「真理に開かれる目」

マルコによる福音書8章22~26節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

本日のテキストである8章22~26節は、マルコによる福音書における重要な位置を占めています。それを意識しながら御言葉に耳を傾けましょう。

これは盲人の癒しの物語です。舞台はガリラヤ湖北岸のベトサイダです。主イエスの一行がそこに行かれたとき、人々が一人の盲人を主のもとに連れてきました。もちろん、見えない目を癒していただくためです。主はその盲人を人々から切り離して村の外に連れて行かれました。癒しの行為は見世物ではなく、また主の力を誇る場でもありません。一対一の関係の中で、癒される人が主と出会う場なのです。主はそういう状況を作り出しておられます。

この癒しの出来事が持っている特徴は、目が見えるようになる癒しが二段階で行われているということです。最初は主によって目に唾がつけられ、手が置かれると、少し見えるようになりました。盲人は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と言っています。おぼろげに人の姿が見えるようになりました。しかしそれではまだ完全に癒しがなされたことにはなりません。主がもう一度手を置かれると、今度は「何でもはっきり見えるように」なりました。癒しが完了したことになります。その人が見えるようになった目で最初にはっきり見たのは、主イエス・キリストでした。

ところでマルコ福音書は全体で16章から成っています。今日のテキスト部分は分量的にちょうど全体の中間に位置しており、これ以後、福音書は後半部分に入ります。内容的には、前半は主がなさったことが中心に記されてきました。それは神の子イエスがどのような意味で神からの方であるかを明らかにするものでした。これからの後半部分は、8章29節におけるペトロの「あなたは、メシアです」という告白から一気に主イエスの受難予告が3回繰り返されながら、主がいかなる意味でメシアであられるかが明らかにされて行きます。そういった意味で、今日の盲人の目の癒しが二段階でなされた癒しは象徴的です。それは弟子たちの信仰の成長の過程を示唆してるように思われます。

先の箇所で、弟子たちが主によって「まだ分からないのか。悟らないのか」ととがめられたことを聞きました。彼らはまだおぼろげにしか、主イエスがどなたであるかが分かっていませんでした。しかし、ペトロの信仰告白によっても明らかなように、主がメシアであられることが少しずつ認識されるようになっています。まだ十分ではありませんが、彼らの信仰は少しばかり主イエスに近づいています。そのように信仰は一気にすべてが理解される形で与えられるものではなくて、少しずつあるいは段階的に成長しながら、主が求められるものに近づいて行きます。盲人の癒しの物語はそのことを示唆しています。

わたしたちの信仰も同じです。わたしたちも主によって「まだ分からないのか」と言われる状態を続けながら、いろんなことをきっかけに次の段階に進むことができるものとされます。その間主は忍耐をもってわたしたちを捕え続け、導いてくださいます。盲人の目に主の手が置かれたように、わたしたちの心の目に聖霊が働きかけてくださって、わたしたちの信仰は少しずつ高みへと導かれていくのです。わたしたちの中に生じた信仰を、主は「キリスト・イエスの日までに」(フィリピ1:6)完成してくださるのです。

「まだ悟らないのか」

マルコによる福音書8章11~21節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主は、4千人の人々にパンを分け与えられた後、ダルマヌタの地方に行かれました。そこにファリサイ派の人々がやって来て、主を試そうとして、天からのしるしを求めました。彼らは、「主イエスが神から遣わされたメシアであるならば、それを証拠立てる、目を見張る業を示して欲しい。そうすればわたしたちはあなたを信じます」と言っているのです。それに対して主は、「今の時代には、決してしるしは与えられない」と答えられました。それは、ファリサイ派の人々が求めているような劇的なしるしは決して起こらない、主イエスご自身がそこに存在し、神からの業をなさっていることそれ自体が、最大のしるしなのだ、と言っておられるのと同じです。

わたしたちも時には、著しい奇跡的なことが教会によってなされるならば、多くの人が教会に目を向けるようになるのではないかと考えたりします。しかしわたしたちにとっても神からのしるしは、主イエス・キリスト以外にはないのです。使徒パウロは次のように述べています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(コリント一、1:22~23)。教会は時代がどんなに変わろうとも、十字架の主イエスを宣べ伝えることに全力を注ぐのです。

