「復活の主との静かな朝食」

ヨハネによる福音書21章9-14節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ガリラヤ湖畔の岸辺には、復活の主イエスが漁から帰って来る弟子たちのために朝食を用意してくださっていました。そこにはパンと、炭火の上に魚が用意されていました。さらに弟子たちが主の命令によって網を打って獲った魚の中から何匹が炭火の上で焼かれました。主はパンと魚を手ずからとって弟子たちに分け与えられました。その朝食の間、弟子たちは誰も主イエスに向かって「あなたはどなたですか」とあらためて尋ねる者はいませんでした。自分たちに網を打つことを命じられた方、そして朝食を用意してくださった方がどなたであるかは、弟子たちは既に分かっていたのです。弟子たちは静かに、そして主と共にいることの幸いをかみしめながら、平安の内に食事を進めて行きました。

弟子たちが主の命令によって舟の右側に網を打って獲った魚が153匹であった、と記されています。この数字は何を表しているのでしょうか。単純にその時の事実を知らせているものと考えることもできます。しかし実際はこの数字については、歴史的にさまざまな解釈があり、いろいろな説明がなされてきました。それぞれが意味があり興味あるものですが、そのすべてを学ぶのではなくて、ここでは一つのことだけをご一緒に考えてみましょう。

それは153という数字は、主イエスが生きておられた時代に知られていた魚の全種類を表しているものであろう、という解釈です。あるいはその当時、ガリラヤ湖で獲れる魚の種類が153匹であったのであろう、という理解がなされることもあります。正確なことはわたしたちには分かりませんが、もしそのように153によってすべての種類の魚のことが意味されているのでしたら、それによってヨハネ福音書は何を語ろうとしているのであろうかを知る必要があります。

それは、それだけ多くの魚が網にかかったことを通して、人間を獲る漁師としての働きをこれから本格的に始めようとしている弟子たちの働きの収穫や目標や、さらには祝福が示されている、と考えることが出来ます。それを示すことによって、主は弟子たちを励ましておられるのです。主は「あなたがたは漁で最初は魚が一匹も獲れなかった。そのように御言葉の種まきにおいても、収穫が全く得られないこともあるであろう。しかし諦めることなく、み言葉の種を蒔き続ける限り、必ず収穫はある。それゆえ、全国民、そしてすべての民族に対してのみ言葉の種まきの働きを、粘り強く続けなさい」、との希望の励ましを与えておられるのです。

さらに弟子たちはこの朝食において主がパンと魚を取って弟子たちに分け与えられたことを通して、同じようにふるまわれたあの最後の晩餐のことを思い出したことでしょう。「あのとき主はまだ生きておられた、しかしその主は十字架の上で死なれた、けれども今こうしてよみがえられて自分たちの前におられる、これは真実だ」という確信が彼らの中に固められて行ったに違いありません。

主イエスを裏切り、主のもとから逃げ去り、十字架の場面でも葬りの時にも立ち会うことをせず、力なくガリラヤに戻って来た弟子たちですが、そのような彼らの前に復活の主が来て、平安を与えてくださっています。弟子たちはこの主がいつも共にいてくださるとの確信の中で、宣教の業に仕える者となっていくことでしょう。わたしたちも主のみ言葉に耳を傾ける礼拝と、主の復活の命に与る聖餐の交わりを通して、主がわたしたちといつも共にいてくださるとの確信をいよいよ強くして、主のご委託にお応えする歩みを続けていきたいものです。

「舟の右側に網を打て」

ヨハネによる福音書21章1-8節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

復活された主イエス・キリストが、三度目に弟子たちの前に姿を現されたのは、ティベリアス湖(ガリラヤ湖)の湖畔でした。そこで主にお会いしたのはペトロを初めとする七人の弟子たちでした。彼らはガリラヤ湖でかつて漁師をしていた人たちやガリラヤ出身の人たちでした。彼らは今故郷に帰ってきていますが、何をしてよいのか分からない状態の中で日々を過ごしていたのかも知れません。あるとき、ペトロの「わたしは漁に行く」というひと声で、他の弟子たちも一緒に漁に出かけました。弟子たちの中には、かつて漁を生業としていた者たちもいました。

しかしその夜は何も獲れないまま帰ってきました。そのとき、湖の岸辺に立っているひとりの人が、彼らに声をかけました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6)。不思議なことに、弟子たちはその言葉に何の疑いも持たずに従って、舟の右側に網を打ちました。その結果、網を引き上げることが出来ないほどの大量の魚が獲れたのです。

