主日礼拝 2021.11.14

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞エレミヤ書29章10~11節(旧約 p1230)
讃美歌9  ちからの主を
祈祷
聖書マルコによる福音書13章1~8節
信仰告白使徒信条
讃美歌90  ここもかみの
説教「終末のしるし」
長老 加藤 治(原稿代読)
祈祷
讃美歌169  きけよやひびく
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
派遣と祝福コリント二、13章13節によって
後奏

「貧しいやもめの献金」

マルコによる福音書12章38~44節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

教会の交わりにおいて「人を見るな、神のみを見つめよ」とよく言われます。信仰は神から来るものですから、それは当然のことです。しかし、信仰に生きている人を見ることによって益を得ることもありますし、逆にそうあってはならないとの学びを与えられることもあります。大事なことは、他者の中に何を見、他者の何に倣うかべきか、倣ってはならないかということです。

主は倣ってはならない例として、38~40節で、律法学者たちが人の関心を引こうとして行う社会における振る舞いや、自分の敬虔深いことを人に見せようとして長い祈りをすること、そして弱い立場のやもめを世話をしているように見せかけながら、それを食い物にすることなどを挙げておられます。そのような行為は後に続く者たちの手本にも目標にもなりません。

主はその指摘の後、弟子たちを神殿の賽銭箱が見える場所に連れて行き、そこで捧げものをする人々の姿を見ることによって何かを教えようとしておられます。初めは金持ちたちの献金の様子が弟子たちの目に入りました。続いて、貧しいやもめが献金する様子も弟子たちは目撃しました。多くの人は、捧げる額を見ることによって、その人の信仰を判断するようなことをしがちです。しかし、そのことの過ちを主は今弟子たちに教えておられます。

金持ちたちはたくさんの捧げ物をしていました。しかし、それは「有り余る中から」(44)捧げているにすぎないことを主は見抜いておられます。一方、同じ賽銭箱に入れていたやもめの献金は、レプトン銅貨二枚だけです。レプトンとは当時の貨幣単位の最小のものです。金持ちたちの捧げものとは比べ物にならないほど小さなものです。しかしそれは彼女が「持っている物のすべて」、「生活費の全部」でした。彼女は二枚の貨幣の一枚を手元に残すこともできたはずですが、そうはせずすべてを捧げ切りました。主はそれをご存じでした。

このことから主はやもめが「だれよりもたくさん入れた」(43)と言っておられます。主は表面に表れる金額だけを見て、多い・少ないということを判断しておられるのではありません。目に見えない心の内をご覧になって、それぞれがいかなる姿勢で神に捧げ物をしているか、さらに自分自身をどのように捧げようとしているかを判断しておられるのです。それを指し示すことによって主は、弟子たちが今、自分自身をいかなるものとして神に捧げようとしているかを問うておられます。自分の側に、心・体・時間・働き・物質的なもの等の多くのものを留保しておいて、わずかな捧げものによって満足していないかを問いかけておられます。弟子たちは貧しいやもめの姿を見ることによって、信仰に生きるとはどうあることかを学び取る機会が与えられています。

さらに大切なことは主はここで、やもめが自分の側に何も残らないまでに捧げつくすその姿の中に、数日後に十字架の上でご自分のすべてを捧げつくされる主ご自身のあり方を弟子たちに予め示しておられるということです。主は生活費どころか、ご自分の命・存在のすべてを捧げて、わたしたちの救いを勝ち取ってくださるのです。その主の十字架上での死によって、わたしたちは新しい命を約束されています。それゆえわたしたちも主に倣って、自分自身のすべてを捧げつくして、主の証人として生きたいものです。

主日礼拝 2021.11.07

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞詩編51編18~19節 (旧約 p885)
讃美歌7  主のみいつと
祈祷
聖書マルコによる福音書12章38~44節
信仰告白使徒信条
讃美歌88  すぎにしむかしも
説教「貧しいやもめの献金」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌338  主よ、おわりまで
聖餐式
讃美歌202  くすしきみすがた
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539  あめつちこぞりて
祝祷
後奏

