開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 古賀 洋子
| 奏楽 | |
| 招詞 | 詩編136編1~3節 (旧約 p976) |
| 讃美歌 | 54 よろこびのひよ |
| 祈祷 | |
| 聖書 | マルコによる福音書14章22~26節 |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 187 主よいのちのことばを |
| 説教 | 「最後の晩餐と聖餐式」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 272 ナザレのふせやに |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 541 ちちみこみたまの |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 古賀 洋子
| 奏楽 | |
| 招詞 | 詩編136編1~3節 (旧約 p976) |
| 讃美歌 | 54 よろこびのひよ |
| 祈祷 | |
| 聖書 | マルコによる福音書14章22~26節 |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 187 主よいのちのことばを |
| 説教 | 「最後の晩餐と聖餐式」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 272 ナザレのふせやに |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 541 ちちみこみたまの |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
過越の食事は主イエスが弟子たちと共に囲まれる最後の食事です。弟子たちはまだそのことに気が付いていません。その席で主はいきなりこう言われました。「あなたがたの内の一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18)。それを聞いた弟子たちはそれぞれに「まさかわたしのことでは」と言っています。彼らの反応は「まさかわたしたちの中にそんな者がいるはずはありません」ではありませんでした。逆に、「それはもしかしたらわたしかもしれない」、という反応でした。
これはどういうことでしょうか。それは弟子たち皆が、主を裏切る者となるユダと同じような心を持っていたということを表しています。ユダの心は、先週も考えましたが、次のようなものでした。すなわち、ユダにとって主イエスは自分が持っているメシア(救い主)像から遠く離れたものであることが分かってきました。彼にとって主イエスは自分の命や存在をかけて従って行く価値のあるものではなくなっていたのです。つまり彼にとって不用なものとなりました。そのためユダは主に従う思いが失せて、少しでも自分の益になるために金と引き換えに、主を敵対者に引き渡す行為に走ったのです。
ユダは何を間違ったのでしょうか。それはユダはいつの間にか主の上に立つ者となって、主を裁いているということです。自分の判断が規準となっています。彼は主に「主よ、わたしはあなたのことが分からなくなりました。どうしたらよいのでしょうか」と問うべきでした。しかしそうはせずに、ユダは自分自身に「どうしようか」と問うています。そして自ら出した結論が、主を捨てるということでした。ユダが主を裁いているのです。他の弟子たちにもそれと同じような心があったに違いありません。それゆえに彼らの心は、主の言葉を聞いて騒いでいるのです。「心を痛めた」(19)のも、裏切られる主に対してではなくて、自分や仲間がもしかすると裏切る者となるかもしれないということに対してでした。彼らの心は主の悲しみから遠く離れた所にあります。
そのことはここにいるわたしたち自身にも当てはまります。わたしたちも「主よ、まさかわたしのことでは」と言いかねない者たちです。わたしたちも弟子たちと同じような弱さと不信仰とを抱え持った者たちです。ユダはわたしたちと関係のない人物ではありません。わたしたちはいつでも「ユダ」になり得るものであることを弁えていなければなりません。主に対して歪みそうなそうした心が正されるのが、主が備えてくださった聖晩餐においてです。
主が裏切る者について語られた「生まれなかった方が、その者のためによかった」(21)との言葉は、わたしたちの心を鋭くえぐります。しかしこれは呪いの言葉ではありません。主の苦しみと悲しみの中からのユダに対する悔い改めを促す言葉なのです。主はユダに「わたしのもとに帰って来い」と呼びかけておられます。ぎりぎりまで待たれる主の姿がそこにあります。けれどもユダはそれによって心を変えることはありませんでした。そのユダも過越の食事になお加えられていることは、なんという主イエスの憐みの大きさでしょうか。その憐みの中でわたしたちも生かされているのです。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 十時 やよい
