主日礼拝 2022.03.27

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
奏楽     古賀 洋子

前奏
招詞詩編46編2~4節(旧約 p.864)
讃美歌7  主のみいつと
祈祷
聖書マルコによる福音書15章16~32節(その2)
信仰告白使徒信条
讃美歌26  こころをかたむけ
説教「十字架につけられる主イエス」
長老 加藤 治(原稿代読)
祈祷
讃美歌543  主イエスのめぐみよ
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄コリント二、11章13節によって
祝祷
後奏

「主イエスが受けた辱しめ」

マルコによる福音書15章16~32節(その1)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは敵対者たちによって捕らえられ、ユダヤの最高法院で死刑の判決を受けた後、死刑執行の最終的な決定権を持つ総督ピラトに引き渡されました。ピラトは恐らく最初は総督官邸の外で、主イエスに対する尋問を行い、人々にイエスとバラバのどちらを釈放するかを問うたりしました。そして結局ピラトは、主イエスの十字架刑を確定したのです。その後、主は官邸の中に引き入れられて、そこで十字架に処せられる準備がなされました。そのときの様子が、15章16~20節に描写されています。

官邸内にいる兵士たちは、ローマ兵たちです。彼らにとって何の被害を受けたこともなく、敵対関係にあったわけでもないにもかかわらず、憎しみをこめてさまざまな屈辱を主イエスに加えています。主を王に見立てて紫の服を着せたり、茨の冠をかぶらせたりしています。さらに肉体的な暴力を加え、唾をはきかけ、ひざまずいて拝んでいます。彼らはある人に言わせれば、「王さまごっこ」をしています。彼らは何の痛みも感じないまま主をなぶり者にしました。「聖書のこの部分を墨で黒々と塗りつぶしたくなる」と述べる人がいるくらい、心を痛める場面が描写されています。

しかし、わたしたちは目を見開いて、この現実を見なければなりません。それは一つにはわたしたち人間の愚かさや罪深さを知るためであり、またもう一つは主イエスがわたしたちのために、どれほどの屈辱を耐えられたかを知るためです。この惨めな主イエスの姿の中に、わたしたちはかえって、わたしたちの罪をその背に担って十字架の上での裁きを受けられた真の救い主を見ることが求められています。このように人間の過ちや愚かさから神の真理が輝き出ることがあるのです。そして主の身に起こったこのことはまた、イザヤ書の次の「主の僕」の預言が成就したことでもあることを教えられます。

50章6節「(わたしは)打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」。

50章7節「主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている、わたしが辱められることはない、と」。

そのときの主イエスの祈りが、ルカによる福音書23章34節に次のように記されています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。御自身の死を前にしてもなお罪人のために祈られる主イエスは、今は十字架の死の後、復活して、天に昇って、神の右におられ、罪人の悔い改めと赦しのために執り成しの祈りをささげ続けてくださっているに違いありません。この主イエスの祈りによって、わたしたちも支えられており、神のもとに留まり続けることが出来ています。

この主の愛にお応えする道は、生涯にわたってわたしたちが自分の十字架を背負って、主への服従に生きること以外にありません。そしてわたしたちの生涯を、主を嘲るのではなくて、主を賛美するものとして貫くことが出来るように祈りたいものです。

主日礼拝 2022.03.20

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
奏楽    富樫 理子

前奏
招詞詩編34編2~4節(旧約 p.864)
讃美歌6  われら主をたたえまし
祈祷
聖書イザヤ50章4~9節 (旧約p.1145)
マルコによる福音書15章16~32節(その1)
信仰告白使徒信条
讃美歌24  ちちのかみよ
説教「主イエスが受けた辱め」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌136  ちしおしたたる
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄543  主イエスのめぐみよ
派遣と祝福
後奏