この岸辺に立って弟子たちに命じた人が誰であるかに最初に気が付いたのは、「イエスの愛しておられたあの弟子」(7)、すなわちヨハネでした。彼はペトロに「主だ」と声をかけると、ペトロもすぐにそれに気が付いて湖に飛び込んで岸辺へと泳いでいきました。その後他の弟子たちも岸辺に上がり、主が備えてくださっていた朝の食事を共にとりました。これについては来週、ご一緒に考えます。

これはとても不思議な出来事ですが、このことからわたしたちが教えられることはいくつもあります。一つのことは、信仰の成長ということです。弟子たちはそれまで二度にわたって復活の主イエスとの出会いの時が与えられました(20章19節以下と20章26節以下)。しかしまだ主イエスの復活を信じる確信が固まっていないまま、主の派遣命令にも応ぜずに、ガリラヤに戻っています。そのように信仰はあるとき一気に強固なものになったり、少しも揺るがない状態になったりすることもありますが、そうではなくて、信仰は高まったり弱ったりの一進一退を繰り返すものでもあることを教えられます。それにもかかわらず、その歩みは、主の力によってゆるやかな勾配でありながら、少しずつ御心近くへと向かうことが出来るのです。弟子たちはこの出会いの後、しばらくして大きな飛躍をすることになります。

第二のことは、そのように迷いつつ歩く弟子たちを、主がいつも見続けてくださっているという事実です。このことは深い感動をもって覚えさせられます。「ガリラヤで会おう」と弟子たちに約束されたとおりに、復活の主はガリラヤに来られました。そして静かに弟子たちの動きを見ておられました主は、魚が獲れずに落胆している彼らに声をかけて、大漁へと導いてくださいました。弟子たちが気が付いていない時にも(4節「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」)、主は弟子たちに慈しみの眼差しを向けてくださり、ふさわしい助けの手を伸ばしてくださっています。弟子たちは不確かでも、主はいつも確かであられます。

これらのことは、今ここで信仰者としての歩みをなしているわたしたちに対しても同じです。復活の主は、わたしたちの人生の戦場において、また信仰の苦闘の場において、いつもそば近くにいて、わたしたちを見守り、助け、なすべき業を示してくださっています。主に祈りつつ、心の目を向け、心の耳を傾けるとき、きっと「舟の右側に網を打て」という声が聞こえたり、「これは主だ」というほかない主の御業に気づかされることがあるに違いありません。

主日礼拝 2022.05.15

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
奏楽   十時 やよい

前奏
招詞イザヤ書60章1~5節 (旧約 p.1159)
讃美歌26  こころをかたむけ
祈祷
聖書ヨハネによる福音書21章1~8節
信仰告白使徒信条
讃美歌63  いざやともに
説教「舟の右側に網を打て」
牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌224  しょうりの主
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
派遣と祝福
後奏

「疑うトマスと復活の主」

ヨハネによる福音書20章24-29節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

トマスは主イエスの十二弟子の一人です。復活の主が最初に弟子たちの前に姿を現されたとき(20:19)、トマスはその場にいませんでした(20:24)。そのために他の弟子たちが、「わたしたちは(復活の)主を見た」と言っても信じようとはせず、主の体にあるはずの十字架のはりつけによる傷跡を見なければ信じない、と主張しました。これは特にトマスが疑い深い性格の人間であったからそのように疑ったということでは、きっとないに違いありません。むしろ「死がすべての終わりである」という通常の死生観によって、彼は死からのよみがえりなど信じられなかったということなのでしょう。ほとんどの人がそのような考え方を持っている中で、トマスも例外ではなかったのです。しかし彼は今後、弟子たちの中でただ一人、復活を信じない者として生き続けるのでしょうか。

復活の主が最初に姿を現されてから八日後、すなわち次の週の初めの日に、弟子たちはまた集まっていました。今回はトマスもその中にいました。彼は復活を信じる他の弟子たちとは一緒に行動できないと考えたのではなくて、彼らが信じているのなら自分も主に出会って信じる者になりたいという思いで、仲間と共にいたのでしょう。他の弟子たちも彼を受け入れています。そうしたトマスの姿勢を<トマスの疑いの誠実さ>と表現している人がいます。もともと一途な弟子であったトマスは疑いつつも真剣に、主イエスの復活は事実だろうかと問い続けているのです。

