「神の前にいるとの自覚と畏れ」

使徒言行録10章17-33節

教師・久野 牧

わたしたちの信仰生活においては、今どこに向かって進んでいるのか、これから先どうなるのかわからないという状況がしばしばあります。わたしたちの信仰は、ある意味では、常に目標への途上にあると言って良いでしょう。それゆえ次のように祈るほかありません。「主なる神よ、あなたがわたしをどこへ導いておられるのかわかりません。しかし、わたしはあなたの命じられるままに従って行きます」。

使徒言行録の中のコルネリウスとペトロは二人とも、先行きや神の御心が良く見えない中で、祈りつつ神の御声に耳を傾け、命じられるままに、自分のなすべきことを選び取って行きました。ヤッファにいるペトロは、昼間見た幻について「これはどういう意味か」と思案に暮れていた時、カイサリアで同じように幻を見たコルネリウスからの使いの者たちが、ペトロのもとに来ました。神の霊が働きかけて、「今、ペトロを迎えに来ている三人の者は、わたしが遣わしたのだ。彼らと共に行け」と促しました。彼はカイサリアに向かって行きます。一方カイサリアでは、コルネリウスが親類や友人を呼び集めて、ペトロの到着を待っていました(24)。

こうして、神が書かれた脚本に従って、主の弟子ペトロと、異邦人でありつつ神を畏れ敬っていたコルネリウスの出会いの出来事が起こります。ある人の言葉です。「この二人の出会いにまさる美しい出会いはない」。そのように評されるほどに、この出会いは恵みにあふれたものとなりました。コルネリウスは最初、ペトロに出会ったとき、「足もとにひれ伏して拝んだ」と記されています(25)。それに対してペトロは「お立ちください。わたしもただの人間です」と告げました。ペトロの言葉に注目しましょう。神の前にあってはすべての人は等しい存在です。誰が上で、誰が下といった区別や差別はありません。これは福音による人間理解、人間観です。

ペトロは、さらに語ります。「神は、わたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない、とお示しになりました」(28)。神の前にあっては人は皆等しいもの、同じ価値と尊厳をもったものであることを、ペトロは確信をもって語っています。ここでわたしたちが注意すべきことは、どんな人間も等しい存在であるということは、どんな人にも罪がないという意味ではない、ということです。罪人であることにおいて、また救われなければならないことにおいても、すべての人は等しいのです。ペトロが示していることは、ユダヤ人と異邦人との間に設けられていた壁は、人と人との和解と赦しのために御子キリストが十字架にかかって死なれた出来事によって取り除かれた、ということです。それが福音です。

そこでコルネリウスは次のように語りました。「今、わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」(33)。この言葉に関して、「これほど頼もしい聴衆を持つことの出来た福音の説教者がほかにいるだろうか」とある聖書注解者が述べていますように、ここには神の前に心からへりくだり、熱心に神のみ言葉を聞こうとする砕かれた魂がいます。「主なる神がお語りになることを残らず聞きたい」と願って集まる聴衆がいる礼拝は、何と祝福されたものでしょうか。わたしたちの教会も、そのような礼拝者の群れとして整えられたいものです。礼拝は人間の集まりという要素を持ちながら、それを超えて超越的なこと、霊的なことが起こるところです。臨在の神がそれを起こしてくださいます。わたしたちは、神の前に出ているのだという畏れとへりくだりをもって、主の日毎の礼拝に連なるものでありたいと願います。

「異邦人に働きかける神」

使徒言行録10章1-16節

教師・久野 牧

初代教会のキリスト教が、ユダヤの国という限定された領域を超えて世界的なものとして進展していくためには、克服されなければならない壁がいくつかありました。その代表的なものの一つは「律法」であり、他は「異邦人」の問題です。その二つが結びついた出来事が、10章1節以下に記されているコルネリウスの物語です。場所はカイサリアです。この町はユダヤの都市ですが、当時ユダヤを支配していたローマ帝国はここをユダヤを治める行政の中心地としていました。ローマからの総督は、このカイサリアに駐在していました。ローマの一つの部隊の百人隊長コルネリウスは異邦人でしたが信仰深い人でしたし、彼の信仰は神によって受け入れられていました。彼にある日「神の天使」が幻の内に現れて告げたことは、使いの者をヤッファへ送って、そこにいるペトロをカイサリアに呼び寄せなさいというものでした。彼はペトロを知りませんが、即座にペトロのもとへ使いを送りました。

