「命を救うことと殺すこと」

マルコによる福音書3章1~6節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

先週に引き続いて安息日における出来事が記されています。場所はユダヤ教の会堂内です。多くの人が礼拝を捧げるために集っていましたが、その中に片手の萎えた人がいました。彼はいつも礼拝に出ていたのか、その時たまたまそこに集ってきたのかは不明です。もしかすると主の敵対者になりつつあるファリサイ派の人々のある魂胆によって、そこに連れてこられたのかもしれません。つまり、安息日に主イエスがこの手の不自由な人をどうなさるかを試すために彼は連れてこられたということもありえます。彼の癒しを求めてではなくて、主を陥れるための道具としてひとりの人が用いられようとしている、それは許されることではありません。主はそれを見抜いておられました。

主はこの人に命じられました、「真ん中に立ちなさい」と。主はこの人の癒しにとりかかろうとしておられます。この人は会堂の隅にいて、できるだけ目立たないようにしていたのかもしれません。しかし、主は彼を真ん中に、そして主の前に呼び出されるのです。これですでに彼の癒しは始まったと考えることもできます。それと同時に主は、彼を道具のように用いようとしている人々の歪んだ心をも癒そうとしておられるのです。「あなた方の心も萎えている。それも癒しの対象だ」と主は暗に語っておられます。そのとき主は人々に問われました。「安息日に許されているのは、命を救うことか、それとも殺すことか」と。人々は答えません。答えは明らかなのですが、答えると彼らの意図が台無しになるために黙っています。

主は手の萎えた人にさらに命じられました、「手を伸ばしなさい」と。すると彼の手は元通りになりました。癒されたのです。人々は、安息日に命に関する緊急性のない病やけがは癒してはならない、という安息日規定に立って、主がもしこの手の萎えた人の癒しの行為を行ったら、当局に訴えるつもりでした。しかし、安息日に命が大事か、否かと問われて答えることができなかった人々は、主の癒しの業に対しても何も言うことができないままでした。ただ主イエスに対する憎しみの思いを強めることだけでした。彼らについて「ここに病人を癒した人を憎むという全く異様な人々がいる」と述べた人がいます。彼らは憐れとしか言いようがありません。

主は今も、隅の方にいる者には「今いる狭い場所から真ん中に出て来なさい」と、生き方に伸びやかさを失っている者には「手を伸ばしなさい」と、内にこもりがちな者には「萎えた心をわたしの前で広げなさい」と、それぞれにふさわしく呼び掛けておられます。そして、主の前で、伸ばした手で、開いた心で、主が差し出してくださる恵みをしっかりと受け取るようにと招いておられます。こうして、主はそれぞれの内にご自身の恵みを注ぎ込んでくださるのです。そのような主の招きを聞き取る日として主の日の礼拝に集う人々が多く与えられることを、わたしたちは祈り続けましょう。

「安息日の主はだれか」

マルコによる福音書2章23~28節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日は、安息日のことが取り上げられています。安息日は、ユダヤ教においては、神が六日間の創造作業を終えられて七日目に休まれたことから、週の終わりの日・土曜日がそれにあたります。十戒の第4戒では、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と命じられています。「聖別する」とは、他の日々からはっきりと区別せよ、という意味です。したがってユダヤ教は、その日は労働を休み、神に礼拝を捧げる日として守ってきました。その後ユダヤの人々はさらに安息日規定を細かく定めて、主イエスの時代には、禁止条項(「安息日には~してはならない」の規定)が千にも及んだとのことです。

主の弟子たちがある安息日に麦畑で麦の穂を摘んで食べました。それは禁止されている労働に当たるということで、ファリサイ派の人々が主に抗議しています。そのとき主は、サムエル記上21章1~7節に記されていることを持ちだして、彼らに反論されました。それはダビデがサウルの手から逃れていた時に、ある礼拝所で、空腹の供の者のためにパンを求めました。祭司のみが食べることを許されている、その日祭壇から下げることになっていたパンを、祭司はダビデと従者に差し出しました。そしてそれは何の咎めも受けていないのです。それは律法の精神は憐みであって、律法を機械的に遵守することに意味があるのではない、ということを意味しています。わたしたちには分かりにくいことですが、人が定めた安息日の禁止事項が厳格に守られることより、安息日に命が守られ、命が新たにされることの方が大切であることを主は教えておられます。それによって主はファリサイ派の抗議を退けておられます。