この集まりに復活の主はまた姿を現してくださいました。そして前回と同じように、「あなたがたに平和があるように」と告げられました。それだけでなく、主はトマスの疑いをご存じであられたのでしょう、彼に向かって「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27)と言われたのです。自分に対する主の言葉と、自分に近づいてくださる主の温かさに打たれたトマスは、即座に「わたしの主、わたしの神よ」と告白しています。彼がそのとき、主の体の傷跡を手で触ったかどうかは記されていません。おそらく触ることなく、主との再会の瞬間に、主の復活を信じる者へと変えられたのではないでしょうか。主のお姿は、何にもまして圧倒的な復活のしるしとして、彼に迫って来たのです。

主イエスはトマスの弱さに寄り添ってくださっています。主は一人ひとりにふさわしく接してくださいます。このような主のわたしたち人間との関りを、ある人は、「主イエスは人を<個性的に>取り扱ってくださる」と言い表しています。何と感謝すべきことでしょうか。主は、このわたしにも、わたしにふさわしく関わってくださっているということを知るとき、心からの喜びと感謝を覚えます。主にとっては十把一絡げというのはないのです。

こうしてトマスは信じる者に変えられました。あるいは信じられない事柄を主によって乗り越えさせていただき、信じることができるようになりました。今の時代においても、<誠実に>疑う人のもとに主は来てくださって、信じられない状況から、信じることが出来る状況へとその人を移してくださるに違いありません。そのとき、その人の口から「わたしの主、わたしの神よ」との告白の言葉が発せられることでしょう。わたしたちは、信じられない人々のことを覚えて、「主よ、どうぞあの人の信仰の疑いを取り除いて、信じる者に変えてください」とつねに祈り続けるものでありたいと願います。                 (2022.5.8)

「天に上げられた主と地上の弟子たち」 (マルコ 第91回・最終回)

マルコによる福音書16章19-20節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

マルコによる福音書の連続講解説教の最終回として本日は、後代に加筆されたと考えられる「結び 二」の16章19~20節からみ言葉を聞いて、わたしちにとっても一区切りとしたいと思います。

ここに記されていることの第一は、復活された主イエス・キリストが、地上から天に上げられた、ということです。使徒言行録によると復活の主が地上におられたのは40日間でした(1:3)。その間に主は弟子たちを相手に復活の事実を繰り返し明らかに示し、彼らが確信をもって復活の証人としての働きをするように教育し、訓練されました。それから神の時が満ちて、主は天に上げられたのです。「天」とはどこにあるのでしょうか。それは空の上とか宇宙のかなたではありません。詩編115編3節に「わたしたちの神は天にいます」と謳われていますように、神がおられる場所が天です。神は生きておられる存在です。そうであれば、神がおられる場所もあるはずです。それを聖書は「天」と言い表しています。

さらに天に上げられた主は、「神の右の座」に着かれました。ここでも場所を表す言葉が用いられています。これも空間的な場所のことではなく、権威や働きを表す言葉として理解すべきものです。主は最高法院で尋問を受けられたとき、「今から後、人の子は全能の神の右に座る」と自ら告げられました(ルカ27:69)。それは天において神と等しい力と権威をもって、世界を治め、教会を導き、さらに罪人の救いのための執り成しの働きをするとの宣言です。「執り成し」の働きとは、主イエスが神の右におられて、父なる神に祈り神に近づき神に救いを求めている人々のために仲立ちをしてくださることです。それによって人々は神に結びつき、神の国に招き入れられるものとなります。わたしたちの祈りも、この主の執り成しによって神に届けられ、わたしたちは神との豊かな交わりの中で生きる者とされます。

こうして主イエスが地上から離れて天に上げられることは、わたしたち人間にとって決して不利益なことではなくて、神の救いの歴史が新しい段階に進んだことを示しています。わたしたちはそれによって新たな恵みを受けるものとされます。

一方、地上に残された弟子たちはその後どうしたでしょうか。彼らは「出かけて行って、至るところで宣教した」(20)と記されています。弟子たちは主が地上におられないということで気力を失ってしまうことなく、復活の主の「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16:15)の御委託に応えて、主の復活を語る福音宣教に励んでいます。そうすることができるのも、彼らが復活の主の訓練によって復活信仰を強められたからです。さらに天にある主はその後も彼らと共に働いて、彼らの言葉が真実であること、すなわち神からの言葉であることを明らかにしてくださっています。天にある主が地上の弟子たちと共にもいてくださることによって、彼らの宣教活動は力あるもの、真実なものとされました。

