「信者たちの持ち物の共有」

使徒言行録4章32-37節

教師 久野 牧

ペンテコステ以後、主イエスの弟子たちを中心にして「信じた人々の群れ」(32節)が形成されました。これは、まだ組織や制度は整っていませんが、キリストの体である「教会」が形成されたということです。その特質は、次の四つの項目にまとめることが出来ます。

(1)彼らは心も思いも一つであったこと(32節)
(2)彼らは持ち物を共有する集団であったこと(32節)
(3)この群れを率いる中心的立場にいた使徒たちは、大いなる力をもって、主イエスの復活を証しし続けたこと(33節)
(4)キリストを信じるこれらの人々は、他の人々から非常に好意を持たれていたこと(33節)

このなかで特に二つのことについてさらに考えてみましょう。その一つは、信じる人たちが「心を一つにしていた」ということです。この語は使徒言行録の著者ルカがよく用いるものですが(4章24、32節、5章12節)、内容的には、耳を傾けること、祈りをささげること、讃美を歌うことにおいて、皆同じ方向を向いていたということです。彼らの耳と目と口は、復活の主イエスに向けられていました。彼らは共通のみ言葉と教えに耳を傾け、共通のお方に信仰の眼差しを向け、共通のお方を賛美しつつそのお方を人々に宣べ伝えました。また、パンを裂くことを通して共通のお方の命に触れることが出来ていました。そのことが、彼らが心を一つにすることが出来た最大の要因です。

そしてそのような彼らの一致は、一丸となって復活の主イエス・キリストを群れの外にいる人々に宣べ伝え、証しする行為となって表れ出ました。それによってさらに主イエスとの出会いを与えられた人々が、悔い改めを促され、教会へと導かれました。それは熱狂的でも狂信的でもなく、確信をもって誠実になされたことでしょう。それが、この群れが、外の人々から好意を持たれることに結びついています。彼らは信仰に生きることによって、キリストの善き香りを放っていたのです。

もう一つ注目しておきたいことは、信じた人たちが財産を共有していたということです。彼らの中には富んでいる人もいたでしょうが、多くは貧しい人々であったにに違いありません。それらの人々が心を一つにして信仰共同体を形成していくとき、強制や命令によるのではなく、自然なかたちでそれぞれが自分の持っているものを差し出して共有したり、分配するということがなされたのでしょう。それも思いが一つにされていたからこそできたことでした。しかしこのような財産共有の共同体については、使徒言行録においてこのあと記されるということはほとんどありません。逆にそのことについては語られなくなります。それは財産共有の共同体という形が長く続かなかったということかも知れません。このことについては丁寧な考察が必要ですので、今回はこれ以上触れないことにいたします。

最後にキプロス生まれのユダヤ人であるヨセフ、あるいはバルナバと呼ばれる人の教会への献げものについて記されています。自分に与えられた財産を、教会のためにすべて献げることによって自分自身を献げようとすることは、今日でもあり得ることです。しかしそれは、今改めて社会問題となっている旧・統一教会における献金とは全く質が異なるものであることを、わたしたちははっきり認識しなければなりません。今日、教会において献金について丁寧な説明がなされることはとても大事であることを思わせられます。 

「隅の親石となられた主イエス」

使徒言行録4章1-12節

教師 久野 牧

ペトロとヨハネが足の不自由な人を癒した後、多くの人々が二人のもとに集まってきました。二人は、この出来事は、自分たちの人間的な力によるものではなくて、復活の主イエス・キリストの力によるものであることを、彼らに説明しました。そしてこの主イエス・キリストこそが、イスラエルの人々が長い間待ち望んできたメシア(救い主)であることを証ししたのです。