主イエスの一行はその地を去って、舟に乗って向こう岸に渡ろうとしています。その舟の中で、弟子たちは自分たちの手元にパンが一つしかないことで論じ合っていました。それを聞かれた主は話題を、食べるパンからファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に移されました。この場合のパン種とは、誤った教えのことです。ファリサイ派の教えは自分たちの考えを絶対的規準としたものであり、ヘロデの教えは権力と欲望を中心とするものと言ってよいでしょう。それは主イエスの教えに真っ向から敵対するものです。主はそれらの教えに多くの人々が影響を受け、誤った思想に染まることがないように気をつけなさいと、弟子たちに教えておられるのです。しかし弟子たちは、主のその忠告が何を意味しているか分からないままでした。

そこで主は先のパンの二つの奇跡を持ち出されます。しかもそれぞれの場合に、そこにいた人々の数ではなくて、残ったパン屑を入れた籠の数を思い起こさせておられます。これはどういうことでしょうか。5千人の場合、残ったパン屑の籠の数は12でした。それはまずイスラエルの全12部族に福音を運べと言う意味でした。さらに4千人の場合は、残ったパン屑の籠は7でした。7が完全数ということから、全世界にあまねく福音を伝えよとのメッセージがそこにあることを教えられました。誤った教えが世界に蔓延する前に、あなたがたは真の命のパンであるイエス・キリストの福音を世界に運べと教えておられるのです。このことは小さな舟の中でなされました。舟は教会を象徴しています。教会には命のパンであるイエス・キリストがおられます。そのパンを全世界に運ぶ、それが教会の主からの委託です。悪しきパン種で世界が膨れ上がる前に、教会は「これを食べる者は決して飢えることがない」と言われる真のパンであるイエス・キリストを全世界に運ぶのです。

「あの方は復活なさった」(復活節礼拝) 

マルコによる福音書16章1~8節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主の復活の朝を迎えました。それは死が命に変わった日です。わたしたちは皆、死に向かって進んでいます。そして死はすべての終わりであると考えています。死の後にいかなることも期待することはできないし、死者に対して何もすることができないのです。しかし、そうした考え方がひっくり返される出来事が起こりました。それが主イエス・キリストの死からの復活です。

主の弟子たちも主の死ですべてが終わったと考えていました。主の死のあと主に従った者たちに何かまだすることが残っているとすれば、主の遺体に香油を塗ることだけです。金曜日の夕刻には、慌てて主の遺体を十字架から降ろして墓に納めたために、それをすることができなかったからです。

三人の女性たちが週の初めの日(日曜日)に、夜が明けるか明けないうちに、主の遺体が納められた墓に行きました。香油を塗るためです。墓の穴を塞いでいる石をどうしようかと案じながら墓に向かった彼女たちでしたが、墓に着くとその石はすでに取り除けられ、白い衣を着た若者が中にいたのです。この若者は神の使いです。墓には主の遺体は見つかりませんでした。神の使いは彼女たちにこう告げました。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。このことを弟子たちに伝えなさい」。それを聞かされた女性たちは、今見たことや告げられたことに対する驚きや恐怖に耐えることができず、急いで墓から逃げ去りました。彼女たちは正気を失ってしまいました。

主が生きておられたとき、三度にわたってご自身の十字架の死と死からのよみがえりについて語られました。それを女性たちも聞かされていたはずです。しかし、主が予告されたことが現実に起こったとき、弟子たちも彼女たちも、主の言葉をすぐには思い出すことができなかったのです。彼らは主が言われたことも十分に理解できていませんでしたし、たった今目撃した事柄も主の言葉と結びつけて受け止めることができませんでした。

ある神学者が、「復活の出来事の前で、誰でも思考や知恵がいったん止まるほかない」と述べています。まさしくそのことが主への服従に生きた者たちに起こっています。わたしたち人間の思考の先に復活があるのではありません。それがいったん遮断される形で主なる神が引き起こしてくださる出来事が、死から命への移行、即ち復活です。それでは信じえない者たちが主の復活を信じることができるようになるためには、何が必要なのでしょうか。それは復活の主ご自身との出会い以外にありません。この後、女性たちや弟子たちは復活の主との出会いを与えられて、少しずつ信じる者へと変えられて行きました。

