「主イエスに触れるとき」

マルコによる福音書5章25~34節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ここに記されている出来事は、主イエスが会堂長ヤイロの家に向かう途中で起こったことです。ここには12年間出血の止まらない病に苦しめられていた一人の女性が登場します。彼女は「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たして何の役にも立たず、ますます悪くなるだけ」でした。さらに彼女にとっての苦しみは、旧約聖書に、出血を続ける女性に関する規定があり、その人は不浄とみなされて、さまざまなことが禁じられていたことでした。肉体的に弱り、経済的に困窮し、宗教的・社会的に隔離された状態、それが彼女が置かれている絶望と孤独の状況でした。わたしたちはこのことをまず把握しておかなければなりません。

そういう中でも彼女の心の内には「どうしても治りたい」という強い思いが燃え続けていました。それが海の波が寄せては返すように彼女の中でうごめいています。その喘ぎの中で、彼女は主イエスの存在を知りました。そして治癒のために残されている道はこの方によるほかないという思いにさせられました。それで思い切って主のもとに行こうとするのですが、律法の規定が彼女を妨げます。群衆の中に出て行ってはならない、他の人と接触してはならない等の禁止条項が彼女の行動を制限します。しかし抑えがたい願いに押し出されて、彼女は主イエスを取り囲む群衆の中に紛れ込みました。それから先どうしたら良いのでしょうか。彼女は窮余の一策として主の後ろからそっとその服に触れるのです。「この服に触れれば癒していただける」と思ったからです。

そのとき二つのことが起こりました。一つは、彼女が癒されたことです。もう一つは、主がご自身の内から力が出て行ったことに気づかれたことです。これらのことに関して、それぞれの体の内に何が起こったかを、わたしたちの知識や能力では説明することはできません。聖書に記されていることをそのまま信ずるほかありません。

主はご自分の服に触れた者を捜されます。主は、混雑の中で群衆がたまたま主の服に触れることと、何かの願いや祈りを込めて触れることとを識別することがお出来になるのです。癒された女性は隠し通すことはできないと思い、とがめられることを覚悟して、震えながら主の前に名乗り出てひれ伏します。しかし主は彼女をとがめたり叱責したりはなさいませんでした。かえって次のように語りかけておられます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(34)。主は彼女の内に<信仰>をご覧になりました。何が信仰なのでしょうか。ある人に信仰があるかないかを判断するのは、わたしたち人間ではなく、主ご自身です。主は、すべてを失った上で失敗すると完全に存在を失ってしまうかもしれない状況の中で、主に頼り主の服に触れる行為に出たこの女性の主に対する一途な信頼を、<信仰>とみてくださっています。

出血の止まらない女性のかすかな指先の動きからさえもその人の苦悩と救いへの祈りを受け止められた主は、わたしたちの言葉にならない祈りにも応えてくださいます。わたしたちが自分自身を主に投げ出す時、主もまたご自身の全力をわたしたちのために注ぎ出してくださるのです。

「少女よ、起きなさい」

マルコによる福音書5章21~24、35~43節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

「わたしの娘が死にそうです」、これは聖書におけるある父親の叫びです。これに似た訴えや叫びは今日でも聞かれます。あらゆるところで命が危機にさらされています。その叫びがしばしば空しく消えてしまうのは、それが、その叫びを正しく受け止めてくださる方に向けられていないからかもしれません聖書においては、その叫びが主イエスに向けられることによって、娘の命が救われた物語が記されています。その出来事に耳を傾けてみましょう。

ユダヤ教の集会所(会堂)において責任を持っている会堂長のヤイロという人物が、死にそうな娘のために今、主イエスのもとにやってきて、この訴えをしています。このことはヤイロにとってはある種の冒険でした。なぜなら、そのころ既にユダヤ人たちの間にイエスに対する殺意を抱く者たちが現れていたからです(3:6参照)。そういう中でユダヤ人の指導者が主の前にひれ伏すことは、人々の反感を買って、彼自身の身に危険を招くことになるかもしれないからです。しかしヤイロにおいてはその恐れよりも、娘に対する愛の方が勝っていました。その愛が彼を主のもとに走らせているのです。