復活の主は今も霊においてわたしたちと共に働いてくださり、、信じる者を生み出し、教会を造り出してくださっています。ときにわたしたちは、キリスト者が少数であることを嘆き、自分たちの力の弱さをかこち、実りの生じないことによって諦めを覚えたりすることがあります。しかしそのようなわたしたちのかたわらに復活の主がいてくださって、わたしたちを励まし、力づけてくださっています。主なる神がヨシュアに語られた言葉を思い出しましょう。「わたしは…あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」(ヨシュア記1:5~6)。その主なる神の御声がわたしたちにも響いてきます。

「全世界に行って福音を宣べ伝えよ」

マルコによる福音書16章14-18節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

復活された主イエスは、14節以下によれば、11人の弟子たちが食事をしているところにご自身の姿を現されました。そしていきなり彼らの「不信仰とかたくなな心とをおとがめになった」のです。それは、彼らが「復活された主イエスを見た人々の言うことを信じなかったからである」と説明されています。ここで注目させられることは、主は弟子たちが主イエスを裏切ったことや主の前から逃げてしまったことについてとがめておられるのではなくて、彼らが主の復活の証言を信じようとしなかったことをいさめておられることです。主は生前に「わたしは捕らえられ、十字架につけられて殺される。そして墓に葬られ、三日目によみがえる」ということを、三度にわたって弟子たちに告げられました。しかし弟子たちはその主のお言葉と、今復活の主にお会いした人たちが証言する言葉とを結びつけて考えることが出来ないでいます。それは、彼らが主のお言葉とその内容とを真剣に聞いていなかったことを表すものです。主はそのことを彼らの不信仰と言っておられます。事柄を突き詰めて考えようとしない彼らの信仰における鈍感さやいい加減さが、主のおとがめを受けています。

これらによって示されることは、主の復活後は「聞いて信じる」新しい時が始まったということです。先に復活の主に出会って信じる者となった人の真実な証言を「聞いて信じる」という時が始まっているのです。弟子たちだけでなく、わたしたちにとっても、聖書に基づいて語られる御言葉の説教、そして信じて生きている人々の真実の証しの言葉を聞くことによって、わたしたちの信仰は始まる、ということです。そのことについては、先週の礼拝においても確認させられたことでした。

主イエスは弟子たちの不信仰をとがめつつ、彼らは必ず信じる者に変えられることを確信しておられます。だからこそ、彼らに大切な務めを委託されるのです。それは、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(15)の派遣命令です。主はかつて12弟子たちを集めて訓練し、彼らをユダヤの全土に派遣されました。復活の主は、今度は全世界に出て行って福音を宣べ伝えることを命じておられます。新しい時代が始まっています。このようにして福音が語られ聞かれたそれぞれの場所で、神の名によって集められる教会が形成されて行くのです。この派遣命令は今も続いていることを忘れないようにしましょう。

福音宣教の目的と実りは、洗礼を受ける者が起こされることです。その洗礼によって、人は神の国の一員とされます。ペンテコステの日、ペトロたちの説教によって心を揺さぶられた人々は、次のように問いかけました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたら良いのでしょうか」。それに対してペトロは答えました。「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」(使徒2:38)。福音は、受け入れても良いし、拒んでも良いという性格のものではありません。それは人間の永遠にわたる生と死に関わる事柄です。そして人は福音を聞くことから洗礼による新しい命へと導かれて行きます。だからこそ教会は、復活の福音を存在をかけて人々に語り伝えて行くのです。

主は弟子たちに福音宣教には奇跡的な業が伴うことがあることを告げておられます(17―18節)。しかし今の時代は、それに重きが置かれる時代ではありません。口を通して語られる御言葉、信仰者の生き方を通して証しされる福音が重んじられる時代です。それゆえわたしたちは真摯に礼拝を捧げることによって宣教のための言葉が与えられることを覚えて、それに全力を注ぎたいものです。

「復活の主とマグダラのマリア」(復活節礼拝)