さらに主は、「安息日は、人のために定められた」や「人の子(主イエス)は、安息日の主である」ということも語っておられます。前者は、安息日規定は、人の真の安息、すなわち神からの安らぎを得ることが目的として定められていることを意味しています。人は、この日仕事を中断して神の前に出て、神との交わりの恵みにあずかるのです。

そして後者は、主の復活の後に建てられた教会が、キリスト教の安息日を従来の土曜日から、主の復活の記念の日である日曜日に移したことと関係して考えることが大切です。この日は、「主の日」と呼ばれるようになりました。教会はこの日を主に属する日として他の日々から区別し、この日特別に主の前に出てくることによって、真の憩いと平安に与ることができるようにしました。それが主の日の礼拝です。この礼拝の主宰者は、復活の主です。主の日の中心に立っておられるのは復活の主であることが、「人の子は安息日の主である」によって言い表されています。礼拝への主の招きに応えることが、この日の最もふさわしい過ごし方であることをわたしたちは教えられるのです。

礼拝を捧げる主の日が、わたしたちにとって重苦しい日となるのではなくて、逆に御言葉と聖霊において臨んでくださる主との出会いによって、新しい力と
希望が与えられる日でありたいと願います。

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」

マルコによる福音書2章18~22節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日のテキストは、主イエスと弟子たちが罪人たちと食事をしていることに不信感を持った人々が、食事とは反対の「断食」の問題を取り上げて、主イエスがそれをどのように考えているかを問うている場面です。断食はイスラエルの国においては、食を断つ苦しみの中で、自分の罪を悔い改め、神に赦しを求めて祈るという宗教的に大事な面を持っていました。しかし、いつしかその本来の目的から離れて、断食が人の信仰を計る物差しのようなものとして用いられることもありました。人々は、主と弟子たちが断食するのを見たことがないために、いったい彼らの信仰はどうなっているのかと尋ねているのです。主はそれに対して比喩やことわざ的な表現によってお答えになります。

第一に、花婿がいる婚礼の席では人は断食をしないと言われます。これは、神はイスラエルの花婿であり、イスラエルは神の花嫁であるという歴史的・伝統的な考えに基づいています。今は花婿であるメシア(イエス・キリスト)がこの国に来ておられる、そのような時にイスラエルの民は断食よりも、花婿である主と共にいることを喜ぶべきである、と言われるのです。その喜びの一つの場が、共に食事をする時でした。しかしやがてその花婿も取り去られる時が来る、すなわちメシアが人々の手によって死を迎える時が来る、その時には断食をして大いに苦しみ、嘆き、悔い改めなさいとも言っておられます。

第二の答えは、古い衣服に継ぎをあてるときに、新しい織りたての布切れは用いない、そんなことをすれば古い着物は一層引き裂かれてしまう、という比喩による答えです。これは新しい布切れは、新しい衣服にこそふさわしいということで、人々にメシア到来による新しい生き方を求めておられるものです。

第三の答えは、新しいぶどう酒は、古い革袋に入れるものではない、そんなことをすると革袋は裂けてぶどう酒は台無しになるという、当時一般的に用いられていた考えられることわざをもって答えておられます。そこから導き出される結論は、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」ということです。神が約束されたメシアが来られた、今はその時だ、そうであれば人々は今までの生き方を変えなければならない!新しい生き方とは、それぞれがその心を空(から)にして、救い主イエスをそのまま受け入れるあり方です。

信仰に生きるとは、今までの生き方に何かを付け加えることではありません。今までの生き方に欠けていたと思われるものを補うことでもありません。わたしたちの生の土台が変わること、人生の中心軸が新しくなることです。それは全面的に自分自身を主に明け渡して生きることであると言って良いでしょう。