主は、ヤイロの訴えを聞いてヤイロの家に向かわれます。「よし、行こう」とすぐに動き出さる主のお姿にわたしたちは平安と希望を抱かせられます。しかしその道行きの途中で、中断を余儀なくさせられることが起こりました。それは長い間出血の止まらない女性が主に癒しを求めたことです。主はこの女性にも丁寧に対応されるのですが、気になるのはヤイロの気持ちです。「早く家に案内したい」という焦る気持ちが、主に対する信頼を薄くしてしまわないだろうかと考えさせられます。わたしたちもしばしば、主のわたしたちへの関わり方がのろい、遅いと感じることがあるかもしれません。わたしたちは身勝手に主に対して、自分の方だけを見ていてほしいと願うのです。

さらにヤイロにとって次の試練が襲います。それはヤイロの家の人たちがやってきて、「娘さんは亡くなりました。主イエスに来ていただくには及びません」と告げたからです。死んだ者はもはやどうすることもできないという考えが家の人たちにあることが分かります。ヤイロはどうしたでしょうか。彼は岐路に立たされています。しかし主はヤイロの判断を待つことなく、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言って、ヤイロの家に向かって行かれます。少女の死の知らせは、主にとっては何の妨げにもならないのです。

ヤイロの家に着くと人々は少女の死を悼んで泣き騒いでいました。しかし主は構うことなく娘のもとに行き、「タリタ、クム」と言われました。それはアラム語で、「少女よ、起きなさい」という意味です。あたかも眠っている子を起こすかのように声をかけておられます。その言葉によって少女は起き上がりました。生き返ったのです。主なる神の力が御子イエスを通して驚くべき事態を生じさせています。これは、やがて起こる主イエスの死からの復活の予兆ですし、また終わりの時のわたしたちの「からだのよみがえり」の約束のしるしです。主に結びついて死んだ者に、主は終わりの時に「起きなさい」と声をかけて、死から命に移してくださるでしょう。

「幼子イエスの苦しみ」

マタイによる福音書2章13~23節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ベツレヘムで神の御子の誕生をお祝いした学者たちが、ヘロデのもとに立ち寄らないで東の方に帰った後、ベツレヘムでは何が起こったでしょうか。2章17節では、学者たちにだまされたことを知ったヘロデ王が、怒りと恐怖の中でベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子を一人残らずに殺したことが記されています。残虐極まりないことが起こっています。そのようなヘロデによる危害から御子イエスはどのようにして免れることができたのでしょうか。それは神の使いがヨセフに現れて「エジプトに逃げよ。神のお告げがあるまでそこに留まれ」と命じたからでした。

ヨセフの一家がエジプトに逃げた後、ヘロデは上に述べましたような残虐な行為を行っています。自分の王としての地位を将来脅かすことになるかもしれない者を彼はすべて無きものにしようとしています。そのヘロデが死んだ後、主の使いがエジプトにいるヨセフに現れてヘロデの死を知らせ、イスラエルに帰るように促します。しかしイスラエルの国では、ヘロデの息子アルケラオが新たに王となっていました。主の使いがまた現れて、南のユダヤではなく、北のガリラヤ地方のナザレに行けと命じました。そのナザレで主イエスは少年期・青年期を過ごされることになります。イエスはこうして「ナザレのイエス」と呼ばれるようになりました。

このように御子イエスは誕生と成長の幼い時から、既に多くの苦難と恐怖を味合われました。それは何を意味しているのでしょうか。それは、それらのことの中に、のちに受けられる十字架の苦難と死が予兆されているということです。「イエスの飼い葉桶には既に十字架の影がさしている」と言われることもあるくらいです。

しかし御子イエスはそうした苦難と脅威の中でも神によって守られました。神の救いの御計画が、御子の十字架によって成し遂げられるまでは、御子イエスは死んではならないのです。罪人の救いという大事業が果たされるまでは、主イエスは苦難をくぐり抜けて行かなければなりませんでした。事実、父なる神はそのようにしてくださいました。見えない御手によって、御子イエスを危機から守り続けられました。そして神の御計画の完成の時が来たならば、神は御子の命が奪い取られることさえお許しになり、永遠の昔から立てておられた罪人の救いを完成なさるのです。なんと人知では測り知ることの出来ない神の御計画の深遠さであろうか、またなんと神のわたしたち罪人を救おうとされる愛と熱意が変わらざるものであろうかと考えさせられます。

