「イエス・キリストの系図」

マタイによる福音書1章1~17節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

本日と次週13日の礼拝は、待降節の説教として、マタイによる福音書1章を取り上げます。そして12月20日のクリスマス礼拝では、2章1~12節からクリスマスのメッセージを聞き取りたいと考えています。

この系図はイスラエルの祖先アブラハムから始めて、ヨセフの妻マリアから御子イエス・キリストがお生まれになるまでの流れが言い表されています。歴史的に必ずしも正確ではありませんし、全期間を14代ずつ三組に分けているのも人為的な感じがします。しかしこれは史実に正確であることが本質的なことではなくて、この系図全体を通して神の約束が果たされたことを言い表そうとしているものです。したがってこの系図は厳密な歴史的記述というよりも、イスラエルの民の信仰告白という方が当たっているでしょう。いくつかの特徴があるのですが、ここでは二つの点に絞ってご一緒に考えてみましょう。

一つは、神が大いなる繁栄を約束されたアブラハムから始まって、その末にメシアが誕生すると告げられたダビデを経てイエス・キリストに至る過程における最終段階で、つまりイエスの誕生において、血の流れが途切れているということです。アブラハムの系統を引いているのはヨセフです。しかし、イエスはヨセフの血を引く子ではありません。それでは母マリアがアブラハムの系統の末かと言うと、そのことは系図で言い表されていません。それでもイエス・キリストはダビデの子と言われています。なぜなのでしょうか。それは、母マリアがダビデの末のヨセフと結婚することによって、マリアが生む子は、その誕生のいきさつがいかなるものであれ、ダビデ家の末となる、というのがイスラエルの考えだからです。こうして、神が先祖に約束された救い主の出現は、長い時間をかけながら現実のこととなりました。それを明らかにすることによって、この系図は神の約束の真実を告白しているのです。系図の中に「神は偽るこのないお方である」という信仰を読み取ることができます。

もう一つの特徴は、この系図の中にマリアを除いて四人の女性が登場していることです。タマル、ラハブ、ルツ、そしてウリヤの妻(バト・シェバ)です。これらの女性は際立って立派な人であったかと言うとそうではありません。彼女たちは皆、非ユダヤ人(異邦人)であり、子どもの出産に当たって、それぞれに罪や過ちが伴っています。できれば系図に載せたくない人たちです。そうした女性が系図の中にあえて加えられることによって、系図が汚れるということはないのでしょうか。そうではありません。そのことによって言い表されていることは、ユダヤ人以外の血が混入したり、過ちが犯されたりしても、神がいったん約束されたことは必ず果たされるということです。さらに神は社会的にまた、世間的に地位の高い者や優れている者をご自身の計画を実行されるときの器として用いられるのではなく、逆に貧しく汚れにまみれている者を用いてご自身の救いの業を進めていかれるのです。そのような神であられるからこそ、ここにいるわたしたちも神の救いに与ることができるものとされています。誇るべきものを何も持たないわたしたちですが、この系図の末にお生まれになったメシアは、まさしくわたしたちのためのお方です。

「悪霊からの解放」

マルコによる福音書5章11~20節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

墓場を住まいとしていた男の人は、今主イエスと出会っています。主が彼の名を聞かれたことは、彼との深い関係の始まりです。ただ、この男の人の口から発せられる言葉は、わたしたちにとっては分かりにくいものがあります。それは、彼自身が言っているのか、それとも彼に取りついた汚れた霊どもが言っているのか、その区別ができないからです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」というのは彼自身の言葉でしょう。一方、自分たち(複数)をこの地方から追い出さないように願っているのは、彼の中にいる汚れた霊たちです。わたしたちは、彼自身と彼を狂わせている汚れた霊たちとが、区別されないほどに彼自身の中で一体化している険しい現実を見せつけられます。

次に難しく思われるのは、汚れた霊どもが彼の中から出て行って、そこにいた二千頭の豚に乗り移った現象です。何が起こったのでしょうか。ただ一つはっきりしていることは、この男の人が自分の中に住みついている霊が自分から出て行ったことを確信できるためには、それを証拠立てる目に見えるしるしが必要だったということです。そのしるしとして、乗り移った霊によって豚の大群が湖になだれ込むという特別な事象を主は起こされたのです。ここで別の視点から問題にされるのは、二千頭の豚の死です。それがひとりの人の癒しに必要だったとしても、豚の所有者の立場から言えば、貴重な財産が失われたことであり、大きな損失です。そのことに関しては、聖書は何も述べていません。今日的な価値観に立って主を責めることよりも、ひとりの失われた人が癒され、社会へと回復させれられたことをわたしたちは喜ぶべきでしょう。