「ピラトによる尋問」

マルコによる福音書15章1~5節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ユダヤの最高法院は、主イエスを「死刑にすべきだと決議した」(64)のですが、主の身柄を総督ピラトに引き渡しています。それは最高法院で死刑の判決を下しても、それを執行する権限がなかったからです。最終的には総督ピラトの判決と許可が必要でした。ピラトは当時ユダヤの国を支配していたローマ帝国から遣わされた役人で、ユダヤにおける最高責任者でした。最高法院がピラトに主イエスの罪状として示したのが、「イエスはユダヤ人の王として自称している者」ということでした。そのためピラトは主に対して「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問しています。宗教的な事柄に関する罪状であったならば、彼はあまり関心を示さなかったかも知れません。しかしユダヤを治めることが最大の務めであるピラトにとって、政治的なことは無視することが出来ません。ユダヤに新しい王が現れて、ローマに抵抗するなどということが起これば、大変なことになります。そのためにピラトは、イエスがユダヤの王なのかどうかを第一に問うているのです。しかしその問いはなんとなく緊張感や危機感を伴っていないように感じられます。「このみすぼらしい男がユダヤの王であるはずがない。でも訴えられているので試しに尋ねてみよう」といった程度の嘲りや侮蔑の思いを込めた軽い問いであると言ってよいでしょう。

主はそれに対してどのように答えられたでしょうか。「それは、あなたが言っていることです」が主のお答えでした。これはどういう意味でしょうか。口語訳聖書では「そのとおりである」と訳されていましたので、主は問いかけに肯定的に答えておられると考えられます。しかし今わたしたちが用いている新共同訳聖書の訳はそれとは違って「それはあなたが言っていることです」と多少謎めいた訳になっています。これは少し分かりにくいものですが、問いに対しての否定的な意味合いの強い答えのように響きます。その場合は、人々が主イエスのことを、ローマに抵抗する王であるかのように吹聴している、そしてもしピラトがそれを信じているようならそれは間違っている、という主張になります。主は人々が考え、訴えているような政治的・軍事的王などではないと明言しておられるのです。わたしたちはそのように受け取りましょう。

このような問答を前にしてわたしたちも問われています。つまり、他の人がどのように言おうとも、この「わたし」はナザレのイエスをどういうお方として信じるか、が問われています。その問いに対してわたしたちは自己の存在をかけて、真実に告白しなければなりません。

ピラトはこの裁判をこのあとどう進めて行くのでしょうか。結局彼はこの裁判に決着をつけて主の死刑を決定しました。彼はイエスは無罪だと確信していましたが、主を赦すことによって人々が騒ぎ立てたり、ピラトに反逆したりすることを恐れて、最高法院の決定通りにしました。それによって国家の代表が、神の子を死に引き渡すという大きな罪を犯しています。キリスト教会はそのことを忘れないように、また国家に対する<見張りの務め>と執り成しの祈りを続けるために、使徒信条の中にピラトの名を残しました、「主はポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」と。ピラトの判断は個人的なことにも結び付きます。それはピラトのように人を恐れるのではなく、神を畏れる生こそ、神の前に義とされるということです。

主日礼拝 2022.03.13

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
奏楽    古賀 洋子

前奏
招詞イザヤ書50章8~9節(旧約 p.1145)
讃美歌4  よろずのくにびと
祈祷
聖書マルコによる福音書15章1~5節
信仰告白使徒信条
讃美歌23  くるあさごとに
説教「ピラトによる尋問」
長老 十時 やよい (原稿代読)
祈祷
讃美歌334  いつわりのよに
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄543  主イエスのめぐみよ
派遣と祝福コリント二、11章13節によって
後奏

「イエスを知らないと言うペトロ」

マルコによる福音書14章66~72節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは最後の晩餐のあとゲツセマネに向かう途中で、弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われ、特にペトロに対しては「あなたは三度わたしを知らないと言う」と告げられました。第一のことは主が捕らえられたときに弟子たちが皆逃げ出したことによって現実のこととなりました(50)。そして第二のことが現実のこととなるのが今日の出来事です。

大祭司の屋敷の中庭に忍び込んだペトロでしたが(54)、そこにいた人々によって不審がられました。それは女中からは二度にわたって、そしてそこに居合わせた人からは一度、「お前はあのナザレのイエスの仲間であろう」と問われたことの中に表されています。ペトロはその都度、自分と主イエスとの関係を否定しています。三度目の問いに対しては、「そんな人は知らない、もし関係があるとすれば何と呪われたことか」と、呪いの言葉さえはきながら、主イエスを冷たく突き放す言葉を口にしています。そのとき、主が先に予告しておられたように鶏が二度目に鳴きました。そしてペトロは、「鶏が二度鳴く前に三度わたしを知らないと言う」と言われた主の言葉を思い出し、そのとおりになったことを知らされて激しく泣き出しています。