このことは神殿内で起こりました。そのために神殿のすべてのことに責任を持っている祭司たちや神殿守衛長、サドカイ派の人々が不安や怒りを覚えて、二人を捕らえて牢に入れてしまいました。彼らは多くの人々が二人の周りに集まっていることから、神殿内の秩序のことを心配したのかも知れません。また取り締まりに来たのが復活を信じないサドカイ派の人々が多かったことを考えると、主イエスの復活を力強く証しするペトロたちの教えを、彼らが到底受け入れることが出来なかったということも、二人が捕らえられた理由であったことでしょう。

捕らえられた二人は、次の日エルサレム議会が招集されて、裁判にかけられました。エルサレム議会は、最高裁判所の働きもしていました。議員たちは二人に、「お前たちは何の権威によって、また誰の名によって、こういうことをしているのか」と問うています。つまり、足の不自由な人を癒したこと、そして多くの民衆に向かって、イエス・キリストこそメシアであると説いているのは、どのような権威に基づいて行っていることなのかを尋問しています。彼らは、ペトロとヨハネの背後にいる者はいったい何であるかを確かめようとしているのです。

それに対してペトロは「聖霊に満たされて」(8)語りました。「これは先ごろ、イスラエルの人々が、神を冒涜する者として十字架の死へと追いやった神の子、ナザレの人、イエス・キリストによるものである」とはっきりと述べています。その際ペトロは、旧約聖書の詩編118編22節の「家を建てた者たちによって捨てられた石が、新しい家の親石・土台となった」という比喩的言葉を引用して、これはイエス・キリストのことを指しているのだということを明らかにしています。つまり、詩編の句が預言していることが、イエス・キリストによって成就したということです。神の救いの御計画が、今こういう形で現実のこととなったことを証ししています。議会の人々もイスラエルの人々も、初めて聞くこのことに、大きな驚きを覚えたことでしょう。人間の過ちを用いてまでも、ご自身の救いの御計画を罪人たちのために遂行してくださる神の憐みの大きさが、わたしちの心を捕らえます。ペトロたちは旧約聖書との関係にも触れながら、この主イエス・キリスト以外に、わたしたち罪人を救い得るお方はいない、と力強く宣言しています。少しの陰りもないイエス・キリストを証しする言葉を、わたしたちはここに聞くことが出来ます。

このような大胆な発言は、主イエスがかつて弟子たちに向かって「あなたがたが裁判の席に立たされることがあっても、わたしがあなたがたに語るべき言葉を授けるから、心配するな」(ルカ21章12-15節)と約束されたことが、そのとおりに起こっているものであることを、わたしたちはここに見ることが出来ます。主イエスの約束は必ず果たされます。そしてこの約束は、わたしたちにも与えられていると信じてよいのです。どんな場に立たされても、わたしたちには主イエスを証しする言葉と力と勇気とが、聖霊によって与えられます。そのことを信じて、わたしたちも恐れなく、復活の主イエス・キリストを証しする者としての歩みを続けて行きましょう。今日、教会の存在意義が強く問われています。

「命への導き手である主イエス」

使徒言行録3章11-26節

教師 久野 牧

今日のテキストは、先月の足の不自由な人がペトロとヨハネによって癒された物語の続きで、その出来事に対する人々の反応と、それを巡って語ったペトロの説教が記されています。この出来事を目撃した群衆は、こうしたことが出来る弟子たちはいかなる人物なのかと大きな関心をもっています。弟子たちはこの出来事がどうして起こったのかを説明して、正しい理解を与えることの必要性を覚えるとともに、彼らが向けている自分たちへの関心を、復活の主イエスに向き変えなければならないとも考えています。そのために、ペトロは神の御計画について語ります。

ペトロは初めに否定的な面から語っています。それはこの人が癒されたのは、ペトロたちが持っている人間的な力によるものではないということです。そして人々が真に注目すべきものとして、この出来事の中心に立っておられる目に見えない主イエスを指し示します。さらにこのお方が、自分にとってどのような存在であるかを一人ひとりが真剣に問うように求めるのです。主イエスの力が発揮されることになったのは、癒された男の人の中にある小さな一途な信仰と、主イエスを絶対的に信じる弟子たちの信仰によります。ペトロは何とかして、その信仰を通して働いてくださる復活の主イエス・キリストに、人々の目を向けさせようとしています。