さて、主によって癒され、本来の姿に戻ったこの人は、主がこの地を離れようとされるとき、主に同行することを願い出ました。それは、自分を墓へ追いやったこの地の人々と共に住むことを忌み嫌ったからというよりも、主イエスと共に新しい生き方をしたいと願ったからではないでしょうか。主に従い、神の国のために仕えたいと彼は願っているのです。しかし主はそれを押しとどめて、この地に残って、自分の身内から始めてこの地の人々に主がしてくださった大きな憐みの業を宣べ伝えるように命じられました。郷里の人々に対して、彼は神の国の宣教の務めを与えられて、派遣されようとしています。彼が宣べ伝えることによって、郷里の人々に一時的な混乱が生じることがあるかも知れません。しかし、必ずその混乱を超えて平安と救いとがこの地にもたらされることを主は確信しておられます。彼は主の命令に従いました。

最後に現地の人々に目を向けてみましょう。外からやってきたイエスによって、さまざまな思いもよらないことを見せつけられた人々は、主にこの地から出て行くことを求めました。侵入者によってこれ以上自分たちの生活を混乱させられたくないという思いからです。彼らは男の身に起こった事柄の中に神的なものを見ようとするよりも、自分たちの生活の安泰を選んだのです。「現状維持が安全」という生き方からは新しいものは生まれてきません。自分たちに構わないでほしいと願う人々に、主が食い込んでくださることを願って、わたしたちも主の証しをいよいよ強めなければなりません。

「墓場を住まいとする人」

マルコによる福音書5章1~10節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

わたしたち人間にとって屈辱を覚えたり、耐えられない思いにさせられることは何でしょうか。人によって異なるかも知れませんが、おおむね共通のこととして、人間としての尊厳が奪われること、また自分の存在が無視されるということがあるのではないでしょうか。今日でも、ある人が他者の存在を傷つけることは人間疎外・人格否定という形で、現実にしばしば起こっています。

そのように人間としての尊厳が傷つけられた時、人はどのような反応を示すでしょうか。その一つは外に向かう反応で、自分を守るための手段として暴力を用い、自分の存在を荒々しく主張するということがあります。今日登場する男は名前を聞かれたとき、ローマの軍隊を意味する「レギオン」という名で自分を言い表しているのも、その一つの表れです。他方、内面に向かう反応もあり、その場合は悔しさや悲しさや痛みが激しく自分を責めさいなみ、心と体の変調をきたすという痛ましい状態になってしまいます。その人は異常な精神状態、いわゆる「狂った」と人から見られる状態に陥るのです。

今日主が出会われた男の人は異邦のゲラサ人であり、「汚れた霊に取りつかれている」ということで説明されるような、自分の力では制御できない異常な精神状態に置かれています。そのため人々によって墓場に追いやられました。その惨めさの中で、彼は自分を縛る鎖や足かせを破壊するほどの力を表していました。しかし、それによって他者を傷つけることはしませんでした。自分自身を傷つけ、石で打ち叩き、大声をあげて日々を過ごしていました。人から傷つけられたくないという思いが、自傷行為を行わせているのです。

そこに主が現れました。ガリラヤ湖のほとりで、先に「向こう岸に渡ろう」(4:35)と言われた向こう岸とは、異邦人のゲラサ人の地でした。墓場を住まいとしているこの人は、主イエスに出会ったとき「いと高き神の子、かまわないでくれ」と叫んでいます。精神の狂いの中にあっても、彼には聖なるもの・神なるものを見分ける力が備わっていたのかもしれません。さらに彼の「どうかわたしの邪魔をしないでほしい。ほっといてくれ」との叫びの背後に、これまで彼に関わった多くの人が彼を苦しめた過去が隠されているように思います。彼は他者に干渉されたくないのです。しかしそれは裏を返せば、真実に自分を受け止めてくれる人を求めている切なる叫びなのかもしれません。