イエス・キリストの復活によってすべての人間の前に大きく立ちはだかっていた死という岩が取り除かれて、新しい命の世界が切り開かれました。死を超えた命が主によってもたらされたのです。わたしたちは主に結びつくとき、永遠の死へと死んでいくのではなくて、真の命に向けて死んでいくのだということを教えられます。主は言われました、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)。わたしたちは、死を恐れる者ではなく、主の復活のゆえに死を超えた命の希望に生きる者とされているのです。

「イエスかバラバか」(棕梠の主日礼拝) 

マルコによる福音書15章6~15節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日は棕梠の主日です。聖書においては、つい数日前に棕梠の葉を道に敷いて「ホサナ」と叫びながら主イエスを歓迎した人々が、今は「イエスを十字架につけよ」と叫ぶ者に大変身しています。そしてついに最高法院で死刑の判決を受けた主は今、死刑確定のために総督ピラトのもとに引き渡されました。尋問の中で沈黙を守り続ける主に対して、ピラトは不思議な思いを抱くとともに、この人は無罪だとも思い始めています。しかし人々の「十字架につけよ」との声は大きくなるばかりです。注意して聞けばその叫び声の中にわたしの声も混じっているかもしれません。

困惑しきったピラトが思いついたのは、祭りの度ごとに囚人を一人釈放してきたこれまでの慣例です。それによってイエスを赦そうと考えたのでした。しかし人々は主イエスではなく、暴動と殺人の罪で十字架刑が決まっているバラバの釈放を求めました。それはピラトの予想に反することでした。人々は、自身を神の子と称し、悔い改めを求めるイエスより、ユダヤの国家のためにローマへの抵抗運動をしたバラバの方がまだましだと考えたのでしょう。人々が、少しもおごらず、ヘリくだりをもって他者に仕えることを教える主ではなくて、力と暴力によって目的を達成しようとするバラバを選んだことの中に、多くの人が何を原理として生きようとしているかが如実に表されています。今日においてもイエスではなく、バラバを選ぶ人がきっと多くいることでしょう。

ピラトはどうしたでしょうか。彼も結局は民衆の声に押されてバラバを釈放する決断をします。彼は真実や正義を重んじることよりも、民衆に迎合し自己保身を図るためにそうしたのです。国家の代表が、神の御子を死刑に処した、そのことを教会が忘れることがないようにと、「使徒信条」では彼の名が刻まれることになりました。御子イエスは国家権力によって死に渡されたのです。これらのことは、わたしたちの生き方に大きな問いを投げかけています。力と暴力と不正によって自分を守るか、それともへりくだって人に仕える道を歩もうとするか、いつもわたしたちは問われているのです。

さて、バラバが赦されたことに注目してみましょう。百パーセント死刑に処せられるはずのバラバが、主イエスの代わりに赦されて生きる者とされました。一方、死に値する罪を犯されなかったにもかかわらず主イエスは、死刑の判決を受けました。バラバという死すべき人間が、イエスの十字架と引き換えに死から命に移されたのです。これこそが、主イエスの十字架の死による罪人の救いと贖いを最も端的に、そして象徴的に表しているものです。主イエスの死は罪人の身代わりの死だったのです。バラバが赦されたのは、彼自身の中にそれに値する何かがあったわけではありません。ただ彼に代わって死に渡される身代わりの人、主イエス・キリストがおられたということのみが、バラバの救いの根拠なのです。これは神の愛に基づく罪人の救いのための御業なのです。主イエスの死を代償にして罪人が救われることは、父なる神が備えてくださった罪人の唯一の救いの手段です。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ5:8)。

「空腹のまま帰らせたくない」

マルコによる福音書8章1~10節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

一般に「パンの奇跡」と呼ばれている出来事は、6章35節以下に記されていました。それとよく似た出来事が8章1節以下にも記されています。二つはどのような関係にあるのでしょうか。ある人は、これは一つの出来事が人々の間で言い伝えられていく間に、少しずつ変化してきて二つの物語になったと考えます。他の人は、この二つはいくつかの点で相違している、その相違が重要であることを考えると、これはもともと異なる二つの出来事であったと考えます。わたしたちは後者の考えに立って、御言葉に聞きたいと思います。

