「神への愛と人への愛」

マルコによる福音書12章28~34節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日のテキストでは一人の律法学者が主の前に現れています。この人は、これまでの多くの人たちのように主イエスに対して対立的ではなく、逆に真剣に何かを教わろうとしています。彼の問いは、数多くある神の掟の中で何が第一の掟でしょうかというものでした。彼はそれを知って、自分の生の基盤としたいと願っているのです。主は彼の思いを即座に感じ取られました。そしていつものように質問者に問い返すことはなさらずに、正面から答えられます。

主のお答えは、「第一のものは、イスラエルの唯一の主であられる神を、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛することである。そして第二のことは、隣人を自分のように愛することである」というものでした。つまり「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つが、同じ神からの一つの掟として示されています。それらは別々の二つではなくて、切り離しえない同じ一つの掟の表と裏という関係のものである、と言われています。神を愛するとは、全人格を傾けて、神を賛美し、礼拝し、神に祈り、御心に全幅の信頼を寄せて生きることです。また、隣人を愛するとは、抽象的なことや言葉だけのことではなく、自分自身を愛する時のように具体的で実践的な愛に生きることです。神への愛という水源から、人への愛という水流が生まれ出てくるのです。主イエスは、これこそが、唯一の神が人間に与えられた掟の中で中心的なものである、と教えられました。

それを聞いた律法学者はその教えに納得し、確信をもって受け入れています。彼の中でもやもやしていたものは今全く解消されて、生きることの目標と基盤がはっきりし、彼はこれから唯一の主なる神の僕として生きて行くことができるに違いありません。そのような律法学者を見て主は、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。そしてついには彼は、「あなたは神の国の一員である」と言われるまでに神に近づくことができる者となるに違いありません。彼の信仰を通して、神の愛が彼に流れ込むからです。今日、わたしたちが共に生きている人々の中にも、主イエスによって「あなたは神の国から遠くない」と言われるような人もいるかも知れません。わたしたちの目にはそれは分かりませんが、そのような人々が実際に神の国の一員とされる時が来るようにと祈り、共に生きることも、隣人への愛であることを思わせられます。

ところで、わたしたちは主が示された第一の掟と第二の掟に忠実に従って生きることができるのでしょうか。『ハイデルベルク信仰問答』の第5問答では、「それはできない。なぜならわたしたち人間の心は、生まれつき神と人とを憎む方向へと傾いているから」ときわめて明快で正直な指摘がなされています。ではどうしたら良いのでしょうか。それは主なる神が御子イエスにおいて示してくださり、わたしたちに与えてくださったあの愛に触れ続ける以外にありません。その時、生まれながらのわたしたちには不可能であった神への愛と人への愛が、少しずつわたしたちのものとされるでしょう。愛は神からの賜物です。したがってそれはまず与えられなければ、自分のものとはなりません。「愛を与えてください」と祈るわたしたちに、神はそれに応えてきっと一人ひとりにふさわしい愛を与えてくださるに違いありません。

「生きている者の神」

マルコによる福音書12章18~27節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスには様々な人が論争を仕掛けていますが、本日のテキストではサドカイ派の人々が現れています。彼らは復活を否定することで知られているグループです。彼らは本当に悩み苦しんで主に問いかけているのではありません。主の上げ足を取ろうとしている彼らの意図は明らかです。その問いは「ある女性が一人の男に嫁ぎ、子どもがいないまま夫が死んだ。このあと他の六人の兄弟にも次々嫁いだが、兄弟も子どもがないままに亡くなった。復活の時その女性は誰の妻となるのか」というものでした。実際にはほとんどありそうもない仮定の状況を設定して主を追い詰めようとしているのです。これは旧約聖書の「ある女性の夫が死に、子どもがいない場合は、女性はその兄弟に嫁がなければならない」(申命記25:5)と規定されていることに基づいての問いです。イスラエルはそのようにして、その家の血を絶やさないようにしてきました。