主は彼の叫びにも拘らず彼に近づき、名前を尋ねられます。主は、この人は汚れた霊に取りつかれているという判断をなさって、次のように命じられました、「汚れた霊、この人から出て行け」と。その応答として「自分たちをここから追い出さないで欲しい」という言葉が記されています。これは彼の中に取りついている汚れた霊たちの叫びですが、実際は、彼自身の声として発せられたに違いありません。彼と、彼に取りついている汚れた霊たちは区別できないほどに一体化していることが分かります。主イエスは「かまわないでほしい」とのこの人の叫びに対して、「わたしはあなたに関わりたいのだ」と言って、彼の癒しに取り掛かられます。そのようにして主との出会いが彼に起こり、彼は癒されるのです。今もその主は働いておられます。

「なぜ怖がるのか」

マルコによる福音書4章35~41節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは数多くの奇跡をなさいましたが、今日のものは自然界に対して主が特別な力を表された出来事です。主は多くの群衆に神の国についての話をなさった後、ガリラヤ湖の向こう側のゲラサ地方に向かうために弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と声をかけられました。そのようにして主と弟子たちの舟は漕ぎだされたのですが、途中で激しい突風と波のために大きな危機に遭遇しました。弟子たちは必死になって舟を沈没から守るために働きました。しかしその状況は「おぼれ死ぬ」とさえ感じるほどでした。

その時弟子たちは、主イエスが船尾の方で眠っておられるのに気が付きました。弟子たちは怒りを抑えながら、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と声をかけ、主を起こしています。主は目を覚まされて、弟子たちに対してでなく波風に向かって「黙れ、静まれ」と叱られました。それによって「風はやみ、すっかり凪になった」のです。主は自然の力を制されました。そして弟子たちに対しては「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけておられます。これがガリラヤ湖の嵐の舟の中で起こった出来事です。

主は弟子たちの何を問題にされているのでしょうか。「まだ信じないのか」によって知ることができるのは、主は弟子たちが既に主に対して強い信頼をいだいていることを期待しておられたということです。寝食を共にし、神の国についての教えを繰り返し聞かされ、主の奇跡を通しての特別な力も体験してきた弟子たちでした。主はそうした弟子たちの内に主への揺るがない信頼が築き上げられている、と考えておられたに違いありません。しかし嵐の中での弟子たちの心は、主が期待しておられるところにまでは達していませんでした。

嵐の湖の中で漂う舟は古来、教会を象徴するものとして受け止められてきました。舟には主がおられる、しかしその舟も嵐にあうことがある、それは教会も同じです。その中で弟子たちは主への信頼を見失って自分たちの力ではどうしようもないところにまで追い込まれている、地上の教会も同じです。その時主ご自身が立ち上がって舟のために力を発揮してくださり、舟と弟子たちを危機から免れさせてくださいました。地上の教会も同じです。教会を危機から守ってくださるのは、いつも主です。

さらにこのことは、信仰者個人のことにも当てはまります。主を信じる道を歩みながら、さまざまな嵐にあうわたしたちです。慌てふためき、必死で自分の知恵と力でそれに対抗しようとします。しかしついに力尽きたところで主を思い出し助けを求めると、主はわたしたちを危機から助け出してくださいました。波に向かっての「ここまでは来てもよいが越えてはならない」(ヨブ記38:11)との言葉のように、この世の荒波を制してくださるのです。弟子たちと共に漕ぎだされた主が弟子たちを嵐から守られたように、この世に生きる信仰者を集めて、自らかしらとなって教会を結集された主は、「波にもまれてもなお沈まない」ものとして教会を守り、信仰者一人ひとりの歩みを支えてくださいます。だから「怖がらなくてよい」のです。

「小さな種、大きな実り」

マルコによる福音書4章26~34節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスの短いたとえ話が続いています。今日は26~29節の「成長する種のたとえ」と、30~32節の「からし種のたとえ」の二つです。それぞれについて考えてみましょう。

最初のものは、土の中にまかれた種が人の力によらないで成長していき、そしてついに実が熟して刈り入れの時が来るまでの様子を描いたものです。これは、種が本来持っている生命力の不思議さや神秘さを強調したものです。それによって、主は、そこで働く人の力を超えた神の力の神秘さに人々の目を向けさせようとしておられます。このたとえによって、み言葉の種がまかれて、それが少しずつ成長し、いくつかの段階を経ながら、ついには教会というかたちあるものが形成されるということが示唆されています。

実際の種まきの時に人間の働きが欠かせないように、み言葉の種まきにおいても人の働きは欠かせないものです。祈りや学びや交わり、そして証しなどの働きを通して、み言葉のもとに人々が結集して、教会が形作られます。しかしそのような出来事の本来的な原動力は、人間の力をはるかに超えた神の力です。使徒パウロは次のように述べています。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。ですから大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(コリント一、3:6~7)。