マルコによる福音書16章9-13節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

復活された主イエスは、「まず」(9)マグダラのマリアにご自身のお姿を現されました。このマリアは以前、主によって七つの悪霊を追い出していただいて救いを与えられた女性です。それ以来彼女の主イエスに従う新しい生が始まりました。彼女は主に従い、主に仕えて、宣教のために働く者となりました。ガリラヤからエルサレムまでの旅を共にし、主の十字架のもとにたたずんでその死を見届け、葬りにも立ち合いました。そして週の初めの日の早朝に主の遺体に香料を塗るために墓に出かけて行きました。復活の主は、そのマリアに誰よりも先にご自身を現してくださったのです。主を慕い、主を愛し、主を信じている彼女は、主イエス抜きにはもはや生きることが出来なくなっていました。そのようなマリアに主もまた応えてくださって、新たな出会いの時を設けてくださったのです。

主は伝道活動の中で、「強い」と自分自身を考えている者よりも、自分の弱さを知っている者を身元にお招きになりました。主は、自分を「義人」と見ている者よりも、罪人であるとの自覚を持って胸を打ちつつ生きる者の方に近づいて行かれました。彼らはそのようにして主によって受け入れられ、彼らもまた主を受け入れる者とされました。その主は復活後も同じように、弱い器であるマリアにまず近づいてくださって、彼女の悲しみと絶望とを取り除いてくださっています。使徒パウロの「わたしは弱いときにこそ強い」(コリント二、12:10)という言葉を思い出します。わたしたちの弱い所にこそ主は宿ってくださるのです。

主はマリアに何を語り、また何を託されたのでしょうか。それについては聖書には何も書かれていませんが、マリアの行動から推測することが出来ます。彼女は主との出会いの後、「イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた」(10)のです。つまり彼女は、主は死からよみがえられたということを人々に知らせる働きを始めています。それは別の言葉で言えば、<復活の証人>としての働きです。それが主によって彼女に託された務めでした。

マリアから主イエスのよみがえりの事実を知らされた人々は、それを信じようとはしませんでした。このあと復活の主と出会った二人の弟子たちが、そのことを同じ人々に伝えても、彼らはこれも信じようとはしませんでした。この人たちは主イエスの直弟子たちやガリラヤから主に従って来た婦人たちであり、また他にも主と共に行動してきた人々もいたことでしょう。彼らは生前の主から、三度にわたってご自身の十字架の死と葬りと三日後のよみがえりについて聞かされていた人々でした。しかし彼らは、主の明確な予告の言葉と、復活の主に出会ったマリアや二人の弟子たちの証しとを結びつけることが出来ないでいます。「信じなかった」という言葉が繰り返されていることの中に、復活を信じることの困難さが表されています。

それでは今日、復活の主に直接出会うことの出来ないわたしたちは、どのようにして復活を信じる者とされるのでしょうか。それは復活の主との特別な出会いによります。主は今は「別の姿」(12)でわたしたちに出会ってくださいます。それは礼拝において語られる御言葉としての説教と、見える神の言葉としての聖礼典によってです。復活の主は今日、それらによってわたしたちに語りかけてくださっています。その言葉を主ご自身のものとして聞くことによって、わたしたちの信仰は始まります(ロマ10:17参照)。聖霊の働きを祈り求めつつ御言葉に耳を傾け続けるとき、そこに復活の主との確かな出会いが必ず与えられるはずです。

「主イエスの墓への葬り」

マルコによる福音書15章42-47節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

本日のテキストには、特別なかたちの葬りが記されています。その特別さとは、第一に十字架上で処刑された人の葬りであるということです。第二は、身内の者がだれ一人として連なっていない葬りであるということです。それは、わたしたちの救い主イエス・キリストの葬りです。主イエスは金曜日の朝9時頃に十字架につけられました(25)。そしてその日の午後3時頃に息を引き取られました(34、37)。安息日が始まる午後6時頃の日没まで残された時間はあまりありません。このまま放っておくと、安息日の一日は何もすることが出来ず、主イエスの遺体は一日中、十字架上でさらしものになったままです。十字架のもとにいた女性たちは、どうしたら良いのかわからないまま思い悩んでいたかも知れません。