ところで主イエスのご降誕は旧約聖書の預言が成就したということをわたしたちは教えられましたが、御子のその後のことも既に旧約聖書に預言されていたということをマタイは繰り返し明らかにしています。15節、18節、そして23節の引用は、それぞれ旧約聖書からのものです。これによってマタイは、御子に起こるすべてのことは偶然のことではなく、既に神の御計画の中にあったことを明らかにしています。そのようにして神はずっと御子と共におられて、救いの御計画を実行して行かれたのです。

「その子をイエスと名付けよ」

マタイによる福音書1章18~25節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

系図の最後に「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(17)と記されていることの詳細が、18節以下で展開されます。ヨセフとマリアは結婚の約束はしていましたが、まだ一緒に住んではいませんでした。そういう中で、夫となるヨセフに、マリアの懐妊の知らせがもたらされたのです。それは聖霊によるものでしたが、初めの内はそのことが分からないヨセフにとってそれは大きな苦悩となりました。もしかしてマリアの胎内の子は他の男性の子かも知れないと思い悩んだヨセフは、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろう」としていたのです。御子の誕生に関してルカによる福音書ではマリアの戸惑いが記されていますが、マタイによる福音書ではこのようにヨセフの苦悩が強調されています。クリスマスの出来事は、明るさから始まったのではなく、暗さと苦悩から始まりました。

思い悩むヨセフに、主の天使がさらに「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったものである。恐れずマリアを迎え入れなさい」と告げました。神が特別な働きを通して、マリアの胎内に御子を宿されたのです。そしてその胎の子は男の子であり、名前を「イエス」と名付けなさいとまで告げ知らされています。

この段階でヨセフにこのことの深い意味が理解できたかどうかは不明ですが、天使が告げたとおりに彼は恐れと疑いを乗り越えて、マリアを妻として迎え入れました。そしてやがて二人の間に、天使が告げたとおりに男の子が生まれ、その子の名をイエスと命名しました。

ところでヨセフは「正しい人であった」(19)と記されています。「正しさ」とは何でしょうか。ヨセフにとっての正しさとは、神の律法に従うことでした。マリアの懐妊が姦淫の結果であれば、律法に従って彼女を石打ちにする、それが律法に従うときの彼の正しさです。それは彼にとっては耐え難いことでした。しかし、律法に正しく従うということにはもう一つの面があります。律法の精神は「愛」です。それを実行することがもう一つの正しさです。ヨセフはこの愛を選択します。マリアの胎の子の由来を問うことをせずひそかに離縁し、彼女を独身の女性として自由にすることによって、彼女に姦淫の罪がないものにしようとしているのです。彼女を何とかして救おうとしていることに彼の愛があります。神はそのように彼の苦悩の窮まるところでヨセフに臨み、マリアの懐妊をめぐる真実が明らかにされるのです。彼は苦悩から解放されました。

 神は、そのようにわたしたちの苦悩がもっとも深くなるところに臨んでくださって、わたしたち一人ひとりに苦悩からの解放を与えてくださいます。苦悩や憂いは神を閉め出すのではなく、神との出会いの場となりうるのです。クリスマスを迎えようとしているわたしたちにも、喜びだけでなく、不安や痛みや重い課題があります。明るく輝くクリスマスの時期だからこそ、返って自分が抱えている闇は暗さを増すことがあります。しかしそのようなわたしたちに対してクリスマスの神は、「恐れるな。わたしはいつもあなたがたと共にいる」と語りかけてくださるのです。この「あなたがた」の中に、ここにいるわたしたち一人ひとりが含まれています。

「イエス・キリストの系図」

マタイによる福音書1章1~17節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

本日と次週13日の礼拝は、待降節の説教として、マタイによる福音書1章を取り上げます。そして12月20日のクリスマス礼拝では、2章1~12節からクリスマスのメッセージを聞き取りたいと考えています。

この系図はイスラエルの祖先アブラハムから始めて、ヨセフの妻マリアから御子イエス・キリストがお生まれになるまでの流れが言い表されています。歴史的に必ずしも正確ではありませんし、全期間を14代ずつ三組に分けているのも人為的な感じがします。しかしこれは史実に正確であることが本質的なことではなくて、この系図全体を通して神の約束が果たされたことを言い表そうとしているものです。したがってこの系図は厳密な歴史的記述というよりも、イスラエルの民の信仰告白という方が当たっているでしょう。いくつかの特徴があるのですが、ここでは二つの点に絞ってご一緒に考えてみましょう。