この成長させてくださる神に常に目を注ぎ、この方への熱い信頼に立って、わたしたちはただひたすら御言葉の種まきと水注ぎをしていけばよいのです。結果は、神がもたらしてくださるでしょう。

第二のたとえは「からし種のたとえ」と言われるものです。どんな種よりも小さいからし種が成長すると、想像できないほどの大きさになり、その枝に鳥が巣を作るほどになるという内容です。小さい始まりの中に、大きな実りが隠されています。主イエスの宣教活動も同じでした。神から派遣されてお一人で御言葉を宣べ伝え始められた主は、やがて12人の弟子を集められました。様々な困難に遭遇しながら、主は12人と共に神の国のことを人々に語っていかれました。弟子たちがこのたとえを聞いている時点では、主の周りにいる人々はほんのわずかでした。十字架の死の時には、その12人も散り散りになってしまいました。しかし、彼らは再結集され、主の復活を宣べ伝える者とされ、やがて教会の設立へと導かれて行きました。主はいつも「このままで終わることはない」と弟子たちを励まし続けられたのです。

地上のすべての教会も同じです。わたしたちの佐賀めぐみ教会も同様です。一人から、あるいは二、三人から始められた宣教の業は、「一人が種をまき、別の人が刈り入れる」(ヨハネ4:37)ということの連続や積み重ねの中で、やがて形あるものとなっていきます。成長させてくださる方が必ずそうしてくださるのです。その間の様々な困難や戦いを主はご存じです。その上でなお主は、わたしたちを種まきのために用いられます。主はその先に豊かな実りを用意してくださっているからです。

「あらわになる神の国」

マルコによる福音書4章21~25節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日の主イエスのお話しは、4章10~12節と同じように、12弟子や主のそば近くにいた人たちに対して語られたものと考えられます。主イエスは格言風、あるいはことわざ的な短いたとえを通して、人は神の言葉といかに向き合うべきかを教えておられます。ここには四つのたとえがありますが、それぞれについて短く考えてみましょう。

第一は「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」というものです。これは、明かりは物陰においてもその本来の役を果たすことはできない、燭台の上においてこそその役割を果たすことができる、という意味です。すなわち、神の言葉である福音は、ひそかに語られるものではなく、高々と掲げられて人々の前に堂々と差し出されなければならない、ということを主は教えておられます。

第二は「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」です。これは本来、何かをどんなに隠蔽しても、いずれはそれは明るみに出るという意味です。これが福音に適用されるとどうなるでしょうか。それは、初めの内は福音の真理はヴェールがかかったもののように覆われていても、必ず人々が理解できるものとして明らかになってくるということです。種まきから実りまで時間がかかるように、み言葉を聞いてから信仰が芽生えるまでも多くの時間が必要である、しかしついには実りの時が来るのだ、という約束が語られているものでもあります。

第三のものは「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられる」というものです。これは本来商売上の戒めで、不正な秤を用いて何かを売った者は、自分が買うときにも同じ不正な秤で買わなければならなくさせられるという戒めです。それは福音に関してはどうなるでしょうか。小さく見積もってしか福音を聞かない者は、小さくしか与えられない、しかし、大きな期待を持ち、白紙のような気持ちで福音に向き合うものは、豊かな恵みと賜物を受けるであろう、という約束が語られているものです。

第四のものは「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」です。これは神の言葉を聞く姿勢を正しく持っている者は豊かに与えられ、逆にヘリくだりや熱心を伴わない傲慢な聞き方をする者は、それ相当のものしか受け取ることができない、という戒めです。

このように四つのたとえはいずれも、正しく聞きなさいという警告と共に、謙虚な思いと熱心を持って神の言葉に耳を傾ける者は、救いの恵みを豊かに受け取ることができるとの祝福の約束を語っています。神の言葉には、神ご自身の存在の重みが伴っています。そうであるならば、それに耳を傾ける私たちも自分の人格を傾けて御言葉と向き合わなければなりません。そうすることができるとき、私たちは御言葉の中に神の命の鼓動を聞き取って、それが私たち自身の命の鼓動となることでしょう。御言葉を共に聞く場へと人々を伴うこと、それが御言葉を正しく聞く者たちの務めです。