そのときひとりの人が現れて、主イエスの遺体を十字架から降ろさせてほしいと総督ピラトに願い出たのです。その人はアリマタヤ出身のヨセフという人でした。彼について聖書は多くを語っていませんが、まとめてみると次のような人物像が浮かび上がってきます。彼はエルサレム議会の身分の高い議員であり(43)、金持ちでした(マタイ27:57)。またイエスを死刑にするという議会の判決に対しては、同意していませんでした(ルカ23:51)。彼は「神の国を待ち望んでいた」(43)のですが、その思いを勇気を出して主イエスに告白することが出来ないまま、主の死を迎えてしまいました。しかし、今彼は「勇気を出して」(43)、ピラトに主イエスの遺体を引き渡してほしいと願い出たのです。誰も考えなかったことが今起こっています。ピラトはヨセフの願い出を聞き入れ、主の遺体をヨセフに「下げ渡した」のです(45)。ヨセフは主の遺体を白い亜麻布で巻いて、「自分の新しい墓」(マタイ27:60)に納めました。十字架の主を見たあの百人隊長は「この人は神の子だった」との信仰へと導かれ、今は、ヨセフが主の遺体を引き取り、葬るという勇気を与えられました。

ある人はヨセフは勇気を出すのが遅すぎた、と言います。エルサレム議会での裁判の時にこそ彼は勇気を出すべきだったと言うのです。しかしそうすることが出来なかった彼を誰が責めることができるでしょうか。今こそ、勇気を出すべき時が彼に来たのです。主は彼の勇気によって墓に葬られました。使徒信条の「(死んで)葬られ」の背後にヨセフの勇気があったことをわたしたちは忘れてはなりません。わたしたちにもこの勇気が求められることがあるのです。主はこのように遅くしか立ち上がることが出来なかった者を、どのようにご覧になるのでしょうか。「遅い」と言って責められるでしょうか。そういうことはありません。主の前における決断に遅すぎることはないのです。「立ち上がれ」との御声が響いてきたその時こそ、その人にとっての主に従う時が来たのです。わたしたちにとっても「勇気を出す」機会はこれまでもあったでしょうし、きっとこれからもあるに違いありません。

主の遺体を納めた墓の前には二人の婦人がいました。マグダラのマリアとヨセの母マリアです。彼女たちは愛する主イエスを失った悲しみに包まれているのですが、同時に安息日が明けたらいち早くこの墓に来て、主の遺体に香料を塗ろうと考えていたのです。今彼女たちが行うことが出来るのは、それだけでした。しかしそうした絶望の中にある彼女たちでしたが、誰よりも先に主の復活の出来事に出会い、復活の証人とされたのです。主への愛に生きる者には、その人にふさわしい務めが主から与えられることを教えられます。

「わが神、なぜお見捨てになったのですか」

マルコによる福音書15章33-41節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

十字架上の主イエスは息を引き取られる前に、アラム語で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。そしてこの言葉は、詩編22編2節の句を主が口にされたものとして知られています。主はなぜ、神への絶望を表すようなこの句を発せられたのでしょうか。二通りの理解の仕方があります。

一つは、詩編22編は初めの部分こそ神から見捨てられたことによる神への絶望の叫びであるが、それが歌われていく中で、ついに神への感謝と賛美に変わっていくことに注目しようとするものです。そして主の十字架上のこの叫び声は、詩編22編全体を口にしようとされたものであって、神賛美こそが主の目的であった、という理解が生まれてきます。したがってこの場合、主の叫びは絶望や悲惨さよりも、希望の言葉として受け止めるべきものと考えられます。それが一つです。

他の理解の仕方は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という一句のみに注目するものです。神の子イエスはまさしく神から見捨てられた者のみが味わう絶望と恐れの中に叩き込まれて、そこからの叫び声を発しておられるのだ、ということです。すべての罪人の代表として、あるいはその身代わりとして神の前に立たれた御子イエスは、罪人が受けるべき神による裁きと断罪とをその身に受けておられるのです。主は「わたしは人から見捨てられた」とは言わずに、「神よ、なぜあなたはわたしをお見捨てになったのですか」と言っておられます。本来ならば、わたしたち罪人があげるべき叫びを、主はわたしたちに代わってあげておられるのです。なぜ御子イエスは、父なる神によってそのような扱いをお受けになったのでしょうか。それは罪人たちが、これと同じことを味わうことがないためです。御子がすべての罪人に代わってその悲惨さを身に受けられることによって、他の罪人の上に襲う絶望と悲惨を取り除いてくださっているのです。そのための十字架でした。そういう理解も成り立ちます。それゆえに主の十字架上の叫びはわたしたちに代わる叫びであり、それが救いの基となるのです。

