「生きている者の神」

マルコによる福音書12章18~27節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスには様々な人が論争を仕掛けていますが、本日のテキストではサドカイ派の人々が現れています。彼らは復活を否定することで知られているグループです。彼らは本当に悩み苦しんで主に問いかけているのではありません。主の上げ足を取ろうとしている彼らの意図は明らかです。その問いは「ある女性が一人の男に嫁ぎ、子どもがいないまま夫が死んだ。このあと他の六人の兄弟にも次々嫁いだが、兄弟も子どもがないままに亡くなった。復活の時その女性は誰の妻となるのか」というものでした。実際にはほとんどありそうもない仮定の状況を設定して主を追い詰めようとしているのです。これは旧約聖書の「ある女性の夫が死に、子どもがいない場合は、女性はその兄弟に嫁がなければならない」(申命記25:5)と規定されていることに基づいての問いです。イスラエルはそのようにして、その家の血を絶やさないようにしてきました。

主はそれに対してまず「あなたたちは聖書も神の力も知らない」、それゆえ神に関して「思い違い」をしていると厳しく責めておられます。それは神のなさることを人間の合理的な思考の枠内に押しとどめているということです。聖書は正しく理解されなければ力とならないだけでなく、却って危険なものとなってしまいます。そこで主が彼らに教えられたことの第一は、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともない」ということでした。ここで注目すべきことは、主が死者の復活があることを前提として語っておられることです。主は今はご自身の復活についてではなくて、神に結びついて死んだ者たちの復活について語っておられます。さらに、復活のときには、地上の人間関係の継続や再現が起こるのではなくて、人は全く新しい存在に変えられるということをも明らかにしておられます。パウロは人には地上の体と天に属する体とがあることを述べています。天に属する体に移された者は、天使のように地上の存在を超えた新しい存在に変えられる、それゆえ、地上の人間関係の単なる継続はないということなのです。そのことはわたしたちにとってがっかりしたり安心したりようなことではなくて、復活の後のことに関してはもはや思い煩う必要はないとの平安へと導かれることです。

主はさらに神がモーセに言われた「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3:6)を引用されました。これは神が「わたしはかつてアブラハムの神であったが、今もアブラハムの神である」と言っておられることとして主は引用しておられます。つまり、アブラハムはかつて生きていたが、今も神の前で生きているということとして、主はこの神の自己宣言の言葉を解釈しておられます。それは言い換えれば、アブラハムは復活していると語られているのと同じことです。そのことから主は次の印象深い言葉をお語りになります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。これはわたしたちにどのように関わってくるのでしょうか。それはアブラハムの名を自分の名に置き換えて、神の自己宣言を理解してよいということです。主なる神は、わたしたちが生きているときにも、死んで新しい命に移されてからも、わたしたちの神であってくださるのです。それゆえわたしたちは死のあとのことについて何も思い煩う必要はないのです。