| 奏楽 | |
| 招詞 | 詩編43編5節 (旧約 p877) |
| 讃美歌 | 52 主のさかえに |
| 祈祷 | |
| 聖書 | マルコによる福音書14章10~21節(その2) |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 169 きけよやひびく |
| 説教 | 「ユダの裏切りの予告」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 321 わが主イエスよ |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 541 ちちみこみたまの |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
ベタニアのシモンの家で一人の女性から香油を注がれることによって、主イエスはその内面においていよいよご自身の死に対する意識と覚悟を確かなものとされました。一方、主の死を確かなものとすることは、外的なことにおいても進んで行きました。それは十二弟子の一人であるイスカリオテのユダが、主に敵対する祭司長たちに主を引き渡す取引をしたことによってなされました。「引き渡す」という行為自体には善悪の要素はありません。しかし、誰を誰に引き渡すのか、何を誰に引き渡すのかによって、その行為の善悪が決定します。ユダの場合、自分の師であり主である方を金と交換で敵対者たちに引き渡すことによって、それは「裏切り」の行為となるのです。
なぜユダは主を裏切ることになったのでしょうか。いろんな説があるのですが、確たる理由や動機は福音書の記述の中に見出すことはできません。諸説のいずれも推測の域を出ないのです。むしろユダの裏切りの要因は主イエスの側にあると考えるべきではないでしょうか。それは、主が弟子たちや人々が望み、期待しているような救い主でないことがはっきりした、ということです。権威と力をもって支配する王の姿は主イエスの中には見られません。逆に人から仕えられるよりも、へりくだって僕(しもべ)のように人に仕えることを教え、自らそれを実践されるのが主イエスでした。それを見て来た弟子のユダは、主イエスによって裏切られたと思い、この方について行くことは無駄だと判断してしまったのです。ユダは主を見限ってしまいました。その結果、敵対者に手を貸す道に進んで行ったと考えられます。
他の弟子たちも同じような思いを持っていたかも知れませんが、行動に出たのはユダ一人だけでした。このユダ的なものはわたしたちの心の内にも巣くっているかも知れないと思わされます。わたしたちは、<わたしたちの内なるユダ>と常に戦っていかなければならないのです。
さて、主の死の時が近づく中で、主は次の日、エルサレムで弟子たちと共に過越の食事をとられます。そのために用意された場所で、弟子たちは食事の準備をしています。過越の食事は、イスラエルの民がエジプトを脱出するとき、小羊の血が家の鴨居に塗られることによって神の使いに打たれずに助かり、無事エジプトから逃れることができたことに由来するものです。主はご自身が十字架で小羊のように死に渡されることによって、人々が救われることになる神の御計画をご存じです。それが翌日起ころうとしています。
その死に先立って、主はこの食事において前もってご自身の死の意義を弟子たちに明らかにし、さらにそのことをこれからずっと記念するために、パンと杯を分かち合う式を執り行われたのでしょう。それが今日、教会が聖餐式として執り行っているものなのです。聖餐式は過越の食事にその一つの起源があることをわたしたちは心に刻み込みたいものです。この食事の主宰者は、わたしたちのために犠牲になられた主イエス・キリストです。主がわたしたちをこの食卓に招き、わたしたちに信仰の本質を指し示し、さらに信仰の軌道修正を図ろうとしておられます。誰もが洗礼を通してこの食卓に招かれています。この年、新たに食卓を囲む人が興されることを祈りましょう。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 古賀 洋子
| 奏楽 | |
| 招詞 | 詩編98編1節(旧約 p935) |
| 讃美歌 | 28 わがたま、たたえよ |
| 祈祷 | |
| 聖書 | 申命記16章1~8節 (旧約p306) マルコによる福音書14章10~21節(その1) |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 168 イェスきみのみなに |
| 説教 | 「最後の晩餐の準備」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 263 よろこばしき |
| 聖餐式 | |
| 讃美歌 | 205 わが主よ |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 541 ちちみこみたまの |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
