主日礼拝 2021.10.10

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞出エジプト記3章4~6節 (旧約 p96)
讃美歌1  かみのちからを
祈祷
聖書申命記25章5~6節  (旧約 p319)
マルコによる福音書12章18~27節
信仰告白使徒信条
讃美歌71  つくりぬしよ
説教「生きている者の神」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌77  みかみはちからの
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄544  あまつみたみも
祝祷
後奏

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」

マルコによる福音書12章13~17節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

この有名な言葉が主イエスの口から発せられたのは、神殿の境内においてでした。相手はファリサイ派とヘロデ派の人たちです。彼らは主を何とかして陥れようとして、一つの問いかけをしました。それは、当時イスラエルを支配していたローマの皇帝に対して、税金を納めるべきか否かという問いでした。

その問いに隠されている罠とは何でしょうか。それは、もし主イエスがローマに税金を納めるべきだと答えたとしたら、偶像を崇拝するローマ帝国に従うことになり、それは偶像崇拝を禁じる律法に違反することになる、ということで主を訴えることができると彼らは考えています。一方、税金を納めるべきではないと答えたとしたら、それはローマ帝国に抵抗したり反抗したりする態度ということで、主を当局に訴えることができるというものです。いずれの答えが出されたとしても、彼らは主を窮地に追いやることができると考えているのです。この問いは彼らの真剣な悩みから出たものではありませんでした。

主はその罠を初めから見抜いておられます。それで次のように応じられました。まず、納税のために用いるデナリオン銀貨を持って来るように命じられました。それにはローマ皇帝の像が刻まれています。人々はこれを用いてローマに税を納めます。次に主は「これはだれの肖像と銘か」と尋ねられました。彼らの答えははっきりしていて「皇帝のもの」と答えました。その銀貨には、皇帝の肖像と銘が刻まれていました。主は彼らの答えに対して「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われました。つまりそれは単純に、当時の社会制度としての納税には従えと言われただけです。皇帝礼拝とか皇帝への尊崇の念を持てとまでは決して言っておられません。果たすべき社会制度における義務のレベルで語っておられます。律法違反に結びつくものはありません。

続いて主は「神のものは神に返しなさい」と言われました。これはどういうことでしょうか。神の像とも言うべきものは何に刻まれているのでしょうか。それに関してわたしたちが思い出すべきは、創世記1章27節の言葉です。そこにはこう記されています。「神はご自分にかたどって人を創造された」。この「神にかたどって造られている」ということを<神の像>と言います。つまり、神の像は人に刻まれているのです。ということは人は他の被造物とは異なって、特別に神と対話できるもの、神と心を交わすことができるもの、神のものとして造られたということです。人には神の命の息も吹き込まれました(創世記2:7)。そのような人間は、自分自身を神に返さなければなりません。つまり、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ12:30)という生き方に徹することが、自分自身を神に返すことです。そのことまで彼らが理解することができたかは不明ですが、彼らはそれ以上主に対して何もすることができませんでした。

わたしたち人間における本来の<神の像>はわたしたちの罪によって歪んでしまいました。しかし主イエスの贖いによってそれは回復されたのです。わたしたちは再び神のものとされました。洗礼はそのしるしです。それゆえ、わたしたちは、主によって贖われたものとして、神の栄光を表すために生きることができるのです。

主日礼拝 2021.10.03

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞詩編8編5~7節 (旧約 p840)
讃美歌1  かみのちからを
祈祷
聖書創世記1章26~27節  (旧約 p2)、マルコによる福音書12章13-17節
信仰告白使徒信条
讃美歌70  ちち、みこ、みたまの
説教「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌168  イェスきみのみなに
聖餐式
讃美歌206  主のきよきつくえより
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄544  あまつみたみも
祝祷
後奏

「捨てられた石と隅の親石」

マルコによる福音書12章1~12節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは多くのたとえを語られましたが、今日のたとえ話はその中でも最も激しいものであると言って良いかも知れません。聞き手の「彼ら」とは、主イエスに権威の問題を問いかけた祭司長たちです(27)。ということは主はこのたとえによって彼らに厳しく迫っておられる、ということなのです。