主はそれに対してまず「あなたたちは聖書も神の力も知らない」、それゆえ神に関して「思い違い」をしていると厳しく責めておられます。それは神のなさることを人間の合理的な思考の枠内に押しとどめているということです。聖書は正しく理解されなければ力とならないだけでなく、却って危険なものとなってしまいます。そこで主が彼らに教えられたことの第一は、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともない」ということでした。ここで注目すべきことは、主が死者の復活があることを前提として語っておられることです。主は今はご自身の復活についてではなくて、神に結びついて死んだ者たちの復活について語っておられます。さらに、復活のときには、地上の人間関係の継続や再現が起こるのではなくて、人は全く新しい存在に変えられるということをも明らかにしておられます。パウロは人には地上の体と天に属する体とがあることを述べています。天に属する体に移された者は、天使のように地上の存在を超えた新しい存在に変えられる、それゆえ、地上の人間関係の単なる継続はないということなのです。そのことはわたしたちにとってがっかりしたり安心したりようなことではなくて、復活の後のことに関してはもはや思い煩う必要はないとの平安へと導かれることです。

主はさらに神がモーセに言われた「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3:6)を引用されました。これは神が「わたしはかつてアブラハムの神であったが、今もアブラハムの神である」と言っておられることとして主は引用しておられます。つまり、アブラハムはかつて生きていたが、今も神の前で生きているということとして、主はこの神の自己宣言の言葉を解釈しておられます。それは言い換えれば、アブラハムは復活していると語られているのと同じことです。そのことから主は次の印象深い言葉をお語りになります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。これはわたしたちにどのように関わってくるのでしょうか。それはアブラハムの名を自分の名に置き換えて、神の自己宣言を理解してよいということです。主なる神は、わたしたちが生きているときにも、死んで新しい命に移されてからも、わたしたちの神であってくださるのです。それゆえわたしたちは死のあとのことについて何も思い煩う必要はないのです。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」

マルコによる福音書12章13~17節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

この有名な言葉が主イエスの口から発せられたのは、神殿の境内においてでした。相手はファリサイ派とヘロデ派の人たちです。彼らは主を何とかして陥れようとして、一つの問いかけをしました。それは、当時イスラエルを支配していたローマの皇帝に対して、税金を納めるべきか否かという問いでした。

その問いに隠されている罠とは何でしょうか。それは、もし主イエスがローマに税金を納めるべきだと答えたとしたら、偶像を崇拝するローマ帝国に従うことになり、それは偶像崇拝を禁じる律法に違反することになる、ということで主を訴えることができると彼らは考えています。一方、税金を納めるべきではないと答えたとしたら、それはローマ帝国に抵抗したり反抗したりする態度ということで、主を当局に訴えることができるというものです。いずれの答えが出されたとしても、彼らは主を窮地に追いやることができると考えているのです。この問いは彼らの真剣な悩みから出たものではありませんでした。

主はその罠を初めから見抜いておられます。それで次のように応じられました。まず、納税のために用いるデナリオン銀貨を持って来るように命じられました。それにはローマ皇帝の像が刻まれています。人々はこれを用いてローマに税を納めます。次に主は「これはだれの肖像と銘か」と尋ねられました。彼らの答えははっきりしていて「皇帝のもの」と答えました。その銀貨には、皇帝の肖像と銘が刻まれていました。主は彼らの答えに対して「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われました。つまりそれは単純に、当時の社会制度としての納税には従えと言われただけです。皇帝礼拝とか皇帝への尊崇の念を持てとまでは決して言っておられません。果たすべき社会制度における義務のレベルで語っておられます。律法違反に結びつくものはありません。

続いて主は「神のものは神に返しなさい」と言われました。これはどういうことでしょうか。神の像とも言うべきものは何に刻まれているのでしょうか。それに関してわたしたちが思い出すべきは、創世記1章27節の言葉です。そこにはこう記されています。「神はご自分にかたどって人を創造された」。この「神にかたどって造られている」ということを<神の像>と言います。つまり、神の像は人に刻まれているのです。ということは人は他の被造物とは異なって、特別に神と対話できるもの、神と心を交わすことができるもの、神のものとして造られたということです。人には神の命の息も吹き込まれました(創世記2:7)。そのような人間は、自分自身を神に返さなければなりません。つまり、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ12:30)という生き方に徹することが、自分自身を神に返すことです。そのことまで彼らが理解することができたかは不明ですが、彼らはそれ以上主に対して何もすることができませんでした。