一つは、神が大いなる繁栄を約束されたアブラハムから始まって、その末にメシアが誕生すると告げられたダビデを経てイエス・キリストに至る過程における最終段階で、つまりイエスの誕生において、血の流れが途切れているということです。アブラハムの系統を引いているのはヨセフです。しかし、イエスはヨセフの血を引く子ではありません。それでは母マリアがアブラハムの系統の末かと言うと、そのことは系図で言い表されていません。それでもイエス・キリストはダビデの子と言われています。なぜなのでしょうか。それは、母マリアがダビデの末のヨセフと結婚することによって、マリアが生む子は、その誕生のいきさつがいかなるものであれ、ダビデ家の末となる、というのがイスラエルの考えだからです。こうして、神が先祖に約束された救い主の出現は、長い時間をかけながら現実のこととなりました。それを明らかにすることによって、この系図は神の約束の真実を告白しているのです。系図の中に「神は偽るこのないお方である」という信仰を読み取ることができます。

もう一つの特徴は、この系図の中にマリアを除いて四人の女性が登場していることです。タマル、ラハブ、ルツ、そしてウリヤの妻(バト・シェバ)です。これらの女性は際立って立派な人であったかと言うとそうではありません。彼女たちは皆、非ユダヤ人(異邦人)であり、子どもの出産に当たって、それぞれに罪や過ちが伴っています。できれば系図に載せたくない人たちです。そうした女性が系図の中にあえて加えられることによって、系図が汚れるということはないのでしょうか。そうではありません。そのことによって言い表されていることは、ユダヤ人以外の血が混入したり、過ちが犯されたりしても、神がいったん約束されたことは必ず果たされるということです。さらに神は社会的にまた、世間的に地位の高い者や優れている者をご自身の計画を実行されるときの器として用いられるのではなく、逆に貧しく汚れにまみれている者を用いてご自身の救いの業を進めていかれるのです。そのような神であられるからこそ、ここにいるわたしたちも神の救いに与ることができるものとされています。誇るべきものを何も持たないわたしたちですが、この系図の末にお生まれになったメシアは、まさしくわたしたちのためのお方です。

「悪霊からの解放」

マルコによる福音書5章11~20節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

墓場を住まいとしていた男の人は、今主イエスと出会っています。主が彼の名を聞かれたことは、彼との深い関係の始まりです。ただ、この男の人の口から発せられる言葉は、わたしたちにとっては分かりにくいものがあります。それは、彼自身が言っているのか、それとも彼に取りついた汚れた霊どもが言っているのか、その区別ができないからです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」というのは彼自身の言葉でしょう。一方、自分たち(複数)をこの地方から追い出さないように願っているのは、彼の中にいる汚れた霊たちです。わたしたちは、彼自身と彼を狂わせている汚れた霊たちとが、区別されないほどに彼自身の中で一体化している険しい現実を見せつけられます。

次に難しく思われるのは、汚れた霊どもが彼の中から出て行って、そこにいた二千頭の豚に乗り移った現象です。何が起こったのでしょうか。ただ一つはっきりしていることは、この男の人が自分の中に住みついている霊が自分から出て行ったことを確信できるためには、それを証拠立てる目に見えるしるしが必要だったということです。そのしるしとして、乗り移った霊によって豚の大群が湖になだれ込むという特別な事象を主は起こされたのです。ここで別の視点から問題にされるのは、二千頭の豚の死です。それがひとりの人の癒しに必要だったとしても、豚の所有者の立場から言えば、貴重な財産が失われたことであり、大きな損失です。そのことに関しては、聖書は何も述べていません。今日的な価値観に立って主を責めることよりも、ひとりの失われた人が癒され、社会へと回復させれられたことをわたしたちは喜ぶべきでしょう。