今の時代は、主が言われたように、主がこの世から取り去られた時代です。しかし、その主はよみがえられたお方として、み言葉と聖礼典において、また聖霊と共に、今わたしたちのただ中に生きておられます。そうであれば、わたしたちも、断食よりも、主との交わりによって喜びを十分に味わい、恵みを受け取るべきなのです。その喜びを味わうために備えられている場所と時が、主日の礼拝です。

「医者を必要としているのは病人」

マルコによる福音書2章13~17節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

わたしたちは人生において多くのものを見ます。そこで何を見て取るかによってその人の価値が決まるとも言われます。主イエスは、人間の世界で何をご覧になるのでしょうか。

主は弟子たちと共にある所に向かっておられる途中で、収税所に一人座っているレビをご覧になりました。彼は徴税人でした。多くの人々は彼に関心を持ちませんし、もし彼を見つめるとしても、憎しみや侮蔑の眼差しであったことでしょう。なぜなら、多くの徴税人は人々から税を取り立てるとき、不正を行って私腹を肥やすことをしていたからです。彼らは人々の憎しみと排除の対象でした。レビはその徴税人の一人です。しかし主は人々とは異なっておられます。主は愛の眼差しをもってレビを見つめ、さらに「従ってきなさい」と招きの言葉さえかけておられるのです。

収税所にしか自分の居場所はないと思っていたレビは、あたかもその言葉を待っていたかのように、すぐに座っていた場所から立ち上がって、眼差しを向けてくださり、招きの声をかけてくださった主に従い始めるのです。主が慈しみの眼差しを向けてくださるとき、そこに何事かが起こります。レビにおいては過去との断絶と主への服従が起こっています。わたしたちにも、そのような主の眼差しによって新しい何かが始まることがあるに違いありません。

その後幾日か経って、レビは主イエスと弟子たちを自分の家の食事に招きました。そこには、主に従い始めた多くの徴税人や罪人たちもいました。罪人とは律法違反を犯していた人々や、指導者たちによって勝手に「罪ある人」とされた人々のことです。自分たちを正しいものと自負していたユダヤ人たちは、そうした人々と食事をすることはありませんでした。しかし主は罪人とされた人々を御言葉を語る大切な対象としてとらえて、彼らに積極的に近づいて行かれたのです。それによって彼らは悔い改めと主への服従に導かれました。

主の振る舞いをいぶかしく思う律法学者たちに、主は次のように言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。主は、自分自身を全く正しいと思っている人々や神の国は自分たちのものであると信じて疑わない人々よりも、それらの人々から閉め出されている徴税人や罪人として分類されている人々に、神の憐みを与えるために来たと言っておられるのです。神によってまず癒されるべき者、そして救いへと導かれる者は誰であるかを語られる主のこの言葉は、わたしたちにとって大きな慰めであり、希望です。

わたしたちもときに思い煩い、ときに自己否定や自己嫌悪に陥ることがあります。魂が病むのです。しかし、それは神から排除されていることのしるしではなく、逆に神によって「わたしのもとに来なさい」との招きを受けているときなのです。本来、主イエスという医者を必要としていない人は一人としていません。今日、特にコロナ禍の中で傷ついている人々が、主によって癒されることを願って誠実に仕えたいものです。

「罪を赦す権威」

マルコによる福音書2章1~12節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

中風の病を抱えた人の癒しの物語は、聖書の順序とは少し異なりますが、前回、病が癒されたことを中心にご一緒に考えました。今回は、罪の赦しに焦点を当てて、それと病の癒しとの関係がいかなるものであるかについて考えていきたいと思います。