今からでも遅くはない

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マタイによる福音書20章1-16節

牧師 久野 牧

私たちはいろんなことで順番を気にする面を持っている。例えば、
あることに関する情報や噂を誰が最初に手にしたかとか、あることを知ったことが誰よりも後であったことが悔しいといった具合にである。そして自分が先であることが分かったときに、安心感を覚えたり、優越感を抱くことさえあるのだ。

信仰の世界ではどうであろうか。そこでも早いとか遅いとか、ある人よりも先だとか後だとかいうことが大事であったり、問題になったりするのであろうか。それともそのようなことから解放された自由な世界がそこにはあるのであろうか。そうしたことについて、主が語られたたとえ話からご一緒に考えてみたい。今日取り上げるたとえ話はマタイによる福音書20章1-16節の「ぶどう園の労働者のたとえ」である。

これはイスラエルの国においてよく見られるぶどうの収穫時期の忙しさを背景にして語られたものである。ごく普通にみられる光景であるが、しかし特別な面も含んでいる。それは労働者に対する賃金の支払い方法である。つまり朝早くから一日中働いた者に対しても、夕方に雇われてわずか一時間しか働かなかった人に対しても、主人によって同じ額の賃金が支払われているのである。労働時間がそれぞれ異なるのに、皆同じ額が支払われることは、一般には受け入れられない。それでは社会における雇用関係は成り立たなくなってしまうと考える人がいてもおかしくはない。しかしここでは賃金体系がいかにあるべきかが語られているのではない。神とわたしたち人間との関係が語られている。主イエスは、神が私たち人間をどのように取り扱われるかを、たとえによって語ろうとしておられるのである。

たとえの内容に入ろう。ぶどう園の主人は、収穫のために労働者を集めようとして「広場」に出かけて行った。そこは商売をする人が店を開いたりしていたし、自分を雇ってくれる人を待つ労働者たちが大勢いるところでもある。主人がこの広場に最初に出かけたのは夜明けであった。朝の6時頃である。一日の労働に対する賃金として1デナリオンの労働契約を結んでいる。1デナリオンは当時の貨幣単位で、労働者が一日働いた時に手にすることの出来る賃金を表している。さらに主人は午前9時頃、12時頃、午後3時頃にも出かけて労働者を雇っている。これらの人たちとは一日1デナリの賃金の契約はしていないが、「ふさわしい賃金」を払うということで雇っている。ぶどうの収穫時期の忙しさが良く描かれている。

私たちはここで少し立ち止まって夜が明けると同時に出かけていき、その後も繰り返し人をぶどう園に送り込むこの主人は一体誰なのかをということを考えてみたい。1節に「天の国は・・・」と書き始められていることからも分かるように、この主人によって言い表されているお方は端的に言えば神である。私たちの神は、ぶどう園の主人が人を雇うために何度も広場に出かけていくように、私どもの救いのためにご自分から私たちのところに出かけてくださるお方なのである。この神は御子イエス・キリストにおいて私どものもとに来てくださった。御子をとおして私たちを神のぶどう園、すなわち御国へと導き入れてくださるお方としての神である。わたしたちが何かをする前に、神の側から私たちに近づき、私たちをご自身の御用のために働く者としようとしておられるイエス・キリストの父なる神を、この主人を通して見つめることが私たちに求められているのだ。

そうであれば雇われる労働者たちは当然わたしたちのことである。ここで労働者のことが「何もしないで広場に立っている人々」(3)として描かれていることに注目することも重要である。もしかすると今生きている私たちも、真に力と思いを注ぐべきことを見出せないまま「何もせずに立っている」に等しい生き方をしている者たちであるかもしれない。少なくとも神の御目にはそのように映っているに違いない。そのような私たちに神は、「あなたも私のぶどう園で働きなさい」と招いてくださっているのだ。神の救いの御計画の一端を担うものとして働くようにと、時に応じて一人ひとりに呼び掛けてくださっているのである。この神を心に刻み込みたい。

たとえにおいてさらに注目すべきことは、主人が夕方の5時頃になっても出かけていることである。収穫作業は日暮れと共に終わる。残る労働時間はわずか1時間ほどである。主人はその時刻にも広場に立っている者たちに向かって、「なぜ何もしないで一日中ここに立っているのか」と問うておられる。彼らの答えはこうであった。「誰も雇ってくれないのです」。なんという寂しい答えであろうか。彼らを相手にする人がいないというのである。主人は労働終了まで1時間しか残っていないにもかかわらず、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」とぶどう園に送りこんでおられるのだ。ここに主人の憐みに満ちた姿が良く表されている。