今回の出来事は、異邦人の地デカポリス地方のガリラヤ湖南東岸近くでなされました。そこには異邦人が多くいたはずです。その点において第一回目の出来事とは異なります。集まって来た人々は、三日間も主イエスから神の国に関しての話を聞き続けてきました。霊的な糧を人々は十分に受けました。その群衆に対して主は今度は、肉体のパンの心配をしておられます。彼らに食べ物がない状態を主は「かわいそうだ」と感じておられます。それは五千人のパンの奇跡の時の群衆を「深く憐れまれた」ことと同じ用語です。マタイによる福音書の並行記事においては、主が語られた「空腹のまま帰らせたくない」との言葉が記されています。主は今、人々の肉体のパンに関しても心を寄せておられ、彼らの飢えをどうにかして満たしたいとの強い意志をもっておられます。

そして今回は自ら、弟子たちにパンの手配をするように求めておられます。弟子たちは前の時と同じように、どのようにして人々のパンを手に入れたらよいのか戸惑い、不満に思っています。しかし主に命じられてパンを集めると、七つありましたし、魚も少しだけありました。主は感謝の祈りを捧げて、それらを四千人の人々に分けられると、人々は満腹するまで食べることができました。残ったパンの屑は七籠になりました。群衆の数も、残ったパンの数も、第一回目の時とは異なります。ここで「七」という数字に注目してみましょう。前回の十二という数は、イスラエルの十二部族すべてに福音が伝えられることを約束するものでしたが、七は何を象徴しているのでしょうか。七は完全数と言われます。この奇跡が異邦人の地でなされたこととも関係していて、その数字は福音がイスラエルを超えて全世界に広まることの約束が示されている、と理解することができます。弟子たちは今回も残されたパン屑の籠の数から、大切なことを教えられているのです。

わたしたちは、この出来事から教会の使命を改めて考えさせられます。現代の厳しい状況において、霊的パンに飢えている人が多くおり、また肉的パンにおいても飢え渇いている人々が多くいます。そういう中で教会はどのようにして託された務めと責任を果たしていくかが問われています。弟子たちが「こんな人里離れた所で一体どうすればよいのか」とつぶやいたように、わたしたちもこんな厳しい時代状況の中で一体何ができるのかとつぶやきがちです。しかし主が「彼らを空腹のまま帰らせたくない」と言われたことに真摯に応えなければなりません。それは何よりもまず神の恵みの御言葉を広く伝えることにもっと力を注ぐべきだということではないでしょうか。多くの人々を霊的飢えの状態のまま放っておき人生の途中で倒れさせることは、教会には決して許されないことなのです。

「神の言葉を聞く耳・語る口」

マルコによる福音書7章31~37節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

異教の地での時を過ごされた後、主イエスはかなりの距離を移動されて、今ガリラヤ湖の東南岸に来ておられます。主の活動範囲の広さに驚かされます。主が来られたことを知ったその地の人々が、「耳が聞こえず、舌の回らない人」を主のもとに連れて来て、癒してくださるように求めました。ここにも、重荷を負った人のために動く人々がいることを教えられます。

「耳が聞こえない」ということは、単に聴力の問題だけではありません。人は言葉を聞いて考え、行動し、自分を形成していきます。聞こえないことは、そのことにおいて大きな重荷を抱えているということです。さらに「舌が回らない」ことは、他者との間で十分に言葉や心を交わし合うことができない困難があった、ということです。それは彼の痛みでした。そうした人々は招詞で読みましたイザヤ書35章4節の「心おののく人々」です。しかしそのような人を見捨てず、その生きることを応援する他者が必ずいます。この人は人々によって主イエスのもとに連れてこられました。その時、何かが起こります。

主はこの人との一対一の状況を作り出して、指を彼の両耳に差し入れ、また指に唾をつけてその舌に触れられました。何か原始的な、また呪術的な治療行為に見えますが、それには主の愛が込められていました。「この耳が聞こえないのだね」、「この舌が回らないのだね」と確認しながら、主は神に彼の癒しを求めて祈られました。そして深い息をついて「エッファタ」と言われました。これは「開け」と言う意味のアラム語です。わたしたちは「タリタ、クム」(マルコ5:41)を思い出します。エッファタの一言によって、彼の耳は聞こえるようになり、また舌のもつれも解けました。これは体の中の不自由な一部の器官が癒されて機能を回復したというだけではなく、新しい人の誕生の出来事として捉えるべきでしょう。新たな人が、今生まれたのです。彼は肉体的な耳と口の障がいが取り除かれただけではありません。神の言葉を聞きまた語るという霊的な耳と口が新たにされ強められて、神を賛美する者とされました。