「神の愛はあなたに向けて」

ヨハネによる福音書3章16~21節

佐賀めぐみ教会 秋の特伝礼拝 久野 牧

「聖書の中心的なメッセージは何か、ひとことで言って欲しい」と求められることがある。今日ご出席の求道者の中にも、そういう方がおられるかもしれない。それに対して、それは礼拝の中で告白する「使徒信条」に言い表されている、と答えることもできる。しかし、それは少し長すぎる。そういう場合には、聖書の中の有名な言葉を指し示す、ということもありうる。

例えば、「神は愛である」とか、「あなたの敵を愛しなさい」とか、「右の頬を打たれたら、左の頬も出しなさい」という言葉がある。さらには、「人からしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」といった言葉が、聖書の精神をよく表している、と言うこともできるであろう。しかし、それでも十分ではないように感じられる。

そういう中で、ヨハネによる福音書3章16節こそ、聖書の教えの集約である、と言われてきた。宗教改革者ルターはこの3章16節について、「これは小さい聖書である」、あるいは「これは小さな福音書である」と言った。それはこの一つの節に、聖書が述べようとしていること、あるいは福音書全体が述べようとしていることの中心的な内容が凝縮されている、という意味である。これは全聖書の縮図である、ということである。しかしこの句は、そういった意味で内容は深いのだが、必ずしも分かりやすいものではない。本日はこれについてご一緒に考えてみよう。

ところで信仰における第一の問題は、人間が何をするかではなく、神がわたしたち人間のために何をしてくださったか、である。そのことを知らせるのが、この聖句である。神のわたしたちに対する行為の中心に、人間に対する神の愛があるとこの句は述べている。そしてその神の愛は、神が独り子イエスを、この世に向かって、またわたしたちのために派遣されたことの中に、端的に表されている、というのである。

次のように述べられている。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(16節)。この一文の中の「その独り子」とは、神の独り子、イエス・キリストのことである。それはまた、神ご自身の人間との関りを表しているものである、と言ってもよい。また、「世」とは、わたしたち人間の世界のこと、もっと言えば、わたしたち人間そのもののことである。

神が独り子イエス・キリストを、わたしたち人間のもとに送られたことの中に、神の愛が表れている。神から何かを受けるに値しないわたしたちの中に、そのことが起こったのは、全く神の一方的な愛と恵みのゆえなのである。この句はそのことを述べている、そしてそれが聖書の中心的メッセージなのである。

それでは愛とは何であろうか。それは端的に言えば、

  • 相手を大切にすること、相手の存在に敬意を払うこと、
  • 相手を生かすように働きかけ、仕えること、
  • 相手とどんな時にも共にいようとすること、

そういった言葉で言い表すことができる。

それは、相手に対してつねに関心を持つことから始まるものである。愛の反対語は何であろうか。わたしたちは、愛の反対語として、憎しみということをすぐに思い浮かべるかもしれない。それも間違いではないが、愛の反対は、憎しみというより、無関心である、と言われる。愛を持つことと関心を持つこと、これは並行しており、同じことである。神はわたしたちを愛しておられる、神はわたしたち人間に対して、無関心ではない、つねに関心を持っておられる、そのしるしが、御子のわたしたちのもとへの派遣という出来事となって表されたのだ。

そのように自分が関心を持ち、愛している相手に、何かを与えるとしたら、あってもなくてもよいようなものを与えることはしない。自分にとって最も価値あるもの、尊いものを与えようとする。わたしたち人間でさえそうするのである。ましてや神は、ご自身にとって最も大事なものをわたしたち人間に与えてくださるのである。その最も大切なものが独り子イエス・キリストである。御子をこの世に送られたことこそが、神がわたしたちに関心をもっておられることの確かなしるし(証拠)なのである。

さらに愛や関心を持っている相手に対しては、相手と同じ所にいようとする。愛は、相手と同じ場に一緒にいたいと願う。相手がどんな状況であろうが、愛は、相手と共にそこにいようとするものである。たとえそれによって自分に痛みや損失が伴うことがあっても、そうしようとする。
神は、神から離れてしまっている人間のもとに、独り子イエスを送られた。それは、神はイエス・キリストをとおして、わたしたちと共にいようとしてくださっていることの表れである。神はイエス・キリストにおいて、わたしたちと同じところにまで降りてきてくださったのである。