このたとえは寓喩と呼ばれるもので、たとえに登場する事物が、現実の事物にそれぞれ対応するものとして語られています。まず「ある人」あるいは「ぶどう園の主人」は神を意味しています。そしてぶどう園はイスラエルの民のことです。イザヤ書5章7節に「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々」と記されているとおりです。またそのぶどう園を主人によって任せられる農夫たちは、イスラエルの指導者たち、そして主人から収穫を得るために遣わされる僕たちは、主の預言者たちです。

主人は旅に出て、旅先からぶどうの収穫を求めるために僕たちを送りました。しかし農夫たちはその僕たちを次々に殺してしまったのです。ここでの収穫とは、イスラエルの人々が悔い改めて神のもとに立ち帰ったとの喜ばしい報告のことでした。しかし、それを聞くことができなかったことは、旧約時代の人々が神への信仰に生きることを拒否し続けたということです。主人は最後に愛する息子を送ります。この息子がイエス・キリストを指しているとしたら(そうなのですが)、ここから先は預言的なものとなります。これから御子イエスを巡って起ころうとしていることが告げられているのです。農夫たちはこの息子も殺してしまいます。それゆえこの場合の農夫とは新約時代の権威者たちのことになります。こうしてぶどう園を自分たちのものとしようとする旧新約時代の人々の姿は、神なしに生きようとしている人間の姿を表しています。しかし主人はそれを見逃すことをせず、彼らの罪に厳しい裁きを下します。彼らを殺してぶどう園を取り返すのです。これがたとえのあらすじです。

これは何を意味しているのでしょうか。たとえでは農夫たちに対する主人の厳しい仕打ちがなされていますが、実際に御子イエス・キリストにおいて起こったことを思う時に、神は御子を十字架にかけることによって、他の者たちに対する裁きを回避する道をお選びになったということが分かります。神は御子の命を犠牲にして罪ある者たちの救いを実現されるのです。そのことが旧約聖書の引用「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(詩編118:22)で言い表されています。イスラエルの人々によって不用なものとして捨てられたイエス・キリストを、神は人々の命の礎石として用いられます。そのことが主イエス・キリストの復活を通してこれから現実のこととなります。

神に対するイスラエルの反逆の歴史は、わたしたち人類の、いやわたしたち一人ひとりの歴史でもあります。イスラエルと同じようにわたしたちも本質的には、神を拒絶するものとして生きています。しかしそのようなわたしたち罪人の救いのために神は、ひとり子をこの世に送って、わたしたちの罪からの立ち帰りを促し、そしてついには御子の十字架と復活を通して開かれた新しい命の道へと召してくださいます。神は「イエスという親石の上にあなたの生を築き上げなさい」とすべての人に呼びかけておられます。

主日礼拝 2021.09.26

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞詩編118編22~23節 (旧約 p1194)
讃美歌68  ちちなるみかみに
祈祷
聖書マルコによる福音書12章1-12節
信仰告白使徒信条
讃美歌191  いともとうとき
説教「捨てられた石と隅のかしら石」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌234A  むかし主イエスの
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄543  主イエスのめぐみよ
祝祷
後奏

「主イエスの権威」

マルコによる福音書11章27~33節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスがエルサレム神殿を清める行動をなさった次の日、イスラエルの権威者たち、すなわち、祭司長、律法学者、長老たちが主イエスに対して、「何の権威で、このようなことをしているのか」と厳しく詰め寄っています。自分たちこそ、イスラエルの宗教とその中心である神殿に対して責任を持った者たちである、そうする権威を与えられているのは自分たちだとの自負の下で、主に対する抗議がなされています。自分たちを無視して、地方のナザレから来たイエスが神殿のあり方を厳しく批判し、それを改革しようとしている、それが何の権威によって行われているものなのかが全く分からないと考える彼らの憤りと焦りとがそこに現れています。

主イエスは、詰め寄る彼らに対して、逆に問いを投げかけておられます。主に問う者に逆に問い返す、それは主が時々用いられた方法です。それによって問題となっていることを深めようとしておられるのです。主の問いは、人々に悔い改めの洗礼を施す働きをし、既に殺された洗礼者ヨハネは、その働きを何の権威によって行ったのか、天(神)からの権威か、それともヨハネの勝手な人間的考えからなのか、と問いかけておられます。そのことがはっきり分かれば、主イエスが如何なるお方であるかも分かるはずだと主は考えておられます。