一方、ヤッファにいるペトロも幻を見ました。昼のちょうど12時頃空腹を覚えていたときに「天が開き」幻が見えました。その幻では天から降りて来た大きな布のような入れ物の中にあらゆる動物が入っていました。そして天からの声が「ペトロよ、屠って食べなさい」と彼の耳に響きました。それに対して彼ははっきりと拒絶の意志を表しました。彼は旧約以来の食べ物のおきてに忠実であったのです。それに対してまた天からの声が響きました。「神が清めた物を清くないなどと言ってはならない」。このようなことが三度繰り返されて動物を入れた入れ物は、天に引き上げられました。これはいったい何を意味しているのでしょうか。

旧約、特にレビ記11章のおきてで、清いとされた動物は食べても良いが、清くない動物とされたものは食べることができない、と定められていました。ユダヤ人はこのおきてに忠実でしたし、ペトロもそうでした。ところがいまペトロが見た幻の中の入れ物には、清い動物だけでなく、清くないものも含まれていました。だからこそペトロは、清くないものは食べるわけにはいきませんと拒んだのです。彼は神を信じていないから神の命令に逆らったのではなく、逆に神を信じているからこそおきてを破ることはできないと言っているのです。しかしここでペトロのなすべきことがあるとすれば、「主よ、これはどういうことですか」と神に問うこと、そして神の新しい命令の中に秘められている神の深い意図を汲み取ろうとすることでした。神が「食べよ」と命じておられることの中に秘められている神のご意図は何であるかを問わなかったことが、このときの彼の足りなさ、弱さでした。

ここで神が示そうとしておられる真意は、清い動物と清くない動物の区別の廃止を通して、ユダヤ人と異邦人の区別を乗り越えさせることです。つまり神は新しい時代の到来を告げておられるのです。それはキリストの福音の前では、ユダヤ人も異邦人もなく、あらゆる民族や人種を超えて、すべての人が等しく救いへと招かれているということです。もっと積極的に言えば、異邦人への福音宣教が本格的に始められる時が来たことを意味します。ペトロはこれから起こる出来事の中で神の新しい啓示に目が開かれていくことになります。苦しむペトロですが、その苦しみを通して、キリスト教、そして彼の宣教活動は、新たな段階へと進んで行くことになります。神の前で乗り越えなければならないわたしたちの教会の枠、打ち破らなければならない教会の壁とは何でしょうか。それを正しく捉えて、わたしたちも次の段階への前進や飛躍を与えられたいと願います。

「ペトロに癒された人たち」

使徒言行録9章32-43節

教師・久野 牧

今日のテキストには、ペトロがエルサレム以外の地で行った癒しの出来事が記されています。その地はリダとヤッファです。リダはエルサレムの北西約40キロの町で、ヤッファはリダからさらに北西約18キロの地にある港町です。それぞれの町には、既にキリスト者の共同体が形成されていたことを示されます。

リダでペトロは、「中風で8年前から床についていたアイネアという人」に会いました(33節)。彼はリダの地のキリスト者の群れの一員でした。ペトロは、病の床にあるアイネアのもとに行き「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい」と命じています。ペトロは自分自身の力で病の人を癒すことができるとは考えていません。復活された主イエスの力に頼ってそのようにしています。アイネアはすぐに起き上がりました。それを見てリダの人々は、「主に立ち帰った」と記されています。この癒しの出来事を起こされたのは、復活の主キリストであると知って、人々はイエス・キリストを信じる者になった、ということです。

次に30節以下には、港町ヤッファでの出来事が記されています。ここに登場するのはタビタという「婦人の弟子」(36節)です。タビタは、主イエスを信じる人であり、群れの中で特にやもめを中心とする女性たちにとっては、精神的支柱のような存在であったのでしょう。タビタが病のために死にました。彼女はその日埋葬されることなく部屋に安置されました。人々はなぜ彼女をすぐに埋葬しなかったのでしょうか。それは人々はリダの町で癒しの業をしたペトロを待っていたからです。