それでは、何のために神はそうなさったのであろうか。神の人間に対する愛の行為は、何を目的としていたのであろうか。それについて聖書は続いて、次のように述べている。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節後半)。わたしたち人間が、神を知らないままに死んで行くことがないように、もっと積極的に言えば、人が「永遠の命」を得るために、神は御子を遣わされた、と言われている。

永遠の命とは、真の命、ほんものの命のことである。神は、それをイエス・キリストをとおして、わたしたちに与えようとしておられるのである。人が真の命に触れることがないままに、人生を終わることがないように、神は御子イエスをわたしたちのもとに送られたのである。

苦しみ、悩み、悲しみの中で、「自分はひとりぽっちだ」、「死にたい」と思うのではなくて、「あなたにはわたしがいつも一緒にいる」と言われる真の神を知らせるのだ。神はわたしたちの生きることを助けるために、独り子を送られた、そこに愛があると伝えるのである。苦しみがないことも大事だが、それ以上に、愛されることは人生に欠くことのできないものなのである。

また、罪や悪の誘惑に負けようとするときに、わたしたちが「こういう自分を神がご覧になって、心を痛められるに違いない」と考えて、そうしないように踏みとどまるために、神はわたしたちへの愛のしるしである独り子を見える形で、この世に送られた。

死を迎えようとするとき、何の希望もなくこの世を去っていくのではなくて、わたしたちを愛してくださる神のもとに行くのだ、神のもとに帰って行くのだ、だから恐れることはない、という希望を与えるために、神はイエス・キリストをわたしたちのもとに送られた。この神との結びつきの中で、神のもとに帰って行く命こそ、永遠の命と言われるものである。教会はこれを知らせるのである。神はわたしたち人間を造ってくださった。だから神はわたしたちの生まれるときも、生きるときも、死ぬときも、そして死んだあとも、ずっとわたしたちに関心を寄せ、わたしたちを見つめ、見守ってくださるのである。その確かなしるしが、神が独り子をこの世に送ってくださったあの出来事なのである。

次に「世」について考えてみよう。これは、人間の世界のこと、さらにつきつめて言えば、そこで生きているわたしたち人間のことである、と初めに述べた。そうであれば、この「世」という文字のところに、「わたしたち」という文字を入れて、おきかえて読んでも、意味は同じということになるに違いない。「神は、その独り子をお与えになったほどに、わたしたちを愛された」。17節も同じである。 「神が御子をわたしたちに遣わされたのは、わたしたちを裁くためではなく、御子によってわたしたちが救われるためである」。

「世」とは、自分とは関係のないこの世の人々、自分以外の何か、世間一般ではない。まさに、わたし自身が世である。「一人も滅びないで」(16節)の「一人」とは、まさしく、このわたし自身のことである。全体の中に個が消えてしまうことはないのである。

そうであれば、さらに、この「世」という文字のところに、わたしたちは自分自身の名をおいて考えてもよい、ということになるであろう。皆さんお一人お一人が、「世」という文字のところに、自分の名を入れ替えて読んでみてほしい。

他の人の名前を勝手に用いるのは失礼なので、おこがましいのだが、わたし自身の名前を入れて読んでみたい。「神はその独り子をお与えになったほどに、久野牧を愛された。……神が御子を、久野牧に遣わされたのは、久野牧を裁くためではなく、御子によって久野牧が救われるためである」。

誰の名前でも同じように当てはめて考えることができるのである。一人ひとりと向き合われるのが神の真実である。

このように自分自身の名を入れてここを読むとき、神がとても身近な存在、身近なお方として感じられるのではないだろうか。そのことは、次のような考えにまで到る。

「神が御子キリストをこの世に送られたとき、すでに、神はこのわたしのことも、救いのご計画に入れてくださっていたのだ」。

そういう思いもかけないことが明らかになってくる。これは驚くべきことであり、また信じがたいことである。「わたしなんか…」と、だれもが言いたくなるであろう。しかしこれは、聖書が告げる真実、事実なのである。

神がご自分の民イスラエルに向かって言われた言葉が、旧約聖書のイザヤ書に記されている。43:1 (本日の招詞)