それに対して祭司長たちはどのように答えたでしょうか。彼らは考えました。もしヨハネの行動の背後に神がおられると言えば、彼らがヨハネを死に追いやったこととつじつまが合わなくなる。一方、ヨハネの働きは人間的なものであり、神とは関係がないと言ったら、ヨハネを神からの預言者として信じている群衆が反撃するかもしれない、と彼らは恐れました。そしてついに彼らは「分からない」と答えたのです。つまり、主の問いから逃げました、それによって彼ら自身が抱えていた問題からも逃げてしまったのです。それぞれの問いに正面から向き合って、主と共に考えることができたら、彼らは新しい世界へと一歩踏み出すことができたはずです。しかしそうはしなかった彼らは、真理への絶好の機会を逃してしまいました。主は彼らに対して、「それならわたしも答えない」と言われたのです。主は今彼らに奥深い真理を話しても無駄だと判断されたのでしょう。

「神の言葉を、最初から最後まで拒む人が多くいることは、キリスト者にとって茨やとげのようなものである」と嘆いている信仰の先達がいます。確かにそうです。しかし、それが悲しいかなわたしたちの世界の現実です。主イエスの言葉に触れる機会を与えられた人たちが、それまでに自分で作り上げてきた神観念とか救いとは何かという思いを、もう一度根底から問い直す機会とすることができれば、どんなに良いことであろうかと思わされます。「信じたい」という叫びであれ、「信じられない」といううめきであれ、それが主イエスに向かって真剣に投げかけられるならば、そこから主イエスとの対話が始まり、主の背後におられる、自分と向き合ってくださっている父なる神との出会いへと導かれていくに違いありません。主はすべての人に対して、権威者たちへのように「何も言うまい」と考えておられるのではなく、愛と真実に満ちた神の言葉を伝えたいと願っておられるのです。

主日礼拝 2021.09.19

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   久野 真理子

奏楽
招詞エレミヤ書9章22~23節 (旧約 p1194)
讃美歌67  よろずのもの
祈祷
聖書マルコによる福音書11章27-33節
信仰告白使徒信条
讃美歌316  主よこころみ
説教「主イエスの権威」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌494  わがゆくみち
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄542  よをこぞりて
祝祷
後奏

「山を動かすほどの信仰」

マルコによる福音書11章20~26節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

いちじくの木が枯れているのを見て驚く弟子たちに語られた言葉が22節以下に記されています。その中に「信じて疑わないならば、山に向かって海に飛び込めと言えば、必ずそのようになる」というよく知られている言葉も含まれています。これは果たしてそのまま受け入れることができるものなのでしょうか。神がそのように命じられるのであれば、そのことも起こるでしょう。また、主イエスが命じられるのであれば、そのことも起こるでしょう。しかしわたしたち人間には到底不可能としか言いようがありません。なぜなら、わたしたちは常にいくらかの疑いを抱えているからです。

これはある種の比喩的性格を持ったものと考えることができます。主は、この言葉によって、信じて神に願い求めることはいつか驚くべき結果をもたらす、ということを教えておられるのです。「山」とは、人の力ではどうすることもできない、大きな困難や障壁のことです。しかし、心から神に願い続けるならば、いつかそこに何かが起こるということです。人が祈りによって神に一歩近づけば、神も近づいてくださいます。そのようにして祈り続ける中で、抱えている事態に神が大きな変化を生じさせてくださるということを主は約束してくださっています。

神を信じるとは、神の存在を知っているとか、ただ神の存在を信じるということと同じではありません。神を信じるとは、神の魔術的な力を信じるということでもありません。神を信じるとは、どのような結果が生じようとも、すべてを神に委ねて生きるということです。「神にできないことは何一つない」という信仰に立って、結果云々で神を評価することはせず、結果を含めてすべてを神に委ねることです。その信仰に生きることを主は今弟子たちに教えておられます。「人は祈る前に疑い、祈りながら疑い、祈った後に疑う」(ハレスビー)と言われているとおりのわたしたちです。しかし神はわたしたちが考えているよりはるかに大きな方であることを忘れてはなりません。それゆえ、その信仰に立つ限り、「祈り求めるものは既に得られたと信じなさい」ということもまた真理なのです。すべてを神に委ねたからです。