夕暮れになっても仕事がなくて立ち尽くしていることは、彼らの責任というよりも、そうした人々を生み出してしまった社会の責任という面が強くあるのではないだろうか。同じ人間として生まれながら、他の人たちから顧みられず、相手にしてもらえない人々が確かにいるのだ。そうした人々をわたしたちは作り出してしまっているのではないだろうか。また他の人々が一日12時間、あるいは9時間、6時間働くことができる中にあって、わずか1時間しか働くことができないという制約を自分の体の中に抱えた人々が事実存在するのだ。それは労働時間の問題だけではなく、命の長さにもあてはまる。肉体的、精神的な病と障がいのために、他の人と比べて極端に短い時間で地上の生涯を終えてしまわなければならない人たちがいるのである。そのことをわたしたちは忘れてはならない。そうしたあとわずかで命ある時が過ぎ去ろうとしている人々の元にも神は近づいてくださって、「あなたたちも私のぶどう園に行きなさい」と招いてくださるのである。主なる神はどの様な人に対しても「あなたが必要なのだ」と言ってくださるのである。神の御子派遣の出来事にはそのような神の思いが込められている。

さてぶどう園の労働者への賃金支払いの時が来た。この賃金支払いの方法こそ、他のどこにおいても見ることの出来ないものである。支払いの順序も特徴的で、最後に雇われた人から先に受け取るというものであった。この事に注目する意味もあるが、今日はそのことには立ち入らない。それ以上に問題なのは、賃金の額である。夕方に雇われた人はわずか1時間の労働で1デナリオンを受け取った。またいろんな時間に雇われた人たちも、労働時間に関係なくみな同じ1デナリオンの賃金であった。早朝から働いた人たちはもっと多くもらえるだろうと期待したのであるが、初めの約束通り、同じ1デナリオンであった。そのことが分かったとき、早朝から一日中働いてきた労働者たちの怒りが爆発したのである。それは当然のことであろう。

しかしぶどう園の主人は賃金の支払いにおいて不正をしたであろうか。主人の側には何の不正もないのである。なぜなら早朝に雇った人たちには一日1デナリと約束し、その通りの支払いがなされているのだから。途中で雇われた人たちも「ふさわしい賃金を払う」との約束のもとで働き、主人がふさわしいと思う額が支払われた。主人はそれぞれの労働者に一日を生きるに必要な額を支払ったのである。「友よ、あなたに不当なことはしていない」との主人の言葉はその通りである。この賃金支払いの方法と内容は、主人の自由な意志に基づくものであり、また愛によるものであった。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と語る主人は、まさしくイエス・キリストにおいて私たちのもとに来てくださった真の神の姿である。

神はこのぶどう園の主人のように、すべての者に対して等しい恵みを用意しておられるお方である。地上における生き方や働きや与えられた環境や能力が異なっていても、神が一人ひとりをご自分の子として捕え、神の国に招こうとしておられることにおいて、すべての人は等しいのである。ある人には力強い働きができるようにと健康な肉体と精神を与えておられる。また、たとえ肉体的・精神的な面での健康ということにおいては恵まれていないとしても、その人々も神の国のために働くことの出来る場が備えられているのである。働きの内容においては異なっていても、共に神のぶどう園での働きを行うということでは変わりはないのだ。それぞれが神の目に尊い存在なのである。

そのようにすべての人をご自身の恵みの中に招いてくださる神を、私たちが知る時期や、その招きに応えて神のために働く時間は、いろんな時間にぶどう園に招かれた労働者がいるように、人によって異なっている。しかしそのことが異なっていても、皆等しく神の国の労働者として神によって用いられるのである。

ある人は幼い時から神を知ることが許されている。またある人は人生の夕暮れ近くに初めて神を知らされることもある。病床で神との出会いが与えられて洗礼へと導かれた後、数日で神のもとに召される人もいるのだ。そうした人にも神は、「あなたにも他の人と同様に支払ってやりたいのだ」と言ってくださる。その人々はそのような神の恵みの約束の中で生涯を全うすることができるのである。神の招きに答えるのに早すぎることも遅すぎることもない。今、神の招きの声を聴くことができるならば、その時がその人にとって神のぶどう園の一員となる時なのである。

トゥルナイゼン(スイスの説教者)のことば 「信仰に生き始めるのに誰も弱すぎるとか、齢をとりすぎているとか、誰よりも遅すぎたというようなことはない。神の目から眺められると、あらゆる時が信仰の目覚めの時、小さな信仰の始まりの時なのだ」。