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」。

神は、このわたしの名を呼んで、「わたしはあなたのために独り子を送る」と言ってくださっているのである。神の御子派遣の出来事は、このわたし抜きには起こらなかったのである。神は、わたしたち一人ひとりの名を呼んで、「あなたのためにひとり子イエスを送る。つらい時、淋しい時にはイエスのもとに行け。罪を犯した時には、赦しを求めてイエスのもとに行け。生きることに困難を覚える時には、イエスのもとに行け。そうすれば、必ず、あなたは新しく生きる力と目標が与えられる」、そのようなメッセージがこの句には込められているのだ。

最後に、このように、神さまに愛されているわたしたちは、どのように神にお応えしたら良いのであろうか。このことについて考えてみよう。
尊い独り子をわたしたちのために送ってくださった神に対して、わたしたちは何をささげたらよいのであろうか。何かをささげることができるのであろうか。何をささげたら良いのか分からないわたしたちである。わたしたちは、神さまを喜ばせる大きな宝や物は、何も持ち合わせていないのである。

それではどうすれば良いのであろうか。「わたしたちは、この愛の贈りものを、手でも、足でも捉えることはできない。修道院に入ってもできない。ただ心と信仰をもってのみ捉えることができる」(バルト)。神が御子イエス・キリストにおいてわたしたちに近づいてくださったのだから、わたしたちも自分の存在と心を傾けて、神に近づくのである。それは具体的には、次のようなことである。

  • 自分自身を憎まず、神に愛されている自分であることを知って、自分自身を大切に考えながら生きていくこと。
  • 他の人を憎まず、この人も神によって愛され大切にされているひとりなのだから、ということを知って、共に生きようとすること。
  • わたしたちも神に関心を持ち、神はこのわたしに何を求めておられるか、どのように生きることを欲しておられるかを繰り返し尋ね求めて、示されたことに忠実に生きること。

このようにして、この世界とその中にいるすべての人々が、自分は神に愛されているということを知って、自分自身を重んじるとともに、神に愛されている者同士が、互いを重んじ、愛し合う世界を造りあげようとして、互いの命のために仕え合う、それが神に対するわたしたちの応答である。

困難と労苦の中にある人が、キリストを見つめて励ましや力を得ることが出来るように。悲しみと痛みの中にある人が、キリストに結びつくことによって、喜びや慰めを与えられるように。絶望している人が、神の愛のなかで明るい希望を見出すように。また人生は生きるに値しないと思っている人が、キリストの前で生きることの意味と価値を発見することができるように、と心から願いつつ、互いに仕え合うのである。それが神の愛へのわたしたちの応答である。

今日初めて教会の礼拝に出席された方がおられたら、ぜひこの神の愛を真剣に考えてほしい。すべての人が、そして特に生き悩んでいる人が、キリストによって自分に差し出された神の愛に支えられ、導かれて、新しい出発を始めるものとされることを、心から願う。わたしたちの教会はそのために良き働きを続けていきたいものである。

主日礼拝 2021.10.31(秋季特別伝道礼拝)

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞イザヤ書43章1~2節 (旧約 p1130)
讃美歌6  われら主を
祈祷
聖書ヨハネによる福音書3章16~21節
信仰告白使徒信条
讃美歌87B  めぐみのひかりは
説教「神の愛はあなたに向けて」 動画
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌267  かみはわがやぐら
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄544  あまつみたみも
祝祷
後奏

「イエスはダビデの子か」

マルコによる福音書12章35~37節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエス・キリストはどのような意味で救い主(メシア)であられるかをご自分から明らかにしようとしておられるのが、今日のテキストの内容です。詩編110編1節を引用してのお話しですが、決して分かりやすいものではありません。難しいというよりも複雑な文章構造を読み取り、その意味を考えることにいささか複雑な面があるのです。しかし、ご一緒に考えてみましょう。

詩編110編は、ダビデの作であるという前提で主は話しておられます。次のように引用しておられます。「主は、わたしの主にお告げになった」(36)。このときの最初の「主」は主なる神のこと、「わたし」はダビデ自身のこと、そして二番目の「主」は「救い主(メシア)」のことです。ここで主イエスは、ダビデがメシアに向かって「わたしの主」と言っていることに注目しておられます。主イエスは、確かに新しく神から遣わされるメシアは、伝統的にダビデの子(子孫)としてこの世においでになる、しかしその「メシア」をダビデが「わたしの主」として崇めているのだから、メシアはダビデよりも優れた存在である、と語っておられます。わたしたちはその教えを受け入れましょう。