終末に関する教えが終わって、エルサレムにおける主イエスを巡る出来事に福音書の記述は戻ります。14章の初めには、主イエスの死が差し迫ってくる中で起こった、良い香りを漂わせる一つの出来事が記されています。
時は「過越祭と除酵祭の二日前」(1)と記されていることから、主イエスのエルサレムでの最後の週の金曜日の二日前、即ち水曜日です。場所は、主イエスが宿を取っておられるマルタとマリアの姉妹の家があるベタニア村です。しかしこの出来事は彼女たちの家ではなくて、重い皮膚病が癒されたシモンという人の家で起こりました。主イエスの一行が食卓に着いておられたとき、一人の女性が予告なしにそこに入ってきていきなり、非常に高価なナルドの香油の入った壺を壊して、香油を主の頭に注ぎかけたのです。良い香りが部屋中に漂いました。その香油はお金に換算すると300デナリオン(5)と言われていますから、当時の労働者の一年分の賃金に相当します。
そばにいた人たちはこの常軌を逸した行為を見て憤慨し、「それを売ってお金に換えて、それを貧しい人々に施す方がよほど良い」と言い張りました。もっともな考え方かも知れません。しかし、主はそれとはまったく異なる反応を示されました。主は、「彼女はわたしに良いことをしてくれた」と言われます。なぜなら「貧しい人たちは、これからもあなた方の近くにいる。彼らへの奉仕の機会はたくさんある。しかしわたしは間もなく十字架にかけられて死ぬことになっている。そのわたしに彼女は今、彼女にできる最大の奉仕をしてくれたのだから」というのです。これはどういうことでしょうか。
イスラエルの国では、死者を墓に葬る場合、異臭や死臭を消すという目的で、死体に香油を塗る習慣があります。主イエスは二日後に十字架の上で死んで墓に葬られることになっています。それは主ご自身のみがご存じでした。そのように死んでいく主のために、この女性は前もって香油を注いで、葬りの備えをしてくれたのだ、と言っておられます。主はこの香油がご自分の頭に注がれることによって、いよいよご自分の死は神の定めとして避けられないことを自覚されたに違いありません。そういう意味で、彼女のこの行為は福音の前進に仕えることになったのです。彼女がそうしたことをはっきり意識していたかどうかは分かりません。しかし彼女は主のこれまでの言動によって、主の死が近いことを鋭く感じ取っていたことでしょう。そして今自分が主に対して行うことができることは何かを考えた時に、彼女の大切なものを主に差し上げるということに導かれたのです。それを主は高く評価されます。
わたしたちがこのことから教えられることは、どんなに小さなことでも、また他の人からどのように批判されることがあったとしても、「これが今、主イエスに対してわたしが行うことができるただ一つのことである」という真実の心をもって行うとき、主がそれを受け止めて、本人が考えている以上の意義をそれに与えてくださり、それを福音宣教のために用いてくださるに違いないということです。それは次に続く人々の新しい行為を生み、そのようにして福音は展開されて行きます。「自分にできる限りのことを、今する」ということの尊さを、この女性の行為からわたしたちは教えられます。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 栗林 聖子
| 奏楽 | |
| 招詞 | 創世記8章20~22節(旧約 p10) |
| 讃美歌 | 10 わがたまたたえよ |
| 祈祷 | |
| 聖書 | マルコによる福音書14章1~9節 |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 217 あまつましみず |
| 説教 | 「福音の香り―主に香油を注いだ女」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 405 かみともにいまして |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 541 ちちみこみたまの |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
今日はクリスマス礼拝です。どのような状況で神のひとり子、救い主イエス・キリストがお生まれになったかを、聖書から聞き取りましょう。
イエスさまの父と母になることを天使から告げられたヨセフとマリアは、イスラエルの北の地方のガリラヤのナザレに住んでいた若い男女でした。そこはガリラヤ湖近くの小さな町です。ところが、イスラエルの国を支配していたローマの王からイスラエルの全国民に、自分の故郷で住民登録をせよとの命令が下されました。それは、この国に何人の人がいるか、戦争に行ける男子はどれくらいか、また税金を納めることができる者はどれくらいいるかなどを調べるためでした。ヨセフとマリアは、ヨセフの故郷であるベツレヘムで登録をしなければなりませんでした。マリアさんのおなかは大きくなってもうすぐ赤ちゃんが生まれる時期だったのですが、ヨセフさんはマリアさんを連れてベツレヘムまで行くことにしました。