わたしたち人間における本来の<神の像>はわたしたちの罪によって歪んでしまいました。しかし主イエスの贖いによってそれは回復されたのです。わたしたちは再び神のものとされました。洗礼はそのしるしです。それゆえ、わたしたちは、主によって贖われたものとして、神の栄光を表すために生きることができるのです。

「捨てられた石と隅の親石」

マルコによる福音書12章1~12節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは多くのたとえを語られましたが、今日のたとえ話はその中でも最も激しいものであると言って良いかも知れません。聞き手の「彼ら」とは、主イエスに権威の問題を問いかけた祭司長たちです(27)。ということは主はこのたとえによって彼らに厳しく迫っておられる、ということなのです。

このたとえは寓喩と呼ばれるもので、たとえに登場する事物が、現実の事物にそれぞれ対応するものとして語られています。まず「ある人」あるいは「ぶどう園の主人」は神を意味しています。そしてぶどう園はイスラエルの民のことです。イザヤ書5章7節に「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々」と記されているとおりです。またそのぶどう園を主人によって任せられる農夫たちは、イスラエルの指導者たち、そして主人から収穫を得るために遣わされる僕たちは、主の預言者たちです。

主人は旅に出て、旅先からぶどうの収穫を求めるために僕たちを送りました。しかし農夫たちはその僕たちを次々に殺してしまったのです。ここでの収穫とは、イスラエルの人々が悔い改めて神のもとに立ち帰ったとの喜ばしい報告のことでした。しかし、それを聞くことができなかったことは、旧約時代の人々が神への信仰に生きることを拒否し続けたということです。主人は最後に愛する息子を送ります。この息子がイエス・キリストを指しているとしたら(そうなのですが)、ここから先は預言的なものとなります。これから御子イエスを巡って起ころうとしていることが告げられているのです。農夫たちはこの息子も殺してしまいます。それゆえこの場合の農夫とは新約時代の権威者たちのことになります。こうしてぶどう園を自分たちのものとしようとする旧新約時代の人々の姿は、神なしに生きようとしている人間の姿を表しています。しかし主人はそれを見逃すことをせず、彼らの罪に厳しい裁きを下します。彼らを殺してぶどう園を取り返すのです。これがたとえのあらすじです。

これは何を意味しているのでしょうか。たとえでは農夫たちに対する主人の厳しい仕打ちがなされていますが、実際に御子イエス・キリストにおいて起こったことを思う時に、神は御子を十字架にかけることによって、他の者たちに対する裁きを回避する道をお選びになったということが分かります。神は御子の命を犠牲にして罪ある者たちの救いを実現されるのです。そのことが旧約聖書の引用「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(詩編118:22)で言い表されています。イスラエルの人々によって不用なものとして捨てられたイエス・キリストを、神は人々の命の礎石として用いられます。そのことが主イエス・キリストの復活を通してこれから現実のこととなります。

神に対するイスラエルの反逆の歴史は、わたしたち人類の、いやわたしたち一人ひとりの歴史でもあります。イスラエルと同じようにわたしたちも本質的には、神を拒絶するものとして生きています。しかしそのようなわたしたち罪人の救いのために神は、ひとり子をこの世に送って、わたしたちの罪からの立ち帰りを促し、そしてついには御子の十字架と復活を通して開かれた新しい命の道へと召してくださいます。神は「イエスという親石の上にあなたの生を築き上げなさい」とすべての人に呼びかけておられます。

「主イエスの権威」

マルコによる福音書11章27~33節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスがエルサレム神殿を清める行動をなさった次の日、イスラエルの権威者たち、すなわち、祭司長、律法学者、長老たちが主イエスに対して、「何の権威で、このようなことをしているのか」と厳しく詰め寄っています。自分たちこそ、イスラエルの宗教とその中心である神殿に対して責任を持った者たちである、そうする権威を与えられているのは自分たちだとの自負の下で、主に対する抗議がなされています。自分たちを無視して、地方のナザレから来たイエスが神殿のあり方を厳しく批判し、それを改革しようとしている、それが何の権威によって行われているものなのかが全く分からないと考える彼らの憤りと焦りとがそこに現れています。