さて、主によって癒され、本来の姿に戻ったこの人は、主がこの地を離れようとされるとき、主に同行することを願い出ました。それは、自分を墓へ追いやったこの地の人々と共に住むことを忌み嫌ったからというよりも、主イエスと共に新しい生き方をしたいと願ったからではないでしょうか。主に従い、神の国のために仕えたいと彼は願っているのです。しかし主はそれを押しとどめて、この地に残って、自分の身内から始めてこの地の人々に主がしてくださった大きな憐みの業を宣べ伝えるように命じられました。郷里の人々に対して、彼は神の国の宣教の務めを与えられて、派遣されようとしています。彼が宣べ伝えることによって、郷里の人々に一時的な混乱が生じることがあるかも知れません。しかし、必ずその混乱を超えて平安と救いとがこの地にもたらされることを主は確信しておられます。彼は主の命令に従いました。

最後に現地の人々に目を向けてみましょう。外からやってきたイエスによって、さまざまな思いもよらないことを見せつけられた人々は、主にこの地から出て行くことを求めました。侵入者によってこれ以上自分たちの生活を混乱させられたくないという思いからです。彼らは男の身に起こった事柄の中に神的なものを見ようとするよりも、自分たちの生活の安泰を選んだのです。「現状維持が安全」という生き方からは新しいものは生まれてきません。自分たちに構わないでほしいと願う人々に、主が食い込んでくださることを願って、わたしたちも主の証しをいよいよ強めなければなりません。

「墓場を住まいとする人」

マルコによる福音書5章1~10節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

わたしたち人間にとって屈辱を覚えたり、耐えられない思いにさせられることは何でしょうか。人によって異なるかも知れませんが、おおむね共通のこととして、人間としての尊厳が奪われること、また自分の存在が無視されるということがあるのではないでしょうか。今日でも、ある人が他者の存在を傷つけることは人間疎外・人格否定という形で、現実にしばしば起こっています。

そのように人間としての尊厳が傷つけられた時、人はどのような反応を示すでしょうか。その一つは外に向かう反応で、自分を守るための手段として暴力を用い、自分の存在を荒々しく主張するということがあります。今日登場する男は名前を聞かれたとき、ローマの軍隊を意味する「レギオン」という名で自分を言い表しているのも、その一つの表れです。他方、内面に向かう反応もあり、その場合は悔しさや悲しさや痛みが激しく自分を責めさいなみ、心と体の変調をきたすという痛ましい状態になってしまいます。その人は異常な精神状態、いわゆる「狂った」と人から見られる状態に陥るのです。

今日主が出会われた男の人は異邦のゲラサ人であり、「汚れた霊に取りつかれている」ということで説明されるような、自分の力では制御できない異常な精神状態に置かれています。そのため人々によって墓場に追いやられました。その惨めさの中で、彼は自分を縛る鎖や足かせを破壊するほどの力を表していました。しかし、それによって他者を傷つけることはしませんでした。自分自身を傷つけ、石で打ち叩き、大声をあげて日々を過ごしていました。人から傷つけられたくないという思いが、自傷行為を行わせているのです。

そこに主が現れました。ガリラヤ湖のほとりで、先に「向こう岸に渡ろう」(4:35)と言われた向こう岸とは、異邦人のゲラサ人の地でした。墓場を住まいとしているこの人は、主イエスに出会ったとき「いと高き神の子、かまわないでくれ」と叫んでいます。精神の狂いの中にあっても、彼には聖なるもの・神なるものを見分ける力が備わっていたのかもしれません。さらに彼の「どうかわたしの邪魔をしないでほしい。ほっといてくれ」との叫びの背後に、これまで彼に関わった多くの人が彼を苦しめた過去が隠されているように思います。彼は他者に干渉されたくないのです。しかしそれは裏を返せば、真実に自分を受け止めてくれる人を求めている切なる叫びなのかもしれません。

主は彼の叫びにも拘らず彼に近づき、名前を尋ねられます。主は、この人は汚れた霊に取りつかれているという判断をなさって、次のように命じられました、「汚れた霊、この人から出て行け」と。その応答として「自分たちをここから追い出さないで欲しい」という言葉が記されています。これは彼の中に取りついている汚れた霊たちの叫びですが、実際は、彼自身の声として発せられたに違いありません。彼と、彼に取りついている汚れた霊たちは区別できないほどに一体化していることが分かります。主イエスは「かまわないでほしい」とのこの人の叫びに対して、「わたしはあなたに関わりたいのだ」と言って、彼の癒しに取り掛かられます。そのようにして主との出会いが彼に起こり、彼は癒されるのです。今もその主は働いておられます。