主イエスについて語るとき、ペトロは旧約時代のことから説き明かします。イスラエルの人々が信じている神は、時が満ちて救い主としてイエス・キリスト遣わされた。しかし人々がその主イエスを十字架の死に追いやった事実を述べています。これによってイスラエルの人々が犯した大きな過ちを確認しています。これはその後に続く神の恵みに満ちた事柄へと人々を導くために、どうしても見逃すことが出来ない歴史的事実なのです。次に神は人々が死へと追いやったイエスを、死者の中から復活させられた、と確信をもって語っています(15節)。人々が拒絶し、死の世界へと追いやった神の僕を、神は死者の中からよみがえらせて、人の罪や死の力にまさる神の力をお示しになられました。それによって大きな罪を犯したイスラエルの人々に対する神の愛をも示されたことを、ペトロは強調しています。その神の愛の生きた証拠が、足の不自由な人が癒された出来事である、と訴えています。

説教の第二段階において強調されていることは、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて(神に)立ち帰りなさい」の言葉につきます。そうすれば神は必ず赦してくださると確信をもって語っています。それが神の救いの御計画であることを旧約聖書との関係で説いています。さらにイスラエルの民が神に立ち帰ることによって、イスラエル自身が終わりの裁きの時に備えることになると同時に、この世界をも終わりの時に備えさせることになるのだ、ということが20節以下で展開されています。ペトロは人々に、終わりの時への備えは、何よりもイスラエルから始められるべきであると、「祝福の基」としての自覚を促しているのです。

ところで教会は新しいイスラエルと呼ばれます。歴史上のイスラエルが実際には果たすことができなかった務めを果たすために、神は新しいイスラエルとして教会を招集されました。多くの命が損なわれ、奪われているこの時代の中で、真の「命への導き手」(15節)である主イエスへの立ち帰りと信仰こそがこの世の祝福と希望の唯一の拠り所ある、と語るペトロの言葉は、まずわたしたちがしっかり聞いて、次に確信をもってこの世界に語らなければならないものです。佐賀の地において集められた新しいイスラエルとしてのわたしたちの教会は、主のご委託の務めを果たすために真剣に祈りつつ、務めに全力を傾けたいと願います。

「祈りつつ動き出す弟子たち」

使徒言行録1章12-26節

教師 久野 牧

よみがえられた主イエスが天に昇られた後、弟子たちや主に従ってきた人たちは如何なる生活を送ったのでしょうか。そのことが13-14節に記されています。ここにあげられている人々を、三つのグループに分けて考えることが出来ます。

その第一は、主イエスが選ばれた弟子たちです。それは彼らから離れて行ったイスカリオテのユダを除く十一人の弟子たちの集団です。彼らは主が逮捕されたときや主の十字架の時には皆主のもとから逃げていましたが、復活の主との出会いの後、再びまとまった集団となりました。第二のグループは、「婦人たち」です。これは主が北のガリラヤから南のエルサレムまで宣教の業をしながら旅を続けられたときに、主に忠実に従い仕えてきた女性たちです。彼女たちは主の十字架や葬りの時にも立ち合いました。さらに第三のグループとして、主イエスの母マリアと主の兄弟たちがいます。彼らは当初は主に対して必ずしも好感を持ってはいませんでしたが、今は主を信じる集団の一員となっています。これらの人々は、エルサレムのある家に集まって、「皆…心を合わせて、熱心に祈って」(14節)いました。その祈りの内容は、復活の主が約束してくださった聖霊を求めるものであったに違いありません。やがて神の使者として宣教に出て行くために必要な力の源である聖霊が降ることを祈り求めていました。そしてこの祈りはやがて神によって聞かれることになります。