ナザレからベツレヘムまで、どれくらいの距離があるのでしょうか。地図で見ますと直線距離にして100~120キロはあります。この前の日曜学校の説教では、佐賀から長崎までぐらいだと話されました。逆の方向に行くと、佐賀から北九州くらいまでです。真っすぐには行けず、くねくねと曲がった道を行くとしたら、一週間くらいはかかる道のりでした。マリアさんは多分ロバに乗って、ヨセフさんは歩いて行くことにしました。つらい旅であったに違いありません。
イエスさまのお誕生の前に、こういう辛い旅があったことを忘れてはなりませんね。イエスさまの誕生を祝うクリスマスは、明るさや楽しさだけがあったのではなく、大変つらいことも背後にはあったということを心に刻んでおきたいと思います。
大変なことは、長い旅だけではありませんでした。一週間ほど歩いたあとやっと着いたベツレヘムでも、大変なことがありました。その一つは、ヨセフさんとマリアさんがベツレヘムに着いたときには、住民登録のために帰って来ていた人々によってその町はあふれていて、泊まるための宿を見つけることができなかったことです。二人はとても不安だったに違いありません。このあと祝会で見るDVDでは、二人が何軒もの宿を訪ねる場面が出てきます。いくつも断られるのです。
そのことは、大人の人に特に考えてもらいたいのですが、イエスさまは今も何人もの心の扉をたたいて、ご自身が受け入れられることを求めておられるのに、ほとんど断られるという人間の状況を示唆しているということです。他のことでいっぱいなので、イエス・キリストどころではない、ということなのでしょう。それでよいのかを考えさせられます。
さて、二人はやっと泊まる場所を見つけることができました。しかしそれは宿の暖かい部屋ではなくて、家畜小屋(馬小屋)でした。そこしか空いていなかったのです。そこで次の大変なことが生じます。それは家畜小屋に泊まっているその夜にマリアさんは、赤ちゃん、つまりイエスさまを産んだのです。
そこには温かい湯もありません。赤ちゃんをくるむ産着もありせん。赤ちゃんを寝かせる小さなベッドもありませんから、生まれたばかりのイエスさまは、家畜のえさを入れる飼い葉桶の中に寝かせられました。このように暗くて、寒くて、赤ちゃんのためのものが何もない家畜小屋でのイエスさまの誕生はとてもつらいことであったに違いありません。それでも赤ちゃんが無事に生まれたことを喜び合うマリアさんとヨセフさんの姿を想像すると、とてもいじらしく、けなげに思わされます。イエスさまの誕生はいろんなものが足りない中での誕生、貧しさの中での誕生でした。これも忘れてはなりません。
これらのことはとても不思議なことですが、なぜ神さまはひとり子イエスさまをこのような困難や貧しさの中で生まれさせられたのでしょうか。そのことを考える時に、イエスさまの誕生が、聖書に書いてあるのとは全く異なる状況であったらどうであっただろうかということを想像してみるのも良いかも知れません。イエスさまがもし、立派な宮殿(王様が住んでいる屋敷)や大病院で生まれたとしたら、羊飼いたちはそこに入ることができたでしょうか。外国の学者たちがそこに立ち入ることができたでしょうか。わたしたちも同じです。明るく輝く大きな屋敷の中で、立派なベッドに寝かせられているイエスさまを想像すると、わたしたちの足はすくんでしまいます。わたしたちは、イエスさまをわたしたちの身近な方として考えることはできないかも知れません。
しかし、実際はそうではありませんでした。イエスさまは家畜小屋で生れ、飼い葉桶の中に寝かせられたことを知るときに、わたしたちはイエスさまを、そして神さまをとても親しく、身近な方として感じるのです。わたしたちと同じ世界に住むためにイエスさまは来られたのだ、だからわたしたちは遠慮なくイエスさまに近づいて良いのだ、ということなのです。
また生まれた時から辛いことや苦しいことを味合われたイエスさまは、わたしたちのことを誰よりもよくわかってくださって、わたしたちに寄り添ってくださるのです。
わたしたちが苦しい時、悲しい時、つらい時に一番欲しいものは何でしょうか。それは自分のそばにいてくれる人、自分のことを分かってくれる人がいることです。馬小屋で生れたイエスさまは、わたしたちに対して、「わたしがいつもあなたのそばにいるよ」と言ってくださっているのです。そのようなイエスさまであることを教えるために、神さまは、わざわざひとり子イエスさまを小さな町ベツレヘムの貧しい馬小屋で生れるようにされたのです。
そのように考えると、ヨセフさんとマリアさんが王(政治的権力)の命令に振り回されているように見えるこの出来事は、実は、さらにその上に見えない神の力が働いていたことを教えられるのです。ベツレヘムでの救い主の誕生は、旧約聖書・ミカ書5章1節に預言されていることが実現したものでした。その預言が実現するために、神さまはヨセフとマリアをベツレヘムに行かせ、そこでイエスさまを生むようにされたのです。小さな町での出来事にも、神さまの御手が伸ばされていることが分かります。この世のことに振り回されるわたしたちですが、それらのさまざまなことの背後に、神さまの御心がどのように働いているのかを考えることは大切なことですね。そして神の御心が分かるとき、わたしたちは苦しいことの中にも平安や希望を見出すに違いありません。