主イエスは、詰め寄る彼らに対して、逆に問いを投げかけておられます。主に問う者に逆に問い返す、それは主が時々用いられた方法です。それによって問題となっていることを深めようとしておられるのです。主の問いは、人々に悔い改めの洗礼を施す働きをし、既に殺された洗礼者ヨハネは、その働きを何の権威によって行ったのか、天(神)からの権威か、それともヨハネの勝手な人間的考えからなのか、と問いかけておられます。そのことがはっきり分かれば、主イエスが如何なるお方であるかも分かるはずだと主は考えておられます。

それに対して祭司長たちはどのように答えたでしょうか。彼らは考えました。もしヨハネの行動の背後に神がおられると言えば、彼らがヨハネを死に追いやったこととつじつまが合わなくなる。一方、ヨハネの働きは人間的なものであり、神とは関係がないと言ったら、ヨハネを神からの預言者として信じている群衆が反撃するかもしれない、と彼らは恐れました。そしてついに彼らは「分からない」と答えたのです。つまり、主の問いから逃げました、それによって彼ら自身が抱えていた問題からも逃げてしまったのです。それぞれの問いに正面から向き合って、主と共に考えることができたら、彼らは新しい世界へと一歩踏み出すことができたはずです。しかしそうはしなかった彼らは、真理への絶好の機会を逃してしまいました。主は彼らに対して、「それならわたしも答えない」と言われたのです。主は今彼らに奥深い真理を話しても無駄だと判断されたのでしょう。

「神の言葉を、最初から最後まで拒む人が多くいることは、キリスト者にとって茨やとげのようなものである」と嘆いている信仰の先達がいます。確かにそうです。しかし、それが悲しいかなわたしたちの世界の現実です。主イエスの言葉に触れる機会を与えられた人たちが、それまでに自分で作り上げてきた神観念とか救いとは何かという思いを、もう一度根底から問い直す機会とすることができれば、どんなに良いことであろうかと思わされます。「信じたい」という叫びであれ、「信じられない」といううめきであれ、それが主イエスに向かって真剣に投げかけられるならば、そこから主イエスとの対話が始まり、主の背後におられる、自分と向き合ってくださっている父なる神との出会いへと導かれていくに違いありません。主はすべての人に対して、権威者たちへのように「何も言うまい」と考えておられるのではなく、愛と真実に満ちた神の言葉を伝えたいと願っておられるのです。

「山を動かすほどの信仰」

マルコによる福音書11章20~26節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

いちじくの木が枯れているのを見て驚く弟子たちに語られた言葉が22節以下に記されています。その中に「信じて疑わないならば、山に向かって海に飛び込めと言えば、必ずそのようになる」というよく知られている言葉も含まれています。これは果たしてそのまま受け入れることができるものなのでしょうか。神がそのように命じられるのであれば、そのことも起こるでしょう。また、主イエスが命じられるのであれば、そのことも起こるでしょう。しかしわたしたち人間には到底不可能としか言いようがありません。なぜなら、わたしたちは常にいくらかの疑いを抱えているからです。

これはある種の比喩的性格を持ったものと考えることができます。主は、この言葉によって、信じて神に願い求めることはいつか驚くべき結果をもたらす、ということを教えておられるのです。「山」とは、人の力ではどうすることもできない、大きな困難や障壁のことです。しかし、心から神に願い続けるならば、いつかそこに何かが起こるということです。人が祈りによって神に一歩近づけば、神も近づいてくださいます。そのようにして祈り続ける中で、抱えている事態に神が大きな変化を生じさせてくださるということを主は約束してくださっています。

神を信じるとは、神の存在を知っているとか、ただ神の存在を信じるということと同じではありません。神を信じるとは、神の魔術的な力を信じるということでもありません。神を信じるとは、どのような結果が生じようとも、すべてを神に委ねて生きるということです。「神にできないことは何一つない」という信仰に立って、結果云々で神を評価することはせず、結果を含めてすべてを神に委ねることです。その信仰に生きることを主は今弟子たちに教えておられます。「人は祈る前に疑い、祈りながら疑い、祈った後に疑う」(ハレスビー)と言われているとおりのわたしたちです。しかし神はわたしたちが考えているよりはるかに大きな方であることを忘れてはなりません。それゆえ、その信仰に立つ限り、「祈り求めるものは既に得られたと信じなさい」ということもまた真理なのです。すべてを神に委ねたからです。