ペトロが先に「わたしは主を知らないなどとは決して言わない」と力強く誓ったことは、どうしてこのようにいとも簡単に破られてしまったのでしょうか。きっとペトロは法廷とか権威者の前に立たされて主イエスとの関係を問われたときには、決して自分は主を否定しない、いや逆にはっきりと、自分は主の弟子であるということを宣言しようと考えていたのでしょう。ところが主イエスとの関係を問われる場とか機会は、思いがけないかたちでやって来ました。大祭司の屋敷の中庭での何気ない会話の中で、彼は主との関係を問われたのです。そのとき彼はそれを否定することは何でもないことだと考えたに違いありません。問いかける者たちに対しても、まともに答える必要のない相手と軽く考えたのです。そこに彼の錯覚と過ちがありました。イエス・キリストをわが主として告白する場は、大掛かりなかたちでやって来るだけではなく、日常生活の只中でそれはやって来ます。生活の場がキリスト告白の場であり、日常が主イエスを証しする時なのです。ペトロはそのことに思いを向けることができませんでした。そのため彼への問いかけを軽く受け流してしまいました。

ところで、彼の流した涙はどのような内容の涙だったのでしょうか。一つは、主を知らないと言ってしまった自分の軽さ、不真実、そして主への裏切りなどを思い知らされて流した悔恨の涙であったに違いありません。さらに考えを深めると、このように主を知らないと言う過ちをペトロが犯すことを主が先にご存じであられたにもかかわらず、彼を愛し続けられる主の赦しの慈しみと愛を知らされての涙である、ということを思わされます。ペトロはこのような辛い体験を通してしか、主の愛を真に知ることができないことを主はとっくにご存じでした。だからこそこのような体験を主はペトロに与えておられるのです。それゆえいま流しているペトロの涙は、彼の再出発の機会とされるのです。罪を責めるよりもそれを赦して再出発の機会とされる主の深い愛によって、わたしたちも生かされてきたことを教えられる場面です。

主日礼拝 2022.03.06

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
奏楽   十時 やよい

前奏
招詞エレミヤ書14章7~8a節 (旧約 p.1203)
讃美歌3  あめつちのみかみをば
祈祷
聖書マルコによる福音書14章66~72節
信仰告白使徒信条
讃美歌243  ああ主のひとみ
説教「イエスを知らないと言うペトロ」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
聖餐式
讃美歌204  すくいのきみなる
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄543  主イエスのめぐみよ
祝祷
後奏

「主イエスへの死刑判決」

マルコによる福音書14章53~65節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスに対する裁判が進められていますが、議員たちから決め手となる証言が得られないでいます。そこで裁判長である大祭司が自ら主イエスに尋問しています。それは「お前はほむべき方の子、メシアなのか」というものでした。「ほむべき方」というのは、天の父なる神のことであり、「メシア」とは旧約聖書の時代からユダヤの人々が待ち望んでいた救い主のことです。大祭司は、無言を貫いて来た主イエスであっても、この問いには答えざるを得ないに違いないという思いを込めて尋問しています。その問いは信じようとする思いから出たものではなく、嘲りや罠が秘められているものでした。

この尋問に対して主は初めて口を開かれます。これは主にとって沈黙することを許されない問いであり、またすべての人が主ご自身からその答え聞くべき主の自己宣言を求める問いかけです。主はその問いを避けられません。次のように答えられました。「そうです」(62)。口語訳聖書では、「わたしがそれである」と訳されていました。大祭司の問いかけをそのまま肯定しておられるのです。そこには一点の曇りもありません。それにつ付け加えて主は、旧約聖書ダニエル書7章における終わりのときの「人の子」の来臨の預言を引用して、ご自身においてそれが成就している、とも告げておられます。この「人の子」の来臨の預言も、ユダヤの人々にとってはよく知られていたもので、彼らが待ち望んでいたことでした。主はそれによっても自己を宣言しておられます。

主イエスに「あなたは神の子ですか」と問い、「メシアですか」と問う者は、「そうである」との答えが主から返ってきたとき、それに従う者でなければなりません。主に問う者は、与えられる主からの答えに沿った生き方をするとの決断をもって問わなければなりません。いい加減な問いと応答は、主の前では許されないのです。