イエスさまは、ヨセフさんたちが宿屋の扉を次々にたたき続けたように、今、わたしたちの心の扉をたたき続けておられます。「あなたの心の片隅にわたしを迎え入れてほしい」と呼びかけておられます。もしそうすることができれば、暗く冷たい馬小屋が明るく輝く部屋に変えられたように、わたしたちの心にも明かりがともされ、これまでとは違った生き方ができる者となるでしょう。
わたしたちがもし暗さや惨めさや醜さを抱えていたとしても、それをイエスさまは嫌われません。そこを目指して主イエスは近づいて行かれ、扉をたたかれるのです。「その暗さの中にわたしは宿りたいのだ」と主イエスは扉をたたかれます。そのノックの音が聞こえたら、わたしたちはすぐイエスさまを迎え入れるために、心の扉を開きましょう。クリスマスは、その決断が与えられる特別な日です。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 十時 やよい
| 奏楽 | |
| 招詞 | イザヤ書11章1~5節 (旧約 p1078) |
| 讃美歌 | 102 もろびとこえあげ |
| 祈祷 | |
| 聖書 | ミカ書 5章1節 (旧約p.1454) ルカによる福音書2章1~7節 (新約 p102) |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 121 まぶねのなかに |
| 説教 | 「飼い葉桶の中の救い主」(クリスマス説教) 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 112 もろびとこぞりて |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 540 みめぐみあふるる |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
クリスマスの出来事の中で目立つことは、マリアやヨセフの従順さです。今日はマリアの従順に目を向けてみましょう。彼女はまだ15~6歳の若い女性でした。ヨセフとはいいなづけの間柄でしたが、まだ一緒にはなっていませんでした。そのマリアのもとに天使ガブリエルが訪れて神の祝福の言葉を語ります。マリアは何のことか分からずに、戸惑い、恐れます。天使はさらに告げます。「マリア、恐れることはありません。あなたは男の子を産みます。その子の名をイエスと名付けなさい。その子はイスラエルを救うものとなります」と。これもまた、マリアにとっては受け入れることができないものでした。
彼女は言います、「どうしてそんなことがあり得るでしょうか。わたしはまだヨセフとは一緒に住んでいません」。彼女は、あり得ないと思えることを何の疑いもなく受け入れることはできなかったのです。そのようなマリアについて、ルターは「彼女は、人間らしい血の通ったおとめであった」と述べています。疑い深いというのではなくて、起こる事柄に対して素直だったのです。
そのようなマリアに天使は、さらに告げます。「あなたの胎内の子は、聖霊の神の力によるものです。それゆえ生まれる子は神の子と呼ばれます。神にできないことは何一つないのです」。その時、マリアは疑いを捨てて、神の前から逃れることもせず、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、神にすべてをお委ねする神への素直さを表しました。神の名が彼女の耳に響くことによって、彼女の心は神に向けて変えられたのです。彼女は人間らしい女性であったと同時に、神を心から畏れ敬う信仰深いおとめでもありました。彼女の従順が、御子イエスの人としての誕生につながりました。
このマリアをわたしたちはどのように考えるべきでしょうか。カトリック教会のようにマリアを聖母として礼拝することはしません。しかし彼女に倣うことはあっても良いのではないでしょうか。「お言葉どおり、この身に成りますように」と一切を神に委ねた彼女の従順と素直さとひたむきさは、信仰に生きる者にとって欠かせないものです。これをわたしたちも自分のものとしたいのです。彼女は天使が告げる神の定めを、命令としてではなく、また律法としてではなく、新たな生き方への招きとして捉えたのです。
わたしたちにも時折、理不尽と思われる神の御心が示されたり、あり得ないとしか思えない道が神によって示されたりすることがあるかも知れません。その時、それを神からの招きとして捉え、自分の思いや力を超えて、「お言葉どおり、この身に成りますように」との応答ができるものでありたいと願います。マリアは、神から務めが与えられたことを、賛歌の中で、「あなたはこのはしためにも目を留めてくださいました」(48)と歌っています。務めが与えられることは、神が目を留めてくださっているからです。今日の世界で必要なことは、すべての人間が「主なる神よ、お言葉どおりこの身に成りますように」とのへりくだりと従順の祈りを回復することです。クリスマスを毎年祝うのは、人間中心の世界ではなく、神中心の世界を回復するためなのです。クリスマスの只中にヘリくだりの神が立っておられます。