そのことを示す一つの出来事が起こりました。それは異邦人の百人隊長が、十字架上の主を見つめることによって、次のような言葉を発したことです。「本当に、この人は神の子だった」(39)。これはいわば百人隊長の主イエスに対する信仰告白と言うべきものです。彼は、主イエスに起こった一連の出来事を見る中で、この信仰へと導かれて行きました。『讃美歌』(54年版)139番4節に次のように歌われています。「十字架のうえより/さしくるひかり/ふむべき道をば/照らしておしう」。百人隊長はまさしく十字架によって、これからの歩むべき道を示されました。

わたしたちは、十字架の上で苦痛を味わわれて死へと向かわれた主イエスを見つめるとき、わたしたちが遭遇する如何なる苦痛の中にも主がいてくださって、わたしたちを助けてくださるとの確信と慰めを与えられます。ヘブライ人への手紙2章18節に次のように記されているとおりです。「事実、(主)御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。一見、恐ろしく慰めなどないように思われる十字架上の主イエスの姿は、わたしたちにとって大きな慰めと希望が満ち満ちている所でもあるのです。

「十字架につけられる主イエス」

マルコによる福音書15章16-32節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスの十字架による処刑の時がついに来ました。主はピラトの官邸から十字架の処刑場であるゴルゴタの丘まで、自ら十字架をかついで行かなければませんでした。主は肩に食い込む十字架の重みと痛みに耐えながら歩いて行かれます。その十字架の重さは、人間の罪の重さを表しているものであるのかも知れません。この十字架への道が後世に<ヴィア・ドロロサ>=「悲しみの道」と呼ばれるようになりました。その途中で、兵士たちは主イエスの十字架を他者に担がせました。その人は、主とは直接何の関係もない北アフリカのキレネ人シモンという人でした。彼はもともとユダヤ人で、何らかの理由でキレネに移住していたのでしょう。彼はユダヤの大きな祭りである過越祭に参加するためにエルサレムにやって来て、たまたま十字架を担う主のそばを通りかかったときに、主に代わってその十字架を担う者とされたのです。それは彼にとっては屈辱的なことであったはずです。

しかしこのことはその時だけのこととして終わらずに、彼の人生の大きな転換点となりました。それは彼がこの後しばらくして、主イエスを信じる者になったということが起こったからです。聖書からそれが示されます。21節には彼の息子の「アレクサンドロとルフォス」の名が挙げられています。わざわざその名が挙げられているのは、マルコによる福音書が書かれた当時、この二人は既にキリスト者となっていて、多くのキリスト者仲間に知られていたことを示しています。またローマの信徒への手紙では、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく」(16章13節)とのパウロの言葉が記されています。ルフォスの母すなわちシモンの妻も、信仰者となっています。思いがけなく襲った苦難や災い、すなわち<強いられた十字架>は恵みに変わり、その人を主イエスとの出会いに導くことがあるということの典型的な例を、シモンに見ることが出来ます。

ゴルゴタの丘に着いた主は、すぐに十字架につけられました。死にゆく人のそばで賭け事をする兵士たちがいました。これは人間の醜悪さと鈍感さとを表しているものです。主の十字架には、「ユダヤ人の王」という罪状書きが打ち付けられています(26節)。それはもちろん主の死刑を最終的に判断した総督ピラトが、痛烈な皮肉を込めて書かせたものです。しかしこの侮蔑をこめた人間の業の中にも、神の真実は示されています。主イエスはまさしく、ユダヤ人の王であり、そして真の意味で世界の唯一の王であられます。わたしたちはそれを読みとることが出来ます。

十字架上の主に対してそばを通りかかった人や祭司長や律法学者、さらに主と共に十字架につけられている者たちがののしりの声を浴びせました。その内容の中心は「イエスよ、十字架から降りて自分を救ってみよ。そうすれば信じてやろう」というものです。しかし主は十字架から降りることはなさいませんでした。ご自身が十字架で死ぬことによって、罪人の罪が滅ぼされることを願って死に向かわれました。それによって主イエスのわたしたちに対する深い愛が示され、わたしたちの罪の赦しのための神への執り成しの業が成し遂げられました。次の言葉はわたしたちの胸を打ちます。「イエスが十字架から降りて来なかったので、わたしたちはイエスを救い主と信じるのだ」(救世軍の創設者ブース大将)。そうであるならばわたしたちも主に服従する中で担わなければならない自分の十字架を降ろさずに、それを担い続けることこそが信仰に生きることであることを教えられます。