大祭司はどうしたでしょうか。彼は主イエスの答えを、主イエスが何者であるかを示す決定的な証言としては受け取らずに、逆に決定的な神に対する冒涜の言葉として受け取りました(64)。そしてこれ以上の証言を議員たちに求めず、主に対する判決のみを問いました。そして議員たちの一斉の「死刑だ」との叫びによって、主イエスに対して死刑の判決が下されたのです。大祭司の狙い通りの筋書きでした。その後人々は、主をなぶりものにしました。神を冒涜することが死に値するのであれば、今、神の子イエスを辱めている人々もそれによって神を冒涜していることになるのですから、彼らも死に値するものとなるということです。しかし悲しいことに、彼らはそのことに全く気が付いていません。人間の罪の闇の深さを思わされます。そのような罪人たちのために、主はその罪を負って十字架につけられるのです。

わたしたちは、不当な裁判の席においてではありますが、主の口から、ご自身が何者であるかの証言の言葉を聞くことが許されました。わたしたちにとっても主イエスに関してこれ以上の証言は必要はありません。あとは、それを聞いたわたしたちの応答が求められるだけです。「立て、行こう」の応答のみがふさわしいものであることを思わされます。

主日礼拝 2022.02.27

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
奏楽   十時 やよい

前奏
招詞イザヤ25章9~10節 (旧約 p.1098)
讃美歌
祈祷
聖書ダニエル書7章13 ~14節 (旧約p.1393)
マルコによる福音書14章53~65節(その2)
信仰告白使徒信条
讃美歌217  あまつましみず
説教「主イエスへの死刑判決」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌376  せいぎのきみなる
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄542  よをこぞりて
祝祷
後奏

「主イエスの受けた裁判」

マルコによる福音書14章53~65節(その1)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは捕らえられて大祭司カイアファの屋敷に連れて行かれました。そこで主に対する裁判が行われるのです。この場面を二回に分けて学びましょう。今、人間が神の子を裁くことがなされようとしています。果たしてそのようなことが可能なのでしょうか。裁きにおいては正義や公正の感覚、法や人間に対する正しい理解、そして何よりも裁く者自身が限界を持ったものであるとの認識による謙虚さや、絶対的な存在者に対する畏れが必要です。今主イエスを裁こうとしている人々にそれはあるのでしょうか。

主イエスの裁判を行おうとしている人々は、どういう人たちでしょうか。祭司長、長老、律法学者、そして裁判長の役割を持った大祭司など、エルサレムの70人議会を構成する最高法院の面々の名が挙げられています。この裁判は、大祭司の屋敷で密かに行われています。彼らがその裁判を急いでいることがそのことに表されています。しかも、先に「イエスは死刑」という判決が出されているに等しい裁判が、形式的に行われているのです。

その屋敷の中庭に、弟子ペトロが忍び込んでいました。主が捕らえられた時いったん逃げ去った(50節参照)彼が、再び主の近くに戻って来ています。「わたしはつまずきません」と豪語したその言葉にいくらかでも忠実であろうとしているのかも知れません。彼は主の裁判においては何の力も発揮することはできませんが、弱さを抱えながらでも何とか主への服従の道を探っているペトロの姿に、心打たれるものを感じる人もいることでしょう。

裁判では、「死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」(55)と記されているとおり、結論が先にある裁判において、その結論に合致する証言を、聖書の定め通りに(申命記19:15))二人以上の者から求めたのです。しかしそれはうまく行きませんでした。このことは、神の子を罪ある人間が裁くことの無謀さや限界とともに、判決が先に出された裁判が神の前に通用しないということを明らかにしています。しかし、彼らはついに力ずくで、この裁判の判決を自分たちが考えているとおりに出してしまうのです。そのことについては来週ご一緒に考えます。

ところで、わたしたちは今日を生きるキリスト者として、主イエスを証言する責任と務めを負っています。「イエスは主なり」、「主はよみがえられた」と証言し告白することが、偽りの多いこの社会という法廷でわたしたちに求められています。それぞれのキリスト者が懸命にその務めを果たそうとしています。しかしもし、そのようなキリスト者の証言が、互に食い違ったものであるならば、人々は混乱してしまうでしょう。それは力にはなりません。そういうことが起こらないように、わたしたちの信仰告白や証しの言葉は、繰り返し生けるみ言葉に触れることによって、真実なものとされなければなりません。それは、霊の戦いをするためには礼拝に連なることによって「神の武具」(エフェソ6:11、13)を身に着けて、整えられることが必要だということです。この世の支配と権威とに対抗できるものは、生ける神の言葉と聖霊の力しかありません。