どうかすべての人が、神の国に招かれていること、神の国の労働者としてのその人なりの働きに召されていることを覚えてほしい。そしてそれを知らされた者のなすべきことは、立ち上がって主なる神への応答に生き始めることである。本日礼拝に初めて出席された方がおられたら、その方に、今神の招きがなされているのである。

「神の国の秘密」

マルコによる福音書4章10~12節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスが多くのたとえを用いて語られることに関して、弟子たちが質問しました。それは「種を蒔く人のたとえ」を語られた後です。その質問は、なぜたとえで話されるのですかということや、種を蒔く人のたとえはどういう意味ですかといったものでした。その最初の質問に対する主のお答えが、10~12節に記されています。難しい内容ですが、ご一緒に考えてみましょう。

主はまず「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と述べておられます。ここでの「あなたがた」とは、12弟子やいつも主のそば近くにいる人々を指しています。彼らは主に従う中で、たとえ話であれ直接的な神の国の教えであれ、それらをとおして御心を知ることができる機会を多く与えられていました。また主の生き方によって、神に従って生きることの手本を示されることもありました。そのようにして彼らは神の国に生きるとはどういうことかを知ることができました。主のそば近くいるということは、とても大切なことです。物理的距離の近さは、霊的距離の近さに結びつきます。

一方「外の人々」(11)はどうでしょうか。外の人々とは、主を遠巻きにして物理的にも精神的にも、意図的に主に近づこうとはしない人々のことです。律法学者やファリサイ派の人々、さらにこの時点では、主の身内の人々もそれに属しています。彼らは主の教えを音声としては聞くけれども、自分たちの生き方との関連の中でそれに耳を傾けることはしませんし、主のお言葉を心の内に迎え入れることもしませんでした。逆に主のあげ足を取ろうとしたり、神冒瀆で訴えるきっかけを掴もうと虎視眈々と狙ってさえいました。そういう姿勢でしたから、彼らには主の教えによって神のもとに立ち帰って赦しを祈り願うなどということは起こらなかったのです。そうしたことは、すでに旧約の預言者イザヤが預言していたことであるということで、イザヤ書6章9~10節が引用されています。彼らは、自分たちの正当性を確認するために、あるいは悔い改めないために、神の言葉を聞いているようなものだということです。旧約の時代だけではなく、救い主イエス・キリストが地上においでになったときにも、そうした人々が多くいたのです。「赦されることはない」(12)との結果の責任は、彼ら自身が負わなければならないことでした。

ここで注意しなければならないことは、神が初めから人々の間に、このような区別をお決めになったのではない、ということです。主はいつも「わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」(ヨハネ10:16)との思いで、み言葉を語られました。今そば近くにいる人々だけでなく、「外」にいる人々も、主は招いておられるのです。「内」と「外」は固定化されたものではありません。その違いは神の言葉そのものであられるイエス・キリストといかに向き合うかによって決定づけられるのです。神は御言葉においてわたしたちに決断を迫っておられます。「外」にいる人に、み言葉が語られ続けるならば、み言葉に秘められている神の力がその人を「内」へと導き入れてくださることでしょう。

「種を蒔く人への約束」

マルコによる福音書4章1~9、13~20節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは多くのたとえを語られましたが、今日取り上げます「種を蒔く人のたとえ」は特によく知られています。このたとえ話の形式上の特徴は、最初にたとえそのものが語られて(3~9)、そのあとにたとえの説明がなされている(13~20)ことです。まずたとえそのものを見てみましょう。主は「よく聞きなさい」と呼びかけてこのたとえを語っておられますから、これは「聞くこと」に関する教えであると推測することができます。

農夫によってまかれた種が、四つの種類の土地に落ちました。みな同じ穀物の種です。「道端」に落ちた種は芽を出すことなく、鳥についばまれて消えました。「石だらけで土が少ない所」に落ちた種は、すぐ芽を出しましたが、強い日照によって枯れてしまいました。「茨が生えている地」に落ちた種は、成長しましたが、茨の勢いに負けて実を結ぶことはできませんでした。そして四番目の種は「良い土地」に落ちたために多くの実を結びました。たとえの終わりにまた「聞くこと」に関する注意の言葉が語られています(9)。