主イエスの祈りに応えて父なる神が働いてくださるとき、イザヤが述べている「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」という預言が成就するのです。三重苦のヘレン・ケラー女史は、指と指との接触で他者との間に会話ができるようになったとき、イザヤ書のこの言葉が自分において成就したと確信したと記しています(『わたしの生涯』)。

この癒しの出来事がわたしたちの時代に対して持っている意味を考えてみましょう。今の時代にも、神の言葉を聞くことができず、また神の言葉を語り合うことができない人々が多くいます。その現実を主はご存じです。しかし、主がご存じだからわたしたちは何もしないでよいということではありません。わたしたちは、霊的飢饉の中にある自分自身の状況とわたしたちを取り巻く状況を深く自覚しつつ、祈らなければなりません。「神よ、この時代の人々の上に手を置いてください」、「わたしたちに『エッファタ』と命じてください」と祈り続けなければなりません。その時、天からの力がわたしたちの時代の上に注がれて、何かがきっと起こることでしょう。

「それほど言うなら-異邦人の女の信仰-」

マルコによる福音書7章24~30節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは今「そこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた」(24)と記されています。「そこ」とは大まかにガリラヤ地方のことですし、「ティルスの地方」とは、イスラエルの北西方向の異邦人の町のことです。主はそこに宣教のために行かれたのではなく、ご自身の来訪が「誰にも知られたくないと思っておられた」と記されていますように、しばしの休息をとるために行かれたと考えられます。しかしその地方にもイエスの評判は広がっていて、すぐに主の滞在が人々の間で知れ渡りました。そして一人の女の人が主のもとにやって来たのです。彼女は悪霊につかれた娘の癒しを主に願い出ています。

しかし主は彼女に謎のような言葉を語られました。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。これはどういう意味でしょうか。「子供たち」とはイスラエルの民のことです。「小犬」とは異邦人のことです。そして「パン」とは神の救いの恵みのことです。つまり主イエスは、神の救いはまずイスラエルの民に十分与えられたのちに、続いて異邦人にも与えられる、と言うことを仰っておられるのです。なんだかとても冷たい言葉のように聞こえますが、主イエスは神の御計画や順序に従った救いの業の展開の原則を語っておられるのです。

それに対してこの女性は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と答えています。これも謎めいていますが、彼女は臨機応変に主の言葉に倣って自分を小犬と言い表して、主がせっかくこの地においでくださった今、小さな恵みを求めることは許されるのではないでしょうか、と訴えているのです。機知に富んだ答えである以上に、主の言葉の中に絶対的な否定はないことを感じ取った彼女の信仰の熱心が、これを言わせています。主が「まず」と言っておられることは、「次」があることを示唆しています。また主は一般にユダヤ人が異邦人に対して用いる「犬」ではなくて、言葉のきつさをやわらげて「小犬」と言っておられます。それらのことの中に女性は、拒絶ではなくて、むしろ更なる熱心をもって主ご自身に迫ってくることを主は許してくださっていることを感じ取ったに違いありません。だからこそ女性はあきらめずに求め続けます。主は「それほど言うなら、よろしい」と言われ、娘から悪霊が出たことを告げられました。この「それほど言うなら、よろしい」は、口語訳聖書では「その言葉で十分である」と訳されていました。主はこの女性のヘリくだりと、主に対するひたすらな信頼と、娘に対する熱い愛を、彼女の言葉に感じ取ってくださっています。そして娘の癒しによって彼女に応えてくださいました。こうして母と娘の二人が同時に「パン」に与ることができました。主は原則で動かれる以上に愛によって動かれるお方なのです。

この出来事は教会のこの時代におけるあり方を示唆しています。教会は、自分たちは主イエスによる救いなど関係がないと考えている、苦悩の中にある多くの人々を知っています。彼らに代わって、それらの人々にも「パン」を与えてくださいとわたしたちが熱心に祈り仕えるとき、「それほど求めるなら」との主のお言葉を聞き取ることができるに違いありません。