招かれてヤッファに来たペトロは、祈りにおいて自分が何をなすべきかを神に問うています。事を決められ、事をなさるのは神です。それゆえペトロは今、何よりも神の御心を問うのです。深い祈りの後、ペトロはタビタの遺体に向かって次のように呼び掛けています。「タビタ、起きなさい」。するとタビタは目を開き、ペトロの差し出す手を借りて立ち上がりました。タビタの生き返りが起こりました。これをなさったのは主なる神であり、また復活の主がペトロの手を通して働かれました。それゆえ、人々はこの出来事を通して「主を信じた」のです(42節)。ここでもリダにおいてと同じように、人々はペトロではなく、命を返してくださった神とよみがえりの主イエス・キリストを信じました。初代の信仰者において、健全な信仰が養われていることに、わたしたちは驚きを覚えさせられます。

ペトロは、アイネアとタビタそれぞれの名を呼んで「起きなさい」と命じました。全く同じ呼びかけ、同じ命令です。そしてわたしたちはこの呼びかけの言葉を聞くとき、主イエスが会堂長の娘に向かって、「タリタ、クム」「少女よ、起きなさい」と言われたあの言葉を思い出すのです(マルコ5章41節参照)。

その主は今も、さまざまな重荷や苦しみや悲しみで打ちひしがれ、倒れそうになっている人、いや既に倒れている人に対して、その人の名を呼びながら、「起きなさい」、「歩きなさい」と言われ、さらに「わたしがあなたと共に歩き、共に生きる」と言ってくださっているのではないでしょうか。その声を聞き取ることができるとき、わたしたちは立ち上がることができます。教会に属する者は、自らその主の声を聞き取るとともに、「起きなさい」、「立ち上がりなさい」と呼びかけてくださる主の御声を必要としている他の人々に、取り次ぎ、差し出し、それによってそれらの人々が生きる者となるように仕えることが求められています。教会には、その大切な務めがあることを忘れないようにしましょう。

「迫害者から伝道者へ」

使徒言行録9章19b-31節

教師・久野 牧

サウロは、ダマスコで復活の主との出会いによって洗礼を受けてキリスト者となりました。彼は数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいました。この数日間はこれからの生き方を神に問う「祈りの時」という意味を持っていました。彼はダマスコの会堂で、主イエスは神の子であり、唯一の救い主であることを宣べ伝えました。それが復活の主がお決めになった彼の新しい生き方だったのです。こうして彼は、「かなりの日数」(23節)にわたって、ダマスコでの宣教活動に力強く励みました。その間の働きが極めて熱心であったことは、その働きによってユダヤ人がうろたえたこと(22節)、さらにユダヤ人がサウロの殺害計画を立てるに至ったこと(24節)などから推しはかることができます。迫害者サウロが今は逆にキリストの宣教者となったことは、多くのユダヤ人にとっては到底許すことの出来ない彼の裏切り行為であったのです。サウロはキリスト者の命を狙う立場から、今は彼自身が自分の命を狙われる立場に変わってしまいました。

サウロに対する殺害計画を知った彼の弟子たちは、彼を連れ出して逃がしました。ダマスコを出たサウロは、その後エルサレムに帰りました(26節以下)。そこで彼はユダヤ人の二つのグループと接触します。その一つは、キリスト者の集団であって、その中心には使徒たちがいました。もう一つの集団はキリスト者に敵対している多くのユダヤ人たちです。それぞれの対面はどのようになったでしょうか。

サウロは、まずエルサレムにいるキリストの弟子たちの仲間に加わろうとしましたが、初めは拒否的な反応を受けました(26節)。それは当然のことです。彼はエルサレムにいた時もダマスコでもキリスト者を迫害していた人物です。そのサウロが、これからは福音の宣教に仕えるので仲間に入れて欲しいと願ったところで、すぐにそのことが他の弟子たちに受け入れられるはずはありません。そうした中でサウロがエルサレムのキリスト者たちに受け入れられるために働いた人物がバルナバです。彼はサウロとキリスト者たち、特に使徒たちのとの間に入って、サウロの身に起こったことや、彼が神によって命じられて宣教の業に携わっていることを説明しました。それによってサウロは使徒たちに受け入れられることになりました。今新たな宣教の展開のためにバルナバという一人の器が神によって用いられています。もう一つの集団であるキリストを信じないユダヤ人たちへの人たちへの宣教はうまく行かず、彼らによってサウロ殺害計画が立てられたために、サウロは他の兄弟たちの助けを借りて、今度はエルサレムを離れることになりました。

