇拝するローマ帝国に従うことになり、それは偶像崇拝を禁じる律法に違反することになる、ということで主を訴えることができると彼らは考えています。一方、税金を納めるべきではないと答えたとしたら、それはローマ帝国に抵抗したり反抗したりする態度ということで、主を当局に訴えることができるというものです。いずれの答えが出されたとしても、彼らは主を窮地に追いやることができると考えているのです。この問いは彼らの真剣な悩みから出たものではありませんでした。

主はその罠を初めから見抜いておられます。それで次のように応じられました。まず、納税のために用いるデナリオン銀貨を持って来るように命じられました。それにはローマ皇帝の像が刻まれています。人々はこれを用いてローマに税を納めます。次に主は「これはだれの肖像と銘か」と尋ねられました。彼らの答えははっきりしていて「皇帝のもの」と答えました。その銀貨には、皇帝の肖像と銘が刻まれていました。主は彼らの答えに対して「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われました。つまりそれは単純に、当時の社会制度としての納税には従えと言われただけです。皇帝礼拝とか皇帝への尊崇の念を持てとまでは決して言っておられません。果たすべき社会制度における義務のレベルで語っておられます。律法違反に結びつくものはありません。

続いて主は「神のものは神に返しなさい」と言われました。これはどういうことでしょうか。神の像とも言うべきものは何に刻まれているのでしょうか。それに関してわたしたちが思い出すべきは、創世記1章27節の言葉です。そこにはこう記されています。「神はご自分にかたどって人を創造された」。この「神にかたどって造られている」ということを<神の像>と言います。つまり、神の像は人に刻まれているのです。ということは人は他の被造物とは異なって、特別に神と対話できるもの、神と心を交わすことができるもの、神のものとして造られたということです。人には神の命の息も吹き込まれました(創世記2:7)。そのような人間は、自分自身を神に返さなければなりません。つまり、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ12:30)という生き方に徹することが、自分自身を神に返すことです。そのことまで彼らが理解することができたかは不明ですが、彼らはそれ以上主に対して何もすることができませんでした。

わたしたち人間における本来の<神の像>はわたしたちの罪によって歪んでしまいました。しかし主イエスの贖いによってそれは回復されたのです。わたしたちは再び神のものとされました。洗礼はそのしるしです。それゆえ、わたしたちは、主によって贖われたものとして、神の栄光を表すために生きることができるのです。

「捨てられた石と隅の親石」

マルコによる福音書12章1~12節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは多くのたとえを語られましたが、今日のたとえ話はその中でも最も激しいものであると言って良いかも知れません。聞き手の「彼ら」とは、主イエスに権威の問題を問いかけた祭司長たちです(27)。ということは主はこのたとえによって彼らに厳しく迫っておられる、ということなのです。

このたとえは寓喩と呼ばれるもので、たとえに登場する事物が、現実の事物にそれぞれ対応するものとして語られています。まず「ある人」あるいは「ぶどう園の主人」は神を意味しています。そしてぶどう園はイスラエルの民のことです。イザヤ書5章7節に「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々」と記されているとおりです。またそのぶどう園を主人によって任せられる農夫たちは、イスラエルの指導者たち、そして主人から収穫を得るために遣わされる僕たちは、主の預言者たちです。

主人は旅に出て、旅先からぶどうの収穫を求めるために僕たちを送りました。しかし農夫たちはその僕たちを次々に殺してしまったのです。ここでの収穫とは、イスラエルの人々が悔い改めて神のもとに立ち帰ったとの喜ばしい報告のことでした。しかし、それを聞くことができなかったことは、旧約時代の人々が神への信仰に生きることを拒否し続けたということです。主人は最後に愛する息子を送ります。この息子がイエス・キリストを指しているとしたら(そうなのですが)、ここから先は預言的なものとなります。これから御子イエスを巡って起ころうとしていることが告げられているのです。農夫たちはこの息子も殺してしまいます。それゆえこの場合の農夫とは新約時代の権威者たちのことになります。こうしてぶどう園を自分たちのものとしようとする旧新約時代の人々の姿は、神なしに生きようとしている人間の姿を表しています。しかし主人はそれを見逃すことをせず、彼らの罪に厳しい裁きを下します。彼らを殺してぶどう園を取り返すのです。これがたとえのあらすじです。