神を信じる者は、祈りへと向かいます。神が赦してくださっているからこそ、わたしたちは神に向かうことができます。そして、祈りによって平安を得るのです。さらに主はこう言われます。「祈るとき、誰かに対して恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」と。祈りは神に赦された者に与えられた恵みの特権です。そうであれば、次にその人は他の人の赦しに生きる者でなければなりません。神と人という縦の関係が修復された者は、次に人と人という横の関係の修復に向かうのです。兄弟への赦しがたい思いを以って祈ることは、兄弟を軽んじているというよりも、神を冒涜しているということなのです。兄弟との関係に、神との関係によってもたらされた恵みを反映できない者は、まだ神の赦しの恵みが十分に分かっていないということになります。

こうして主は、数日後のご自分の十字架上の死を思いつつ、地上に残して行く弟子たちが、主の十字架の後に思い起こすことができるように、さまざまな豊かな教えを与えておられます。

「神殿を清める主イエス」

マルコによる福音書11章15~19節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ここには、<宮清め>として知られているエルサレム神殿での出来事が記されています。それは主イエスが、神殿の境内で商売をしていた人々を荒々しく追い出された事件です。ここでの商売人たちは、神殿当局(祭司たち)の許可の下で参拝者たちのための商売をしていました。捧げものの動物を用意するとか、外国貨幣しか持っていない人たちのために両替をするなどの商売です。これは本来、礼拝者の便宜のために許されていたものでした。

その商売人たちを主イエスが追い出されたのはどうしてでしょうか。それは主がそこで行われていた不正を見抜かれたからです。商売人たちは、その商売によって暴利をむさぼっていました。当局者たちもそれを容認することによって、いくらかのわいろを受け取っていたのです。神殿は本来、神への礼拝の場です。また神殿は神への祈りの場です。そしてさらには、神殿はそこで礼拝をし、祈りをささげることを通して、隣人への愛を養われる場です。そのような礼拝者たちに仕える役目を持っている商売人たちは、その本来の目的から外れてしまって、悪徳商法に陥っていました。神殿が腐敗してしまっているのです。それをご存じになられた主は、神殿の本来の姿を取り戻すために、このような行動に出られたのです。

そして主は旧約聖書からの言葉の引用によって、神殿の本来の姿と、それから外れている姿とをお示しになります。本来の姿とはイザヤ書56章7節からの引用で、神殿は本来「祈りの家」でなければならないということです。しかし実情はエレミヤ書7章11節からの引用によって「強盗の巣」に成り下がっていることを指摘しておられます。神殿が敬虔な場ではなく、人間の欲の場になっていることを主は憂えておられます。宗教改革時代の一つのスローガンは「神の栄光のみ」ということでした。主は神殿においてこの栄光を陰らせている要因を取り除くために、この行動を起こされたのです。主はこう言われました。「神は霊である。だから神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)。ここに立ち帰らなければならないのです。

このことから二つのことを考えてみましょう。一つはわたしたちの教会についてです。今日の教会も神殿です。そこは「まことに、神はあなたがたの中におられます」との告白が生まれてくるような霊に満ちたものであり得ているでしょうか。神への賛美と祈りと服従に満ちた礼拝を回復したいと願います。

もう一つは、わたしたち自身についてのことです。パウロはこう述べています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(コリント一、6:19)。驚くべきことに信仰者一人ひとりは神殿である、そこには聖霊が宿っていて聖霊の器とされているのだというのです。そうであれば、わたしたちは自分の体を以って神の恵みと憐みを輝き出すものでなければなりません。この貧しい自分が聖霊の宿る神殿の役割を担わされていることを畏れと光栄をもって覚え、何とかしてその名にふさわしく生きようと祈りつつ、与えられた務めを果たしていきたいと願います。

「実のないいちじくの木」

マルコによる福音書11章12~14、20~21節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

聖書の中には難解な言葉や教えがいくつもありますが、本日のいちじくの木に関する事柄もその一つです。主がエルサレム入城を果たされてから二日目のことです。主イエスの一行は滞在しておられたベタニアを出てエルサレムに向かっておられます。そのとき主は空腹を覚えられて、実を求めていちじくの木に近づかれました。しかしその木には実がなっていませんでした。それで主はその木に向かって「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われました。これはあとでペトロが「呪われたいちじくの木」(21)と言っているように、呪いの言葉でした。呪いとは神の裁きを求める言葉と言ってもよいでしょう。事実、その木は翌日枯れてしまいました(21)。