このテキストを読みながら、もしかすると皆さんにいくつかの疑問が生じたかもしれません。その一つは、癒しを求めて来た人に対して、主はなぜ最初に癒しではなく、罪の赦しを告知されたのかということです。一般的に言って当時の人々は、病は罪の結果であるという考え方を持っていました。病の人自身はそのことで苦しみ、また病の人を見つめる周囲の人々の眼差しも、「この人は罪人である」といった冷たいものでした。それで主は、中風の人が抱え続けてきた罪責の思いを彼の中から取り除くために、赦しを先に告げられたのです。さらにそうすることによって、周りにいた人々(律法学者など)にも、肉体の病の癒しよりももっと根本的に癒されなければならないものがある、それは神との関係の破れという罪の問題である、ということを教えておられるのです。

次に多くの人がいだく疑問は、9節の「『あなたの罪は赦される』というのと、『起きて、床を担いで歩け』というのと、どちらが易しいか」という問いかけの答えはいかなるものかという疑問です。どちらが易しいのかについて主は明確な答えを出してはおられません。ある人は、罪の赦しを告げる方が易しいと考えます。なぜならそれは目に見える証拠は必要でないからです。言いっ放しでも良いからです。逆に病の癒しを告げる方が易しいと考える人がいます。なぜなら、罪の赦しは神の権限に属することであって、人はそれを口にすることすらできないことである、一方病の癒しは人にでもできることだし、そして実際に人の手によって病が癒されることがあるのだから、というのがその理由です。

主イエスのご意図はいかなるものだったでしょうか。このあと主が「人の子(イエス)が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(10)と言われたことなどから考えると、主は罪の赦しを告げることの方が難しい、と言おうとされたに違いありません。なぜならそれは神のみができることであり、人は赦しを与えられる側に属するものだからです。そしてそれが与えられるとき、たとえ病が癒されなくても、人は罪責の苦しみから解放されて生きていくことができるのです。それゆえ罪の赦しは、病の癒しよりももっと根源的なものとして人が求めなければならないことであると言えます。
主は、続いて中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じられました。すると中風の人はその言葉通りに行うことができました。主の癒しの言葉が現実となりました。それゆえ、先に言われた「あなたの罪は赦される」ということも、主の言葉であるゆえに現実に起こるということを主は示しておられます。私たちは、神との関係の破れであるあらゆる苦しみの根源にある罪という霊的な病の癒しを、まず何よりも求めるべきです。そしてそれは求める者に主が必ず与えてくださいます。 

「起き上がって、歩きなさい」

マルコによる福音書2章1~12節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

本日の中風の病を抱えた人の癒しの物語は、2回に分けて学ぶことにします。今日は中風の人が癒されたことを中心に、そして次回(8月16日)は、癒しと罪の赦しの関係についてです。ここには主イエスの権威についての大切な教えがあります。

場所はカファルナウムのある家の中です。主はそこで多くの人に対して御言葉を語っておられました。熱心に主の教えに耳を傾ける人々によって家の戸口までいっぱいで、文字通り立錐の余地もないほどの状況でした。そこに遅れてきた人々がいました。それは中風の人を床(担架みたいなもの)に載せて運んできた四人の男たちです。彼らは中風の友の癒しを願って主のもとにやってきています。自分たちでは癒すことの出来ない病ですが、主イエスならきっと治してくださるとの確信をもってやってきました。しかし、人壁のために中に入ることがてきませんでした。そこで彼らはどうしたでしょうか。

彼らはあきらめることをせず、<別の道>を探りました。それがこの家の屋根に上って穴を開け、そこから病人を床ごと吊り降ろすという一見乱暴な方法です。彼らには、主に癒していただくのは別の機会にしようとか、人が少なくなるまで待つという選択肢もありましたが、この時を逃してはならないという思いで、彼らは思い切った方法を選んだのです。その行為は、彼らの友人に対する深い愛と、主イエスに対するあつい信頼の表れです。

主イエスは、友人たちによって吊り降ろされた病の人を目の前にして、どうなさったでしょうか。彼らをとがめることはなさいませんでした。次のように記されています。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(5)。そのあと、主は律法学者たちと言葉のやり取りをなさった後、中風の人に向かって「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(11)と命じられました。中風の人は、命じられた通りのことをすることができました。彼は癒されたのです。