神を信じる者は、祈りへと向かいます。神が赦してくださっているからこそ、わたしたちは神に向かうことができます。そして、祈りによって平安を得るのです。さらに主はこう言われます。「祈るとき、誰かに対して恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」と。祈りは神に赦された者に与えられた恵みの特権です。そうであれば、次にその人は他の人の赦しに生きる者でなければなりません。神と人という縦の関係が修復された者は、次に人と人という横の関係の修復に向かうのです。兄弟への赦しがたい思いを以って祈ることは、兄弟を軽んじているというよりも、神を冒涜しているということなのです。兄弟との関係に、神との関係によってもたらされた恵みを反映できない者は、まだ神の赦しの恵みが十分に分かっていないということになります。

こうして主は、数日後のご自分の十字架上の死を思いつつ、地上に残して行く弟子たちが、主の十字架の後に思い起こすことができるように、さまざまな豊かな教えを与えておられます。

主日礼拝 2021.09.12

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞詩編46編9~12節 (旧約 p880)
讃美歌58  かみよみまえに
祈祷
聖書マルコによる福音書11章20-26節
信仰告白使徒信条
讃美歌161  インマヌエルのきみのみ
説教「山を動かすほどの信仰」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌296  こころみのあらし
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄543  主イェスのめぐみよ
祝祷
後奏

「神殿を清める主イエス」

マルコによる福音書11章15~19節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ここには、<宮清め>として知られているエルサレム神殿での出来事が記されています。それは主イエスが、神殿の境内で商売をしていた人々を荒々しく追い出された事件です。ここでの商売人たちは、神殿当局(祭司たち)の許可の下で参拝者たちのための商売をしていました。捧げものの動物を用意するとか、外国貨幣しか持っていない人たちのために両替をするなどの商売です。これは本来、礼拝者の便宜のために許されていたものでした。

その商売人たちを主イエスが追い出されたのはどうしてでしょうか。それは主がそこで行われていた不正を見抜かれたからです。商売人たちは、その商売によって暴利をむさぼっていました。当局者たちもそれを容認することによって、いくらかのわいろを受け取っていたのです。神殿は本来、神への礼拝の場です。また神殿は神への祈りの場です。そしてさらには、神殿はそこで礼拝をし、祈りをささげることを通して、隣人への愛を養われる場です。そのような礼拝者たちに仕える役目を持っている商売人たちは、その本来の目的から外れてしまって、悪徳商法に陥っていました。神殿が腐敗してしまっているのです。それをご存じになられた主は、神殿の本来の姿を取り戻すために、このような行動に出られたのです。

そして主は旧約聖書からの言葉の引用によって、神殿の本来の姿と、それから外れている姿とをお示しになります。本来の姿とはイザヤ書56章7節からの引用で、神殿は本来「祈りの家」でなければならないということです。しかし実情はエレミヤ書7章11節からの引用によって「強盗の巣」に成り下がっていることを指摘しておられます。神殿が敬虔な場ではなく、人間の欲の場になっていることを主は憂えておられます。宗教改革時代の一つのスローガンは「神の栄光のみ」ということでした。主は神殿においてこの栄光を陰らせている要因を取り除くために、この行動を起こされたのです。主はこう言われました。「神は霊である。だから神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)。ここに立ち帰らなければならないのです。

このことから二つのことを考えてみましょう。一つはわたしたちの教会についてです。今日の教会も神殿です。そこは「まことに、神はあなたがたの中におられます」との告白が生まれてくるような霊に満ちたものであり得ているでしょうか。神への賛美と祈りと服従に満ちた礼拝を回復したいと願います。

もう一つは、わたしたち自身についてのことです。パウロはこう述べています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(コリント一、6:19)。驚くべきことに信仰者一人ひとりは神殿である、そこには聖霊が宿っていて聖霊の器とされているのだというのです。そうであれば、わたしたちは自分の体を以って神の恵みと憐みを輝き出すものでなければなりません。この貧しい自分が聖霊の宿る神殿の役割を担わされていることを畏れと光栄をもって覚え、何とかしてその名にふさわしく生きようと祈りつつ、与えられた務めを果たしていきたいと願います。