「人を汚すもの」

マルコによる福音書7章14~23節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスはファリサイ派の人々との清めを巡る問題から、さらにユダヤ人の間に巣食っている汚れの問題に話を展開しておられます。その場合の汚れとは衛生上の問題ではなくて、宗教上の問題です。そのことにおける主イエスの主張の中心は、「外から人の体の中に入る物が人を汚すのではなくて、人の中から出てくる物が人を汚す」ということです。それは人が清い、すなわち神から受け入れられるとか、汚れている、即ち罪があるとかということは、外面的なことではなくて、内面の問題であるということを意味しています。ユダヤ人は伝統的に、また昔の人からの言い伝えとして、食べて良い動物と食べてはいけない物を区別し、また決まった作法で身を清めたり手を洗ったりしなければ汚れを身につけてしまうという考えを持っていました。しかし主イエスはそうした「規定」を廃棄する意味で、「外から中に入る物が人を汚すのではない」と言っておられるのです。これによって主は旧約時代の限界を乗り越え、また人の言い伝えの制約を打ち破っておられます。

それでは主イエスは人を清い者としたり、汚れた者とするのは一体なんであると言っておられるのでしょうか。そのことについては、「人の中から出てくる物」が人を清くしたり、逆に汚れた者とするということで言い表しておられます。人の中から出てくるものとは、端的に言えばその人の「言葉」です。そしてその言葉が内包していることがらが、その人の行動を生み出すことを教えておられます。言葉はその人の心の内を映し出し、言葉は行いを生み出します。その心が神の思いを正しく捉えることができず、邪悪な思いに満たされているならば、その人の心から出てくる言葉も邪悪なものとなるし、その言葉に基づく行動も、神の御心に叶わないものとなります。それは人を傷つけ、共同体を破壊します。新約聖書のヤコブへの手紙(3:9~10)には次の言葉があります。「わたしたちは舌で、父である神を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです」。言葉を生み出す心の特質が見事に語られています。

主は人間存在にはこの次元があることを明らかにして、食べる物や食べる作法などが神の前での人間の評価を決めることにはならないことを教えておられます。サムエル記上(16:7)に次の神の言葉があります。「(わたしは)人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって(その人を)見る」。これは何と恐るべきことでしょうか。わたしどもがどんなに表面を繕っても、神がご覧になるのは、神との間で通じ合うことの出来るはずの心の内側であるというのです。誰がこの厳しい神の眼差しに耐えることができるでしょうか。しかし欠けを持ち、人を傷つけ、神のみ名を汚すことの多いわたしたちを神は憐れんでくださって、聖霊の炎によって心を清め、言葉を精錬し、そして行いを正してくださいます。心がけるべきことは次の言葉によって言い表されています。「いつも塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4:6)。聖霊なる神の炎によって清められた神賛美の言葉、そして人を生かす愛のこもった言葉を語る者でありたいと願います。

「神の掟と人間の戒め」

マルコによる福音書7章1~13節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスの宣教活動が進められていくにつれて、主とファリサイ派の人々や律法学者たちとの対立が強まってきました。本日の出来事は、ユダヤ人の「清め」に関する言い伝えを巡ってのものです。ユダヤ人は、神から直接与えられた戒めや掟以外に、それらから派生した人間の手による数々の戒めを言い伝えとして持っていました。清めに関する決まりごとは、昔の人の言い伝えに属するものでした。それによると、人は食事をする前には手や食器を念入りに洗い、身を清めなければなりませんでした。それは衛生的観点からの規定ではなくて、宗教的な要素を強く持ったものでした。

ところが主の弟子たちは、その言い伝えを守らずに、洗わない手で食卓につく者たちもいました。ファリサイ派の人々はそのことを問題にして、主に「なぜなのか」と詰め寄っています。主の集団は汚れた集団、つまり罪人の集団であると彼らは考えています。しかし主は、彼らは昔からの言い伝えに対して形だけは守っているけれども、彼らの神に対する忠実さや誠実さは、決して御心にかなったものではないことをご存じでした。それで主は彼らに対して、イザヤ書の言葉を引用して、彼らを偽善者として厳しくとがめておられます。イザヤ書からの引用は、「この民は口先だけではわたしを敬うが、その心はわたしから離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、空しくわたしをあがめている」(6~7節、イザヤ29:13参照)です。つまり、形骸化した、心の伴わない形だけの掟の遵守は、神が決して喜ばれるものではない、と言うことを彼らに教えておられます。主は御心を物差しとして、自分たちの信仰を徹底的に吟味することを彼らに求めておられるのです。それは、今日のわたしたちの信仰のあり方にも通じるものであることを教えられます。