「なぜ怖がるのか」

マルコによる福音書4章35~41節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは数多くの奇跡をなさいましたが、今日のものは自然界に対して主が特別な力を表された出来事です。主は多くの群衆に神の国についての話をなさった後、ガリラヤ湖の向こう側のゲラサ地方に向かうために弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と声をかけられました。そのようにして主と弟子たちの舟は漕ぎだされたのですが、途中で激しい突風と波のために大きな危機に遭遇しました。弟子たちは必死になって舟を沈没から守るために働きました。しかしその状況は「おぼれ死ぬ」とさえ感じるほどでした。

その時弟子たちは、主イエスが船尾の方で眠っておられるのに気が付きました。弟子たちは怒りを抑えながら、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と声をかけ、主を起こしています。主は目を覚まされて、弟子たちに対してでなく波風に向かって「黙れ、静まれ」と叱られました。それによって「風はやみ、すっかり凪になった」のです。主は自然の力を制されました。そして弟子たちに対しては「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけておられます。これがガリラヤ湖の嵐の舟の中で起こった出来事です。

主は弟子たちの何を問題にされているのでしょうか。「まだ信じないのか」によって知ることができるのは、主は弟子たちが既に主に対して強い信頼をいだいていることを期待しておられたということです。寝食を共にし、神の国についての教えを繰り返し聞かされ、主の奇跡を通しての特別な力も体験してきた弟子たちでした。主はそうした弟子たちの内に主への揺るがない信頼が築き上げられている、と考えておられたに違いありません。しかし嵐の中での弟子たちの心は、主が期待しておられるところにまでは達していませんでした。

嵐の湖の中で漂う舟は古来、教会を象徴するものとして受け止められてきました。舟には主がおられる、しかしその舟も嵐にあうことがある、それは教会も同じです。その中で弟子たちは主への信頼を見失って自分たちの力ではどうしようもないところにまで追い込まれている、地上の教会も同じです。その時主ご自身が立ち上がって舟のために力を発揮してくださり、舟と弟子たちを危機から免れさせてくださいました。地上の教会も同じです。教会を危機から守ってくださるのは、いつも主です。

さらにこのことは、信仰者個人のことにも当てはまります。主を信じる道を歩みながら、さまざまな嵐にあうわたしたちです。慌てふためき、必死で自分の知恵と力でそれに対抗しようとします。しかしついに力尽きたところで主を思い出し助けを求めると、主はわたしたちを危機から助け出してくださいました。波に向かっての「ここまでは来てもよいが越えてはならない」(ヨブ記38:11)との言葉のように、この世の荒波を制してくださるのです。弟子たちと共に漕ぎだされた主が弟子たちを嵐から守られたように、この世に生きる信仰者を集めて、自らかしらとなって教会を結集された主は、「波にもまれてもなお沈まない」ものとして教会を守り、信仰者一人ひとりの歩みを支えてくださいます。だから「怖がらなくてよい」のです。

「小さな種、大きな実り」

マルコによる福音書4章26~34節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスの短いたとえ話が続いています。今日は26~29節の「成長する種のたとえ」と、30~32節の「からし種のたとえ」の二つです。それぞれについて考えてみましょう。

最初のものは、土の中にまかれた種が人の力によらないで成長していき、そしてついに実が熟して刈り入れの時が来るまでの様子を描いたものです。これは、種が本来持っている生命力の不思議さや神秘さを強調したものです。それによって、主は、そこで働く人の力を超えた神の力の神秘さに人々の目を向けさせようとしておられます。このたとえによって、み言葉の種がまかれて、それが少しずつ成長し、いくつかの段階を経ながら、ついには教会というかたちあるものが形成されるということが示唆されています。

実際の種まきの時に人間の働きが欠かせないように、み言葉の種まきにおいても人の働きは欠かせないものです。祈りや学びや交わり、そして証しなどの働きを通して、み言葉のもとに人々が結集して、教会が形作られます。しかしそのような出来事の本来的な原動力は、人間の力をはるかに超えた神の力です。使徒パウロは次のように述べています。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。ですから大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(コリント一、3:6~7)。