こうした困難や危機的状況にもかかわらず、教会は進展しました(31節)。それはみ言葉に秘められている神の力が、それに敵対する力を圧倒したことによります。それと同時に、そのみ言葉に触れた者たちが、「主への畏れ」を抱き、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5章29節)という生き方を与えられたからです。今日の教会と信仰者においても常に維持され、強められなければならないものは、この「主への畏れ」です。この主への畏れは、み言葉への畏れから出てくるものです。礼拝ごとに耳を傾けるみ言葉の中に、主なる神ご自身が宿っていてくださるとの思いで、これからも畏れをもって礼拝を捧げ続けて参りましょう。それによって、教会の質は高められ、一人ひとりの信仰が豊かなものとされるでしょう。そして礼拝に集う他の人々が、「ここに神がおられる」との信仰に導かれるに違いありません。それがわたしたちの祈りです。

「罪の世に勝利する信仰」

 (棕梠の主日礼拝)

ヨハネの手紙一、5章1-5節

教師 久野 牧

今日は主イエスが十字架の苦しみにあわれ、死へと追いやられたことを覚える受難週の初めの日、棕梠の主日です。今日取り上げるヨハネの手紙一、5章1-5節には「悪の世に打ち勝つ信仰」との小見出しがあります。「世に打ち勝つ」とはいかなる意味でしょうか。それについて御言葉に耳を傾けましょう。主の十字架の苦しみとわたしたちの信仰や救いとの関係について、明らかにされるに違いありません。

ここに記されていることは第一に、神から生まれた人は世に打ち勝つということです(4節前半)。5節ではそのことを逆の面から語っています。「だれが世に打ち勝つか」との問いを出して、その答えは「それはイエスが神の子であると信じる者である」です。その二つのことから言えることは、「神から生まれた者」とは、イエスが神の子でありメシアであると信じる者ということです。ここで強調されていることは、イエスを神の子と信じ、神からの唯一のメシア(救い主)として信じる者は、神から生まれた者と言われるほどに、神に属する者とされている、ということです。それは、その人には信仰によって、神との間に決して切れることのない結びつきが与えられている、ということを意味します。さらにその人には、悪の世に打ち勝つ勝利が神から約束されている、勝利が与えられている、とまで述べられています。ここで言う勝利とか、世に勝つということは何を意味しているのでしょうか。

まず「世」とは何か、それは神の愛の対象としての人間、神が救いを与えようとしておられる相手としての人間のことです。しかしその世はヨハネによる福音書15章18節によれば、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」と記されているように、神と御子キリストに敵対するという一面を持っています。その結果は、人を死と滅びの世界へ陥れることです。神はそのような世をそのままにしてはおかれません。神は救い主を送って、そうした悪しき力の支配下にある世に生きている人間を、御自身と結びつけることによって人を悪しき世から切り離し、新しい命の世界で生きる者としてくださいます。それが救いです。そしてそのことが、「神から生まれる」ということの内容です。かつては死に向かう世界に生きていた者が、キリストを信じる信仰によって死から命へと移されるのです。それがここで言われる「勝利」です。それによってわたしたちは、死を超えた希望の中で地上の生を全うすることができるものとされます。十字架において、わたしたちに代わって死んでくださったイエスを、唯一の救い主として信じる者には、究極的に、罪と死に対する勝利が約束されています。これこそが福音であり、この約束こそがわたしたちに慰めと平安をもたらすのです。

しかしわたしたちを取り巻く現実は、「勝利」と言われることからほど遠いものであると叫びたくなる状況です。にもかかわらず、わたしたちの世界の現実よりも確実に、力強く、聖書は主イエスの勝利を宣言しています。その根拠は、主が悪や罪の結果としての死を打ち破ってよみがえられたことです。罪の力、死の力が最後的なものではなく、それを打ち破る死の克服の出来事、すなわち復活が、主に結びつく者にもたらされる最後の事柄です。勝利の主イエスは、「わたしのもとに来い」と招き、「わたしを信ぜよ」と命じておられます。「わたしの勝利はあなたのためのものだ」、と語りかけておられます。それゆえ大切なことは、一筋に勝利の主イエス・キリストに向かっていく信仰こそがわたしたちの希望の基となるとの確信です。勝利の主は、すべての人にご自身の勝利を分け与えようとしておられます。その主の御心に応えて働くのが地上の教会の務めであり、責任です。