15節以下を見ると、このように集まって祈る集団の周りには、ほかに全体で120人ほどの人々がいたことが分ります。ペトロは彼らに対して演説をしていますが、それは16-22節に記されています。その中心的な内容は、主イエスが選ばれた十二弟子の中からユダが主を裏切り、そして死んでしまった、だからその欠けを補うために一人を選んで、「十二」という数字を満たさなければならない、というものです。十一弟子たちは、自分たちの仲間であったユダが抜け落ちた痛みを覚えながら、なお主の弟子としての務めを果たすために、一人を補おうとしています。そしてこの弟子たちはやがて「使徒」と呼ばれるようになります。

ペトロは使徒としてふさわしい条件・資格を二つあげています。その一つは主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けて公に宣教活動を始められてから昇天にいたるまで、主と共にいた者ということです。もう一つは「主の復活の証人」と言われることで、復活の主との出会いや交わりの中で主の復活の確信を揺るぐことなく抱いている者ということです。どちらも主イエスの歴史的な存在や働きや、主の身に起こった重大な出来事に固く結びついた事柄が内容となっています。人間的能力や資質ではなく、ただ生けるキリストとの関りの中で、使徒たるにふさわしい働きをすることが出来る者ということが考えられています。今日における教会でのさまざまな務めにつく者の選出も、この基本的な原則に倣うべきでしょう。

この二つの条件・資格を満たす者として、二人の者が挙げられました。この二人のうちどちらを選ぶかは、くじによって決められました。その結果マテイアが選ばれて、十一人に加えられました。こうして聖霊が降るのを待ち、宣教へと派遣されようとしている弟子たちの側の準備が整えられていきました。あせらず、祈りに集中し、神が動き出されるのを待つ弟子たちの集団の上に、やがて約束の聖霊が降るのです。神は祈りつつ待つ者にふさわしい賜物を与えてくださいます。わたしたちの教会は今なすべき務めを誠実に果たしつつ、神が新しく動き出される時を、祈りをもって待つものでありたいと願います。

「昇天の主イエスの約束」

使徒言行録1章3-11節

教師 久野 牧

復活された主イエスは、40日間、弟子たちの前に姿を現されたあと、天に昇られました。その10日後に聖霊降臨の出来事が起こりました。ここで「40」という数字が深い意味を込めて記されています。40という数字は聖書にしばしば登場します。旧約では出エジプトをしたイスラエルの民の荒野の放浪年数が40年と記されています。新約では、主イエスが神の国の宣教という公生涯に入られる前に、荒野でサタンの誘惑に遭われた期間が40日でした。40という数字は機が熟するための準備の時といった意味を持っています。弟子たちにとっては、主の復活を確信できるようになるために40日間が必要でした。今その時が満ちようとしています。

わたしたちそれぞれの信仰の歩みにおいても、この40日に相当する日々がその時々に備えられてきたことでしょう。そしてもしかすると、わたしたちの教会は今、次の段階に備えての「40日間」の時を過ごし始めているのかも知れません。その時期は忍耐の時ですし、また希望の時でもあります。教会にとっての「40日間」が早く満ちて、次の段階へと進みたいものです。

この40日間のある時の食事の様子が、4-5節に記されています。そこに「聖霊による洗礼」という耳慣れない言葉が用いられています。要するにそれは、聖霊の神の働きを受けて、弟子たちが新たに造り変えられることを意味しています。またこれによって新しい時代の到来が予告されています。これまでは、主ご自身が神の御心を弟子たちに直接教えて来られました。しかし新しい時代が始まりました。これからは地上の主イエスに代わって聖霊なる神が弟子たちを導いて行かれます。それは<聖霊の時代>が始まったということです。聖霊を受けた弟子たちはそれをきっかけに復活の証人として、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」(8節)主の証人として働くのです。