それによって主は何を語り、何を明らかにしようとしておられるのでしょうか。ダビデは政治的・軍事的に優れた王でした。その王に勝るメシアは、ダビデをはるかに超えたこの世的力を持って、イスラエルを異教の支配者から解放し、世界を支配するものとするということなのでしょうか。そうではありません。主はかつて次のように言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ11:43~45)。人々の救いのために自分の命を投げ出すということにおいて、新しいメシアはダビデよりも優れているのです。ここで、そのメシアはご自分であるとは主イエスは語っておられませんが、暗にそれを示唆しておられます。間違いなく、ダビデのすえに生まれられた方、しかし力による征服ではなく、ご自分の命を身代わりとして差し出すことによって、罪の支配から人々を救い出されるメシア、それはダビデに勝る救い主の姿です。人々はやがてそのことを、主イエスの死と死からの復活によって、はっきりと示されることになりますが、主イエスは今は、暗示的に示しておられます。しかし、最終的にイスラエルの人々は、このようなメシアを受け入れることができず、主イエスを十字架の死へと追いやることになります。そのことによって、逆に主がダビデにまさるメシアであられることがはっきりと示されることになります。

わたしたちもイエス・キリストに対してさまざまに思い描くことがあります。しかし大事なことは、自分の思いの枠の中に主イエスを閉じ込めてそれしか受け入れないというのではなくて、聖書がはっきりと示している主イエスをそのまま救い主として受け入れる信仰に生きることです。「天が地を高く超えているように、わたしの思いは人の思いをはるかに超えている」(イザヤ55:9参照)と言われる主なる神と救い主イエス・キリストへの信仰を、主の日毎の礼拝を通して聞く御言葉によって研ぎ澄ませたいものです。

主日礼拝 2021.10.24

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    古賀 洋子

奏楽
招詞詩編110編1節 (旧約 p952)
讃美歌4  よろずのくにびと
祈祷
聖書マルコによる福音書12章35~37節
信仰告白使徒信条
讃美歌75  ものみなこぞりて
説教「イエスはダビデの子か」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌129  あがない主に
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄544  あまつみたみも
祝祷
後奏

「神への愛と人への愛」

マルコによる福音書12章28~34節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日のテキストでは一人の律法学者が主の前に現れています。この人は、これまでの多くの人たちのように主イエスに対して対立的ではなく、逆に真剣に何かを教わろうとしています。彼の問いは、数多くある神の掟の中で何が第一の掟でしょうかというものでした。彼はそれを知って、自分の生の基盤としたいと願っているのです。主は彼の思いを即座に感じ取られました。そしていつものように質問者に問い返すことはなさらずに、正面から答えられます。

主のお答えは、「第一のものは、イスラエルの唯一の主であられる神を、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛することである。そして第二のことは、隣人を自分のように愛することである」というものでした。つまり「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つが、同じ神からの一つの掟として示されています。それらは別々の二つではなくて、切り離しえない同じ一つの掟の表と裏という関係のものである、と言われています。神を愛するとは、全人格を傾けて、神を賛美し、礼拝し、神に祈り、御心に全幅の信頼を寄せて生きることです。また、隣人を愛するとは、抽象的なことや言葉だけのことではなく、自分自身を愛する時のように具体的で実践的な愛に生きることです。神への愛という水源から、人への愛という水流が生まれ出てくるのです。主イエスは、これこそが、唯一の神が人間に与えられた掟の中で中心的なものである、と教えられました。

それを聞いた律法学者はその教えに納得し、確信をもって受け入れています。彼の中でもやもやしていたものは今全く解消されて、生きることの目標と基盤がはっきりし、彼はこれから唯一の主なる神の僕として生きて行くことができるに違いありません。そのような律法学者を見て主は、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。そしてついには彼は、「あなたは神の国の一員である」と言われるまでに神に近づくことができる者となるに違いありません。彼の信仰を通して、神の愛が彼に流れ込むからです。今日、わたしたちが共に生きている人々の中にも、主イエスによって「あなたは神の国から遠くない」と言われるような人もいるかも知れません。わたしたちの目にはそれは分かりませんが、そのような人々が実際に神の国の一員とされる時が来るようにと祈り、共に生きることも、隣人への愛であることを思わせられます。