このようなことは実際の農業生活においてよくあることであったに違いありません。主はこれによって何を教えようとしておられるのでしょうか。説明の部分の初めの方で(14)、次のように語られています。「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」。つまり、神の言葉、あるいは福音の言葉を宣べ伝える時に、ひとの聞き方によって、み言葉が消えてしまうか、あるいは力ある信仰が興されるかの大きな違いが生じるということを、種まきのたとえをとおして語っておられるのです。そして主は、実りが生じるような聞き方をしなさいと訴えておられます。

道端のような聞き方とは、み言葉に対して初めから拒否反応を示す人です。石地のような人は、み言葉を聞いた時すぐそれに飛びつくけれども、少しばかりつらいことが起こったらみ言葉を捨ててしまう人のことです。茨の地のような人は、み言葉を最初は受け入れて喜びますが、その内、諸々の思い煩いやこの世的欲望に心を惹かれて、どっちつかずになってしまう人のことです。そして四番目の良い土地のような人は、み言葉を心をからっぽにして聞いて、また謙虚に受け入れて、その中にある神の命の約束を人間にとって最も大切なものとして受け止めることができている人のことです。そのような人は心の耳が神に向かっている人です。主はこのたとえによって、神の言葉は人に受け入れられることを待っている、み言葉を受け入れてそれに従って生きる者となるようにと、多くの人に呼び掛けておられるのです。このたとえを通して、わたしたち自身のみ言葉の聞き方を再吟味することが求められています。

またこのたとえには、種蒔き人の働きが無駄になったと思えるようなことが多々あっても、必ず実りを結ぶものがあるということも強調されています。それによって、神の言葉の種まきに励む者たちに祝福の約束を与えておられます。今日の教会の伝道の働きに対する希望の約束がここにあります。これもこのたとえから聞き取るべき大切なメッセージです。

「主イエスの兄弟とはだれか」

マルコによる福音書3章31~35節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

教会の伝道の働きにおいて、家族伝道はいつも大きな課題として語られます。教会は何よりもまず身内の者に伝道すべきであって、それがうまくいっていないのに、教会の外への伝道はうまくいくはずがない、と言われることもあります。その主張に耳を傾けなければならない面はありますが、しかし、家族伝道がうまくいっているときにのみ外への伝道が許されるというのは、現実的ではありません。わたしたちはその両方に取り組まなければならないのです。

主イエスの場合、家族との関係はいかなるものだったでしょうか。主イエスの宣教活動の初期には、イエスに対する家族の無理解が目立ちます。21節には身内の人がイエスを取り押さえに来たと記されており、31節以下では主イエスの母や兄弟たちがイエスを家に連れ戻そうとしている様子も描かれています。彼らは、イエスは「気が変になった」と考えていて、主イエスのそばに近づこうとはしていません。それは彼らが主イエスが教えておられることに耳を傾ける意思を持っていないことを表しています。

主イエスはそのような身内の人に関して、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と突き放すようなことを語っておられます。何かとても冷たいものを感じさせられる言葉です。主がここで明らかにしようとしておられることは、主ご自身の行動・あり方を決定する者は、血のつながりのある者たちではない、ご自身をこの世に遣わされた天の父がのみがその方である、ということです。ですから、母や兄弟がイエスのあり方を肉の関係で支配しようとしても、それに従うことはできない、というのが主イエスの主張です。

そのあとに、主イエスの真の母や兄弟や姉妹は誰であるかを明らかにしておられます。それは、「神の御心を行う人」、その人々が真に主イエスの家族であるということです。すなわち神を父とする家族がそこにのみ形成されるのです。それは血肉による結びつきではなく、霊的な結びつきによる家族である、と言ってよいでしょう。その場合の神の御心を行うとはどういうことでしょうか。ヨハネ福音書(6:28~29)に次のような問答があります。弟子たちが「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねたのに対して、主は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えられた問答です。人が神の業を行うこと、御心を行うことの中心に、神が遣わされたイエスを救い主として信じることがあることが分かります。

これは、イエスの肉親たちにもそのまま当てはまることです。彼らは血肉の関係を超えて、イエスとの新たな関係へと招かれています。またこの主の招きは、地上において何の頼るべきものも誇るべきものも持たず、何の功績もない人々に大きな慰めと励ましの言葉として響いています。なぜならそのような人々は、神の御心を行うこと、すなわち主イエスを救い主として信じることによって、神を父とする新しい家族の一員とされるからです。わたしたちの教会の祈りと願いは、この「神の家族」をさらに増やしていくことです。この家族は、決して閉ざされた集団ではないのです。