主は彼らにもう一つのことを語られました。それは「コルバン」という言葉を巡ってのものです。これはヘブライ語で、「神への供え物」という意味を持っています。人が自分の金銭や物品を神に捧げる物としてより分けておく場合、「これはコルバンです」と言えば、それは神への供え物以外には用いられなくなります。神への捧げものをより分けておく姿勢は基本的には大切なものを含んでいます。しかし、現実にはそれは悪用されることもありました。例えば、親が差し迫った状況の中でわが子に金銭的な援助を申し出た時に、それに応じたくない場合は、自分の持ち物に「コルバン」と言えば、それを親に差し出す必要がなくなるのです。神の戒めの中に「あなたの父と母を敬え」があります。今述べたような子どものあり方は、この戒めを犯していることになります。さらには親への尊敬と服従を通して、神への信頼と奉仕を求めておられる神の御心にも沿わないことになります。主は言われます、「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」。

わたしたちにおいても、「これこそが信仰的だ」とか「これこそが教会的だ」と主張することの中に、神の御心に沿わないものを含んでいることがしばしばあるに違いありません。信仰は、日々、神のみ言葉による吟味と点検を必要としていることを、深く心に刻みたいものです。

「わたしだ。恐れることはない」

マルコによる福音書6章45~56節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは本当にガリラヤ湖の水の上を歩かれたのでしょうか。そうした素朴な疑問を抱かせられる出来事が本日のテキストに記されています。わたしたちは奇跡が「しるし」と呼ばれることを踏また上で、主による奇跡がどのようになされたかということよりも、それは何を指し示し、教えようとしているのかに思いを向けながら、この出来事から教えられたいと願います。

五千人以上の人々にパンと魚を分け与えられた後、主は弟子たちに強いて向こう岸に渡ってしばらく休むことを指示されました。それは宣教活動や主による給食の奇跡などを経験した弟子たちに、これまでのことを振り返り、静かに祈る時を持たせることが主のご意図であったに違いありません。弟子たちは興奮状態の中で人々と共に主のなさったことについてもっと語り合いたいという思いもあったかもしれません。しかし主はそのような弟子たちを「強いて」人里離れた所に送りだされるのです。信仰にはある種の強制や制約が存在します。人間の意志よりも神の御意志によって動かなければならないという強制です。そうすることによってこそ、信仰者と教会は御心に叶った歩みをすることができるのです。「強いられた恩寵」という言葉を思い出します。

一方主ご自身は、一人で祈るために山に登られました。主にとっても休息と祈りの時が必要だったのです。その主の目に弟子たちの舟が逆風の中で漕ぎ悩んでいる様子が捉えられました。弟子たちは、沖にまで出た所で激しい向かい風のために前に進むことができなくなってしまいました。弟子たちには、こんな目に合うのだったら主のご命令に従わない方がよかった、という思いが生じていたかもしれません。彼らはこのような時にこそ、数々の力ある業をなさった主を思い出すべきだったのですが、それはできませんでした。むしろ主に対する不平不満の方が彼らの心を満たしていたことでしょう。

しかし、主は彼らの様子をご覧になっておられます。そして主は湖の上を歩いて弟子たちを助けるために舟に近づかれました。けれども弟子たちは薄暗い中で舟に近づいてくる人間のような姿を見た時に、幽霊だと思って恐怖におののきました。それはやむをえないことかもしれません。しかし聖書はそのときの弟子たちのことを次のように記しています。「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたから」(52)。これはどういう意味でしょうか。心が鈍いとは、これまでの主の言動から主ご自身を十分に理解することの出来なかった弟子たちの頑なな心、霊的鈍感さを表す言葉です。この言葉の背後に、弟子たちはもうとっくに、主は困難な時にこそ助けてくださるお方であることを確信してもよいはずなのだ、しかし彼らにはそれができていない、ということが暗示されています。弟子たちのこれまでの体験と主との交わりが、まだ彼らの信仰の力になっていなかったことを示すこの出来事を通して、マルコはわたしたちにも「あなたの信仰はどうなのか」と問いを投げかけています。

主は言われます、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。主は従う者たちをいつも見ていてくださいます。そして困難な状況にあるわたしたちに思いがけない方法で近づいて来て助けてくださるのです。