なぜ主はそのようなことをなさったのでしょうか。時期は過越しの祭りに近い頃ですから春先であり、この頃のいちじくの木には普通は実がならないのです(13節参照)。しかし主があえてこのようなことをなさったのは、弟子たちに何かを教えようとされてのことであったに違いありません。いちじくの木はぶどうの木と並んで旧約聖書において、イスラエルを表す(象徴する)ものとしてよく用いられました。そしてそのいちじくの木に実がならないということを、預言者たちはしばしば警告しました(エレミヤ書8:13等参照)。つまりイスラエルの人々が悔い改めて主なる神のもとに帰ることがなかなか起こらないということを訴えたのです。

主はそのことを踏まえながら、今イスラエルの人々に悔い改めの実を見ることができないことを示し、それが結果として招くことは、神による裁きであることをこの出来事を通して教えておられます。これはある種のたとえ話的なものです。主がよく用いられる言葉によるたとえ話ではなくて、<行為によるたとえ話>として霊的な教えを含んでいるものです。つまりこのままいくならば、イスラエルは神の裁きを受けて滅びを免れることはできない、との警告がここでなされているのです。弟子たちは、そのことを学び取ることが求められていますが、しかし彼らはまだそのことに気が付いていません。

このような警告をなさった主イエスですが、実際は、神の裁きを受けられたのは主ご自身でした。イスラエルの人々が、そしてすべての罪人が悔い改めの実をならさないままに神の裁きを受けることを主は良しとなさらず、すべての者に代わって自ら十字架での裁きを受けることによって、人々の永遠の死にいたる神の裁きを免れさせてくださったのです。そこに神の「慈しみと俊厳」が表されました。

御子を裁くことによって罪人の裁きを完了したこととし、この御子の死の中に自分の罪と死を認めて、神のもとに立ち帰る者に、主なる神は救いを約束してくださっているのです。エルサレムでの主イエスの数日は、そのことが明らかにされる決定的な日々でした。

この救いの出来事は、わたしたち人間が自分たちに都合が良いように勝手に造り出した救済劇ではありません。神ご自身の手による救いの事実なのです。わたしたちも葉ばかり生い茂っているいちじくのようではなくて、神が喜ばれる悔い改めの実を実らせるものでありたいと願います。そのためには、ますます十字架の主イエスに近づかなければなりません。

「ろばに乗って来られる主」

マルコによる福音書11章7~11節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

11章1節以下には主イエスのエルサレム入城の様子が描かれていますが、今日のテキスト部分では、特に人々の動きが二つの面から描かれています。一つは弟子たちや人々が、主イエスが乗られるろばの背に、鞍代わりに自分たちの服をかけたことです。そして主がろばに乗って歩かれる道には、服を敷いたり、野原から集めて来た葉のついた枝などを敷いています。これは絨毯の代わりなのでしょう。これらの行為は、ゼカリヤ書9章9節の預言を思い起こし、その預言が成就したことを彼らなりに表現しているものです。こうして人々は主イエスを待望の「メシア」、新しい王として歓迎しています。

さらに人々は、「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように」と讃美の声をあげています。これは、詩編118編25-26節からの引用で、わたしたちの救い主がついにおいでになった、主よ、どうか一日も早く救いを実現してください、との思いで叫ばれている讃美であり、祈りです。

このように主イエスを歓迎している人々とは誰のことでしょうか。十二弟子たちは当然含まれていますが、ほかにガリラヤから主に従ってきた人々、さらにはエルサレムで主を迎える人々などが考えられます。彼らは小さな芝居をしているようですが、そうではなくて旧約聖書の預言の成就を主イエスの到来に見て、精一杯聖書に忠実に主をお迎えしていると見るべきでしょう。