そのような宣教や証しの働きをする時の力は、人間的な志の強さや情熱によるものではありません。聖霊の賜物としての言葉と勇気によってこそ、主の復活を証しすることが出来る者となります。それは祈ることによって与えられます。聖霊の賜物が与えられることと祈りは、深く結びついています。今わたしたちの教会にとって必要なことは、この祈る姿勢を強めて行くことではないでしょうか。「神よ、わたしたちの教会の今の状況に御目をとどめてくださって、この教会に必要なものを備えてください」との祈りをいよいよ強くしていきたいものです。

主イエスは40日間にわたって語るべきことを語り終えたあと、天に上げられました。人の目には見えない神のもとに戻られたのです。主が昇って行かれた天を見上げ続けている弟子たちに、天の使いが、主は再び来られるとの約束と希望とを告げています(11節)。それゆえ弟子たちはいつまでも天を見上げ続けるのではなくて、天を見つめる目を次には地に向け直さなければなりません。彼らの働きの舞台は地上なのです。その働きを主は天から見つめてくださり、必要な励ましや支えやときには戒めを、聖霊を通して与えてくださいます。弟子たちには、そしてわたしたちには、天から見つめる主がおられます。この主は憐みに富み、慈しみ豊かで、わたしたちの弱さや貧しさをすべてご存じでいてくださいます。わたしたちの教会のこともすべてご存じです。この方の眼差しの下で、また天から遣わされる聖霊の力によって、わたしたちも誠実な復活の主の証人としての働きを続けたいものです。

「主は問われる、『わたしを愛するか』と」

ヨハネによる福音書21章15-19節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

復活の主イエスは、ガリラヤ湖畔で七人の弟子たちとの朝食を終えられた後に、いきなりペトロに次のように問いかけられました、「シモン、わたしを愛しているか」と。しかもその問いは一回だけで終わらずに、三回も繰り返されました。それに対してペトロはそのつど、「主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」と答えています。さらにそのペトロの答えに対して主は三度、「わたしの羊を飼いなさい」と命じられました。

ここでいくつものことを考えさせられるのですが、何よりも大事なことは、「三度」同じことが繰り返されたということです。この「三」という数字によってわたしたちが思い出すことは、大祭司の屋敷の中庭でペトロが「あなたはイエスの仲間であろう」と三度問われて、三度とも「主イエスなど知らない」と答えたあの出来事です。彼はそこで大きな過ちを犯しました。主はそのペトロの過ちを今、三度、彼の主に対する愛を問うことによって、赦してくださっているのではないでしょうか。自分の犯した罪や過ちの重さで身動きできなくなっているペトロをそこから解放して、新しい使命に生きる者とするための愛の問答を、主はペトロとの間で交わしてくださったのです。主は、罪を犯した者を罰することよりも、その罪を赦して新しく生きるようにしてくださるお方です。どのような罪や過ちも、主の愛によって償われることのないものはありません。主イエスの愛は、赦しによって罪人を造り直し、新しい生へと送り出す力を持ったものです。ペトロにはこの問答の後、どのような生が主によって備えられているのでしょうか。

そのことがここで考えるべき第二のことです。復活の主がペトロに三回にわたって命じられたことは、「わたしの羊を養いなさい」ということです。主はペトロに、今後形成される教会の中心としての働きを期待し、その務めを委ねておられます。そして彼は主のご委託に応えて、死に至るまで忠実に仕える者となるのです(18節参照、殉教の死の暗示)。彼は、「ペトロは最も深く傷ついた者、しかしまた、最も深く主に癒され、愛された者」と言われるべき弟子としての生涯を全うしました。