ところで、わたしたちは主が示された第一の掟と第二の掟に忠実に従って生きることができるのでしょうか。『ハイデルベルク信仰問答』の第5問答では、「それはできない。なぜならわたしたち人間の心は、生まれつき神と人とを憎む方向へと傾いているから」ときわめて明快で正直な指摘がなされています。ではどうしたら良いのでしょうか。それは主なる神が御子イエスにおいて示してくださり、わたしたちに与えてくださったあの愛に触れ続ける以外にありません。その時、生まれながらのわたしたちには不可能であった神への愛と人への愛が、少しずつわたしたちのものとされるでしょう。愛は神からの賜物です。したがってそれはまず与えられなければ、自分のものとはなりません。「愛を与えてください」と祈るわたしたちに、神はそれに応えてきっと一人ひとりにふさわしい愛を与えてくださるに違いありません。

主日礼拝 2021.10.17

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏    栗林 聖子

奏楽
招詞申命記6章4~5節 (旧約 p291)
讃美歌6  われら主を
祈祷
聖書マルコによる福音書12章28~34節
信仰告白使徒信条
讃美歌344  とらえたまえ
説教「神への愛と人への愛」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌247  おりをはなれ
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄543  主イエスのめぐみよ
祝祷
後奏

「生きている者の神」

マルコによる福音書12章18~27節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスには様々な人が論争を仕掛けていますが、本日のテキストではサドカイ派の人々が現れています。彼らは復活を否定することで知られているグループです。彼らは本当に悩み苦しんで主に問いかけているのではありません。主の上げ足を取ろうとしている彼らの意図は明らかです。その問いは「ある女性が一人の男に嫁ぎ、子どもがいないまま夫が死んだ。このあと他の六人の兄弟にも次々嫁いだが、兄弟も子どもがないままに亡くなった。復活の時その女性は誰の妻となるのか」というものでした。実際にはほとんどありそうもない仮定の状況を設定して主を追い詰めようとしているのです。これは旧約聖書の「ある女性の夫が死に、子どもがいない場合は、女性はその兄弟に嫁がなければならない」(申命記25:5)と規定されていることに基づいての問いです。イスラエルはそのようにして、その家の血を絶やさないようにしてきました。

主はそれに対してまず「あなたたちは聖書も神の力も知らない」、それゆえ神に関して「思い違い」をしていると厳しく責めておられます。それは神のなさることを人間の合理的な思考の枠内に押しとどめているということです。聖書は正しく理解されなければ力とならないだけでなく、却って危険なものとなってしまいます。そこで主が彼らに教えられたことの第一は、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともない」ということでした。ここで注目すべきことは、主が死者の復活があることを前提として語っておられることです。主は今はご自身の復活についてではなくて、神に結びついて死んだ者たちの復活について語っておられます。さらに、復活のときには、地上の人間関係の継続や再現が起こるのではなくて、人は全く新しい存在に変えられるということをも明らかにしておられます。パウロは人には地上の体と天に属する体とがあることを述べています。天に属する体に移された者は、天使のように地上の存在を超えた新しい存在に変えられる、それゆえ、地上の人間関係の単なる継続はないということなのです。そのことはわたしたちにとってがっかりしたり安心したりようなことではなくて、復活の後のことに関してはもはや思い煩う必要はないとの平安へと導かれることです。

主はさらに神がモーセに言われた「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3:6)を引用されました。これは神が「わたしはかつてアブラハムの神であったが、今もアブラハムの神である」と言っておられることとして主は引用しておられます。つまり、アブラハムはかつて生きていたが、今も神の前で生きているということとして、主はこの神の自己宣言の言葉を解釈しておられます。それは言い換えれば、アブラハムは復活していると語られているのと同じことです。そのことから主は次の印象深い言葉をお語りになります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。これはわたしたちにどのように関わってくるのでしょうか。それはアブラハムの名を自分の名に置き換えて、神の自己宣言を理解してよいということです。主なる神は、わたしたちが生きているときにも、死んで新しい命に移されてからも、わたしたちの神であってくださるのです。それゆえわたしたちは死のあとのことについて何も思い煩う必要はないのです。