こう考えると、人々は主イエスに対して正しい認識と信仰とを持っているかのように見えます。それがなぜ、数日後には弟子たちは主のもとから逃げ去り、エルサレムの人々は主に対して「十字架につけろ」と叫ぶようになったのでしょうか。それは彼らが預言者たちが示した新しいメシア、新しい王に対して間違った思い込みや先入観を持っていたからということによります。彼らは、新しいメシアは政治的、軍事的にイスラエルを輝かせるものと思い描いていました。勝手なメシア像を作り上げていたのです。しかし数日の間に、主イエスの実体は、そのようなものではないということがはっきりしてきました。そのため人々は裏切られたと思い、主に対する反旗を翻したのです。

このことはわたしたちにとって大きな教訓となります。わたしたちが主を人々に証しするとき、人々の要求に何でも応えてくださるお方であるかのように、主による安価な恵みとか救いを約束することがあってはならないということです。相手に迎合するような形でキリスト像をゆがめないようにしなければなりません。パウロは「神の慈しみと厳しさを考えなさい」(ロマ11:22)と述べています。主の愛や赦しとともに、裁きの厳しさも語らなければなりません。主は裁きつつ赦したもうお方なのです。

ところで、人々の歓迎ムードの中で、主はどう応えられたでしょうか。主は用意されたとおりに入城された後、神殿の様子をご覧になって夕刻にエルサレムを離れられました。その間、主は人々の歓迎ぶりの中に、人々の置かれている状況、即ち救いを必要としている状況を肌で感じられたことでしょう。飼い主のいない羊の群れのような人々がそこにいます。その人々に主の憐みは向けられます。そして「ホサナ、主よ、お救いください」との叫びは、人々の期待する形ではなく、十字架において結晶するのです。

「主がお入り用なのです」

マルコによる福音書11章1~6節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

マルコによる福音書11章から終わりまで、主イエスのエルサレムにおける最後の一週間が記述されます。この福音書全体の実に三分の一以上の分量が用いられていることから、この一週間が如何に重要であるかが分かります。

主は今エルサレムに入られます。この都市は城壁に囲まれた都市でしたから、そこに入ることは「入城」として言い表されます。主がその入城のために用いられた方法が特別なものでした。それを二つの面から考えてみましょう。

一つは主がろばに乗って入城されたことです。それは、旧約聖書の預言通りのことを主がなさったためです。ゼカリヤ書に次のように記されています。

「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る」(9:9)。

この預言通り主はイスラエルの王として、また約束のメシア(救い主)として、ろばに乗ってエルサレムに入って行かれます。それはこの預言が、今主イエスによって実現されていることを人々に示す行為でした。そしてエルサレムの人々も、ろばに乗って入城される主イエスを見て、この預言を思い起こし、その成就を確信し、歓迎しています。この時の様子については、次週に7節以下でもう少し詳しく考えます。主がろばを用いられたことの第一の理由は、預言との関係からなされたことでした。

次に預言にも「高ぶることなく」とあるように、主はろばを用いることによってご自身の仕える姿を表しておられます。ろばは、一般的に言って馬ほど見栄えのよいものものではありません。家畜の初子が生まれた時にはそれを神に捧げるのが決まりでしたが、ろばの場合は小羊に代えられました(出エジプト34:20)。価値が低いということなのでしょう。しかしろばは柔和な性格で忍耐強く、重荷を背負って黙々と働きます。華々しい軍馬ではなくて、ろばを用いることによって、主はご自身が人々に仕える者としてのメシアであることを示しておられます。人々は預言の成就に関してはある程度理解できたでしょうが、ろばを用いることの信仰的意味には気が付いていないかもしれません。

こうして主はエルサレムに入られるのですが、このろばをどのようにして調達されたのでしょうか。それは、弟子たちに命じて、ある村からろばを借りてくることによってでした。弟子たちは命令通り出かけてろばを借りることができたのですが、そのとき、これは「主がお入り用なのです」と断って借りています。主が前もって手配しておられたのでしょうが、そのろばを新しい王としての主がエルサレムに入城するために必要なものとして借りることができたのです。主が必要としておられるものが、主のご要望通りに用いられるとは何と幸いなことでしょうか。

主はわたしたちをも、時に応じて呼び出されます。そのときわたしたちが「なぜなのですか」と問うならば、主は言われます。「わたしがあなたを必要としているからだ」と。それに対する応答の道は一つしかありません。それは主が今必要とされているものを差し出すことです。

「主よ、わたしをあなたの平和の器として用いてください」(アッシジのフランチェスコの祈り『平和の器』より)。