「サウロの回心」

使徒言行録9章10-19節a

教師・久野 牧

サウロは天からの光に打たれて目が見えなくなり、食べることも飲むこともしないまま三日間祈って過ごしました。その祈りの中で、彼は一つの幻を見ました。その内容は、アナニアという人物がサウロのもとにやって来て、目が見えるようにしてくれる、それまで待つようにというものです。こうしてサウロは祈りをとおして、次に自分の身に起こることを待つ備えの時が与えられました。

ダマスコのアナニアとはどういう人物でしょうか。彼は、「弟子」と呼ばれています(10節)から、信仰者でした。アナニアに臨んだ主の言葉は、ユダの家にサウロという人物がいる、彼は今、目が見えなくなっていて、アナニアが来て手をおいて癒してくれるのを待っている、彼のもとに行け、というものでした。思いがけない主の言葉でした。彼はサウロがキリスト者を迫害している恐るべき人物であることを知っていました。それゆえ彼は躊躇しましたが、主は「行け」と命令を繰り返されるだけです。拒みようもない主の言葉に、彼は従いました。サウロのもとに行き、彼の上に手をおき、以前サウロがダマスコに来る途中で天からの光で倒れたときにサウロに語りかけたお方は、復活の主イエスであることを明らかにしました。そして自分がここに来たのは、サウロの目の癒しと、サウロの新しい働きのために必要な聖霊の賜物が彼に与えられるためであり、そのようにして彼が新しく誕生することに仕えることが目的である、ということを説き聞かせています。

サウロも先に見た幻で、アナニアという人物が自分のもとに来ることを知らされていたために、今、自分の身に起こっていることの意味が理解できました。その結果、彼の目は以前のように見えるようになり、さらに洗礼を受けるまでに至っています。こうしてサウロは、苦しみをとおして新しく生まれ変わりました。これから、主の僕としての彼の目覚ましい働きが始められることになります。

一方この後、アナニアは使徒言行録から姿を消します。このアナニアのように、わたしたちもそれぞれ、他の誰か特定の人の救いのために召し出され、神から用いられるということがあるかも知れません。一つのことのためだけであっても、この自分が神から必要とされることは、光栄なことです。

主イエスを救い主として信じる者たちを迫害していたサウロが、今度は自ら主イエスを救い主として証しする者として立てられ用いられ、多くの人々のもとへと遣わされます。主は、サウロのことを「わたしが選んだ器である」と言われました。誰もが、サウロと全く同じ方法で、同じ務めを持って、神の召しを受けるわけではありません。人それぞれにふさわしい方法で、神は選び、召し、用いられます。それに応じることは、苦しみを伴うことがあるでしょう。時には、恥をかかなければならないこともあるでしょう。しかしそのことが、神の国の宣教に役立てられることであれば、わたしたちはその重い務めを担う者でありたいと願います。

讃美歌339番4節の心をわたしたちの心としましょう。

「黄金(こがね)、しろがね、知恵も力も、献げまつれば、みな取り用い、
 我のこころを、みくらとなして、み旨のままに 治めたまえや」。

それは、「讃美歌21」(512番)では、次のように訳し変えられています。

「主よ、献げます、わしの愛を、知恵も力も宝もすべて。
 わたしのうちに、あなたが住んで、みむねのままに、用いてください」。

「復活の主とサウロとの出会い」

使徒言行録9章1-9節

教師・久野 牧

わたしたちの人生においては、人との<出会い>が大きな転機となることがあります。人との出会いに属するものとして、主イエス・キリストとの出会いがあります。キリストとの出会いが、ひとりの人間の生き方を大きく変化させたということは、数限りなくあります。新約聖書に記されているイエス・キリストと人間との出会いの物語でひときわ目立つのは、サウロ(後のパウロ)の場合です。彼は主イエスとの衝撃的な出会いを与えられ、それによってその生き方を180度変えられた人物です。そのことを記しているのが、使徒言行録9章1-19節で、今日はその前半の部分である1-9節に注目しましょう。