わたしたちも、思い出すだけで心を掻きえぐられるような罪や過ちを犯して来ました。そのようなわたしたちが、今このように主の前に立つことが出来ているのは、主によって罪を赦されたからにほかなりません。わたしたちに対しても主は、「あなたはわたしを愛しているか」と問われます。わたしたちは、「十分なものではありませんが、わたしは主を愛しています。その貧しさも、わたしなりの真剣さも、主よ、あなたはご存じです」と答えるほかないものです。主はそのようなわたしたちを受け入れてくださいます。わたしたちそれぞれは、主とのそうした結びつきの中で生かされていることの幸いを感謝をもって覚えます。「キリストの愛にふさわしい者が愛を受けるのではなく、愛を受けた者がそれにふさわしく変えられて行くのである」ということが、わたしたちそれぞれにも当てはまるのです。主の愛によってわたしたちは変えられました。その事実に立つとき、生き悩む人、自分を愛せない人、また他者を愛せない人が、この主との出会いによって生きることの喜びを見出し、生きる使命を見出すものとなってほしいと願わざるを得ません。

佐賀めぐみ教会はこれから新しい段階に入ります。この地において、一人でも多くの人が愛の主イエスとの出会いを与えられて、喜びの人生を送ることが出来るように、この教会の宣教と証しと奉仕の業が、ますます御心に適ったものとなり、実り多きものとなりますようにと心から祈ります。

「復活の主との静かな朝食」

ヨハネによる福音書21章9-14節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ガリラヤ湖畔の岸辺には、復活の主イエスが漁から帰って来る弟子たちのために朝食を用意してくださっていました。そこにはパンと、炭火の上に魚が用意されていました。さらに弟子たちが主の命令によって網を打って獲った魚の中から何匹が炭火の上で焼かれました。主はパンと魚を手ずからとって弟子たちに分け与えられました。その朝食の間、弟子たちは誰も主イエスに向かって「あなたはどなたですか」とあらためて尋ねる者はいませんでした。自分たちに網を打つことを命じられた方、そして朝食を用意してくださった方がどなたであるかは、弟子たちは既に分かっていたのです。弟子たちは静かに、そして主と共にいることの幸いをかみしめながら、平安の内に食事を進めて行きました。

弟子たちが主の命令によって舟の右側に網を打って獲った魚が153匹であった、と記されています。この数字は何を表しているのでしょうか。単純にその時の事実を知らせているものと考えることもできます。しかし実際はこの数字については、歴史的にさまざまな解釈があり、いろいろな説明がなされてきました。それぞれが意味があり興味あるものですが、そのすべてを学ぶのではなくて、ここでは一つのことだけをご一緒に考えてみましょう。

それは153という数字は、主イエスが生きておられた時代に知られていた魚の全種類を表しているものであろう、という解釈です。あるいはその当時、ガリラヤ湖で獲れる魚の種類が153匹であったのであろう、という理解がなされることもあります。正確なことはわたしたちには分かりませんが、もしそのように153によってすべての種類の魚のことが意味されているのでしたら、それによってヨハネ福音書は何を語ろうとしているのであろうかを知る必要があります。

それは、それだけ多くの魚が網にかかったことを通して、人間を獲る漁師としての働きをこれから本格的に始めようとしている弟子たちの働きの収穫や目標や、さらには祝福が示されている、と考えることが出来ます。それを示すことによって、主は弟子たちを励ましておられるのです。主は「あなたがたは漁で最初は魚が一匹も獲れなかった。そのように御言葉の種まきにおいても、収穫が全く得られないこともあるであろう。しかし諦めることなく、み言葉の種を蒔き続ける限り、必ず収穫はある。それゆえ、全国民、そしてすべての民族に対してのみ言葉の種まきの働きを、粘り強く続けなさい」、との希望の励ましを与えておられるのです。

さらに弟子たちはこの朝食において主がパンと魚を取って弟子たちに分け与えられたことを通して、同じようにふるまわれたあの最後の晩餐のことを思い出したことでしょう。「あのとき主はまだ生きておられた、しかしその主は十字架の上で死なれた、けれども今こうしてよみがえられて自分たちの前におられる、これは真実だ」という確信が彼らの中に固められて行ったに違いありません。