この成長させてくださる神に常に目を注ぎ、この方への熱い信頼に立って、わたしたちはただひたすら御言葉の種まきと水注ぎをしていけばよいのです。結果は、神がもたらしてくださるでしょう。

第二のたとえは「からし種のたとえ」と言われるものです。どんな種よりも小さいからし種が成長すると、想像できないほどの大きさになり、その枝に鳥が巣を作るほどになるという内容です。小さい始まりの中に、大きな実りが隠されています。主イエスの宣教活動も同じでした。神から派遣されてお一人で御言葉を宣べ伝え始められた主は、やがて12人の弟子を集められました。様々な困難に遭遇しながら、主は12人と共に神の国のことを人々に語っていかれました。弟子たちがこのたとえを聞いている時点では、主の周りにいる人々はほんのわずかでした。十字架の死の時には、その12人も散り散りになってしまいました。しかし、彼らは再結集され、主の復活を宣べ伝える者とされ、やがて教会の設立へと導かれて行きました。主はいつも「このままで終わることはない」と弟子たちを励まし続けられたのです。

地上のすべての教会も同じです。わたしたちの佐賀めぐみ教会も同様です。一人から、あるいは二、三人から始められた宣教の業は、「一人が種をまき、別の人が刈り入れる」(ヨハネ4:37)ということの連続や積み重ねの中で、やがて形あるものとなっていきます。成長させてくださる方が必ずそうしてくださるのです。その間の様々な困難や戦いを主はご存じです。その上でなお主は、わたしたちを種まきのために用いられます。主はその先に豊かな実りを用意してくださっているからです。

「あらわになる神の国」

マルコによる福音書4章21~25節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日の主イエスのお話しは、4章10~12節と同じように、12弟子や主のそば近くにいた人たちに対して語られたものと考えられます。主イエスは格言風、あるいはことわざ的な短いたとえを通して、人は神の言葉といかに向き合うべきかを教えておられます。ここには四つのたとえがありますが、それぞれについて短く考えてみましょう。

第一は「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」というものです。これは、明かりは物陰においてもその本来の役を果たすことはできない、燭台の上においてこそその役割を果たすことができる、という意味です。すなわち、神の言葉である福音は、ひそかに語られるものではなく、高々と掲げられて人々の前に堂々と差し出されなければならない、ということを主は教えておられます。

第二は「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」です。これは本来、何かをどんなに隠蔽しても、いずれはそれは明るみに出るという意味です。これが福音に適用されるとどうなるでしょうか。それは、初めの内は福音の真理はヴェールがかかったもののように覆われていても、必ず人々が理解できるものとして明らかになってくるということです。種まきから実りまで時間がかかるように、み言葉を聞いてから信仰が芽生えるまでも多くの時間が必要である、しかしついには実りの時が来るのだ、という約束が語られているものでもあります。

第三のものは「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられる」というものです。これは本来商売上の戒めで、不正な秤を用いて何かを売った者は、自分が買うときにも同じ不正な秤で買わなければならなくさせられるという戒めです。それは福音に関してはどうなるでしょうか。小さく見積もってしか福音を聞かない者は、小さくしか与えられない、しかし、大きな期待を持ち、白紙のような気持ちで福音に向き合うものは、豊かな恵みと賜物を受けるであろう、という約束が語られているものです。

第四のものは「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」です。これは神の言葉を聞く姿勢を正しく持っている者は豊かに与えられ、逆にヘリくだりや熱心を伴わない傲慢な聞き方をする者は、それ相当のものしか受け取ることができない、という戒めです。

このように四つのたとえはいずれも、正しく聞きなさいという警告と共に、謙虚な思いと熱心を持って神の言葉に耳を傾ける者は、救いの恵みを豊かに受け取ることができるとの祝福の約束を語っています。神の言葉には、神ご自身の存在の重みが伴っています。そうであるならば、それに耳を傾ける私たちも自分の人格を傾けて御言葉と向き合わなければなりません。そうすることができるとき、私たちは御言葉の中に神の命の鼓動を聞き取って、それが私たち自身の命の鼓動となることでしょう。御言葉を共に聞く場へと人々を伴うこと、それが御言葉を正しく聞く者たちの務めです。