サウロは当初、エルサレムに生まれたキリスト者や教会にとっては、恐るべき迫害者でした。彼は大祭司の「キリストを信じる者たちを捕らえて、エルサレムに連行してよい」という許可証を手にして、キリスト者への迫害行動をエスカレートさせていました。彼はイスラエルの神を心から信じていた熱心な信仰者でしたが、十字架につけられたイエスを救い主として信じることはできず、そのためキリスト者を撲滅することが神の御心であると確信していました。サウロの迫害行為は、今、ダマスコにあるユダヤ人会堂に逃げ込んだキリスト者たちに向けられています。

しかしダマスコに着く直前に思いがけない出来事がサウロを襲いました。それが3節以下に記されている出来事です。突然天からの鋭い光がサウロを照らし、衝撃を受けた彼は地に打ち倒されました。それと同時に、天からの声がサウロの耳に響きました。「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」(4節)。それに対してサウロは、次のように答えています。「主よ、あなたはどなたですか」と。この「主よ」という呼びかけは主イエスに対するものではなく、一般に自分を超えた存在や上位の者に対する敬称として用いられるものです。サウロに天からの声がさらに次のように語りかけられています。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(5-6節)。

この現象の中で、自分に働きかけておられるお方がどなたであるかはまだサウロには分かっていません。そのことが彼に理解できるようになるためには、いましばらくの時が必要なのです。その「しばらくの時」が、見えない状態の中で、食べることも飲むこともしないで過ごした三日間でした。その時、彼の中にある古いものが死んで、新しいものが生まれてくるための神による再創造の業がなされていました。その苦しみの時を彼はどのように過ごしたでしょうか。「今、彼(サウロ)は祈っている」(11節)。彼は多くのことが出来なくなった中で、祈りに集中しているのです。何を奪われても、神に対して祈ることはできます。如何なる時にも神への祈りは、決して奪われることはないのです。それは神からの賜物なのですから。

最後に、サウロの耳に聞こえた「なぜ、わたしを迫害するのか」、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」という言葉に思いを寄せましょう。これは主イエスの声です。サウロが実際に迫害していたのは、キリスト者と教会でした。しかし、復活の主は、「あなたはわたしを迫害している」と言われます。主イエスは御自身と、御自身を信じる信仰者たちやその群れである教会とを一体化しておられるのです。このように主は、わたしたちの苦しみをご自身の苦しみとして、わたしたちの痛みをご自身の痛みとして捉えてくださるお方です。わたしたちは主イエスと生命的な結びつきの中におかれていることを確信し、感謝しましょう。

「聖霊の真の力」

使徒言行録8章14-25節

教師 久野 牧

サマリアにおいてフィリポは多くの人に洗礼を授けました。それを知らされたエルサレムの使徒たちは、サマリアの新しい信仰者の群れを整えるために、ペトロとヨハネの二人を遣わしました。その派遣の目的は、15-17節に記されています。サマリアの新しい信仰者たちはイエスの名によって洗礼を受けたのですが、聖霊の賜物はまだ誰の上にも与えられていなかったため、聖霊の賜物が彼らに与えられるようにと、二人の使徒が遣わされることになった、という次第です。

洗礼を受けることと、聖霊がその人に降ることとの関係について聖書はどのように語っているでしょうか。洗礼はイエスを主と告白する者に与えられる恵みのしるしです。その時聖霊がその人に降っていることは、次のパウロの言葉からも明らかです。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです」(コリント一、12:3節)。それではフィリポから洗礼を受けた人々に関して、「聖霊はまだだれの上にも降っていなかった」(16節)とはどういう意味なのでしょうか。彼らの洗礼は、主の名によってなされる洗礼の予備的なものだったのかも知れません。ペトロたちが彼らの上に手をおいて祈ったときに、彼らは聖霊を受けた出来事は、フィリポによるものとは異なっていました。人々は聖霊を受けて信仰の新たな段階へと導かれました。彼らに主イエスのために働くに必要な賜物が与えられました。フィリポの洗礼とペトロの洗礼の違いを正確に説明することは難しい面がありますが、初代教会の時代は、今日とは異なることが起こる特別な時であったように思わされます。今わたしたちに求められている祈りは、癒しを行ったり、異言を語ったりすることのできる特別な賜物を求めることではなく、主イエス・キリストこそすべてのものの主であり、唯一の救い主であられるということを、いかなる時にも告白し、人々に証しすることのできる大胆さ、勇気、そして言葉を求める祈りです。