罪の赦しについては次回考えますが、要するに主は「彼らの信仰を見て」癒してくださったのです。「彼ら」とは誰でしょうか。四人の友人でしょうか。それとも中風の人も含めて五人の人たちのことでしょうか。宗教改革者カルヴァンは次のように言っています。「主は中風の人を運んできた人々を見ておられただけでなく、病の人の信仰をも見ておられた」。五人は主に対して同じ思いであったということでしょう。その思いがこの行動を生んでいます。

「癒された人の反応」

マルコによる福音書1章40~45節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

「重い皮膚病」を患うということは、その病からくる痛みや苦しさだけではなくて、汚れた者として社会的に隔離される苦しみも伴うものでした。日本においてもつい最近までそうでした。今、主イエスが一人でおられるところに、その病にかかった男の人が近づいて、「御心ならば、清めてください」と願い出ています。この病にかかった人は、このように人に近づくことを禁じられていました。むしろ「わたしは汚れたものです」と大きな声を出しながら、自分が他の人に近づかないだけでなく、他の人が自分に近づかないようにもしなければなりませんでした(レビ記13:45)。したがって彼が今主に近づいていることは、律法の規定に反した行為をしていることになります。彼は自分は恵みを受けるのにふさわしくない者と思いつつ、清められる恵みを受けなければ生きていけない者として、主に自分自身のすべてを投げ出しているのです。

それに対して主は、彼を厳しくとがめられたでしょうか。そうではありませんでした。彼が律法を犯してまでご自分に近づいてくるのに対して、主もご自分の手を伸ばして彼に触れ、「清くなれ」と言われました。主もまた律法を犯しておられるのです。その主の言葉によって重い皮膚病の人は癒されました。彼は死の状態から、新たな命の状態へと移されたのです。主イエスは、自ら手を差し伸べることによって、この病の人のすべてを受け止めておられます。彼のこれまでの苦しさを憐れに思い、その苦痛から彼を解放させようとして、主はそうなさいました。主の慈しみの深さ・大きさを示されます。

ここから明らかになることは、私たちの汚れや醜さは主から遠ざかる理由にはならない、ということです。むしろ、私たちは汚れているからこそ、罪に染んでいるからこそ、主に近づいて罪を赦され、汚れから清められる必要があるのです。重い皮膚病の人が、律法違反として厳しい裁きを受けても仕方がないと覚悟して大胆な行為をしたことが、彼の新しい命に結びつきました。私たちも、大胆に主に近づいてよいのです。

主は癒されたこの男の人に対して、次のように言われました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」(44節)と。どうしてでしょうか。主イエスは、人々が病の癒しという奇跡的なことばかりに目を向けて、神がイエス・キリストを通して求めておられる真の悔い改めをないがしろにすることを恐れておられるからです。奇跡的な癒しは、その段階でとどまってしまうのではなくて、それをなしてくださる神にまで目が向けられ、思いが向けられてこそ意味があります。しかし癒された人は、主の注意を守ることができず、多くの人々にこのことを告げたために、人々が押し寄せてきて、主は本来の務めを果たすことができなくなりました。この男の人は間違ったことをしたのでしょうか。癒された喜びを人々に告げることは自然な行為のように思われます。しかし、主が「だれにも話してはならない」と言われるのであるならば、それに従うことが、主の恵みに応えることなのです。自分の思いよりも神の思いを大切にすべきことをここでも教えられます。

「祈る主、宣教する主」

マルコによる福音書1章35〜39節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

「朝早い時間、それは教会の時である」と言った人がいます。それは朝早い時に主イエスが祈られ、朝早い時に主イエスがよみがえられたからです。私たちも神の前にあって生きる者として、朝早い時を何よりも祈りの時として用いたいものです。その祈りの質が、一日の生活の質を決めることになります。主イエスは今、「朝早くまだ暗いうちに」祈りを捧げておられました。それは、ユダヤ人がそうしていたように、主もまた朝早くから祈りの習慣を持っておられたことの表れでした。さらには、その前日の会堂でのことやシモンの家でのことを振り返りつつ、これからのご自身の在り方を神に問うための大切な祈りのひとときであった、とも言えるでしょう。