これは何を意味しているのでしょうか。たとえでは農夫たちに対する主人の厳しい仕打ちがなされていますが、実際に御子イエス・キリストにおいて起こったことを思う時に、神は御子を十字架にかけることによって、他の者たちに対する裁きを回避する道をお選びになったということが分かります。神は御子の命を犠牲にして罪ある者たちの救いを実現されるのです。そのことが旧約聖書の引用「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(詩編118:22)で言い表されています。イスラエルの人々によって不用なものとして捨てられたイエス・キリストを、神は人々の命の礎石として用いられます。そのことが主イエス・キリストの復活を通してこれから現実のこととなります。

神に対するイスラエルの反逆の歴史は、わたしたち人類の、いやわたしたち一人ひとりの歴史でもあります。イスラエルと同じようにわたしたちも本質的には、神を拒絶するものとして生きています。しかしそのようなわたしたち罪人の救いのために神は、ひとり子をこの世に送って、わたしたちの罪からの立ち帰りを促し、そしてついには御子の十字架と復活を通して開かれた新しい命の道へと召してくださいます。神は「イエスという親石の上にあなたの生を築き上げなさい」とすべての人に呼びかけておられます。

「主イエスの権威」

マルコによる福音書11章27~33節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスがエルサレム神殿を清める行動をなさった次の日、イスラエルの権威者たち、すなわち、祭司長、律法学者、長老たちが主イエスに対して、「何の権威で、このようなことをしているのか」と厳しく詰め寄っています。自分たちこそ、イスラエルの宗教とその中心である神殿に対して責任を持った者たちである、そうする権威を与えられているのは自分たちだとの自負の下で、主に対する抗議がなされています。自分たちを無視して、地方のナザレから来たイエスが神殿のあり方を厳しく批判し、それを改革しようとしている、それが何の権威によって行われているものなのかが全く分からないと考える彼らの憤りと焦りとがそこに現れています。

主イエスは、詰め寄る彼らに対して、逆に問いを投げかけておられます。主に問う者に逆に問い返す、それは主が時々用いられた方法です。それによって問題となっていることを深めようとしておられるのです。主の問いは、人々に悔い改めの洗礼を施す働きをし、既に殺された洗礼者ヨハネは、その働きを何の権威によって行ったのか、天(神)からの権威か、それともヨハネの勝手な人間的考えからなのか、と問いかけておられます。そのことがはっきり分かれば、主イエスが如何なるお方であるかも分かるはずだと主は考えておられます。

それに対して祭司長たちはどのように答えたでしょうか。彼らは考えました。もしヨハネの行動の背後に神がおられると言えば、彼らがヨハネを死に追いやったこととつじつまが合わなくなる。一方、ヨハネの働きは人間的なものであり、神とは関係がないと言ったら、ヨハネを神からの預言者として信じている群衆が反撃するかもしれない、と彼らは恐れました。そしてついに彼らは「分からない」と答えたのです。つまり、主の問いから逃げました、それによって彼ら自身が抱えていた問題からも逃げてしまったのです。それぞれの問いに正面から向き合って、主と共に考えることができたら、彼らは新しい世界へと一歩踏み出すことができたはずです。しかしそうはしなかった彼らは、真理への絶好の機会を逃してしまいました。主は彼らに対して、「それならわたしも答えない」と言われたのです。主は今彼らに奥深い真理を話しても無駄だと判断されたのでしょう。

「神の言葉を、最初から最後まで拒む人が多くいることは、キリスト者にとって茨やとげのようなものである」と嘆いている信仰の先達がいます。確かにそうです。しかし、それが悲しいかなわたしたちの世界の現実です。主イエスの言葉に触れる機会を与えられた人たちが、それまでに自分で作り上げてきた神観念とか救いとは何かという思いを、もう一度根底から問い直す機会とすることができれば、どんなに良いことであろうかと思わされます。「信じたい」という叫びであれ、「信じられない」といううめきであれ、それが主イエスに向かって真剣に投げかけられるならば、そこから主イエスとの対話が始まり、主の背後におられる、自分と向き合ってくださっている父なる神との出会いへと導かれていくに違いありません。主はすべての人に対して、権威者たちへのように「何も言うまい」と考えておられるのではなく、愛と真実に満ちた神の言葉を伝えたいと願っておられるのです。