ところでサマリアに来たフィリポから洗礼を受けた人の中に、魔術を行っていたシモンがいました(9節以下)。彼はペトロたちが人々の上に手をおいて祈ると、聖霊が降るのを見て、自分にもその力が与えられたいと願いました。それは自分の欲得や栄誉のためでした。彼は聖霊を自由に操りたいと考えたのです。しかし聖霊は、人が操るものではなくて人が従うべきお方です。人が聖霊に命じるのではなくて人は聖霊なる神が命じられるままに動き、それに従うのです。聖霊に対する致命的な過ちを持っていたシモンは、ペトロによって厳しく叱責され、過ちを指摘され、滅びさえも告げられることになりました(20節以下参照)。シモンはペトロが告げる裁きの言葉や、悔い改めを求める厳しい言葉に恐れをなして、自分の過ちに気が付きました。そしてすぐに赦しを求めています。

ところでわたしたちが洗礼を授けられたという事実は、すでに聖霊なる神の支配と守りの中に移された、ということです。それゆえに、祈り求める神の子たちに、聖霊なる神はふさわしい行動を起こさせてくださるに違いありません。聖霊なる神は、あるときにはわたしたちを熱心な信仰の行為へと向かわせ、またあるときには静かな祈りと瞑想へと導いてくださいます。そのようにして、わたしたちをキリストの真実なしもべとして造り上げてくださるのです。聖霊のその働きはわたしたちの生涯にわたって続きます。新しい宣教の地サマリアにおいて多くの受洗者が与えられたように、この佐賀の地でも、「イエスこそ主なり」と告白して洗礼を授けられる人たちが生まれることを祈り続けましょう。熱心に求める者とその群れに、聖霊なる神は人知を超えた働きをしてくださるに違いありません。

「ステファノの説教と殉教の死」

使徒言行録7章44-60節

教師・久野 牧

ステファノは捕らえられた身でありながら、エルサレムの最高法院で演説(説教)をしました。その記録が、7章1節から53節までに記されています。今日はその最後の部分(44―53)にまず注目してみましょう。彼はイスラエルの民が荒野の旅を続けていたときに、礼拝所として幕屋を建てたことに触れた後、パレスチナに定住してからは、第三代の王ソロモンがエルサレムに神殿を建てたことまでを語っています。しかし、神との関係は神殿を建てることによって終わってしまうのではなくて、神殿での神礼拝を日常において徹底することが重要なことでした。「いと高き方は、人の手で造ったようなもの」(48節前半)に閉じ込められてしまうお方ではないからです。

しかし、イスラエルの民の現実は神への真実を貫くことからはほど遠く、常に神の御心に背くことを繰り返し行っていました。そうした民のことをステファノは、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人」(51)と痛烈に批判しています。それは心と耳が幕で覆われているために、神のみ言葉を正しく聞き取ることが出来ず、常に神に逆らうことを行っているということです。そのため彼らの先祖は、旧約の時代には、神の言葉を語った預言者たちを殺し、また新約の時代に入ってからは、預言者たちが預言した「正しい方」(52)、すなわち救い主イエス・キリストを殺してしまったと、彼らの罪を暴き出しています。ステファノはそのような彼らの罪が、今はキリストの弟子であるわたしを迫害するという形で再び表されている、と指摘しています。

そこまで語ったところで人々は、ステファノにそれ以上語ることを許さず、激しい怒りの内に彼に襲いかかり、都の外で石を投げつけて、ついに彼を殺してしまいました。ステファノは殉教の死を遂げたのです。彼は殺される痛みと苦しみの中で、「天を見つめ」(55)、神の右におられる主イエスに自分のすべてを委ねて眠りにつきました(60)。そのようにして死んでいくステファノがそのとき口にしたのは二つの祈りでした。一つは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59)と、もう一つは、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60)です。この二つの祈りは、次の主イエス・キリストの十字架上の祈りに似ていることに多くの方が気づいておられるでしょう。