て選んでおられます。それはなにものにも妨げられないで神への祈りに集中するためです。私たちもまた、一日のひととき「人里離れた所」を心の内に持ち、神への祈りに集中したいものです。

また主が祈られた場所について「人里離れた所」と記されています。主は人々が多く集まってきたカフルナウムの町から離れた寂しい所を、祈りの場とし
 そのように祈っておられた主のもとに、弟子たちがやってきて次のように言っています。「みんなが(あなたを)捜しています」。弟子たちは前日多くの人々が主のもとに集まってきたことに興奮しています。そして今もそういう状態が続いているのでしょう。そのような時に主が姿を見えなくされるとはどういうことかとの思いをもって主に問うています。弟子たちは、せっかくのこの時を用いてさらに多くの<成果>を得たいと考えているに違いありません。

それに対して主は言われました。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでもわたしは宣教する」。主はカファルナウムから出て他のところでの宣教を告げておられます。この主イエスと弟子たちの考え方の違いは、どこから生まれてきたのでしょうか。それはひとことで言えば、「神の思い」と「人の思い」との違いであると言ってよいでしょう。主は、神への祈りによって御心を問われました。主はしばらくカファルナウムを離れることによって、人々が主がなされた奇跡的な癒しの業の中に隠されている神の救いの御意図を深く考えることを期待しておられます。それと同時に、主に与えられている地上の時間の中で、さらに多くの人々に対して御言葉の宣教の務めを果たすべきであることを御心として捉えておられます。一方弟子たちの考えは、多くの人々が集まってきていることを見ることによって生じている「人の思い」なのです。

主は次のようにも語っておられます。「そのためにわたしは出て来たのである」(38)。「出て来た」とはどこから出てこられたことなのでしょうか。シモンの家から出て来たこととも考えられますが、もっと深く考えれば「神のもとから出て来た」ということなのではないでしょうか。主はすべての人々に御言葉を宣べ伝えるために、神のもとから出てきて、私たちの世界に来てくださった方なのです。私たちも主に仕えるために、それぞれの古い所から主のもとに出て来た者たちであることを忘れないようにしましょう。

「癒し主でもあられるイエス・キリスト」

マルコによる福音書1章29〜34節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは安息日に会堂で教えられ、また汚れた霊にとりつかれた人を癒された後に、会堂を出てシモン・ペトロの家に向かわれました。そこではペトロの姑が熱を出して寝込んでいました。それを知らされた主は、早速彼女のそばに近寄り手を取って起こされると、彼女から熱が去り、健康を回復し、皆のもてなしをしました。この物語には考えるべきことが多く含まれています。

その一つは、ペトロと彼の家族との関係です。ペトロは主に従い始めることによって、仕事も家族も後に残して行ったはずです。ところが断ち切られたはずの彼の家も妻も彼のもとにまだあるのです。しかもペトロは主を、その古き世界に属するはずのところに連れてきています。これはいったいどういうことでしょうか。ここで推測を許されるならば、それはペトロが主に従い始めることによって、いったん断ち切られた古い関係、すなわち彼の家族との関係が、新しいものに造り変えられていったということです。ペトロと家族との関係をいったん断ち切った主が、今度は新しい関係を造り出してくださっているのです。ペトロは後日、妻を伴って伝道旅行に出かけています。信仰生活に入ることは、過去との断絶を伴いますが、しかし、主がそれを新しいものに造り変えてくださることを、ここで知ることができます。

もう一つ注目すべきことは、姑の癒しです。これは一見つつましい癒しの物語です。しかし大事なことが示唆されています。姑の病気の程度は分かりませんが、ルカによる福音書では、彼女は「高い熱に苦しんでいた」と記されています(4:38)。そのことはこの家にとっては重い課題であったに違いありません。それをご存じになられた主は、すぐに自ら姑に近づいて癒してくださいました。それによって彼女自身が苦しみから解放されただけではなく、家全体が平安に包まれることになりました。解決されなければならない課題や重荷を抱えている家庭に主イエス・キリストが迎え入れられるとき、そこに癒しと平安がもたらされることを、この物語は指し示しています。