主イエスを裏切り、主のもとから逃げ去り、十字架の場面でも葬りの時にも立ち会うことをせず、力なくガリラヤに戻って来た弟子たちですが、そのような彼らの前に復活の主が来て、平安を与えてくださっています。弟子たちはこの主がいつも共にいてくださるとの確信の中で、宣教の業に仕える者となっていくことでしょう。わたしたちも主のみ言葉に耳を傾ける礼拝と、主の復活の命に与る聖餐の交わりを通して、主がわたしたちといつも共にいてくださるとの確信をいよいよ強くして、主のご委託にお応えする歩みを続けていきたいものです。

「舟の右側に網を打て」

ヨハネによる福音書21章1-8節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

復活された主イエス・キリストが、三度目に弟子たちの前に姿を現されたのは、ティベリアス湖(ガリラヤ湖)の湖畔でした。そこで主にお会いしたのはペトロを初めとする七人の弟子たちでした。彼らはガリラヤ湖でかつて漁師をしていた人たちやガリラヤ出身の人たちでした。彼らは今故郷に帰ってきていますが、何をしてよいのか分からない状態の中で日々を過ごしていたのかも知れません。あるとき、ペトロの「わたしは漁に行く」というひと声で、他の弟子たちも一緒に漁に出かけました。弟子たちの中には、かつて漁を生業としていた者たちもいました。

しかしその夜は何も獲れないまま帰ってきました。そのとき、湖の岸辺に立っているひとりの人が、彼らに声をかけました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6)。不思議なことに、弟子たちはその言葉に何の疑いも持たずに従って、舟の右側に網を打ちました。その結果、網を引き上げることが出来ないほどの大量の魚が獲れたのです。

この岸辺に立って弟子たちに命じた人が誰であるかに最初に気が付いたのは、「イエスの愛しておられたあの弟子」(7)、すなわちヨハネでした。彼はペトロに「主だ」と声をかけると、ペトロもすぐにそれに気が付いて湖に飛び込んで岸辺へと泳いでいきました。その後他の弟子たちも岸辺に上がり、主が備えてくださっていた朝の食事を共にとりました。これについては来週、ご一緒に考えます。

これはとても不思議な出来事ですが、このことからわたしたちが教えられることはいくつもあります。一つのことは、信仰の成長ということです。弟子たちはそれまで二度にわたって復活の主イエスとの出会いの時が与えられました(20章19節以下と20章26節以下)。しかしまだ主イエスの復活を信じる確信が固まっていないまま、主の派遣命令にも応ぜずに、ガリラヤに戻っています。そのように信仰はあるとき一気に強固なものになったり、少しも揺るがない状態になったりすることもありますが、そうではなくて、信仰は高まったり弱ったりの一進一退を繰り返すものでもあることを教えられます。それにもかかわらず、その歩みは、主の力によってゆるやかな勾配でありながら、少しずつ御心近くへと向かうことが出来るのです。弟子たちはこの出会いの後、しばらくして大きな飛躍をすることになります。

第二のことは、そのように迷いつつ歩く弟子たちを、主がいつも見続けてくださっているという事実です。このことは深い感動をもって覚えさせられます。「ガリラヤで会おう」と弟子たちに約束されたとおりに、復活の主はガリラヤに来られました。そして静かに弟子たちの動きを見ておられました主は、魚が獲れずに落胆している彼らに声をかけて、大漁へと導いてくださいました。弟子たちが気が付いていない時にも(4節「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」)、主は弟子たちに慈しみの眼差しを向けてくださり、ふさわしい助けの手を伸ばしてくださっています。弟子たちは不確かでも、主はいつも確かであられます。

これらのことは、今ここで信仰者としての歩みをなしているわたしたちに対しても同じです。復活の主は、わたしたちの人生の戦場において、また信仰の苦闘の場において、いつもそば近くにいて、わたしたちを見守り、助け、なすべき業を示してくださっています。主に祈りつつ、心の目を向け、心の耳を傾けるとき、きっと「舟の右側に網を打て」という声が聞こえたり、「これは主だ」というほかない主の御業に気づかされることがあるに違いありません。

