「神の選びの愛と真実-パウロの説教の中心」

使徒言行録13章13-25節

教師・久野 牧

キプロス島での伝道の働きを終えたバルナバとサウロは、次にピシディア州のアンティオキアにやって来ました。ここでの記述で注目すべき三つのことがあります。一つは、サウロの呼び名が全面的に「パウロ」に変わったという点です。13節以下でサウロの名はパウロに統一されています。第二は、これまで「バルナバとサウロ」という順序で呼ばれることが多かった二人が、13節以下ではその順序が逆になって、「パウロとバルナバ」となっている点です。第三点は、「ヨハネ(・マルコ)」という同伴者が途中から、エルサレムに引き返したという出来事です(13節)。このことは15章で新たに問題にされますので、その時にもう少し詳しく考えます。

こうしていくつかの変化や出来事を伴いながら、パウロたちの伝道活動が進められて行きました。パウロたちはいつものように安息日にユダヤ人の会堂に入りました。そこで聖書朗読の後、会堂長(ユダヤ人)がパウロたちに「何か励ましのお言葉を話して欲しい」と願い出ています。それに応えてパウロが行った説教が、16-41節に記されています。今日はその前半の17―25節に記されている旧約時代から洗礼者ヨハネに至るまでのことをご一緒に学びます。

パウロは話しを始めるに先立って、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」と呼びかけています。「イスラエルの人たち」とはその地に住むイスラエル人のことです。彼らはイスラエルの神を信じています。「神を畏れる方々」とはイスラエル以外の外国人で、ユダヤ教に帰依し、ヤㇵウェ神に対する信心を持っていた人々のことです。そうした人々が礼拝をささげていました。パウロはイスラエルの神への信仰の下で約束されていた救い主(メシア)の到来を待ち望んでいるこれらの人々に向かって、「あなたがたが待ち続けてきたメシアは、あの十字架のイエス・キリスト、その方である」と証ししました。パウロはイラエルの歴史を導いた神が送ってくださった約束の救い主はイエス・キリストである、と述べています。彼がこの救い主イエスについて語るに先立って、イスラエルの歴史を丁寧に振り返るのは、それを導いたのはここにいる人々が信じているイスラエルの神そのお方なのだ、ということを証しするためでした。パウロは壮大な歴史の主語である「イスラエルの神」に注目させています。民を選び、それを愛し、救い主を送るとの約束を果たすという一切の出来事と歴史の主は、イスラエルの神であるということです。

このように歴史を導かれた神に対して、選ばれたイスラエルの民は、いくたび反逆し、他の神々に心を寄せることによって神の御心を痛めさせたことでしょうか。しかしパウロは民の罪について多くを語るよりも、民に対する神の忍耐と憐みと赦しを強調しています。民の罪以上に歴史において際立っているのは神の愛、慈しみ、恵みです。それがパウロの説教の核心です。

わたしたちはイスラエルの歴史と自分たちの歴史を同一視することはできませんが、わたしたちもまた何と繰り返し神を裏切って来たことでしょうか。各人の歴史には罪や過ちや痛みが伴っています。しかしそれ以上に、神の赦しや守りや支えの方がはるかに多いのです。その事実をわたしたちが自分の歴史の中に見届けることが出来るならば、何と幸いなことでしょうか。わたしたちも神に選ばれて、新しい神の民イスラエル、即ち教会の民の一員とされています。この神による選びは、わたしたちの信仰いかんによって変わるものではなく、終わりの時まで貫かれます。それが神の真実です。それゆえわたしたちも真実の限りを尽くして、この神への服従に生きたいものです。