癒された姑はその後どうしたでしょうか。彼女は主の一行をもてなす働きをしました。「もてなす」、すなわち「仕える」ことをしたのです。主が「仕える者になりなさい」と言われたときの言葉が用いられています。彼女は今まで病めるものとして家族に仕えられていましたが、今癒されたものとして「仕える」者に変えられました。これによって、私たちが仕える者となるためには、主によって癒されることが不可欠であるということを教えられます。主によって身も魂も癒され、慰められ、力を与えられた者は、他者に仕えることができるものとなります。癒されることによって、主に受け入れられている自分を発見した者は、今度は他の人を受け入れて、仕える者となることができるのです。

私たちは医者を必要としている病人です。赦され癒されなければならない罪人です。そのような私たちに主ご自身が近づいてきてくださって、御手を伸ばしてくださるとき、新しい自分が生まれるのです。

「汚れた霊よ、この人から出て行け」

マルコによる福音書1章21〜28節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは、四人の弟子を集められた後、安息日に会堂に入り、神の国について教え、また汚れた霊にとりつかれた人を癒されました。これらのことの中に、主イエスの業の中核にあるものが明らかに示されています。それは、弟子を集めること、教えをすること、そして癒すことです。これらが主イエスの業であることによって、主の後に続く教会も、これらが自分たちの大切な務めであることを認識しなければなりません。

会堂にいる人々は、初めて聞く主イエスの教えに非常に驚きました(22)。なぜでしょうか。その一つは、主の教えが律法学者のようでなかったことです。ただ律法の知識を形式的に語る学者からは、人々は感銘や慰めや希望を受け取ることができませんでした。一方、主イエスの教えには「権威」がありました。権威とは、この世的な権威をもって偉そうに語るということではありません。語られる言葉が、地上のことではなくて、初めて聞く神の国に関することであり、語られる言葉によって人々は、「それでは私たちはいったいどうしたらよいのか」と心が揺さぶられ、自分のこれからの生き方を問わざるを得なくさせられる力あるものだったのです。人々は、主の教えの中に新しい時代の到来と、新しい生き方への招きを強く感じ取ることができました。

さらに、主の言葉に権威があることが目に見える形で表される出来事が起こりました。それは「汚れた霊」にとりつかれている人が、主の一言の言葉によって癒された出来事です。主は大声を上げる男の中に、その人の力ではどうすることもできない霊が宿っていることを見抜かれました。今日の私たちには理解しにくい面がありますが、人の力では制御できない霊的なものによって人が捕らわれることはありうることでした。主はその霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」とお命じになりました。この人を会堂から追い出すのではなくて、この人にとりついている悪しき霊を追い出されるのです。その主の命令によって、とりついていた汚れた霊は男から出ていきました。それはこの人が発作を伴いながらでも、健常な状態に戻ったことによって知ることができます。

主イエスは、神の愛の対象とされている人間の心に宿るべきは、その人を苦しめ混乱させる悪しき霊や汚れた霊ではなく、神の霊であることを、このことによって示してくださっています。主は、悪しき霊が宿っていたこの人の心の座から悪しき霊を追い出し、その空いたところに神の霊を宿らせられたのです。主はこのように、私たちの心の中に神の霊を送り、その人を神の子にふさわしく造り変えてくださいます。このことは安息日の会堂で起こりました。ひとりの人の命の回復がもたらされたのです。それは最初にも触れましたが、今日の教会の主の日の礼拝においても起こりうることです。主が、痛める心を持った人にふさわしく関わってくださるならば、そこに命の癒しと回復が起こります。わたしたちの礼拝はその主の業を妨げるものではなく、それにお仕えするものでなければなりません。