「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。

主イエスは父なる神に呼びかけ、ステファノは神の右におられ主イエスに呼びかけています。こうして彼は死のときにも傍らにいてくださる復活の主イエスを見つめることによって、希望と慰めの内に死に向かうことが出来ました。それは、わたしたちの死においても同じことです。わたしたちが信仰者として地上の生を終えるとき、それがどのような死であっても、復活の主がわたしたちの傍らにいてくださり、天の神のもとへと導いてくださいます。この幸いをわたしたちは、ステファノの死から示されます。わたしたち信仰者は、孤独の内に死んでいくのではないのです。わたしたちの唯一の慰めは「わたしが生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであること」(『ハイデルベルク信仰問答』)です。

「七人の奉仕者の選出」

使徒言行録6章1-7節

教師 久野 牧

エルサレムに建設された初代教会は、宣教活動によって弟子たちの数、すなわち信仰者の数が増えて行きました(1節)。宣教の実が実っているのです。そのように順調な歩みを続けているように見えた教会の中に、今、一つの問題が生じています。それは教会内の二つのグループの間に起こったことでした。

二つのグループの中の一つは、「ギリシア語を話すユダヤ人」たちです。彼らは、もともとユダヤ人なのですが、両親あるいは祖父母たちの時代に外国に移り住んだために、母国語のヘブライ語を話すことが出来ず、ギリシア語(外国語)を話す人々でした。彼らは今エルサレムに戻って、信仰者となっています。他のグループは、「ヘブライ語を話すユダヤ人」で、先祖以来イスラエルの国に住み続け、ヘブライ語を話すユダヤ人で、ギリシア語はあまり理解できなかったかも知れません。前者は少数のグループであり、後者は多数のグループです。

その当時、教会においては貧しい人々に食料や物資の配分がなされていました。それは、公平・平等が原則です。しかし実際は少数派のギリシア語を話すやもめたちは、ヘブライ語を話せないこともあって不利益を受けることがありました。そのことに対する苦情が、教会の中で公になって来たのです。

その問題は指導者である使徒たちの耳に入りました。彼らはそれを軽く考えず、解決のために立ち上がりました。彼らは信者たちを集めて、二つのことを述べました。一つは、使徒たちはこれまで、み言葉の宣教の務めだけではなく、食料の分配のことにも携わってきた、しかし今後は分配のことは他の人に任せて、自分たちは宣教と祈りという本来の務めに専念したい、ということです。そうすることによって、主から託されている教会の主たる務めを推し進めて行きたいと考えています。

そのために第二のこととして、今後は食料の分配は、それに専念する人たちを選び出して、彼らにその仕事を任せよう、ということです。その選出に当たって、使徒たちが出した条件は、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選ぶ」(3節)というものでした。祈りつつ聖霊の賜物を求める人、他の信仰者たちに心遣いの出来る人、「仕えられるよりも仕えること」ができる人を選ぶようにと使徒たちは求めました。こうして選挙が行われ、その結果、七人が選ばれました。

その人たちの名前は5節に記されています。わたしたちには分かりにくいのですが、これらの人々の名は皆、「ギリシア語を話すユダヤ人」に属する少数者のものと考えられています。不公平を解消するためになされた選挙において、このような結果が得られたのは、聖霊の導きがあったからこそです。この七人の人たちは、使徒たちによって按手のために手をおかれ、必要な聖霊の賜物が与えられるようにと祈られることによって、その務めにつきました。今日の執事職の始まりをここに見ることが出来ます。

教会内に問題が生じたとき、それは教会の危機となることもあれば、飛躍のときともなります。エルサレム教会では、信仰者たちが皆召集されて教会会議が開かれ、それによって良い結果を与えられました。7節に教会のその後のことが喜ばしく報告されています。主の名によって集い、主の御心を求めて祈り、協議するとき、必ずそこにみ旨に適った結論が与えられたり、また向かうべき方向性が示されます。今日の教会にとっても、このことはとても大切なことであることを教えられます。