主日礼拝 2022.05.15

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
奏楽   十時 やよい

前奏
招詞イザヤ書60章1~5節 (旧約 p.1159)
讃美歌26  こころをかたむけ
祈祷
聖書ヨハネによる福音書21章1~8節
信仰告白使徒信条
讃美歌63  いざやともに
説教「舟の右側に網を打て」
牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌224  しょうりの主
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
派遣と祝福
後奏

「疑うトマスと復活の主」

ヨハネによる福音書20章24-29節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

トマスは主イエスの十二弟子の一人です。復活の主が最初に弟子たちの前に姿を現されたとき(20:19)、トマスはその場にいませんでした(20:24)。そのために他の弟子たちが、「わたしたちは(復活の)主を見た」と言っても信じようとはせず、主の体にあるはずの十字架のはりつけによる傷跡を見なければ信じない、と主張しました。これは特にトマスが疑い深い性格の人間であったからそのように疑ったということでは、きっとないに違いありません。むしろ「死がすべての終わりである」という通常の死生観によって、彼は死からのよみがえりなど信じられなかったということなのでしょう。ほとんどの人がそのような考え方を持っている中で、トマスも例外ではなかったのです。しかし彼は今後、弟子たちの中でただ一人、復活を信じない者として生き続けるのでしょうか。

復活の主が最初に姿を現されてから八日後、すなわち次の週の初めの日に、弟子たちはまた集まっていました。今回はトマスもその中にいました。彼は復活を信じる他の弟子たちとは一緒に行動できないと考えたのではなくて、彼らが信じているのなら自分も主に出会って信じる者になりたいという思いで、仲間と共にいたのでしょう。他の弟子たちも彼を受け入れています。そうしたトマスの姿勢を<トマスの疑いの誠実さ>と表現している人がいます。もともと一途な弟子であったトマスは疑いつつも真剣に、主イエスの復活は事実だろうかと問い続けているのです。

この集まりに復活の主はまた姿を現してくださいました。そして前回と同じように、「あなたがたに平和があるように」と告げられました。それだけでなく、主はトマスの疑いをご存じであられたのでしょう、彼に向かって「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27)と言われたのです。自分に対する主の言葉と、自分に近づいてくださる主の温かさに打たれたトマスは、即座に「わたしの主、わたしの神よ」と告白しています。彼がそのとき、主の体の傷跡を手で触ったかどうかは記されていません。おそらく触ることなく、主との再会の瞬間に、主の復活を信じる者へと変えられたのではないでしょうか。主のお姿は、何にもまして圧倒的な復活のしるしとして、彼に迫って来たのです。

主イエスはトマスの弱さに寄り添ってくださっています。主は一人ひとりにふさわしく接してくださいます。このような主のわたしたち人間との関りを、ある人は、「主イエスは人を<個性的に>取り扱ってくださる」と言い表しています。何と感謝すべきことでしょうか。主は、このわたしにも、わたしにふさわしく関わってくださっているということを知るとき、心からの喜びと感謝を覚えます。主にとっては十把一絡げというのはないのです。

こうしてトマスは信じる者に変えられました。あるいは信じられない事柄を主によって乗り越えさせていただき、信じることができるようになりました。今の時代においても、<誠実に>疑う人のもとに主は来てくださって、信じられない状況から、信じることが出来る状況へとその人を移してくださるに違いありません。そのとき、その人の口から「わたしの主、わたしの神よ」との告白の言葉が発せられることでしょう。わたしたちは、信じられない人々のことを覚えて、「主よ、どうぞあの人の信仰の疑いを取り除いて、信じる者に変えてください」とつねに祈り続けるものでありたいと願います。                 (2022.5.8)